第6話 黒田如水 遺骨の謎
筑前福岡藩祖である黒田如水(官兵衛)の晩年は福岡城の落成を待ちながら御鷹屋敷に静かに余生を楽しんで、京都の伏見藩邸で亡くなり、遺体は福岡に運ばれてキリスト教式の葬儀をした後に、崇福寺で葬儀が行われてそこに遺体が埋葬されたとばかり思っていました。その後に長政が菩提を弔うために京都大徳寺に龍光院を建立しました。何度か崇福寺にいった事もあるのですが、かなりの立派なお墓で黒田如水の事績が景轍玄蘇により隙間無く書かれています。また文字が経年変化で金文字の色素が抜け赤くなっていて赤錆のようになっています。
知の巨人、貝原益軒は筑前国續風土記の旧福岡藩内の地誌や、黒田家を顕彰する黒田家譜の著者で今も福岡の古文書勉強会等のテキストとして人気もあります。また寺社の縁起は今も使用されています。黒田家譜は黒田如水が歿してから80年経っているのと福岡藩の都合の悪い事は書く必要はない上に最終的に福岡藩の検閲があります。
黒田家譜によりますと、如水は「福岡城内で病死し、崇福寺に葬る。僧玄蘇、如水の碑文を作る。徳川秀忠、長政に書状をおくり、如水の逝去を弔慰す。秀忠、長政夫人に粧田として、日田郡の内千石を贈る」
ここで何が謎かと言いますと、崇福寺には黒田如水の遺体は崇福寺に埋葬されていないとの事です。それについては1950年の毎日新聞西部本社版に改葬時にお墓は空っぽだったと記事になりました。
※黒田家譜巻之十四(黒田家古文書を読む会翻刻)
三月如水福岡にて病に臥せり。かねて長政にいはく、我が死期来廿日の辰の刻ならん。我死なは葬礼を厚くすべからず。只国を治め民を案ずる事、我か好む志なれば、是を以て死後の孝養とすへしとそのたまひける。長政父の病を憂へ、湯薬をもみづからこころみて、孝養を盡し給へども、医療験なくして終に三月二十辰の刻に身まかり給う。辞世の歌あり。
「思ひおくことのはなくてつゐにゆくみちはまよはじあるにまかせて」
那珂郡十里松の内崇福寺に葬る。龍光院と号す。崇福寺初めは大宰府にちかき横嶽と云所に在しを長政ここに移し給う。故に横嶽山と号す・・
キリスト教神父の回想録 「キリシタン研究19韻」から引用
黒田孝高は高山右近の影響により1585年に洗礼を受け、シメオンというキリシタン名を受けてキリスト教の発展に力を入れていました。1587年の復活祭には中津で黒田長政、大友義統等が洗礼を受けました。同年には豊臣秀吉が伴天連追放令を発布しました。キリシタン大名はこの時期から高山右近のように追放されたり、棄教したり、またそのままキリスト教信者でいた者もいました。民間にも大名にもある程度ゆるやかな禁教令でした。
1600年関ケ原の戦いで東軍が勝利して、黒田長政は筑前を拝領し、名島城に入城します。黒田孝高と共に福岡城の建設に取り組みます。1603年には徳川幕府が発足。徳川政権ではしばらくはキリスト教に対する反感はあるものの、直接の弾圧は行いませんでした。 このように黒田孝高が洗礼を受けてから1604年に没するまでは絶対的な禁教令とまではいかない中でキリシタンの活動を少なからず実行していました。
黒田如水福岡城の建設の間、1601年大宰府に滞在し1602年末頃には太宰府の家を大鳥居信岩に譲り、西北三の丸に出来た隠宅に移住します。この頃は如水と直之はキリシタンで長政は棄教しています。
1601年頃、黒田長政は如水と直之の要請に応じ、妥協してレジデンシャ(司祭館)の地所を与える。レジデンシャは民家に偽装して浜に近く、手狭、不便の上に信者も押し寄せ、反対運動もあり直之の知行地秋月に移りました。そのうちに新たに博多に教会を建築します。
1604年黒田如水の死 マトス神父の回想禄(キリシタン研究より要約)
※臨終の際に如水は告解する為に神父を呼ぶように言ったが聞き入れられなかった
※自分のアニュス・ディとロザリオを持ってくるように言いそれを胸に置いた
※自分の遺体を神父の所に持ち運ぶよう命じた
※長政に領内で神父に好意を寄せるように遺言で言った
※長﨑の管区長に1000タエス、博多に教会を建立する為に1000タエスを与えた
※如水の遺体が博多に着いたとき一旦我等の所に安置された
※博多の街の郊外にあってキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬
※黒田長政と主だった家臣が棺につきそう。黒田直之が十字架をかかげる
年寄衆、諸城の城番(背教したキリシタン)が棺を担う
※黒田直之が十字架をかかげる、その息子左兵次と高木彦左衛門の息子が松明を持つ
※ラモン神父とマトス神父が祭服、修道士ニコラオが短白衣を着ていた
※板で仕切った大きな構内で、領国の貴族以外は立ち入りを死刑をもって禁じられた
※朝課の一課および葬儀の典礼を誦した。そして彼を埋葬した
※それから15日から20日後に筑前殿(長政)は仏式の葬儀を行った
※1606年博多に立派な教会堂が建立されたが如水の墓はそのまま千代の松原にあった
黒田如水は京都の藩邸において死去しましました。葬儀はキリスト教で行われ、博多に聖堂を建設するように遺言しました。盛大に葬儀は行われて遺体は船で博多那珂川の岸にあったザビエルゆかりの教会堂に運ばれて弟の直之(ミゲル)が十字架をかかげ息子(黒田尚基)達が松明を持っていた。黒田長政(ダミアン)が司祭にお礼を述べに行った。 如水の遺体は博多の郊外、キリシタン墓地に隣接している松林(千代の松原)のやや小高い場所に仮埋葬しました。遺言に従い教会は建てられましたが如水の墓は千代の松原に残ったままでした。長政は太宰府にあった崇福寺をその墓所のそばに移転させ菩提寺に決めました。
石城問答
石城問答とは1603年に博多区にある日蓮宗の妙典寺(現存している)で行われた、キリスト教宣教師と日蓮宗僧侶日忠の宗教問答のことです。結果として日忠が勝利しました。これを以て日忠は黒田長政より教会の地を与えられて天神4丁目にある勝立寺(しょうりゅうじ)を建てました。ここでキリスト教の教会が取り壊されたのは1613年なので、10年の誤差が生じます。これについてはなんらかの修正が加えられたのかもしれません。
まとめ
①福岡藩の正式な歴史としては、崇福寺に埋葬されたとあります。
②キリスト教神父の回想禄では、如水は博多の郊外、キリシタン墓地に隣接している松林(千代の松原)のやや小高い場所に仮埋葬しました。
③教会は建築されましたが、改葬はされませんでした。
④1950年の改葬時には遺体はありませんでした。(朝日新聞 西部本社板 1950年4月18日夕刊)
如水は夜の10時から11時の間にキリシタン墓地に隣接する千代の松原のやや高い場所に、極めてきれいな龕(葬台)に入れられて埋葬されました。今もそこに眠っているのかもしれません。余談ですが如水の最愛の孫は福岡藩二代藩主となった黒田忠之で、忠之は大坂の陣では二度とも実戦に間にあいませんでしたが、島原の乱では37000人の農民、キリシタンを全滅させた幕府軍に貢献しています。
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