桜の樹の下で
大谷丑松
桜の樹の下で
春の風が、満開の桜を静かに揺らしていた。
青空の下、淡い花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ちる。
その中に、陽の光を透かすように立つ女性の姿があった。
俺はファインダー越しに彼女を見つめていた。
白いワンピースの裾が、風にそよぐ。
淡いピンクの花びらが、彼女の髪にひとつ落ちて、すぐに消えた。
「――じゃあ、撮るよ」
俺の声に、陽菜(ひな)は静かに頷いた。
「うん」
――カシャ。
シャッターの音が、春の午後にやわらかく響いた。
一瞬の静寂。
俺はカメラを下ろし、液晶画面を覗き込む。
陽菜が少しだけ首をかしげながら問いかけた。
「――綺麗に撮れた?」
「もちろん」
俺は微笑み、カメラを陽菜の方へ差し出した。
「ほら、見て」
陽菜は画面を覗き込み、ふわりと笑った。
桜の花びらがまたひとつ、彼女の肩に舞い降りる。
その笑顔を、俺は見つめたまま動けなかった。
――笑っているのに、どこか寂しそうだった。
淡い光に溶けてしまいそうなほど儚く、やさしいその横顔。
それが、彼女――春沢陽菜(はるさわ ひな)という人だった。
俺はそっと息を呑んだ。
この瞬間を、永遠に閉じ込めたくて、もう一度カメラを構える。
けれど、シャッターを切る指先は、ほんのわずかに震えていた。
桜の木の下で、俺たち2人の影が寄り添う。
花びらが舞い降りる音だけが、静かに、時を刻んでいた。
*
陽菜との出会いは3月の終わりだった。
春の光が街を包んでいた。
歩道橋の上、淡い桜の花びらが風に舞っている。
その真ん中に、ひとりの女の子が立っていた。
白いワンピースの裾が陽を透かし、髪が風に揺れる。
どこかこの世のものではないような儚さを感じて……俺は思わず足を止めた。
カメラを構えようとして――ふと、迷った。
その背中には、言葉にできない影があったから。
代わりに、口から出たのは思いがけない言葉だった。
「……あの、写真を撮ってもいいですか?」
女性は小さく肩を揺らし、振り返った。
桜の花びらが頬に触れ、静かに落ちる。
少し驚いたように、それからかすかに笑った。
「ええ、どうぞ」
それが、俺たち2人の出会いだった。
俺は桜河(おうか)大学の写真部に所属していた。
いつもは風景ばかり撮っていたが、あの日から被写体は変わった。
春沢陽菜――あの歩道橋で出会った女性。
「なんだ、同じ大学なの? しかも同い年だったんだ」
「ええ、遥人(はると)くんは学部はどこ?」
「社会学部だよ、春沢さんは?」
「……文学部 哲学科
“陽菜”でいいよ」
「――じゃあ……陽菜
哲学科ってどんな勉強するの?」
そんなたわいもない話をしながら、俺は彼女に向かってカメラのシャッターを切り続けた。
彼女を撮るたびに、フィルムの中に不思議な静けさが宿った。
笑顔を向けても、どこか遠くを見ている。
光に包まれても、影が離れない。
「――陽菜、もしかして笑うのが苦手?」
撮影の合間に何気なく尋ねると、陽菜は少し困ったように微笑んだ。
「そうかもね
でも遥人くんのカメラだと、少しだけ自然に笑える気がするの」
その笑顔は春の光のように淡く、儚かった
次第に俺たち2人は、大学の帰りに撮影を重ねるようになった。
駅前の並木道、公園のベンチ、夕暮れの川沿い――
陽菜はいつも控えめで、どこか胸の奥に言えない痛みを抱えているようだった。
俺は、ただその存在を写真に閉じ込めることしかできなかった。
彼女の過去も、悲しみも知らないままに。
*
「陽菜、一番好きな場所ってある?」
ある日、桜が満開になる少し前、俺はふと思いついて尋ねた。
陽菜は少しだけ考えてから、答えた。
「……桜の咲く川があるの
小さいころ、家族で花見に行ってた場所」
その声には、懐かしさよりも痛みが混じっていた。
「じゃあ、次はそこに行こう
陽菜の“思い出”を撮りたい」
陽菜は驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに頷いた。
*
河川敷一面に桜が咲いていた。
淡い花びらが風に舞い、川面を流れていく。
「……綺麗」
陽菜が呟く。
その横顔を、俺はそっとファインダー越しに見つめた。
シャッターを切るたび、陽菜の表情は少しずつ変わっていく。
懐かしそうに、切なそうに――そして、泣きそうに。
「妹がね、桜が好きだったの」
その言葉に、俺の手が止まる。
「妹……?」
陽菜は風に揺れる花を見つめたまま、ぽつりと語り出した。
――2年前。妹は、自ら命を絶った。
それをきっかけに家族は壊れ、家の中には言葉がなくなった。
自分も、生きている意味を見失った。
「だから、あの日――歩道橋にいたの 終わらせようとしてたの
でも、あなたが声をかけてくれたから……」
陽菜は、涙を堪えながら微笑んだ。
「死ぬのが怖くなくなってしまったと思ってた
でも、少しだけ怖くなったの 生きたいって、思っちゃったのよ」
俺は何も言えず、ただカメラを構えた。
シャッター音が、春の空気の中に響く。
泣きながら笑う陽菜の姿が、桜の光に包まれていた。
*
それから数日後、陽菜は大学に姿を見せなくなった。
連絡もつかず、SNSも更新されない。
不安を抱えたままの日々が過ぎたある日、俺のもとに一通のメールが届いた。
>「あなたが撮ってくれた写真が好きです」
>「あの桜の下で私、ちゃんと笑えてたね」
短い文だった。
それが、彼女から届いた最後の言葉だった。
*
――翌年の春。
俺はひとり、あの河川敷に立っていた。
今年も桜は変わらず咲いている。
花びらが風に乗り、川へと流れていく。
その一枚一枚が、陽菜の笑顔のように見えた。
俺はカメラを構える。
ファインダーの中、光が満ちていく。
――カシャ。
シャッターを切る音が響いた瞬間、風が吹いた。
桜の花びらが頬を撫でる。
まるで、誰かがそっと触れたように。
「陽菜……また、撮らせてよ」
俺は小さく呟き、目を閉じた。
春の光の中で、花びらが静かに舞い続けていた。
桜の樹の下で 大谷丑松 @otani_ushimatsu
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