月夜の釣り船

ほしのかな

月夜の釣り船

 海中に仕掛けが沈んでいく。

 スプールが音を立てて糸を送り、獲物のいる場所まで魅惑的なエサを運ぶ。

 定めた深度に到達したことを確認すると、ベイルを上げて糸を止める。


 一瞬の沈黙。


 仕掛けとエサが海中で落ち着いた頃合いを見計らって、グイッと竿先を持ち上げる。

 竿先が戻る動きに合わせて、リールのハンドルを丁寧に巻き、糸ふけを取る。


 そしてまた、沈黙。


 波の上を月光と船の灯りが踊り、夜の海を彩っている。

 五感を研ぎ澄まして、静かに海と、獲物と対話する。

 この駆け引きの時間が、私は一番好きだった。

 船のエンジンのうなりに合わせ振動する体が、まるで武者震いのように感じられる。

 日頃の喧騒から離れて、海で糸を垂らすこの瞬間こそ、私らしくいられる大切なひとときだ。

 仕事の鬱憤も、親からの心配という名の重圧も、船の上の私を捕まえることはできない。

 ここでは、私は一人。

 自由だった。


「せんぱーい! これってこれでいいんでしたっけ?」


 ……撤回。

 最近なぜか釣行ちょうこうについてくるようになった、この賑やかな後輩がいなければ――の話だ。


 私の初めての後輩、港一みなとはじめは、がっしりとした体躯にふさわしい声量で、いつでも私の静寂しじまに飛び込んでくる。

 大きな手で器用にリールを調整しながら、こちらの様子をうかがっている。


「それだとドラグがきつすぎるかも。大物掛かったら糸切れるよ。少しだけ緩めて」

「うっす。……これでどうっすか?」

「あー、大丈夫。ちゃんとできてる。段々慣れてきたんじゃない」

「先輩の指導の賜物っす!」


 なんて嬉しそうな顔で笑うんだろう。

 犬だったら尻尾をブンブン振っていそうだな――なんて失礼なことを考えて、私も思わず笑ってしまう。


「先輩も楽しそうっすね」

「……そりゃ、釣りが楽しくないわけないでしょ」


 そうだ。釣りは楽しい。

 でも、こうして誰かと一緒に釣りを楽しめる日が来るなんて思ってもいなかった。

 一人で気の向くままに釣りをしてきた私には、他人のペースがわからない。

 たまに一緒に行きたいと言ってくれる人もいたけれど、みんな二度目はなかった。

 私の狂気じみた釣行に根気よく付き合ってくれる人が現れるなんて、かなり奇特なことだと思う。


「港君も、釣りを好きになってくれたなら嬉しいよ」


 そうしてまた次も一緒に釣りに行ければ――なんて思う自分にもびっくりする。

 一人で黙々とする釣りも最高に楽しいけれど、こうして誰かとおしゃべりをしながらの釣りも、なかなかどうして悪くないのだ。


「そりゃ好きに決まっているじゃないですか。次も絶対誘ってください」


 にかっと笑う後輩の顔から、思わず目を逸らした。

 なんだか心を読まれていたようで、むず痒い。

 動揺する気持ちを振り払うように、大きく竿をしならせる。

 波のリズムに合わせて規則的に揺れる竿先が、なんだか自分の鼓動のように感じられて、余計に気恥ずかしかった。


「せ、先輩! なんかこれ来たかもです!」


 上ずった声音に目を向けると、港の持つ竿の先が不規則に沈んでいる。


「まだ早いね。もう少し喰わせて」

「はい!」

「竿先がグッと沈んだら、一気に竿を立てるんだよ」

「はい!」


 焦らすように上下する竿先が、海中に沈んだ。


「引いて!」

「今だ!」


 二人の声が重なり、竿がグンと引き上げられる。

 綺麗な弓なり。魚が乗った証拠だ。


 グーッと一定の力で下に引き込まれ、時折ふっと軽くなる。

 そしてまた、下への引き込み。


「タチウオだね」

「なんでわかるんですか」

「引きのリズムで、なんとなく」

「さすがっすね。俺、まだその感覚全然わかんないです」

「数こなせば自然にわかるよ」


 掛かった魚種によって巻き方も違う。

 横に走る青物系は手早く巻かないと他の釣り人を巻き込むし、口の切れやすい魚種は丁寧に上げないと途中で外れてしまう。

 慣れてくると、当たりのリズムである程度わかるようになってくるものだ。


「あと少し!」


 海面をのぞき込むと、ほの暗い海中から上がってくる綺麗な魚影が見えた。

 名前の由来でもある銀色の体が、美しくきらめいている。


「港君。これ大きいよ」

「マジっすか」

「上げる時、絶対糸ゆるめないでね」

「うっす」


 銀の魚体が海面に躍り出る。

 港は糸を掴み、一気にそれを引き上げた。


「やった!」

 元気にうねるタチウオに戸惑いながらも、港は満面の笑みでこちらにピースサインをしている。


「歯が鋭いから気をつけてね。糸が切られる前に締めちゃおう」


 タチウオの刃は剃刀のように鋭い。ちょっとかすめただけでも大量に出血し、しかもなかなかふさがらない。

 噛まれると地味に痛いし、テンションが下がるのだ。


 私はタチウオを受け取ると、胸鰭のあたりを掴み、下あごに指をかけ、反対側に首を折った。

 上あごを貫通していた針を外し、フィッシュグリップでタチウオを掴み、港へ渡す。


「すごいね! フッキングも完璧。ドラゴンサイズだね!」


 そう言って笑うと、港は驚いたような顔で私を見て、そして笑った。


「先輩、めちゃくちゃ嬉しそうっすね」

「……なんでわかるの」

「勘っすかね」

「なにそれ」


 二人で顔を突き合わせて笑う。

 ああ、こんなに笑ったのはいつぶりだろう。

 やっぱり、釣りは楽しい。


 たくさんの氷を詰めたクーラーボックスに海水を入れて、その中にタチウオを横たえる。

 刀身のような美しい白銀の体に、月の光がキラキラと舞った。


「そうか。今日は満月だっけ」


 ふと空を見上げると、空に穴をあけたように月が煌々と輝いている。

 港も隣で同じように空を見上げると、ぽつりと言った。


「……月が、綺麗ですね」


 夜の海に浮かぶ月が、波間でゆらゆらと揺れている。

 その横顔が、やけに真剣だったものだから、私は思わず返事に詰まった。


「うーん」


「え、あの、別に深い意味とかじゃなくて!」

 港はなぜか慌てた様子で両手を振っている。

 心なしか、顔が少し赤い。

 その様子がいたずらがバレた子どものようで、思わず笑ってしまった。


「相性が悪いんだよね」


「……え?」

 港の手がピタリと止まる。

 声のトーンも、ほんの少し沈んだように聞こえた。


「私、満月で大潮の日ってあんまり釣れないんだよ。いつも今日こそはって思うんだけど」


「……ああ、釣りの話ですか」

 肩の力が抜けたような声。

 それから少し間をおいて、港は笑った。


「焦ったぁ。俺、一瞬本気でもう終わりかと思いました」

「なにそれ」


 笑ったり慌てたり、赤くなったり静かになったり。

 目の前の後輩の考えていることが、さっぱりわからなくて面白い。

 何が出るかわからない。そういう意味では、海に似ている気がする。


「君といると飽きないね。なんだか面白い」

「――え」


 港は大きな掌で自分の顔を覆うと、くぐもった声で続けた。

「俺も、先輩といると最高に楽しいっす」

「そんな奇特な人間、君くらいだよ」

「それを聞いて安心しました」


 クーラーボックスの蓋を閉める瞬間。

 私の手と港の手が重なった。


「あ、ごめんね」

 咄嗟に手を引こうとすると、その手を港がギュッと掴んだ。


「ね、先輩。次も俺を誘ってくださいね」


 その声に合わせて、波がしたたかに船体を叩いた。

 揺れる。優しい浮遊感。

 満月の光が、港の輪郭を淡く溶かし、やけにきらめいているように見えた。

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月夜の釣り船 ほしのかな @kanahoshino

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