オンリー・ユーと赤い傘
猫小路葵
第1話
小さな月が漆黒の夜空にぽっかりと浮かぶ晩。
等間隔に並んだ街灯が、舗道に遠慮がちな光を投げている。
辺りは人通りもなく、
沿道の建物もすでに寝静まっているようだ。
それでも時折、思い出したように、二階の窓で明かりが見えた。
やがて真木が自宅の前まで来たとき、路地の暗がりから不意に声がかけられた。
「こんばんは」
少年だか青年だかわからない、少しハスキーな声。
真木は立ち止まり、振り向いた。
街灯の明かりがようやく届くくらいの、頼りない薄闇にその若者は立っていた。
服装は無地のフード付きプルオーバー。
サイズが大きく、フードをふわりとかぶっている。
前ポケットに入れていた手を出すと、片方の耳につけていたイヤホンをはずした。
もしや知り合いかと思い、真木は暗がりに目を凝らした。
けれども暗さのせいで顔がよくわからない。
真木が舗道に佇んだまま動かずにいると、声の主はようやく路地から歩み出てきた。
街灯の無機質な明かりに照らされたその顔を、真木は知らなかった。
少年とも青年ともつかない年頃。
けれど立ち姿にはどことなく艶めいたものも感じられる。
フードの下の幼い前髪と、濡れたような眼差しの対比がやけに不均衡だと真木には思えた。
「誰だ?」
真木が尋ねると、若者の表情が変わった気がした。
その目に怯えた影を落とし、全身に緊張を走らせた。
若者がポケットから両手を出すと、そこにはナイフが握られていた。
ナイフの柄を両手で持って、刃先を真木に向ける。
けれども腰は哀れなくらいうしろに引けていて、ドラマや映画で見かける、気の弱い犯人そのものだった。
「け、怪我したくなかったら、おとなしく僕の言うことを聞いてください」
丁寧語でそう話し、小刻みに震えていた。
普通ナイフなんて向けられたら怖いはずだが、真木は不思議と恐怖を感じなかった。
相手がこの子だからだろうか。
小柄な彼は、長身の真木を見上げる格好でナイフを突き出している。
真木を脅かしながらも、逆に助けを乞うような声音だった。おそらく立っているのもやっとなのではないか。
「なんの真似だ」
「い、いいから、言うとおりにしてください……お願い……」
「そう言われて俺がそのとおりにすると思うのか? 何が狙いだ。金か?」
強盗の類だろう。
しかし、こんな小鳥の雛のような子が自らすすんで事に及ぶとは考えにくい。
誰か指示役がいるのかもしれないと真木は思った。
泣きそうな顔でナイフを構える姿。たった一人でなんて無謀すぎる。
いったいどんな訳があるのだろうか。
真木は多少、腕におぼえがあった。
もしこの子が襲いかかってきても、かわすだけの自信はあった。
「やめとけ。お前には無理だ。怪我するのはそっちだぞ」
真木は説得を試みた。
ナイフを握る手がいよいよ大きく震え出す。
「でも……!」
「見なかったことにしてやる。とっとと消えろ」
若者の手からナイフが零れた。
ナイフは冴えた音をたててアスファルトに落ちた。
そして彼は絶望したかのように、冷たい舗道にぺたりと座った。
「でも……それじゃ、許してもらえない……」
そう呟いて自分の体を抱きしめ、唇を噛んだ。
思ったとおり、やはり誰かにやらされていたのだ。
ひどく怯えているように見えるが、失敗すればどんな仕打ちが待つというのか。
そのとき彼がびくりと何かに驚き、わずかに後ずさった。
その視線が、何かを追うように泳いだ。
「あっ、いやだ……!」
一瞬抗うような動きをしたが、すぐに諦め、再び自分の体を抱きしめた。
ぎゅっと目を閉じ、息を殺す。
まるで見えない複数の手が体を這っていて、その禍々しいものを懸命にやり過ごそうとするように。
「ごめんなさい……」
何度もそう謝っていた。逃げようとはせず、見えない相手にひたすら謝り続けていた。
真木はそれ以上見ていられなくて、思わず手を差し伸べた。
「おい、しっかりしろ」
真木は冷たい地べたに膝をつき、抱き起こした。
「ちゃんと目をあけるんだ。ほら」
こっちを見ろと真木が何度言っても、彼は目をつむったままだった。
幻に捕らわれたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「悪い奴はどこにもいない。大丈夫。落ち着け」
真木はその肩をしっかりと支えた。
真木が掴んだ腕は細かった。
プルオーバーの厚い生地の下で、その細さは殊更目立つ気がして痛々しかった。
放っておけない、なんとかしてやりたいという気持ちが沸き上がり、幼い子どもにそうするように腕に抱いた。
彼の体はまだ震えていた。
真木は『大丈夫だ』と何度も囁き、背中を擦り続けた。
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