「釈根灌枝」大学寄稿文。太宰治評論。
いちごおばけ。
釈根灌枝
大学の発行する雑誌に私の文を寄稿する事になった。そうと決まってからは私はあんまりにも嬉しくなったので、小躍りしたり、映画を見に行ったりなんだか気の抜けた事をしていた。
締切の10日前になってやっとこさこの間抜けは事態の深刻さに気が附いて、世の中はやっぱり世知辛いなぁ、と寝る間も惜しんで、この寂しい筆で3つも草稿を書き上げたのである。どれも自分ではあんまり自信を持ってはいけないけれど、力作であると言うくらいには頑張ったつもりである。
けれども、掲載されるのは1つである。だれからも見られずに死んで行く文を見ていると、私は随分と哀しくなって、ちょっぴり泣いちゃった。だからこの白痴はここに掲載することを決めたのだ。文の、墓標である。これが事の顛末なのである。そうして、三島由紀夫、宮沢賢治、太宰治の内、今回は太宰治の好きな所というのを載せようと思う。大本命である。僕の初めて人に読まれた文である。随分と短い文字指定であったので、読んでくれると私は嬉しい。
「芸術とは、つまらない。」
私はそうキザついてみせることがある。或る人の真似のようなものである。ふとした時に名優らしい顔をして、誰から見られているわけも無く、口をへの字に曲げて言ってみるものである。誰かに見られたら噴飯ものである、きっと赤面して、いそいそと逃げ出してしまうであろう。
さる彼は我々にとって著名作家であると同時に、自分だけの、たった一人の友人とも迫る。彼の作品の箴言は、日々我々が感じる、現実に対する食傷と煩雑に対して、新鮮さと死の匂いを伴っている。千鳥足のようでされど一貫した諧謔と諦観の舞踏によって、徹底的な現実への諦めと歓びの美学を同時に喚起させるのだ。それ程徹底した強烈な死の匂いは、所謂享楽的な人間まで、彼をなぞろうと危うくさせるまでの力がある。そしてその死の美しさは同時に蝶よ花よと囃された芸術が実の所、そのへちまの様な生にこそあるとも読者へ気付かせるらしいのだ。
彼の魅力はその諧謔と卑屈さでは無いだろうか?彼の考え抜かれた稚拙とも純粋とも取れる登場人物の独白は、窮屈な人間生活の中の我々に、一種の欺瞞的な安心と余裕をもたらす。独特な句読点によるリズム付けられた読みやすさもひとつの要因であろう。語り尽くそうとも尽くせないが、とにもかくも彼の魅力は生や死等の究極的な事に対する、あっけらかんとした危ういユーモアとそれによって際立つ純粋な悲観と美学であろう。
そうして彼に充てられて陶酔した人間は、世間を引いて見て「詰まるところ、芸術とはへちまみたく、つまらない。」などときりっとした顔をして、顔を固めてよくも分からずとんちんかんな事を呟いてみてしまうのである。噴飯ものだ。ああ、恥ずかしい、堪忍を。コートを着て頬杖をついてみた。親に叱られた。そんな彼のおすすめ作品は「女生徒」と「晩年」ではないかしら。「晩年」は「私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。」と本人に言わしめたほど転換期のお作品である。
高踏ぶりのいやらしい自身を諌める為に、最後に彼の魅力が伝わるであろう名文を引いておしまいとさせていただきたい。
「僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているということだ。」
パンドラの匣/太宰治
「釈根灌枝」大学寄稿文。太宰治評論。 いちごおばけ。 @Nekoghost
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