エピローグ「それぞれの終点、それぞれの始まり」

【マヤの決断】


 地下リングの中心、かつて血と欲望が支配していた檻の中。


 マヤは、堂々と立っていた。静かな強さを、その身に宿して。


 「この地下リングは……解散します。新支配人である私の、最初で最後の仕事です」


 それは、戦いの終わりの鐘。そして、裁きの始まりだった。


 ボタンとクロウが逮捕されたことで、闇の地下格闘技界には一気に風穴が開く。

 芋づる式に暴かれる組織、摘発されていく資金源と人脈。


 マヤはその後処理のすべてを――信頼するあの人に託した。


 「ルミ。後のこと、頼める?」


 「……もちろんやりますよ。そのためにあんなに恥ずかしい演技したんですから」


 気恥ずかしげに、そっぽを向いてルミが返す。


 その瞳には、決して揺るがぬ覚悟が宿っていた。


---


【取調室、ルミとボタン】


静まり返った取調室に、ペンの走る音だけが響いていた。


 卓上に俯せるように座る女――ボタン。

 美貌はかつての名残を留めるも、その目は虚ろで、焦点を結ばない。


 向かい合うルミは、資料のファイルを閉じ、深く息を吐いた。

 彼女にとって、この取り調べは仕事である以上に、けじめだった。

 

「会いたい……夫に……クロウに……」


 ルミは無言で手元の資料を叩きつけた。

 「ボタンさん。クロウ……ご主人の件ですが」


 ボタンの肩が、ぴくりと揺れる。


 「……どうなったの……?」


 掠れた声。ルミは一拍おいて、事務的な口調で答えた。


「心神喪失と判断されました。精神崩壊の程度が深く、裁判すら不可能。措置入院が決定しています。おそらく一生出てこられないでしょう。

あなたは何年も、いや、何十年単位で服役する。その間に、彼の精神が戻る可能性は……限りなくゼロに近い」


 「……そんな……そんな……っ」


 か細い嗚咽が取調室に滲む。


 「会わせて……お願い……夫に……私、会って……謝らないと……」

 


 それでもボタンは震えながら繰り返す。


 「あなた……この期に及んで、“夫”のことしか言わない。じゃあ――あなたの“息子”はどうなるんですか?」

 

ボタンの瞳が、ルミを見る。恐怖とも、混乱とも違う。もっと別の――無垢すぎる問いかけ。


 「……息子……?」


 「あなたが産んだ、たった一人の息子。育てはしなかったけど、血を分けた子。それでも“夫”のことしか頭にないって、どういう神経してるのよ!

あなたはずっと、“夫婦ごっこ”に逃げてばかりで……! 懺悔する相手を、あなたは……ずっと間違えてる!!」


 それは、ルミの怒りだった。憤りだった。


 ボタンは、ようやく“誰に懺悔するべきだったか”を悟る。


 崩れ落ちるように、号泣した。


 ルミは、背を向ける。


 その背中は冷たくも、どこか優しかった。


「……“純潔を奪った相手と結婚して責任を取る”。

 私も、その考えを完全に否定するつもりはありません

でも……だったらまず、“純潔を奪った罪”を償ってから愛し合うべきだった」


 それが、あの汚れた夫婦の、全ての始まりだったのだ。


---


【ミクとユウマ】

 大企業グループの汚職と地下格闘技界の癒着が暴かれ、ミクの義両親――格闘技団体の実権者たちは、すでに拘束されていた。


 その後始末に追われるのは、ミクの夫、ユウマ。

 どこか頼りなげで優しげな青年だったが、企業経営者としての手腕は並ではない。

 冷静沈着な判断で次々と処理を進めるその姿は、まさに「生まれ持っての才覚」と言えた。


 そんな彼を、ある日ミクが“ある場所”へと連れ出す。


 到着したのは――静かな地方都市だった。


 「……ここが、あなたの“本当の実家”ですわ」


 ミクが扉をノックすると、中から現れたのは初老の女性。

 優しげでありながら、働き者の風格を漂わせた彼女が、ユウマを見るなり目を見開いた。


 「……あなたが……!」


 「……はじめまして。僕が……ユウマです。今まで……別の家庭で育ってきました」


 気まずい沈黙が流れる。


 だが、彼女はすぐに微笑んで、両手を差し出した。


 「会えてよかった。本当に……生きててくれてありがとう」


 その手を握るユウマの瞳が、わずかに潤んだ。


 「僕は、ずっと……親に甘えたことも、守られた記憶もなかったから……。今さらだけど……嬉しいです」


 ミクがそっと隣に寄り添う。


 「お義母様。これから先、夫には多くの苦難が待っておりますわ。でもわたくしが――必ず、支えます」


 凛としたお嬢様の口調で、堂々と言い放つ。


 だが――。


 「……あなた、あの地下リングでボコボコにされたんですってね?」


 義母の突然の一言に、ミクはビクリと硬直した。


 「そ、それはですね……あの、えーと、修行でして……!」


 「修行ぉ? あれだけ旦那さんを心配させといて、修行⁉︎ それで支えるって、よく言えたもんね!」


 ミクは完全にタジタジ。


 「は、はい……申し訳ありません、お義母様……」


 リングで多くの強敵を倒した人妻ボクサーも、姑相手では一発KOだった。


 だが、笑い声とともに流れるその時間は、彼女たちの未来を祝福するように――穏やかだった。


ーーー


【エリカとエレン】


 「第十三戦闘部隊、整列ーっ!」


 復帰早々、エリカは既に二階級特進していた。死んでもいないのに。


 過去のセクハラを真摯に反省した彼女は、今では男性隊員への対応が妙に優しい。


 「……なあ、あの人、やたら男に気ぃ遣ってね?」


 「おう、怖えくらい丁寧。前と全然違う……」


 そんな光景を見て、エレンは堪えきれず吹き出した。


 「ははっ、上官殿、過保護すぎます! 上官殿に乙女は似合いません!」


 「うるさい! 口のきき方を覚えろ、エレン!」


 どん、と愛情の込もったゲンコツが落ちる。


 軍の空は今日も、やかましく、あたたかい。


---


【マヤとジム】


 ジムは、ようやく立ち直りつつあった。


 ミクの提案で、クロウの違法資金が格闘家支援に使われることとなったのだ。


 「不正で得た金は、正しく使って贖うべきですわ。お義父様のせいで歪んだ格闘技界を、わたくしが正すのです」



 だが、現実は厳しい。


 「……貧乏なのは変わんないけどね」


 マヤは、汗をぬぐって笑う。


 ジムには、今――明るい声が満ちていた。


 その理由は一つ。


 「今日も一本、お願いします!」


 いつの間にか常連となった“新入り”がいた。

 飄々とした顔で、構えだけは妙に様になっている。


 「やっぱり、やるからには全力で行きますよ。手加減しないでくださいね」


 にやっと笑ったその男――ソウタ。


 どこか頼りないようで、どこまでもまっすぐなその拳は、誰よりもマヤの心を打った。

 真っ白なグローブを交えながら、マヤは言った。


 「――あたしも手加減なんてしないよ。だって、」


 その拳は構えに入り、空気が張り詰める。


 「弱い者イジメは、ニガテだから!」


 スパーリングのゴングが鳴る。

 拳を交える音が、かつての地下とはまるで違う、爽やかなリズムで響いた。

 ここからまた、新しい日々が始まるのだ。


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弱い者イジメはニガテだから 青島シラヌイ @shiranuiA

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