かげ

野田健一

かげ

 ある日、一限目の体育をサボった。


 なぜサボろうと思ったのかはあまりよく覚えていない。ただ、『グループのみんなで一緒になって何かを頑張ろう』みたいな授業が息苦しかった、くらいの理由だった気がする。


 通学時にいつも乗るバスをわざと数本見送ったあと乗った車内には、自分と同じ制服姿がほかに見当たらなかった。その景色を見て気分が少し高揚した。思い出してみるに、大人、学校、いやもっと大げさに言えば世界への──今思えばあまりにもちっぽけな──反抗をしているような気でいたのかもしれない。あの頃の気持ちなんて、もう定かではないが。


 下駄箱で靴を履き替えたときには、一限目の授業が始まる時刻をとっくに過ぎていた。


 クラスの端っこでひっそりとしているような生徒だったもので、意図的に授業をサボったのはこれが人生で初めてだった。こういうときどこにいればいいのかわからず、少し立ち止まった。教室で授業が終わるのを待っていればいいのだろうか。でも、授業が終わってクラスメイトがグラウンドから帰ってくるとき、明らかにサボっていた自分の姿を見られるのは気まずい。じゃあトイレの個室にでもこもってやり過ごして、大半のクラスメイトが教室へ入ったあと、気づかれないようこっそり紛れ込もうか。でもトイレは空調がなくて暑い。教室のほうがいくらかマシだろう。


 そんな風に考えを巡らせ、とりあえずしばらくは教室にいて一限目が終わるころにトイレへ移動し、またタイミングを見計らって教室へ戻ろう、というアイデアに落ち着いた。漠然とした後ろめたさから周りを少し気にしつつ、教室のドアを開けた。




 教室の中に一人の女子生徒がいることに気づいたのは、机の横に鞄をおろしたあとだった。てっきり自分一人だと思っていた空間にほかにも誰かがいたことを認識した瞬間、あやうく飛び出しそうになった叫び声をすんでのところで喉へ押し込んだ。


 自分の席から左へ3マス進んだところに彼女は座っていた。


 彼女のことは以前から少しだけ気にしていた。周囲から浮き出て見えていた、とでも言おうか。少なくとも、ほかのクラスメイトへ向けるのとは少し違う視線を向けていたことは確かだった。


 部活や委員会には入っておらず、欠席、遅刻、早退の頻度がやや高い。身長は中くらい。さらりとした黒髪を腰まで伸ばしており、前髪は眉のあたりで切り揃えている。声は小さく細く、透き通るように高い。そして、いつも不織布の白いマスクを着けている。その下を見たことはない。ときどき、手鏡などで前髪や睫毛を見てしきりにいじくっているのを見かけることがあったが、その様子からは何か、自分の容姿に関する強迫観念めいたものを感じたものだった。


 クラスの中には数人だが友人もいたようだし、クラスメイトから話しかけられればそれなりに愛想よく応じていたようだが、基本的にほかの生徒と楽しげにしているところはあまり目にしなかった。いや、表面上は楽しげに振る舞っていることもあるかもしれないが、それは猫を被っているのだと思われてならなかった。彼女はその愛想笑いの下に何かをひた隠しにしている。誰にも見せていない何かがある。根拠はないが、なんとなくそういう風に思っていた。話したことすら一度もない間柄だが、なぜだか自分は彼女のことを分かっている気でいた。思い込みもいいところだが、とにかく当時の自分はそういう眼差しを彼女へと向けていたのだった。



 彼女はこっちに一瞥をくれたが、特段気にした様子はなく、自分の机の上に視線を戻した。課題か何かを進めているらしく、かりかりとシャーペンを紙の上に走らせている。


 驚きと多少の興奮のせいで脈打っていた心臓も少し落ち着いてきた。鞄から教科書類を取り出して机の中に入れ、ひと息つく。しかし、彼女のように課題なんかを進められるような気分ではなかった。


 彼女と自分の二人しかいない教室。照明は消えていて薄暗い。窓から差し込む太陽の光に照らされて伸びている彼女の影は、机ふたつ分にまたがっている。水を打ったような静寂の中で、彼女がシャーペンを動かす音と、壁掛け時計の針の音だけが空気を震わせている。グラウンドの歓声や他のクラスで喋っている教師の声が遠くに聞こえる。


 まったくの偶然で生まれた特異な空間。その非日常に、イレギュラーに、心が浮ついた。課題なんていつでもできる。だが、この空間でしかできないことがあるとしたら、それはなんだろうか。


 話しかけてみようか。


 そんな考えが頭に浮かんだ。なんとなく、彼女なら自分のことを受け入れてくれるような気がした。自分が彼女のことを少し気にしているように、向こうも自分のことを、少なくとも周りのクラスメイトとは多少違った目で見てくれているのではないかと、そう思った。


 誰かいると思わなくてびっくりした。今日暑いね。それ何の課題。××さんも体育嫌なの。


 しかし、いざどんな言葉をかけようかと考えてみても、どこか上滑りしたつまらない言葉しか浮かばなかった。どれもピンと来ない。なにせ、彼女と話したことなど一度もないのだから、どのようにして声をかけていいものかまるで見当が付かないのだ。そんな風にして時間は刻々と過ぎていき、気づけば一限目の授業が終わるまで残り10分となっていた。


 夏の日差しはじりじりと教室に照りつけていた。教室には誰もいないことになっているため、空調は切られている。時間が経つにつれて体感温度は上がっていった。制服の下にじんわりと汗が湧き出てくるのを感じた。


 すると、彼女はシャーペンを動かす手を止め、制服の袖のボタンを外して腕まくりをした。彼女も暑さを感じていたらしい。マスクは着けたまま、ぱたぱたと手で顔を仰いでいる。


 その姿に何気なくちらりと目を向けたとき、息を吞んだ。


 露わになった彼女の白い左腕に、真一文字をぷっくりと膨らませたような痕が何本も連なっているのが見えた。それが何なのか、一瞬遅れて理解に至った。彼女はその心の内に何かを秘めている、というまったく無根拠な勘は、当たっていたようだった。


 その光景からすぐに目を逸らした。それ以上見てはいけない気がした。後ろめたさが胸に渦巻いた。それは引け目に変わっていった。


 なんだか居心地が悪くなり、席を立ってトイレの個室へ向かった。腰を下ろして長く息を吐き、なんとなく自分の腕を見つめてみた。右も左も、綺麗なものだった。

 気分が悪くなり、床に膝をついて便器を覗き込んだ。だが、喉の奥から何がせり上がってくるわけでもなかった。口の中に指を突っ込んでみても今朝の朝食は出てこなかった。ばからしくなって体を起こすと、目が涙で潤んできた。でも、流れてはこなかった。


 いつの間にか一限目の終わりを告げるチャイムが鳴っていたので、二限目が始まる前に教室へ戻った。彼女はさっきと同じように机へ向かっていた。袖のボタンは閉まっていた。その後は特に何も起こらず、いつもの日常と同じ、なんてことない一日が終わった。


 その翌週の同じ曜日の一限目、何かを期待して体育をサボってみたが、彼女は教室に来なかった。グラウンドにもいないようだった。だが、二限目になると彼女はどこからか姿を現した。


 その次の週の一限目も、また次の週の一限目も、そのまた次の週の一限目も、彼女が教室に来ることはなく、しかし二限目になるとどこからか現れるのだった。

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