仮面の下で
北宮世都
仮面
楽屋の鏡に映る顔は、いつも他人のように見える。
「美月さん、素晴らしかったです!」
スタッフの声が遠くで響く。今日の公演も成功だった。観客の拍手は本物で、涙を流している人さえいた。私が演じた悲劇のヒロインに、心を動かされたのだろう。
でも、この化粧を落としたら、そこに何が残るのだろう。
コットンに染み込んだクレンジングオイルが、ファンデーションを溶かしていく。赤い口紅が薄れ、濃いアイラインが消える。現れるのは、二十六歳の女の素顔。名前は藤原美月。職業、舞台女優。
「これが私」
呟いてみるが、声に実感がない。
携帯が震える。太陽からだ。
『お疲れ様。今から迎えに行くよ』
高校からの付き合い。彼は私が役者になる前から知っている。教室で笑っていた頃の私を。部活で走り回っていた頃の私を。舞台に立つことなど考えてもいなかった頃の私を。
でも私は、彼の前でも何かを演じている気がする。
あの頃の私は、本当の私だったのだろうか。それとも今の私が本当の私なのだろうか。
「ありがとう、待ってる」と返信する。その文面さえも、「良き恋人」の台本のように思えてしまう。
稽古場の空気は、いつも緊張に満ちている。
「もっと感情を! あなたは今、世界で一番孤独なのよ!」
演出家の声が響く。私が演じる役は、自分を偽り続けて心が壊れていく女性。台本を読んだ時、背筋が凍った。まるで私自身を書かれているようだった。
「はい、もう一度」
私は深呼吸する。そして、役に入る。それは仮面を被る感覚に似ている。自分という輪郭が曖昧になり、別の誰かの感情が流れ込んでくる。
「誰か、私を見て。本当の私を——」
台詞が喉から零れ落ちる。
そして、その瞬間。
涙が溢れた。
止まらない。台詞を忘れた。膝から崩れ落ちる。これは役としての涙じゃない。私自身の涙だ。怖い。苦しい。もう何が本当で何が演技なのか分からない。
「カット!」
演出家の声。私は床に座り込んだまま、顔を覆った。
「素晴らしい! それだ、美月さん!」
演出家は興奮した様子で近づいてくる。
「その感情、完璧よ! まさに求めていたものだわ。本番でもそれを出して!」
賞賛の言葉が、耳に突き刺さる。
私は顔を上げた。演出家を見る。彼女は満面の笑みを浮かべている。
その瞬間、恐怖が走った。
私の苦しみが、また演技になってしまった。
本当に泣いたのに。本当に苦しかったのに。それさえも「素晴らしい演技」として消費されていく。もう何も信じられない。私という存在そのものが、演技の素材に過ぎないのだろうか。
「美月さん? 大丈夫?」
演出家の声が遠い。私は立ち上がることができなかった。
その夜、私は太陽に電話をかけた。
「今から、会える?」
声が震えていた。
「もちろん。どこで会う?」
「あなたの家に行ってもいい?」
「待ってるよ」
太陽のアパートに着くと、彼はコーヒーを淹れてくれた。私たちは並んでソファに座る。いつもなら心地よい沈黙が流れるのに、今日は違った。
「最近、疲れてない?」
太陽が優しく聞く。
「......うん」
正直に答えた。
「無理しないでね」
その優しさが、時々重荷になる。私は彼に、本当の自分を見せているのだろうか。
「ねえ、太陽」
気づけば口が動いていた。
「私、あなたといる時も、何か演じているのかもしれない」
沈黙が降りる。太陽はコーヒーカップを置いて、ゆっくりと私の方を向く。
「それでもいいよ」
彼は静かに笑った。
「え?」
「美月が演じていても、演じてなくても、僕にとっては同じだよ。君は君だから」
その言葉の意味が、私には理解できなかった。
「でも......」
言葉が続かない。太陽は続ける。
「今日、何があったの?」
私は、稽古場であったことを話した。涙が止まらなくなったこと。それを演出家が絶賛したこと。自分の苦しみさえも演技として消費されていくことへの恐怖。
太陽は黙って聞いていた。
「もう、何が本当の私なのか分からないの。役を演じている時の私も、あなたといる時の私も、一人でいる時の私も、全部嘘みたいで」
涙が溢れそうになる。でも、この涙さえも演技に見えてしまう気がして、必死に堪えた。
太陽はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開く。
「本当の美月って、何?」
「え?」
「君が『これが本当の自分』だと思っているものって、何なの?」
答えられない。私は本当の自分が何なのか、分からないから苦しんでいるのに。
「僕が知ってる美月はね」太陽は優しく続ける。「高校の時、笑っていた美月。舞台の上で真剣な顔をして、役に入り込んでいく美月。困った時に眉をひそめる美月。朝、コーヒーを飲む時、少し幸せそうな顔をする美月。稽古で苦しんで泣いた美月。全部、君だよ」
「でも、高校の時の私と今の私は、別人みたいで——」
「違うよ」太陽は首を横に振る。「高校時代の君も、今の君も、君を形成する一部なんだよ。役に入ることは、自分を失うことじゃない。自分を拡張することなんだ」
「拡張......」
「そう。新しい顔を手に入れることは、成長することなんだよ。高校時代の君が消えたわけじゃない。ただ、そこに新しい君が加わっただけ。個性が増えることは、君自身が成長しているってことなんだ」
「演技だと思ってる? でも、その『演技をしている』ことに悩んでいるのも君だろ? 役者として生きることを選んだのも君。今こうやって苦しんでいるのも君。全部、本当の君なんだよ」
太陽の言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。
「仮面を被っている君も、仮面について悩んでいる君も、仮面を脱ごうとしている君も。それ全部が、僕の知っている藤原美月なんだ」
「でも...」
「君は、仮面を脱がなくていいんじゃないかな」
「え?」
「仮面は君の一部だよ。役者として生きることを選んだ君の、大切な一部。それを否定する必要はないんじゃない?」
私は黙って、太陽の言葉を噛みしめる。
「演技も、苦しみも、迷いも、全部含めて君なんだよ。それを『消費されている』と感じるのは辛いと思う。でも、その苦しみを表現できること自体が、君の才能なんじゃないかな」
「才能......」
「うん。君は自分の感情を、演技に変えられる。それは素晴らしいことだと思うよ。たとえそれが苦しみでも、悲しみでも」
私は、初めて涙を流した。演技じゃない涙。でも、それでいい。この涙も、私なのだから。
太陽は何も言わず、ただ隣に座っていてくれた。
翌朝、私は稽古場に向かった。
鏡の前で化粧をしながら、考える。この顔を作る行為は、嘘をつくことではない。これは、今日の自分を選ぶ行為なのだ。
役者として舞台に立つ自分。恋人として太陽と笑う自分。一人で悩む自分。全て、私の顔。
仮面は、自分を隠すものじゃない。自分を表現する、もう一つの顔なのだ。
「おはようございます、美月さん」
スタッフが声をかけてくる。
「おはようございます」
私は笑顔で答える。この笑顔は演技かもしれない。でも、それでいい。この笑顔も、私の顔なのだから。
稽古が始まる。今日も私は役に入る。仮面を被る。昨日のシーンをもう一度やることになった。
「準備はいい?」演出家が聞く。
私は頷いた。
深呼吸。そして、役に入る。
「誰か、私を見て。本当の私を——」
また涙が溢れる。でも今度は恐れない。この涙は、役としての涙でもあり、私自身の涙でもある。その両方なのだと、今は分かる。
演技と現実の境界は曖昧だ。でもそれでいい。仮面と素顔は、もう区別する必要がないのだから。
「カット! 完璧よ、美月さん!」
演出家の声。私は涙を拭って、小さく頷いた。
休憩時間、携帯にメッセージが届く。
『11月5日、晩ごはん一緒にどう?』
太陽からだった。私は少し考えて、返信する。
『うん、行きたい』
送信ボタンを押してから、ふと鏡を見る。そこに映っているのは、微笑んでいる私。
この笑顔は、本物なのか演技なのか。もう、そんなことはどうでもいい。
鏡の中の自分に、小さく頷いた。
仮面を被った私も、私なのだから。
11月5日公演最終日の夜。
楽屋で化粧を落としていると、太陽が迎えに来た。
「お疲れ様」
「ありがとう」
私は鏡越しに太陽を見て、微笑んだ。
帰り道、春の風が頬を撫でる。並んで歩きながら、太陽がぽつりと言った。
「以前より、凄かった気がする」
「え?」
「演技、今日は自然だったというか、迫力があったというか」
太陽は少し言葉を探すように続ける。
「うまく言えないんだけど、何か変わったなって」
少し照れくさくて、私は視線を逸らした。
「......そう、かな」
「うん」
太陽の言葉に、私は小さく笑った。そうかもしれない。
あの日から、何かが変わった。役に入ることへの恐怖が、少しずつ薄れていった。
役と一体化することは、自分を失うことじゃない。自分を拡張することなんだ。太陽の言葉が、ずっと心の中で響いている。
「私ね」
私は口を開いた。
「これから先も、きっと迷うと思う。苦しむと思う」
「うん」
「でも、もう大丈夫な気がする」
私は太陽の方を見た。彼は優しく笑っている。
「私は、私のまま、生きていける」
空を見上げると、星が瞬いていた。
私は役者として生きていく。仮面を被り、様々な顔を持ち、それでも私として生きていく。
それが、私の選んだ道なのだから。
風が、また吹いた。春の嵐のように、激しく優しく。
私たちは並んで、夜道を歩いていく。
仮面を被った私と、それを受け入れてくれる彼と。
これから先も、きっと迷うだろう。苦しむだろう。でも、もう大丈夫。
私は、私のまま、生きていける。
仮面の下で 北宮世都 @setokitamiya
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