石炭紀クロニクル ―巨大昆虫たちの黙示録―  3億年前、酸素35%の世界で彼らは何を見たのか

ソコニ

第1話鉄の背 ―集団の力―



【石炭紀 繁栄指数】

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酸素濃度: ████████████████ 35%

植物量: ████████████████ 95%

ヤスデ群: ████████████████ 800万個体

```


時代: 石炭紀前期 3億2000万年前

気温: 28℃

支配者: まだ人間ではない




## 一、夜明けの振動


夜明け前、森はまだ暗かった。


しかし森はすでに目覚めていた。それは音ではなく振動だった。地面が規則的に震え、木々の根が共鳴し、落ち葉が微かに跳ねる。小さな昆虫たちが巣穴から這い出し、逃げ始めた。


何かが来る。巨大な何かが。


体長2.6メートル。体重80キログラム。外殻は鉄のように硬く黒光りしている。数百本の脚が地面を掴み、波のように動く。


鉄の背。群れ「列#214」を率いる、巨大ヤスデだった。


彼の外殻は通常のヤスデより30%厚い。生まれつきの特性だ。厚い外殻は重いが、その分岩を砕き倒木を押しのけることができる。だから彼は常に群れの最前線を進む。道を作る者として。


彼の後ろには数万の同胞が続いていた。


列#214。個体数800万。体長1.8メートルから2.8メートル。総重量、推定50万トン。彼らは森を食べながら大陸を横断する移動都市だった。


鉄の背が一歩進むたびに、後続の個体たちも一歩進む。彼が分泌する化学信号、フェロモンを読み取り、その濃度と方向に従う。群れは一つの生命体のように動いた。


脳はない。しかし意志はある。


鉄の背は立ち止まった。前方に倒木がある。直径3メートルの巨大シダの幹だ。数日前に倒れたばかりで、まだ樹皮が湿っている。


鉄の背は頭部を倒木に押し付けた。外殻が軋む。脚が地面を掴み、全身の筋肉が収縮する。


倒木が動いた。ゆっくりと、しかし確実に横へずれていく。道が開く。


鉄の背は化学信号を放出した。「安全だ。進め」


群れが動き出す。数万の個体が次々と倒木の脇を通過していく。彼らは鉄の背の作った道を信頼している。彼らは何も考えない。ただ信号に従う。


それが群れの力だった。


太陽が昇る。森は光に包まれた。


巨大シダの葉が35%の酸素を含んだ空気を生産する。その空気は濃密で甘く、燃えやすい。わずかな火花で森全体が炎上するほどに。


しかし今、炎はない。あるのは生命だけだ。


鉄の背は進む。彼の下顎が地面を削り、腐植層を口に運ぶ。落ち葉、朽ちた木の破片、菌類の胞子、小さな昆虫の死骸。すべてが栄養だった。


彼の消化器官はこれらを分解し、栄養を抽出する。そして残りを糞として排出する。その糞は土壌を豊かにし、新しい植物を育てる。


鉄の背は知らない。彼が森を破壊しているのか、それとも再生しているのかを。おそらく両方だった。


## 二、楽園の発見


正午。群れはある場所で立ち止まった。


鉄の背が異変を感じたからだ。空気が濃い。彼には嗅覚も視覚もほとんどないが、気門、体の側面に並ぶ小さな呼吸孔が空気の変化を感知する。


酸素濃度が高い。通常より5%高い。それは巨大な体を持つ彼にとって麻薬のようなものだった。


鉄の背は信号を変えた。「探索モード」から「警戒モード」へ。群れ全体の動きが変わる。速度が落ち、間隔が広がる。周囲を警戒しながら慎重に進む。


そして鉄の背はそれを見つけた。


谷だった。深さ50メートル、幅200メートル。両側は急斜面で巨大シダの樹木が密生している。谷底は平坦で、落ち葉と倒木が堆積している。


その堆積層の厚さは10メートル以上。


鉄の背の人生、寿命は推定3年、でこれほどの腐植層を見たことはない。これは未踏の楽園だ。


なぜ他の群れがここを見つけなかったのか。理由は簡単だった。谷への入口が狭く倒木で塞がれていたからだ。鉄の背ほどの力がなければここには入れない。


鉄の背は化学信号を放出した。それは彼がこれまで放出した中で最も強烈なものだった。「歓喜」を意味する信号だ。


群れ全体がその信号に反応する。数万の個体が一斉に加速する。彼らは谷の入口に殺到し、次々と斜面を降りていく。地面が波打ち、小さな昆虫たちが逃げ惑う。トビムシ、ダニ、小型の甲虫。彼らはヤスデの群れに踏み潰されるか逃げるかの選択を迫られる。


ほとんどは逃げきれなかった。


群れは谷底に到着する。そして食べ始めた。


鉄の背は群れの中央に陣取る。彼は食べない。まだだ。彼の役割は「先導」だけではない。「守護」でもある。


彼は周囲を「感じる」。振動で、化学信号で、気圧の変化で。捕食者はいないか。危険はないか。


しばらく警戒した後、彼は安全だと判断した。彼も食べ始める。


腐植層は驚くほど豊かだった。表層には新しい落ち葉がある。柔らかく水分が多い。食べやすい。その下には半分分解された葉がある。菌類が繁殖し栄養価が高い。さらに下には完全に腐植化した黒い土がある。ここが最も栄養価が高い。


鉄の背は層を選びながら食べる。彼には味覚がある。化学受容体が栄養価を判定する。


彼は満足した。これは完璧な場所だった。


群れは昼も夜も食べ続けた。ヤスデは夜行性ではない。彼らは光の強さを感じることはできるが、昼夜のリズムには縛られない。食べ物があれば食べる。それだけだった。


1日目の夕方、群れの個体数はすでに1万を超えている。他の群れと合流したわけではない。後続部隊が次々と谷に到着しているのだ。


2日目の朝、個体数は5万。谷の東側半分がヤスデで埋め尽くされている。


2日目の夕方、個体数は10万。谷の全体が黒い波で覆われている。


3日目の朝、個体数は15万。もう地面が見えない。


鉄の背はある変化に気づいた。後続部隊の到着速度が落ちている。それは正常なことだ。群れは無限ではない。いずれ全個体が谷に到着する。そうしたら次の目的地へ移動すればいい。


しかしその夜、異変が起きる。


## 三、最初の死


3日目の夜。鉄の背は化学信号の異常を感知した。


後方、約500メートル離れた場所から信号が途絶えている。群れの個体は常に微弱な化学信号を放出している。「私はここにいる」という信号だ。その信号の密度で鉄の背は群れの分布を把握する。


しかし今、後方の一角から信号が消えている。


鉄の背は後方へ向かった。彼が移動すると周囲の個体たちも道を開ける。彼らはリーダーの移動を妨げない。


500メートル先。そこには動かない個体たちがいた。


数十匹。いや、数百匹。彼らは倒れているわけではない。ただ止まっている。脚は地面についたまま、頭部は前を向いている。まるで移動の途中で時間が止まったように。


鉄の背は最も近い個体に触れた。反応がない。彼は触角で個体の気門を調べる。


気門は開いたまま硬直している。


鉄の背には医学的知識はない。しかし本能で理解する。窒息死だ。


なぜ? 酸素は十分にあるはずだ。ここは楽園だ。酸素濃度は通常より高い。


鉄の背は周囲の空気を「嗅ぐ」。気門が空気を取り込み、酸素濃度を測定する。


35%。通常通りだ。


いや、待て。


鉄の背はさらに後方へ移動した。死んだ個体たちが最も集中している場所へ。そして気づく。


ここは谷の最深部だ。谷底の最も低い場所。そして風が吹いていない。


鉄の背は理解した。空気は流れなければ淀む。谷の深部は周囲を斜面に囲まれ、風が入ってこない。そしてヤスデたちが大量に呼吸し、酸素を消費している。植物は光合成で酸素を生産するが、夜は生産しない。


つまり夜間、谷の深部では酸素濃度が局所的に低下する。


鉄の背は再び空気を測定した。28%。通常の森林30%より低い。巨大なヤスデが生きるには30%以上が必要だ。28%はギリギリ足りない。


鉄の背は初めて不安を感じた。それは個体としての不安ではない。群れ全体の運命に対する原始的な予感だった。


大きすぎることが弱点になる日が来るのか?


彼にはその問いに答える知性はない。しかし本能は警告する。


鉄の背は谷の中央へ戻った。彼は化学信号を変更する。「後方部隊は深部に入るな。周縁部に留まれ」


群れ全体の動きが調整される。後続の個体たちは谷の入口付近に留まり、深部へは進まない。


死んだ個体たちはそのまま放置される。群れには死者を悼む習慣はない。ただ菌類がすぐにそれを覆い始める。白い菌糸が死骸を包み、分解を始める。数日で死骸は土に還る。


## 四、決断


4日目の朝。鉄の背は群れを集めた。


正確には集める必要はない。すでに15万個体が谷に集結している。彼は新しい化学信号を放出した。それは「会議」を意味する信号だ。


群れに会議はあるのか? ある。ヤスデには個体の知性はない。しかし集団としての意思決定システムはある。それは化学信号による「投票」だ。


鉄の背は二つの選択肢を信号として放出する。


**選択肢A: 留まる**

谷にはまだ何ヶ月分もの食料がある。ここで繁殖すれば個体数を2倍にできる。次世代を育て、群れを強化する。


**選択肢B: 進む**

酸素の薄い場所で繁殖すれば次世代は弱くなる。高地へ移動すれば酸素は安定する。しかし食料は少ない。多くの個体が餓死するだろう。


鉄の背はどちらも正しいと感じる。どちらも間違っていると感じる。だから群れに問う。


群れの個体たちは化学信号で「投票」する。選択肢Aを支持する個体は「A信号」を放出する。選択肢Bを支持する個体は「B信号」を放出する。


信号は空気中で拡散し、混ざり合う。鉄の背はその濃度を測定する。


数分後、結果が出た。B信号の濃度がわずかに高い。差は5%。ほぼ拮抗している。


しかし決定は下された。群れは前進を選ぶ。


鉄の背は新しい信号を放出した。「出発準備」


群れ全体が動き出す。個体たちは最後の食事を済ませ、排泄し、体を整える。


数時間後、群れは谷を出た。


鉄の背は谷の出口で立ち止まる。彼は後方を「振り返る」。視力はないが化学信号で感じる。


谷には数百の死骸が残されている。彼らは群れを守るために死んだわけではない。ただ運が悪かっただけだ。


しかし彼らの死は群れに教訓を与えた。「大きな体は大きな酸素を必要とする。酸素が足りなければ死ぬ」


鉄の背は前を向く。そして進む。


## 五、星空


夜。群れは高台に到着した。


ここは標高800メートル。風が強く空気が澄んでいる。酸素濃度は安定して35%だ。


食料は少ない。腐植層は薄く、1日で食べ尽くしてしまうだろう。しかし安全だ。


鉄の背は群れの最前列で休息する。彼の気門がゆっくりと空気を取り込む。体内の酸素レベルが回復していく。


彼は上を「見る」。視力はほとんどない。しかし明るさは感じる。


夜空は星で埋め尽くされている。3億年前の空は現代よりもはるかに暗く、星がよく見える。


鉄の背には星が何であるかは分からない。しかし彼は何かを感じる。それは思考ではない。本能だ。


この繁栄は永遠ではない。


彼はその意味を理解しない。しかし体が知っている。外殻の傷、脚の疲労、呼吸の苦しさ。すべてが彼に告げている。


大きすぎることが弱点になる日が来る。


鉄の背は化学信号を放出した。それは群れへの指令ではない。自分自身への記録だ。


「覚えておけ。酸素が足りなければ大きな体は死ぬ。小さくなれ。変化しろ」


その信号は彼の体液に溶け込み、生殖細胞に伝わる。やがて次世代に受け継がれる。


それが進化の始まりだった。


夜明け。群れは再び動き出す。


鉄の背は最前列を進む。彼の後ろには15万の同胞が続く。


彼らは大陸を横断する。食べ、排泄し、繁殖し、死ぬ。それが彼らの人生だ。


しかし歴史は彼らを覚えている。


3億年後、人類の科学者が彼らの化石を発見する。「信じられない、こんな巨大な節足動物が存在したなんて」


科学者は知らない。この巨大ヤスデがどれほどの決断を下したかを。どれほどの不安を抱えていたかを。


しかし土は覚えている。鉄の背が通った道に今も菌糸が生えている。彼の体を分解した菌類の子孫が今も生きている。


彼らはすべてを覚えている。


---


## 【第1話 完】


**次回予告**


第2話「影狩りの空」


空の頂点に立つ狩猟者、メガネウラ「影狩り」は翼幅70センチ、時速50キロで飛翔する。彼女は孤独だ。仲間を持たず、縄張りを持たず、ただ殺すだけだ。


しかし、ある日彼女は地上で鉄の背の群れを目撃する。そして理解する。「地上の巨人たちは、私のために狩場を作ってくれる」


しかし豊かさは競争を呼ぶ。空中戦が始まる。


→ 次話へ続く

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