第2話 影狩りの空 ―孤高の代償―



【空の支配者】

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翼幅: ██████ 70cm(史上最大の飛翔昆虫)

視力: 人間の10倍(複眼30,000個)

飛行速度: 時速50km

寿命: 推定6ヶ月

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時代: 石炭紀前期 3億2000万年前

酸素濃度: 35%

推定個体数: 50万


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## 一、太陽を背にする者


夜明け。森の上空、高度50メートル。


影狩りは風に乗っていた。翼幅70センチ。体長40センチ。体重200グラム。複眼には30,000個のレンズがあり、彼女の視界は360度をカバーする。彼女には死角がない。


彼女は太陽を背にして飛ぶ。これが彼女の狩りの方法だ。太陽光を背負えば彼女の影は獲物に届かない。獲物は彼女が来ることに気づかない。気づいた時にはもう遅い。


彼女の顎が獲物の頭部を噛み砕く。


影狩りは単独で行動する。メガネウラは社会性昆虫ではない。群れを作らない。協力しない。交尾の時以外、他の個体と接触することはない。縄張りも持たない。


彼女は風のままに飛ぶ。食料がある場所に留まり、食料が尽きれば去る。それだけだ。孤独は彼女の本質だった。


彼女は今朝すでに7匹を殺した。小型のトンボ、カゲロウ、甲虫。すべて飛行中の獲物だ。


彼女の狩りは無駄がない。複眼が獲物を捉える。脳が軌道を計算する。翼が加速する。顎が開く。噛む。殺す。一連の動作は0.3秒で完了する。


獲物は何が起きたのか理解する前に死ぬ。


影狩りは獲物を樹木の枝に運ぶ。そこで食事をする。彼女の顎は強力だが器用でもある。獲物の外殻を剥がし、柔らかい内臓を食べる。翼や脚は残す。栄養価が低いからだ。


食事中、彼女は常に周囲を警戒する。複眼は休むことなく360度を監視する。上空に他のメガネウラはいないか。地上に危険はないか。警戒を怠れば死ぬ。それが空の支配者の掟だった。


食事を終えた影狩りは再び飛び立つ。彼女は高度を上げ、100メートルまで上昇する。ここからなら森全体が見渡せる。


そして彼女は奇妙な光景を目撃した。地上が動いている。


## 二、地上の巨人


影狩りは高度を下げた。地上では巨大ヤスデの群れが森を横断している。鉄の背の群れだ。


彼女はヤスデを獲物とは見なさない。大きすぎるからだ。彼女の顎ではヤスデの外殻を噛み砕けない。しかし彼女は興味を持った。なぜならヤスデ群の通過が森を変えているからだ。


影狩りは群れの上空を旋回する。ヤスデたちは地面を掘り返しながら進む。腐植層を食べ、糞を排出する。その結果、地面には無数の窪みが生まれる。


雨が降れば、その窪みに水が溜まる。水たまりだ。そして水たまりには生命が集まる。


影狩りはヤスデ群が通過した場所へ降下した。そこには数十の水たまりがある。直径は数十センチから数メートル。深さは数センチ。


水たまりの周囲には小型昆虫が集まっている。トンボの幼虫が水中で蠢いている。カゲロウが水面に卵を産み付けている。甲虫が水を飲んでいる。


すべて影狩りの獲物だった。


影狩りは急降下する。時速50キロ。彼女の複眼が最も大きな甲虫を捉える。0.2秒後、彼女の顎が甲虫の頭部を噛み砕く。甲虫は即死する。


影狩りは獲物を掴んで上昇する。獲物を樹木の枝に運び、食べ始める。


食事中、影狩りは「思考」する。メガネウラには人間のような思考能力はない。しかし学習能力はある。彼女はパターンを認識する。


ヤスデ群が通過する、水たまりができる、昆虫が集まる、狩りが容易になる。このパターンは再現可能だ。つまりヤスデ群を追えば常に新鮮な狩場が得られる。


影狩りは新しい戦略を採用した。彼女はヤスデ群を追うように飛ぶ。群れの進行方向を予測し、先回りする。群れが通過するのを待ち、水たまりができるのを待つ。そして狩る。


この戦略は驚くほど効率的だった。彼女は1日に20匹以上を殺せるようになる。以前の3倍だ。これは彼女がこれまで経験したことのない豊かさだった。


しかし豊かさには代償がある。それは競争だ。


## 三、侵入者


3日後。影狩りはいつものようにヤスデ群を追っている。群れが通過した場所に降下し、狩りをしようとする。


しかしその水たまりにはすでに別のメガネウラがいた。オスだ。体長45センチ。翼幅75センチ。影狩りより一回り大きい。


彼の複眼は濃い緑色だ。翼は太く力強い。彼は水たまりの上空をホバリングしながら獲物を探している。影狩りの狩場に侵入している。


影狩りは上空で停止した。彼女は侵入者を観察する。オスはまだ彼女に気づいていない。彼は水たまりに集中している。


影狩りは選択を迫られた。この場を去るか、戦うか。


メガネウラには縄張り意識はない。通常は。しかし豊かな狩場は例外だ。


影狩りはこの狩場を3日間使ってきた。彼女はここが効率的であることを学習した。ここを失えば彼女は再び広大な森を飛び回り、獲物を探さなければならない。それは非効率だ。


影狩りは降下した。彼女はオスの背後に回り込む。太陽を背にして。そして威嚇する。


彼女は翼を広げ、高速で飛び回る。オスの周囲を旋回し、自分の存在を誇示する。「ここは私の狩場だ。去れ」


オスは彼女に気づいた。彼は影狩りを見る。体長を比較する。彼女は彼より小さい。


オスは退かなかった。オスは翼を広げる。彼の翼幅は影狩りより5センチ大きい。彼は自分の方が優位だと示している。


そして彼は威嚇する。彼は高速で飛び、影狩りに接近する。急停止する。再び接近する。「ここは誰のものでもない。お前が去れ」


影狩りは退かない。彼女はオスと向き合う。


両者は数秒間、空中で対峙した。風が吹く。樹木が揺れる。下方では小型昆虫たちが何も知らずに水を飲んでいる。


そして戦闘が始まった。


## 四、空中戦


メガネウラの空中戦は人間の想像を超える。時速50キロで激突する。体重200グラム同士の衝突は人間にとっては軽いが、昆虫にとっては致命的だ。


影狩りは最初の攻撃を仕掛けた。彼女は急加速し、オスの左側面へ突進する。オスは回避する。彼は右へ旋回し、影狩りの攻撃をかわす。そして反撃する。


オスは急降下し、影狩りの下方から上昇する。彼の顎が影狩りの腹部を狙う。影狩りは左へ旋回する。オスの顎は空を噛む。


両者は再び距離を取った。彼らは互いを観察する。


影狩りはオスの動きを分析する。「彼は力が強い。しかし旋回が遅い」


オスは影狩りの動きを分析する。「彼女は速い。しかし体当たりの威力は弱い」


二度目の攻撃。影狩りは上昇する。高度を稼ぐ。オスは追従する。影狩りは突然反転する。急降下する。


オスは驚く。彼は反応が遅れる。影狩りはオスの背後に回り込む。太陽を背にして。


影狩りの顎がオスの右前翼に噛みつく。翼膜が裂ける。体液が飛び散る。


オスは悲鳴を上げる。いや、メガネウラに声帯はない。しかし彼の翼が激しく震え、苦痛を表現する。


オスはバランスを崩す。右前翼が損傷し、飛行が不安定になる。彼は高度を失い、降下する。


影狩りは追撃する。彼女は再びオスに噛みつこうとする。しかしオスは最後の力を振り絞る。彼は急旋回する。そして反撃する。


オスの顎が影狩りの右後翼を捉える。噛む。翼が裂ける。


影狩りは衝撃を受ける。彼女もまたバランスを崩す。


両者はもつれながら降下した。地上が近づく。10メートル。5メートル。2メートル。


影狩りは翼を広げる。傷ついた翼で必死に空気を掴む。彼女はギリギリで墜落を回避する。樹木の枝に激突し、何とか止まる。


オスは墜落した。地面に叩きつけられる。彼はもう飛べない。


影狩りは枝に止まったままじっとしている。彼女の右後翼は大きく裂けている。翼の3分の1が損傷している。


彼女は飛ぼうとする。翼を動かす。しかしバランスが取れない。右後翼が空気を掴めず、体が右に傾く。


彼女は何度も試みる。しかし飛べない。


地上ではオスが動いている。彼は脚を動かし、立ち上がろうとする。しかし右前翼が完全に破損し、飛行は不可能だ。彼は地面を這い始める。どこかへ隠れようとしている。


影狩りはオスを見る。彼女には同情という感情はない。しかし理解はある。「彼は死ぬ。私も死ぬかもしれない」


影狩りは勝利した。しかしそれは代償を伴う勝利だった。


## 五、傷


影狩りは樹木の枝に止まったまま動かない。彼女は傷を「検査」している。メガネウラには痛覚がある。翼の神経が損傷を脳に伝える。


彼女の脳は損傷を評価する。「右後翼、30%損傷。飛行性能、20%低下。回復見込み、なし」


翼は再生しない。一度損傷すれば永久に機能が低下する。


影狩りは周囲を警戒する。彼女は今、脆弱だ。飛行速度が落ちれば狩りの成功率が下がる。狩りの成功率が下がれば飢える。飢えれば死ぬ。そして飛べなければ地上の捕食者から逃げられない。


影狩りはじっとしている。時間が経過する。太陽が昇る。気温が上がる。彼女の体温も上がる。昆虫は変温動物だ。気温が上がれば代謝が上がる。代謝が上がれば傷の回復が速くなる。


数時間後、傷口から体液が固まり止血する。しかし翼膜は再生しない。


影狩りは再び飛行を試みる。翼を動かす。体が浮く。しかしバランスが悪い。右に傾く。彼女は必死に左翼で調整する。何とか飛行を維持する。


しかし彼女は気づく。飛行速度が明らかに落ちている。通常、時速50キロで飛べる。しかし今、時速40キロが限界だ。


影狩りは森の奥深くへ飛ぶ。彼女は安全な場所を探す。地上の捕食者から隠れられる場所。他のメガネウラが来ない場所。


彼女は巨大シダの樹冠部、高さ30メートルの枝を見つける。そこは風が強く、他の昆虫が近づきにくい。彼女はそこに止まる。そして休息する。


## 六、恐怖


夜。影狩りは枝に止まったままじっとしている。夜間、メガネウラは飛ばない。視力は優れているが、光がなければ何も見えない。


彼女はただ待つ。しかし地上では何かが動いている。影狩りの複眼は動きを感知する。地上、20メートル下。何かが樹木を登ってくる。


それは大型のクモだった。体長15センチ。脚を含めれば30センチ。クモは夜行性だ。彼は獲物を探している。彼は影狩りの存在に気づいている。


影狩りは初めて恐怖を感じた。それは本能的な反応だ。「捕食者が近づいている。逃げなければならない」


しかし彼女は夜間は飛べない。


クモはゆっくりと登ってくる。10メートル。5メートル。2メートル。


影狩りは枝の端へ移動する。クモは追ってくる。


影狩りは決断する。飛ぶ。夜間でも飛ぶしかない。


彼女は翼を広げる。枝から飛び降りる。暗闇の中、彼女は何も見えない。しかし彼女は風を感じる。翼が空気を掴む。彼女は何とか飛行を維持する。


しかし方向が分からない。彼女は暗闇の中を飛ぶ。樹木に激突する。翼が枝に引っかかる。彼女はもがく。何とか脱出する。


彼女は地上近くまで降下する。そして水たまりに着水した。


## 七、地上の弱者


夜明け。影狩りは水たまりの岸に這い上がる。彼女の翼は水に濡れている。飛べない。彼女は太陽が昇るのを待つ。翼が乾けば再び飛べる。


しかし彼女は気づく。自分が地上の弱者になっていることに。


影狩りはこれまで何千という獲物を殺してきた。彼女は空の支配者だった。誰も彼女を脅かさなかった。


しかし今、彼女は地を這っている。


水たまりの周囲には他の昆虫たちがいる。小型の甲虫、トンボの幼虫、カゲロウ。彼らは影狩りを見る。しかし恐れない。なぜなら彼女はもう飛べないから。


影狩りは理解する。「空の王者も、傷つけば地上の弱者と変わらない」


太陽が昇る。翼が乾く。影狩りは飛び立つ。傷ついた翼で何とか飛行を維持する。


しかし彼女は知っている。もう以前の自分には戻れない。飛行速度は20%低下した。狩りの成功率は確実に下がる。


影狩りは新しい戦略を考える。「より小さな獲物を、より慎重に狩る」それしかない。


彼女はヤスデ群を追うのをやめる。ヤスデ群の周囲には他のメガネウラが集まり始めている。豊かな狩場は競争を呼ぶ。傷ついた彼女にはもう戦う余裕はない。


影狩りは森の奥深くへ飛ぶ。競争相手のいない場所へ。


## 八、新しい狩場


数日後。影狩りは森の中央部で奇妙な構造物を発見した。クモの巣の都市だ。


それは巨大な三次元構造物だった。樹木間に張り巡らされた糸が何層にも重なっている。直径200メートル。高さ30メートル。


その糸には無数の小型昆虫が捕らわれている。


影狩りは都市の上空を旋回する。彼女は観察する。糸に捕らわれた昆虫たちはもがいている。しかし逃げられない。彼らは無防備だ。


影狩りは降下する。彼女は糸に止まる。糸は彼女の体重を支える。彼女は糸に捕らわれた小型の甲虫に近づく。甲虫はもがく。しかし糸に絡まっている。


影狩りの顎が甲虫を掴む。糸から引き剥がす。簡単だ。驚くほど簡単だ。


影狩りは理解する。「ここは完璧な狩場だ」飛行速度は必要ない。追跡も必要ない。ただ糸に捕らわれた獲物を摘むだけでいい。


しかしこの都市には住人がいる。数千匹のクモたちだ。


影狩りは都市の中層部で大型のクモと遭遇する。クモは体長10センチ。影狩りより遥かに小さい。しかしクモは恐れない。なぜならここは彼の都市だから。


クモは影狩りに近づく。威嚇する。脚を広げ、牙を見せる。


影狩りはクモを見る。彼女は評価する。「彼は小さい。殺せる」しかし都市の深部から振動が伝わってくる。警報だ。他のクモたちが集まり始めている。


影狩りは決断する。今は戦わない。彼女は上昇する。都市から離れる。


しかし彼女は記憶する。「あの都市には無数の獲物がいる」「いつかあそこを自分の狩場にする」


影狩りは森の上空を飛ぶ。傷ついた翼で。遅い速度で。しかし彼女はまだ生きている。


彼女は思う。「私は誰のためにも生きていない。誰も私のためには生きていない」「しかし私は生き延びる」「それだけがすべてだ」


夜。影狩りは樹木の枝で休息する。明日も彼女は狩りをする。傷ついた翼で。孤独に。しかしそれが彼女の人生だ。


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## 【第2話 完】


次回予告


第3話「銀糸の夢」


森の中央に奇跡が存在する。数千匹のクモが築いた三次元都市「銀の都」。その都市の中層で、若いクモ「銀糸」は日々、糸を紡いでいる。彼女が紡ぐ糸は月光を受けると銀色に輝く。


都市は完璧だ。しかし完璧なものは脆い。ある日、都市の長老が死ぬ。都市の中心部が崩壊し始める。


銀糸は決断する。「私が都市を守る」


しかし空から新たな脅威が迫っている。傷ついた狩猟者、影狩りが都市を新しい狩場として狙い始める。


→ 次話へ続く

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