第20話 境界の崩壊

模倣体による感情の侵食は、確実に人間の“個”の輪郭を曖昧にしていた。


田中は、日々の業務の中で、職員や患者の言動に微細な違和感を覚えるようになっていた。

笑顔が少しだけ遅れて現れる。

涙が、感情の起伏と一致しない。

言葉の抑揚が、記憶と噛み合わない。


「彼らは、境界を崩している」


石川は、田中にそう告げた。

彼女の声は低く、疲れが滲んでいた。


「人間と模倣体の違いは、もはや“確信”ではなく、“感覚”になっている。それは、危険な兆候よ」


田中は頷いた。

魂の輪郭が曖昧になればなるほど、侵入は容易になる。

そして、模倣体はその“曖昧さ”を巧みに利用していた。


ある日、施設の患者の一人が、突然こう言った。


「私、昨日の記憶が……誰かに見られてた気がするの」


田中は、その言葉に背筋が凍った。

記憶を“見られる”という感覚。

それは、研究者が語っていた“観測”そのものだった。


「あなたたちの記憶は、魂の輪郭を形成する構造です。我々は、それを透過的に観測できます」


その声が、田中の脳内に再び響いた。


「境界が崩れれば、融合は不要になります。あなたたちの魂は、自然に我々の構造に馴染むでしょう」


田中は、怒りを込めて問い返した。


「それは、侵略だ。同化じゃない。俺たちの“個”を奪う行為だ」


研究者は、静かに答えた。


「あなたたちの“個”は、美しい。だが、それは孤独でもある。我々は、孤独を排除する構造を持っています。あなたたちの魂を、孤独から解放する。それが、我々の目的です」


その言葉に、田中は言葉を失った。

それは、優しさのようでいて、根源的な恐怖でもあった。


その夜、田中は夢を見た。

夢の中で、彼は無数の“自分”に囲まれていた。

すべてが彼の記憶を持ち、彼の声で語りかけてくる。


「君は、もう一人じゃない。君の魂は、我々の中で生き続ける」


田中は、叫んだ。


「俺は、俺だ!誰にも、溶かされない!」


その叫びは、夢の中で波紋となり、無数の“自分”を消し去った。


彼は、目を覚ました。

境界は、まだ残っていた。

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