魔法使いと一般人嫁

灰色セム

魔法使いと一般人嫁

『土曜日のお天気情報をお伝えします。本日は全国的に――』


 梁にひっかけて放送を垂れ流させていたラジオが、ふいに沈黙した。年代物のポンコツをむりやり動かしているので、そろそろ潮時かもしれない。遠い遠い昔、ラジオが発明された時代に作られ、ご先祖様から受け継がれてきた骨董品の剥げた塗装を撫で、収納魔法のかかった胸ポケットに仕舞う。

 いくつものはしごを昇り降りしているせいか、汗でほんのり湿っている手に、なにかベタついたものが触れる。


「うわっ、蜘蛛。こらやめろ頭の上を這うな。いてっ。髪をむしるんじゃない」


 人の新鮮な髪を何本かむしって爆速で凧を編み、風と共に去っていく蜘蛛は地球外惑星よりもたらされた新種だ。地球にいる蜘蛛と同様に益虫として分類されている。毒はない。 

 赤い髪を織り込んだ凧はあっという間にどこかへ行ってしまった。そう、毒はなくとも大切なものを盗っていくから害虫なのだと昆虫学者に訴えたい。


「僕の髪……」


 うん、まあ、それよりも今は梁だ。これまたラジオと同年代のポンコツときている。最新の修理魔法ですら見合う強度の部品製造に難儀しているし、もう梁は別の意味でスクラップにしたほうがいいよとご先祖様に進言する。どうせ化粧梁だし強度ばかり規格外でも困る。

 次に破損したら景気よく増改築リフォームをしよう。何度目かもわからない魔力注入を終える。魔法陣が鮮やかな緑色に輝き、軽快な修理完了音が鳴った。


「アイリス。なにか聞きたい曲はあるかい」


 返事はない。ページをめくる音だけが彼女の生存を確かなものにしていた。リビングへと降り、はしごを全て収納する。よほど集中して本を読んでいるらしいアイリスの細くしなやかな手がコーヒーカップへと伸ばされていった。

 肩口で切りそろえられた茶髪が彼女の動作に合わせて揺れる。ソファに座り読書にいそしむ。――美人はなにをしても絵になるものだ。


 穏やかな休日の朝も悪くない。魔法で身綺麗にしてから妻の隣へ腰をおろす。ゆっくりとした時間が流れるひとときに、ニ年前のことを思い出した。


 猫に探知魔法を使われてヒゲの動きまで把握されつくしてしまった小さなハツカネズミ。それがお見合いの席で出会った彼女の第一印象だった。

 自信なさげに身体を縮こませ俯いていた頃とはまるで違う、リラックスした姿を舐め回すように観察する。女性にしては自分と同じくらいの身長だというのに、今日はいつもに増して愛らしい。

 コーヒーカップを置いたときを見計らい、集中を乱さない程度に――そう、ほんの少しだけ――彼女の肩を引き寄せてみる。よし、嫌がられていない。次いで裏声で「にゃあ」と鳴けば吹き出したあと、肩が不規則に揺れた。咳払いをして顔を上げた彼女が僕を捉える。今日も美人だな。


「大きな猫さんね」

「そうとも。猫は好きだろう?」

「ええ。猫も好きよ。あの……」


 視線が外され所在なさげに彷徨ったあと、チラ見されて微笑まれる。彼女のほうが三歳も年上だとは思えないほどの可憐さに動機がしてくる。


 彼女の指輪が淡く輝き、本が収納されていく。読書を中断し、僕との触れ合いを選んだらしい。なにを話そうか話すまいか悩んだ挙げ句、彼女の体重へと着目した。出会ったころより肉付きも良くなったとはいえ、ひとつ息を吹きかければタンポポの綿毛よろしく青空へ旅立ってしまいそうな儚さは健在だ。

 見た目にこだわらない節操無しの犯罪者なら、腕力と違法な魔法を駆使して彼女を誘拐するという手も充分考えられる。それはいけない。


 パソコンを取り出し、強風や誘拐対策のプログラムをベースに何通りかの魔法を作っていると意識の外からバラのアロマオイルが香った。

 アイリスがアロマストーンに垂らしたらしい。野性味溢れる芳香が上品な甘さを幾重にも包み込んでいる。まさに花の化身といっても過言ではない彼女のためにある商品だ。自然界バンザイ。そうだ次の収納グッズは花のブローチにしようか。


「うん? なにを考えていたんだっけ」

「今度はどんな魔法を作ってるの?」

「ああ、ごめんね。君が飛んでいってしまいそうだったから」

「あら大変。ちゃんと掴まえててね」

「もちろん」


 アロマオイルに負けるとも劣らない、他ならぬ妻の体臭が鼻先をかすめる。もうどうしようもないくらい身体が熱くなった。プログラムを書いてる場合じゃないな。現時点で不要になったパソコンを手早く収納しておく。

 彼女の手首から手の甲そして手のひらを念入りに触って、このどうしようもなく高まった体温を放出させたかった。今の僕は熱暴走でフリーズしたという旧世紀のパソコンよりもポンコツだろう。あの日、彼女の赤みがかった紫の双眸に射止められたときから、僕の体温は下がることを知らない。


 ねっとりとした動きで手首から指の根本までを撫でられ、次いで指を緩く絡められる。顔が火照っていくのが嫌でもわかった。


「ふふふっ。顔が真っ赤よ。猫さんじゃなくてタコさんだったのかしら」

「君という太陽に微笑まれて舞い上がらない生き物がいるとでも?」


 空いている方の手で顎を持ち上げれば、さんざん教え込んだかいあってキス待ちの姿勢をとっている。腹の底から仄暗い感情が迫り上がってくる衝動に耐えきれそうにない。耐えられるかよ。


 欲望のまま魔法をふたつ予約する。そのままなにも感知していないであろう彼女に、彼女の口に、ついばむようなバードキスを落とした。角度を変え態勢を変えディープキスに移行するまで、そう時間はかからない。なにせふたりとも二十代だ。アイリスの両耳を包みながら頭を抱き寄せる。少しして背中に手が回された。


 アイリスの声が若干の艶を帯び始める。

 視界の端でカウントを進めていた予約魔法のうち、ひとつが発動し――彼女が身体を震わせる。

それはそうだろう。なにせ、僕の舌が三倍ほど長くなったのだから。普段は指でないと触れない、上顎の広い範囲をくすぐっていく。慣れない刺激に跳ねる舌をも巻き込んで楽しんでいると、抗議するように背中を叩かれた。

 一度舌の長さを戻し、口を離す。


「なに?」

「まだ朝よ」

「キスするだけさ」

「そうだけど」


 かなりマニアックなキスだったにせよ、それ自体は問題ないようだ。それにしても恥じらう声まで宝石のように美しい。一言たりとも、いや一片たりとも無駄にしたくない。最後のひと押しのために、ムスクの香水をつけるカスタム魔法を発動させる。


「アイリス。続き、しよう?」

「キスだけ?」

「キスだけ」

「それなら――」


 みなまで聞かずに口を塞いだ僕を、多少咎めるような視線が刺す。言質はとったし、同意も得た。なんら後ろめたく思うことはない。そんなことを気にしては副業とはいえ、フリーの魔法エンジニアは務まらないのだから。


 息遣いと触れ合い紡がれる音、そして地球人種の平均をぶっちぎる設定の長い舌に気を良くしたのか強く抱きしめられる。息継ぎの合間に漏れる声がしっとりしてきている。すごく情熱的なシチュエーションだけど、お楽しみはここからだ。

 タイマーがゼロになり、出現した虹色の蔦がアイリスの自由を奪う。余波で僕も巻き込まれているが、まあ問題ない。むしろご褒美ですらある。いま彼女が動かせるのは首から上と肘から先だけだ。


 混ざりあい滴る唾液に群がる蔦の感触をよほどお気に召したのか、アイリスのくぐもった声が高く跳ねる。

 自分で作っておいてなんだけど、プログラムに沿って動く魔法に負かされたようで悔しいな。上顎と肉の境目まで舌を伸ばし、柔らかな部分を愛でるターンへと突入する。撫でるだけというのも味気ない。

 舌先を丸めて突いてみれば、彼女の声に明らかな色が乗った。逃げ回るだけだった彼女の舌が遠慮がちに追い縋ってくる。背中に回された腕も追従するように搔き抱いてきた。耐えられずしがみついてきたと表現したほうがいいだろうか。


 どうやら彼女の秘められた、あるいは自覚していなかった性癖を開拓してしまったらしい。お互いの魔力がドロドロに入り混じって、さらに高まっていくのが魔力検知器を使わずとも分かった。


 僕と彼女の魔力を練り合わせたものを過剰に吸収したせいか視界があっという間に曇っていく。少し興奮しているらしい。異物としての魔力は細々とした生活魔法へ回すことにしよう。落ち着くために目を閉じれば、あふれる魔力に目が焼かれ極彩色の景色が広がった。


 一時的とはいえ視覚が役に立たなくなったことにより、煮詰まった蜜もかくやというほど粘度のある甘い声が耳を犯していく。彼女が蜜なら僕はさしずめ、もったいないくらいの幸せに溺れる蝿だろうか。

 つまり朝からマニアックな部類のキスをしまくっても、なにも不自然ではないのだ。幸せなので。


 結婚して二年、気分はいつでも婚約初日。

 魔法の分野でいくつか博士号を取り、大学教授として教壇に立つ本業。趣味の魔法開発と、それにともなう莫大な利益を得ている副業。

 収入に比例した納税の義務こそあるものの、社会人として夫として可能な限り責務は果たしている。つまり余暇は夫でもなく教授でもなく、ひとりの男として愛しい人とイチャイチャするのが自然というもの。


 そう、だから。


 弱々しい感触が首筋に触れた。

 目を開ければ、アイリスが瞳を潤ませて大粒の涙をこぼしている。慌てて二種類の魔法を解除すれば息も絶え絶えに抱きついてきて肩口にもたれかかってくる。その顔は見えない。


「フィルのバカ」

「あの、アイリスさん」

「さっきからずっと訴えてたのに」

「ごめんなさい」

「本当よ。おかげで、腰が抜けちゃった」

「うん、あの、調子に乗りすぎました」

「気持ち良すぎて、倒れるかと思ったわ」

「うん……。えっ?」

「怒ってると思ったの?」

「うん」

「呆れた。お見合いの席であんな大見得を切った人とは思えないわ」


 聞こえなかった。聞こえていなかった。どうやら途中から聴覚もイカレていたらしい。

 僕の胸元に指が這わされ、いくつかの文様を描く。軌道が淡く輝き、記録媒体が出現した。気怠そうにダブルタップされ、保存されているものが空中へ投影されていく。映し出されたのは正装している僕だった。微妙にブレているから録画されているものらしい。


『いつか君が老いていき僕を置いて逝くまで、うつむく暇なんてないほどに煌めいた日々をプレゼントし続ける!』


 そのあとは切り抜かれた僕の画像が山ほど続いて。


『君という太陽に微笑まれて舞い上がらない生き物がいるとでも?』


 最新の録画が再生されて、そこで唐突なミニシアターは終わった。文様が再度輝き、記録媒体が収納されていく。俺の胸元が執拗に捏ねられ文様が消えていった。収納魔法の仕様上、胸を捏ねる必要はまるでないんだが。あれか、甘えているんだろうか。


「本当はね。隠し撮りだから、内緒にしておこうと思ったんだけど」

「うん」

「言葉や態度に出すのは苦手なの。だから、その――――」


 聞き取れない言葉がもごもごと綴られていく。

 この二年、大きな勘違いをしていた。


「アイリス。君はとても可愛い人だったんだな」

「怒らないの?」

「写真なんて撮ってもらえなかったからね。嬉しいよ」

「……そう」


 ほんの少しの間と震えた声が当たり障りのない返事をする。喉元までせり上がってきた子供時代の暗く苦い記憶を、むりやりに飲み下す。過去現在未来において、彼女が僕の少年時代を知る理由は小指の爪先ほども存在していない。

 妻の背をゆっくりとさすっていく。


「あのね、フィル」

「うん?」

「今日もありがとう」

「こちらこそ」

「それとね、さっきの魔法だけど」


 一度言葉を区切り、アイリスが顔を上げる。


「毎日されると癖になっちゃうから、時々使ってほしいな」

「月に二回くらいはどうかな」

「マンネリ防止にちょうど良さそう」


 そう笑って、愛しい妻は今日一番の笑みを溢れさせた。

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魔法使いと一般人嫁 灰色セム @haiiro_semu

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