妖猫

二ノ前はじめ@ninomaehajime

猫又

 慢性腎不全だった。週に一回、動物病院に連れていった。

 猫は老いるほどに腎臓が弱る。完治かんちすることはなく、この皮下ひか点滴も延命措置に過ぎない。余命は一年あるかどうかと医師から告げられた。

 我が老猫ろうびょうは病院から帰ると、皮の下が輸液ゆえきで膨らんでいた。体内に吸収されるまで、不自然にたるんだ体型をしていて不機嫌そうだった。

 来年の今頃にはもういないのかと思うと、とても実感が湧かない。

 黒褐色のまだらをした雑種の猫だった。今は違う呼び方をするのだったか。ともかく、外出した先で生後一年を過ぎたと思われる野良猫が後ろ足を怪我していた。よほど余裕がないのか、見ず知らずの人間に琥珀こはく色の瞳で助けを求めていた。自分では歩くことができず、動物病院に運んだ。飼い猫ではないことを告げると、あまり良い顔はされなかった。

 治療を終えた後も、猫は後ろ足を引きずる仕草をした。元いた場所に戻すこともできず、我が家で飼うことにした。その毛並みにちなんで、斑と名付けた。

 それから十五年以上の時間を共に過ごした。野良猫のため、正確な年齢はわからない。出会った頃にはもう成猫せいびょうであったから、一歳は過ぎていたのだろう。

 大学在学中からアルバイトとして雇われていた書店から勤続年数を買われて、正規雇用となった。何人かの女の子と付き合って、結婚するまでには至らなかった。

「私より猫の方が大事なの」

 大抵の別れ文句がこうだった。斑は家族の一員という認識だったので戸惑った。また野良猫だったために警戒心が強いのか、自分以外の他者には決して懐かなかった。

 寝ているとき、仰向けになっているとよく胸の上に乗られた。落ち着くため、よく胸の上で手を組んだ。死人がする仕草しぐさだと、よく母にたしなめられた。

 斑は隙間を見ると鼻先を突っ込みたくなる性分なのか、合わさった両手をこうとした。こうなると我慢比べだ。頑固な性格の猫は諦めず、大抵はこちらが折れて小さな頭に手のひらを置くことになる。

 事務所で返本作業をしているとき、二又ふたまたにわかれた尾が特徴の猫がおどろおどろしい本があった。昔から伝わる妖怪を集めたもので、手を休めて本のページを開くと猫又ねこまたについての記述があった。

 二十年を生きた老猫が猫又となる。性質はさまざまで、人の言葉を喋ったり化けたり、飼い主を噛み殺すのだという。

 ただのおとぎ話に過ぎない。苦笑いをしながら、本を閉じた。

 余命宣告を受けてから半年を過ぎて、見るからに斑の元気がおとろえた。押し入れで眠ることが多くなり、餌の量も減った。点滴に通っていた動物病院の医者からは、暗に覚悟することを求められた。

 休みの日は外出を控え、斑の面倒を見た。とは言っても、飼い主にできることは何もなく、ただそばにいることだけだった。すっかり毛艶けづやが悪くなった体を撫でると、億劫おっくうそうに小さく鳴いた。

 斑が死んだ日、夢を見た。

 暗い部屋の中、ベッドの上で仰向けに寝ている。両手を組んでいると、胸のあたりがひどく圧迫されて息苦しくなった。あえぎながら目を開けると、自分よりも大きい影が覆い被さっていた。

 琥珀色の瞳が爛々らんらんと輝いていた。その頭上で、二又の尾が揺れている。

 恐怖よりも安堵あんどを感じた。そうか、お前は猫又となったのだな。この命が欲しいなら持っていけ。残りの人生を、全てくれてやる。

 猫又の斑が赤い大口を開け、牙を覗かせた。その先端は鋭く、容易たやすくく喉笛を噛み破るだろう。両手を組んだまま、再び目を閉じた。

 喉元に牙が突き立てられる感触を最後に、夢から覚めた。

 朝日が眩しかった。胸元に重みがあり、斑が眠るように息を引き取っていた。その冷たくなった体を抱きかかえて、錯乱さくらんしながら叫んだ。

「どうして噛み殺さなかった」

 後で知った。首元には、大きな生き物に嚙みつかれたあとが残っていた。



 少し落ち着いた頃、ペットの葬儀社に連絡した。斑の亡骸なきがらをお気に入りだったタオルケットでくるみ、訪問した業者に預けた。本来は火葬に立ち会うべきだったのだろう。心の整理がつかず、火葬炉に入れられる斑を見ると取り乱してしまいそうだった。

 夕方までには、骨壺こつつぼに収まって戻ってくるはずだった。

 ところが、訪れた業者の手に骨壺はなく、代わりに責任者らしい背広の男性が申し訳なさそうな顔で佇んでいた。

 謝罪の言葉を受けて、事情を聞いた。

 斑の火葬を終えて、火葬炉を開けると骨が見当たらず、灰しか残っていなかったという。炉の火を強くし過ぎたのかもしれない。そう言って、頭を下げた。

 泣き声を聞いて、責任者の男は頭を上げた。悲しみに暮れていると思ったに違いない。こちらの顔を見て、大いに困惑しただろう。目の当たりにしたのは、嬉し泣きだったからだ。

 自分にもこの感情の正体はわからない。

 ただ、無性むしょうに嬉しかった。それだけなのだ。

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