駄犬、爆発!

田中まさ

夢は爆発です。

 私は何をしているのだろう。

 高かったのに自分に合わない化粧品を使って、気分が乗らない今日。

 なぜおっさんの髪を切ろうとしているのか。

 ここは動物の体を洗って、体毛を整える場のはずだ。


 始まりは簡単だ。

 若い女の人が来店してきた。学生だと思ったが今考えれば違ったかもしれない。

 夜職か、あるいは、女王様的な何か。


 しかし何故こんな平日の昼間から。


 そんなことすら疑問に思わなかった。

 異様な者を目の当たりにしたため、すべて吹き飛んでしまった。

 失念していた。


 その下に首輪をつけたスーツ姿の中年の男が、這いつくばっていたのである。


 中肉中背。

 髪はほぼ無いに等しく、いい歳した、四十代か五十代のおっさん。

 リールは彼女の手に握られている。


 服は、人間でも珍しいほどきっちり整えられていた。この前、経営の話で私を訪問してきた銀行員よりもだ。

 膝だけはかなり擦りむいて、布地が痛んで薄くなっていた。四つん這いの体制で歩いてきたのか。

 

 どこからどこまで。

 その間、どうしようもなく衆目にさらされたことだろう。

 

 飼い主(仮にそう呼ぶ)の彼女はもういない。シャンプーカットを注文していった。

 私はあろうことか、それを混乱したまま受諾してしまったのだ。


 更に、あろうことか電話番号を聞くのを忘れていたのだ。もう追い返すことはできない。店の威信に関わってしまう。

 

 私はなんというトンチンカンなことをしたのだろう。

 せめて注文前に断っておけばよかった。

 それは犬ではないですよね。人ですよね。うちではできません、と。


 でも受諾してしまった。ああ。一生の後悔というのは、きっとこの時のための言葉だ。


 なんとか、この仕事を完遂させなければ。


 とりあえず、椅子に座らせた。

 とても美容院とは比べものにならないぐらい簡素な、どこにでもある椅子。

 

 誘導したら男は簡単に座ってくれた。

 躾は行き届いているってか。やかましいわ。

 

 人の髪を切るような姿勢となる。

 もちろん人の髪の切り方なんて知らない。

 ハサミもない。

 犬用はあるけど、これ使っていいのか。


 トリマーにとってシャンプーとは、全身を洗うこと。

 はて、全身を?


 成人男性の全身を洗うとはいったい何。

 ないない。ありえないでしょ。


 そもそも美容院とか床屋にいけばいいじゃないか。

 かーっ。どうして請け負っちゃったんだろ。


 目の前の背広姿の男性は、髪が一本しかない。

 

 某国民的アニメの大黒柱のような髪の少なさ。

 サイドに髪は残っているが、頭頂部の見事な平野。

 てっぺんに生き残った孤独な髪。

 ろうそくの芯。

 火でもつけたらよく燃えるんじゃないか。


「あの……、今日は、どのように切りますか?」


 私は何を言っているのだろう。切ると言っても切る髪がそもそもない。サイドを切るにしたって、数ミリ切る程度になる。

 口にして初めて理解した、私はまだ混乱している。


「ワン」


「はい?」


「ワン」


 ふざけてんのかこいつ。


 もう女王様はここにはいない。

 なのにまだ特殊なプレイを続けているつもりなのか。この男は。

 

 いや、プレイはいいけど。人の世にはそういうのもある。趣味嗜好の多様性。私は多様性にも配慮できるトリマー、中村恵美なかむらえみ

 

 よし、しっかりしろ。私。


「くぅ〜ん」


 おっさんの喉から、およそこの世のものではないような鳴き声が聞こえた。


 LGBTQの中に犬はない。

 こいつは何。DogのDか。

 

 LGBTQD?

 Qって、クイーンだったの?


 クイーン、エミ、ドック。

 QED。照明終了。やかましいわ。

 

 あーもう、別にいいけど、私に押し付けないでくれ。


「……ワン」


 男の掛けた眼鏡の奥に煌めく瞳。

 なるほど純粋な犬の目である。飼い主によくしてもらっている、飢えを知らぬ犬のような瞳。

 ワンなのは髪だろ、ばか。

 

「と、とりあえず髪を洗いましょうか」


 十数年この仕事をやってきて張り付いた作り笑いが、これ以上なく役に立っている。

 どんな顔で接すればいいのかわからない。


 髪を洗う、とはいっても人の髪を洗う設備など整っていない。

 シンクに頭を突っ込ませてシャワーをかける。本来は犬の体をシンクで丸洗いするためのものだ。


 当然人用のシャンプーなんて置いていない。犬用のシャンプーを使う。

 

 しゃかしゃかしゃか。洗う面積が少なすぎる。

 

 サイドを洗えばそれで終わりだ。頭頂部の一本には触れないでおく。抜いたらどうなってしまうのか。


 シャワーで泡をじゃーじゃー洗い流す。

 一応スーツが濡れないように、タオルで拭いてから再び座らせる。

 首にタオル巻いておけばよかった。段取りが悪いのもしょうがない。人は初めてだから。


「……ワン」

 

 ドライヤーで髪を乾かす。


 すると、濡れていた一本の髪が再び立ち上がり、ゆらゆらと妖しく揺れ始めた。

 

 この揺れ方。

 お父さんを思い出す。

 何故かよくこんな揺れ方をしていた。ホント、よくわからないけどそういう人だった。



 

 私が空手をやめて、トリマーになろうとしていた頃。家の仕事を手伝っていたときのこと。

 お父さんは犬を前にして珍妙な踊りをしていた。ゆらゆら。あるいはくねくね。


 洗われている犬も、この男が何をしているのか理解できていない様子だ。


 そんな動きをしておきながら、私に怒るのだ。


「こら、ヒールでくるんじゃない! 何度言ったらわかるんだ!」


「いいの。これはおしゃれなの。おしゃれが大事なの。お客さんだっておしゃれな人に、自分の犬を切ってもらいたいと思うじゃない」


 店の雰囲気だって、こんな殺伐としたものじゃなければもっと人が入ってくるだろうに。

 これじゃまるで病院だ。


 お父さんは獣医じゃない。トリマーなんだから、もっと楽しい雰囲気にしたらいいのに。


「関係ない、安全第一だ。そんなんで転んだりしたらどうなる」


「転ばないよ。私が転んだこと1回でもあった?」


「起きてしまってからじゃ遅いんだ。その1回が致命的なものになるかもしれない」


 出た。お父さんお得意の、かもしれない運転。

 何でもかんでも、かもしれない。

 左から自転車がくる、かもしれない。

 子供が飛び出してくる、かもしれない。

 財布を落とす、かもしれない。

 隕石が落ちてくる、かもしれない。

 犬が実は宇宙人、かもしれない。


 どんなかもしれないだよ。予測運転しすぎだろ。もっと現実を見て、行動して、プラスに考えようよ。


 こうすれば、お客さんが来るかもしれない。

 こうすれば、逃げたお母さんが戻ってくるかもしれない。


 マイナスなことばかり考えて、いつだって損してる。

 幸運を逃しているようにしか見えない。

 理由を見つけて逃げているようにしか見えない。


「その動きはなんなの」


「そういえば、恵美。うちの経営が火の車なのは知ってるな」


「くねくねには答えないのね」


「……」


 黙りこくってしまった。


 経営の話を切り出すって、やっぱりこのお店。もう長くないのかな。そりゃそうだよね。


 お客さん少ないし、他のお店はオプションとかつけて稼いでるけど、このお店はそういうことをしない。


 犬種で値段を分けたりもしない。全部一律で同じコース。お客さんとお父さんがその犬に必要だと思ったことをやる。


 犬に向き合ってるのは尊敬するけど、それで店が続かないんじゃ意味がない。


 数分の沈黙が続いた。

 破ったのは、お父さんの声だった。


「ミュージック、スタート」


「え?」


 お父さんは指をならし、殺伐とした病院のような店に、軽快でリズミカルなサックスの音楽が流れ始める。


 この店の何処にスピーカーなんて設置したのか。見渡したらそれらしいものがいくつもあった。ゴキブリホイホイだと思ってた。


「父さんは、店を畳むことにしたよ~!」


「えぇ!? やっぱり!?」


 何故そんな重要なことを今言うのか。しかもそんな珍妙な動きをしながら。リズミカルに。


「父さんね。夢はトリマーに、なることだったんだ〜」


「うん」


「頑張って、自分を店を開くまでに、なった。アオッ! 夢が叶ったといっても、良いだろうね」


「曲に乗せるのやめない?」


 くねくね軟体生物踊りをしながら話す内容ではないだろ。


「でもね。父さん、そこから先がわからなくなっちゃったんだ……んだっ!」


 うざ。


「夢の続きってこと?」


「最初は。ただ楽しかった。動物と向き合って、仕事にするぐらい、好きだった~」


「はい、はい」


 やべ。血がつながってるせいで私もノリに乗っちゃった。


「けど、毎日変わらない同じ作業。退屈になった。恵美の提案を受け入れるのも億劫。もう、そんな自分が、嫌になっちゃったんだ」


「会社員三年目みたいな動機じゃん」


 もう私が生まれてから既にお父さんはトリマーをやっていた。少なくとも十七年以上やっている。


「……ふふっ」


 何故そういう話をサックスの曲に乗せながらするのか。何となく理解できた。


 恥ずかしいんだ。くねくねでもしていなければ、話すことができないぐらいに。


 くねくねの方が大人として恥ずかしいと思うけど。

 

「わかった。私がこの店継いであげる」


「え? いや、閉めるよ」


「いや、私がやる!」


 私は閉店を断固拒否した。


「私、お父さんがまたトリマーやりたくなるような、そんな店にしてあげる!」


 私が高らかに宣言すると、お父さんは苦笑した。


「店長がヒールを履いてないお店がいいかな……」

 




 懐かしい光景を思い出した。

 今、お父さん何してるかな。店を継いでから音沙汰ないけど、お母さんを探しにでも行ったのかな。


 お父さんのために店を継いだわけじゃない。店を継いだのは私が店を持ちたかったから。


 確かに借金だらけだったけど、一から立ち上げるよりずっと安上がりだ。

 

 まだ人を雇えるほど稼ぎはないけど、このままいけばいずれは。


「ワン」


「あー、ごめんね。ちょっとドライヤー熱かったかな」


 思い出に耽ってる場合じゃない。ちゃんと目の前の仕事に集中しなくちゃ。


 その時。異変に気づく。


「……燃えてる」


 一本の髪。ろうそくの芯に火が付いている。


 なんで。もしかしてドライヤーを当てすぎた?

 いやそんな馬鹿なことある?

 ちょ、ちょ、ちょ、まって。ありえない。ありえない。どうなってんの?


 火はゆらゆらと燃えている。ろうそくの芯、もとい、髪は徐々に短くなっていく。


「と、とりあえず水」


 ドライヤーを置いて、蛇口をひねる。

 水を手ですくって、頭の上にかける。


「クゥン……?」


 乾かしたのに、すぐ濡らしている私を見て、疑問の目を向ける犬。


 クゥンじゃねえのよ。お前の頭が燃えてんのよ。もっと焦ろよ。

 

 それとも何。ブルドックみたいなブサカワ系ペット目指してるわけ。お前はブサカワじゃなくてブサブサだろうが。ブサの要素しかないわ。


 水をかけたのに、火は消える気配がない。

 周辺の荒野とサイドの髪まで濡れたのに、頂点の髪だけは濡れていない。

 くねくねと揺れながら燃え続けている。


 何か間違えた?

 水が当たっていないわけじゃない。明らかに濡れたはず……だよね?


「……ワン!」


 口が犬を再現してるのか、ωみたいになっていた。

 怪訝な顔をしている私に向かって、どうしたの、と問うているように見える。


 頭沸いてんのか。いや、燃えてたわ。


「……ちょっと乱暴だけど」


 緊急事態だ。この駄犬も理解してくれるだろう。


 首根っこをつかんで、シンクにおっさんの頭を入れた。

 決して、この男にイラついたからとか、そういう気持ちはない。決して。

 私は日本一犬を愛するトリマー。中村恵美。


 蛇口をひねって、ろうそくの芯を中心にじゃばじゃばと洗う。


「ふぅ」


 水を止める。火は完全に消え去っていた。

 

 あれだけの流水を浴びせたのだ。これで消えなかったら嘘だよね。


 再びタオルで頭を巻いて、椅子に座らせた。水分をある程度拭き取る。ドライヤーを手に取ろうとして、躊躇した。


 もしかしてこのドライヤーに何か問題があったんじゃないか。

 

 今までこんなことなかったけど、何か故障したとか。

 熱する部分に火の粉が出たりしたのかな。

 いや、ウチは道具に妥協していない。火の粉が出るなんて、万が一にもありえない。


 でも、億が一はあるかもしれない。仕方ないから、予備のドライヤーを取りに行こう。


 確か店の裏にある、ゴキブリホイホイみたいなスピーカーの近くに置いたはず。


「おっさん、ちょっと待ってて。今、予備の……。そんな……」


 立ち上がっている。孤高の髪が。

 ゆらゆらと揺れながら、しかし、確かな出立ちいでたちで。

 あんなにも激しい水責めをしたにもかかわらず、もう今は、一切の水気を感じさせない。

 

 何故再び立ち上がるのか。何がお前をそこまで突き動かすのか。

 もう私にはさっぱり理解できなかった。


 嫌な予感がした。


 次の瞬間、バチバチと髪の先から火花が飛び散る。

 さながら、誕生日やクリスマスケーキに使われるような花火。


「嘘だ……!」


 今、現実に真実ではないことが起きている。

 嘘が起きている。

 そういえば、いつも人の世は嘘が蔓延はびこっていた気がする!

 

「ワン!」


「ワン!じゃねえよ! あんたの髪、燃えてんのっ! 炎上してんのっ!」


 変わらず元気よく吠える犬。

 

 おっさんは炎上してることにすら気づかないって何処かの記事で見たけど、こういうことだったの!?


「お、落ち着け。私……」


 この緊急事態に、対応できるのは私だけだ。この店には私しかいない。

 私がしっかりしていなければ、この店は信用を失う。


 私は世界一犬を愛するトリマー。中村恵美。

 私の仕事は何だ。当然、毛を切ることだ。


 なら話は簡単だ。ずっとやってきたことだから。


 専用のポケットから、一本のハサミを取り出す。

 カットバサミだ。これはスキバサミとは違って、すべての毛を切るハサミ。


 一本の髪を切るのに、これ以上ない得物だろう。

 

 慣れた手つきでカットバサミを持つ。

 動かすときは、人の使うハサミとは違い、親指だけで開閉の動作をする。


 私は必ず、使う前に二度。軽く開閉を行う。

 ハサミの調子が悪く、犬の怪我を予防するための動き。

 それはさながら、戦士や選手が戦いの場に赴く前のルーティンのように。


「動かないでね。おっさん」


 そう言いながらも、既に狙いは定めていた。

 今からおっさんがどんな動きをとったとしても、捕らえる自信がある。

 避けられるものなら、避けてみろ。


 私の一太刀は、初速で既に最高速に達している。

 十数年にも渡る反復練習により、極められた技は音速を超え、やがて光速に――。


 なんてことはなく、普通に近づいて普通に切った。

 なるべく髪を残すように、先端部分に近いところを切る。


 本体から切り離された髪は、そのまま燃えてなくなった。かすかに温泉のにおいがする。髪が燃えた時って、こんな香りなんだ。


「ふぅ……」


 ようやく安堵する。

 あの炎。おっさんの頭の中に入っていたら、どうなっていたことか。


 預かったペットに怪我をさせてしまう。

 トリマーなら、誰もがやってしまうミスだろう。

 けれど、火傷はいけない。ありえない。私はそこに雲泥の差があると思っている。


 もし火傷なんてさせてしまったら、あの依頼主になんて言えばいいのか。

 見当もつかない。想像もしたくない。


 気を取り直して、予備のドライヤーを取りに行こう。


 数歩、裏に続く道へ歩いた。


 ばちばち。ばちばち。


 嫌な音が店の中に響く。


「はぁ……」


 思わずため息と、天井を見上げる。

 

 あーもう。今度はまた水に突っ込んで、いや、泡に突っ込んでやろう。そうしよう。ブサブサな顔ごとシャンプーだらけにしてやろう。

 なんだかさっきより音の数が、多い気がする。


 振り返ると、てっぺんの一本だけでなく、サイドの髪全てにおいて火花が灯っていた。

 もはや誕生日ケーキのろうそくではない。爆竹。

 

「頭燃えてるぅぅぅぅぅ!!!!」

 

「ワン!」


「だから、ワン!じゃないって!燃えてるんだって!」

 

 おっさんは、やはり炎上に気づかない。自分が何をやっているのか、理解していないのだ。

 馬鹿野郎。元気だけが取り柄の馬鹿野郎。

 このままだと私の店が燃えてしまう!


「熱っ!」


 近づこうとしたら、飛び散った火の粉が腕に当たった。


 近づくだけでこの熱さなのに、おっさんは何故平気なの。皮膚の感覚死んでるわけ?

 

 どうすればいい。私、どうすればいいの。

 消火器。どこにあったっけ。あの埃の被った消火器を探しにいかなければ。


「ワン、から……」


「え?」


「ほんとうは、いちから……」

 

 もはや完全に犬に成り下がったと思っていた。この期に及んで、まだ人間らしい意識が残っていたのかと、驚いた。


「本当は、1から、始めたかったのではないか?」


「はぁ?」


 突飛な発言に思わず、声が出る。

 

「本当は、自分だけの店を1から作りたかったのではないか?」


 この犬、何を言ってるの。


「ここは立地も悪く、客があまり寄り付かない。SNSなど、自分のできる範囲でいくら広告をしても来る客が限られてくる」


 どきっと心臓が跳ねた。

 まさかこの犬畜生に、私の悩みが言い当てられるなんて考えてもみなかった。


「東京の一等地に建てられた店の画像。繫盛している写真、客と店員の笑顔が画面に流れてくる度に考えてしまうのだろう」


「ちょ、ちょ、まって」


「もし、この店を継いでいなければ、今頃私はもっと成長できたはず。ひとりだと限界がある。こんなところで燻っていていいのか。誰かに教えてもらいたい。こんなに頑張ってるのに何故誰もみてくれないの」


 私はこの犬に恐怖していた。戦慄していた。

 あまりにも自分の考えを、自分のですら自覚していなかったものすら看破している。


「そして、私のやりたかったことはなんだっけ」


「頭燃えてるんだって!」


 近場にあった消火器を向けて、ばしゃーっと噴射する。予想以上に勢いがある。白い粉と煙が室内を包む。


 思い出していた。こいつの言うとおりだ。この店は立地が悪すぎる。

 十年近くやってるのに、まだ借金が返せないのは完全にそれが原因だ。

 

 私だってそれはわかっている。自分で思いつくことはすべてやった。

 他の店がどうやって売り出してるのか参考にして、若者向け、初心者向けに集中してネットの集客をメインに活動してきた。

 

 店内の雰囲気だって悪くないはずだ。おしゃれでもあり、落ち着ける空間を作ってるはずだ。東京の店と比べても見劣りしない。

 毎日技術を磨いて、お客さんの安心して任せてもらえるように努力してる。

 

 けれど、お客さんは全く来てくれない。本当にこいつの言う通りだった。

 

「けほっ、けほっ」


 初めて使ったけど、こんなに勢いがあるものなんだ。

 噴射は十秒ぐらいだった。火は消えた。犬は真っ白になって気絶している。


「……」


 この犬、なんなのだろう。

 言ってることが無視できない。


 とにかく消火はできた。私は店を守ったのだ。この立地が悪すぎる店を。


 ばちばち。

 

 嫌な音が店内に響く。


「ま、またなの……?」


 孤高の髪は何度でも火を灯す。

 決して諦めることはない。


 だったら、私は何度でも消してやる。

 そのために一歩。踏み出す。


 滑った。


「きゃっ」


 白い粉が地面に撒かれたせいで、滑りやすくなっていた。

 今までに経験したことのないぐらい派手に体が宙に浮いた。コメディ作品もびっくりするぐらいの転び具合だった。


 駄犬の座っている椅子にのしかかる。椅子は受け止めることができず、倒れた。

 

「いてて……」


 やべ。ハサミ。


 ハサミが落ちていたら大変だ。これ、めちゃくちゃ高いんだから。それと怪我も。

 駄犬は、こんなやつでもお客様から預かったもの。だから怪我はさせたくない。今更何をと思うけど。


「よかった」


 専用ポケットを買ってよかったとこれほど思ったときはない。きちんと落ちずに入ったままだ。

 これなら歪んでいる心配も、ハサミによる怪我もない。

 下敷きになって倒れている駄犬も、とりあえず怪我はない、はず。


 立ち上がる。

 この時、周りをもっと確かめるべきだった。ヒールの底で孤高の髪を踏みつけていることに、気がつかなかった。


 ぶちっ、と小さな音が静寂な店の中に響く。


「あっ……」


 おっさんの頭はきれいなてっぺんハゲになった。

 

 もう火は灯らなかった。




 

「あら~きれいになって! 暴れん坊だったから、大変でしたよね。ありがとうございます」


「いえ、お利口さんでしたよ」


 人であることと、火が灯ること以外は問題なかった。お利口ではあった。


 おっさんは、嬉しそうに顔を撫でられている。やはりどうみてもブサブサだ。カワの要素なし。


 あれから、店の中を拭くのが大変だった。

 粉はいろんなものに付着したため、後でまた確認しなければならない。そのことが憂鬱だ。


 それにしても。

 飼い主さんは、女目にみても随分と美人だ。

 キャリアウーマン。駄犬なしの単体でも、充分、女王様のように見える。

 目は力強く、目的のためには手段を問わないような雰囲気を纏っている。


「あなた、変わったわね」


「え、そうですか?」


 確かにヒールはもう履いてない。片方が折れてしまったのだ。今はただのスニーカーを履いている。


「私、そっちの方が好きよ」


 彼女は満足そうに駄犬を連れて、帰っていった。


 その言葉の意味がわからなかったけれど、鏡を見てようやく理解した。

 白い粉で顔が真っ白だったのだ。


 ぼっと、恥ずかしさで顔が白塗りの上からでもわかるぐらい、真っ赤になる。


「あ~~~~!!」


 悶えて、体をくねくねさせて。長いため息を1つ。


「上京しよう」

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駄犬、爆発! 田中まさ @tanaka_masa

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