アンジュ・アンジェリーク

吉田隼人

アンジュ・アンジェリーク

アンジュ・アンジェリーク


ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ? ――リルケ『ドゥイノの悲歌』手塚富雄訳


 天使に性別はあるのか、などと詮無い議論を十七歳のぼくたちが繰り広げたのは二〇〇六年の真夏、京都市内のホテルの一室でのことだった。ぼくたちというのは、ぼくともう一人、いまは地元のテレビ局で記者をやっているFくんで、なぜよりにもよって夏の暑い盛りに京都なんかにいたのかといえば、その年の高校文化部の全国大会が京都で開催され、ぼくたち二人が新聞部の福島県代表に選ばれていたからだ。新聞部は取材や大会、研修会などで遠出して泊まりになることが多く、そのたびにFくんとぼくは夜を徹して青臭い議論に花を咲かせた。

 そのころ少しばかりかじりかけていたフランス語で天使アンジュは男性名詞だけれど、それは便宜的なものでやはり天使に性別はないのだ、と主張するぼくと、否むしろ天使は男女両方の性を兼ね備えているのではあるまいか、というFくんとの堂々めぐりが三周ほどしたところで記憶は途切れ、どちらが先とも知れず二人とも眠りこんでしまった。その後この議論が蒸し返されることはなかったし、暇を持て余しているぼくと違って、Fくんはこんな些末な挿話など日々の激務に紛れて忘れてしまっただろう。あれからもう十年が経とうとしているのだ。

 両性具有ヘルマフロディトスの天使像を提示したFくんに対し、ぼくがあくまで天使は非性的な存在だと主張したのは結局、ぼくの中に性的なものに対する不安と厭悪、そしてそれと等量の期待と欲望が巣喰っていたからだ、と、いくらか素直になった今になって思う。神聖なものと猥褻なものとは分かち難く近接している。女性の性的絶頂とは何か、知りたくばベルニーニの彫ったアヴィラの聖テレジア像の顔を見たまえ。ジャック・ラカンはセミネールの二十巻『アンコール』でそう語っていた。だが神秘体験によって得られた脱我エクスタシーと性的絶頂にあって感ずる恍惚エクスタシーとをそう簡単に短絡させてよいものだろうか、と、同じアヴィラの聖テレジアを論じた『エロティシズム』の一節でジョルジュ・バタイユの筆は迷いを見せる。その迷いに拘ってしまうぼくの裡には相変らず、出したての精液のように、あるいは五月雨に降りこめられた若葉のように青臭い、生への恐怖と憧憬とが残っているのか。

 いずれにせよ、典型的なポルノグラフィの筆致を逆用して描かれた、少女の顔とそれとは明らかに不釣合いな乳房とをもった天使が腹に短刀を突き立てる図像を見て、何よりまず「これは自分だ」と思ったからこそ、ぼくは波風を立てるのを厭う己の性向に敢えて逆らってまで、諸々の障碍を覚悟の上で歌集の表紙をこの画で飾ろうと決めたのであった。また、歌集の表題に採った連作「忘却のための試論」には一人の女性の死が歌われているが、この画に接したとき、そのことは全く頭になかった。

 自らの血を以て書く、と言ったのが『ツァラトゥストラ』のニーチェで、書いたそばから紙が燃えあがるような、と言ったのは『覚書マルジナリア』のエドガー・ポーだっただろうか。語りえぬものを語るべく言葉の極限へと向かうことを運命付けられた文学者は誰もが皆、己の腹に短刀を突き立てることでしか文字を綴りえないのだという大袈裟で芝居がかった信念が、しかし拭い去りがたい執拗さでもってぼくの頭蓋の中にこびりついている。逆に言えば書くことは本当に腹を切ることよりもずっと切腹に近い所業であり、ぼくたちは言葉を通じてしか真に血を流し、臓物を曝け出し、死へと近付くことはできないのではないか、とさえ思う。神の矢がわが身を刺し貫く、というアヴィラの聖テレジアの神秘体験もまた、結局は言葉でしかなかったのであり、だからこそ文学の、宗教の、人間の根源的な問題にまで触れえているのではなかったか。神の矢に身体を貫かれたとき、その創口きずぐちから漏れ出るのが血か薔薇か、それとも光か、無神論者アテエのぼくには到底はかりかねるが、ひょっとするとそれもまた「言葉」なのではないか、などと、ひそかに冒瀆的な考えを温めてみるのも、眠られぬ夜の暇潰しには悪くないかも知れない。

 貧相な肉体と反比例を示して際限なく想念ばかりが肥大してゆく、そんな青春の暗い一類型をいまだ脱しきれぬまま言葉をもてあそび、遂にぼくは一巻の書物を世に問うまでに到ってしまった。見本版の頁を繰るたび紙の匂いに混じって立ちのぼってくるのは残念ながら血の臭いでも薔薇の香でもなく、むせかえるほどおさなくて青臭い、あの少年の日の体臭である。紛れもなく自分が発散してきたとわかる第二次性徴期の臭気に圧倒され、半ば辟易しながら、もうこんな歌を詠むことはできないだろうし、また決して詠むまいという思いを新たにしている。その意味でこの書物は正しく「青春歌集」なのであろう。

 天使に性別はあるのか。本当のところを言えば、そんな愚にもつかない――あるいは高級にすぎる――議論を、十七歳のぼくたちが交わした筈もなかった。京都のホテルでの一夜、盆地に特有のねっとりとまとわりつくような熱気の中でFくんと堂々めぐりの議論をしていたのは事実だが、たしかその内容は「自分は殺す側の人間か、殺される側の人間か」というものだったと記憶している。そんなくだらない嘘で読者を煙にまいたところで、ぼくはこの文章を終えることにする。ちなみにぼくは、自分は殺される側の人間だ、と今でも思っているよ、Fくん。

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アンジュ・アンジェリーク 吉田隼人 @44da8810

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