解錠

瀬崎由美

第1話

 母が亡くなった。早くに離婚して、シングルマザーで私のことを育ててくれたけれど、あの人との思い出はほとんどないに等しい。仕事中心でいつも留守がちで、母親らしいことをしてもらった記憶なんてない。家のことのほとんどは祖母がやってくれていた。その祖母が亡くなったのと、私が短大を卒業したのはほぼ同じ時期で、私はすぐに実家を出て一人暮らしを始めた。

 結婚式や息子を出産した時なんかの節目節目にはさすがに顔を合わせてはいたけれど、あの人が何を考えて生きてるかなんて知ることはなかった。


 だから、遺品整理中にクローゼットの奥から出てきた金庫を前にして、私は茫然とするしかできずにいた。通帳や権利書関係の大切なものがこの中に入ってるのが分かっているのに、その解錠のための暗証番号四桁がさっぱり見当がつかないのだ。


「何かないの? お義母さんが暗証番号にしてそうな数字」

「……全然、思いつかない。誕生日もダメだったし、電話番号の下四桁もさっき試した」

「ほら、自分のじゃなくて、家族にまつわる数字とか。唯香の誕生日は?」

「それもさっきやった……っていうか、あの人が私に関連することを暗証番号にすると思う?」


 たった一人の娘だけれど、私に興味があったとは思えない。それでも一応は自分にまつわる思いつく限りの数字は試してみた。なんなら、別れた父の誕生日まで入力してみた。もちろん、金庫の鍵はぴくりとも動かなかった。結婚記念日とかの記念日系はそもそも話を聞いた記憶すらない。


「前に住んでた家の番地とか、他の書類から探してそれっぽい数字を当ててみたけどダメだったし……これ、バールか何かでこじ開けるしかないんじゃない?」

「えーっ、それやっちゃうともう使えなくなるよ、これ。結構高そうなのに……」


 小さいながらも重厚な金庫。これ自体を処分するのにいくらかかるかも分からない。中に何か金目のものが入ってるっていうのならいいけど、ほぼ空っぽだった場合は損しかない。それならせめて壊さずに開けて、リサイクルショップに引き取ってもらいたい。


 ネットで鍵開け業者を検索して、すぐに来てくれるという近所の会社を見つけた。夕方にその業者さんが来るまでの間、私は夫と二人で母の遺品整理を続ける。

 父と結婚していた時から母は小さな会社を経営していた。数人のスタッフを抱えてハウスクリーニングを請け負っていたみたいだったが、父と別れた後はその事業範囲をどんどん広げて、最近では飲食店を何店舗も営業するまでになっていた。

 従業員が増えれば増えるほど、母と私との距離は広がっていったように思う。


「従業員の家族の生活がかかってるから」


 そう言って、休みなんてほとんど取らず、ほぼ毎日事務所へと顔を出していた。そんな生活を何十年も続けていたのだから、母が身体を悪くして入院したと聞いた時は、「やっぱりか」と思った。と同時に、「ようやくゆっくり休んでくれる」と安心した。

 でも、入院中の母を訪ねた時、病室内でノートパソコンを開いてベッドの上で仕事をしている母の姿を見て、完全に諦めることにした。この人から仕事を取り上げることなんて誰にもできないのだと。


 夕方、約束の時間より十五分ほど早く、鍵開けの業者さんが到着した。私達があんなにいろいろ試してもダメだった金庫を一瞥した後、作業服姿の男性は仕事道具の入っている鞄を開きながらあっさりと言った。


「このタイプなら、十分も要らないですね」


 聴診器を耳に当てながら、確かめるように金庫の鍵をゆっくりと順に回していく。設定された数字に合わさるのを音で判断しているらしい。

 私と夫はその作業を邪魔しないよう、息を潜めながら後ろから見守っていた。


 カチッ


 四桁目の数字が合った時、小さな音が私達のところにも届いた。「開きました」とちょっと得意げな表情を浮かべながら振り返った業者さんが、私に確認するよう促してくる。扉を開けるまではしてくれないらしい。

 私は夫に背を押されて、恐る恐ると金庫へと近付いて手を伸ばした。高さ三十センチほどの小型の金庫。どんなに力尽くで引っ張っても動かなかった扉は、今度は呆気ないほど簡単に開く。


 金庫の中は外観よりもずっと狭い。防火仕様の分厚い壁に囲まれるようにして、書類の束が重なってしまい込まれていた。多分、家の権利書とか、会社の重要な書類とかそういったものがほとんどだろうか。あとで顧問弁護士さんに渡さなければと思いつつ、私は中に入っていたものをまとめて取り出す。そして、合わせてもらった番号を扉についた鍵で確認する。


『2941』


 その数字を見て、私は呆れた溜め息しか出なかった。とてもあの母らしいとしか言えない数字だった。

 業者さんに料金を払って玄関まで見送ってくれていた夫が戻って来て、不思議そうに聞いてくる。


「で、何の数字だったの、これ?」

「お母さんの会社が経営してる焼き肉屋さんの電話番号」

「あー、肉良い、ってことかぁー。でも、普通それなら4129で良い肉じゃないの?」

「知らない。そっちは他で使われてて取れなかったとかで前後を逆にしたんじゃない?」


 母が事業拡大で飲食業に参入した時、最初に出した店が焼肉屋さんだ。だから一番思い入れがあったから暗証番号に設定したのかもしれない。なんにせよ、仕事第一のあの人らしい。


 私は出て来た書類を弁護士に渡す分と、自分で保管しておく分に振り分けていく。宝石といった金目の物は一切なく、本当に書類ばかりが入っていただけだった。別にそういったものをアテにしていたわけじゃないけれど……


 と、通帳類と一緒に束ねられている中に一冊の冊子が紛れ込んでいることに気付く。手の平サイズの小さなそれは、表紙に古臭いイラストが描かれた母子手帳。


「それって唯香の?」


 横から覗き込んできた夫が聞いてくる。表紙には父母と私の名前が並んで記載され、一頁目を開いてみると、私の名前が記載された出生届の控えが貼り付けられていた。間違いない、私の母子手帳だ。


「自分の母子手帳って、初めて見た」

「すごいね。お義母さん、残してくれてたんだ」

「ま、簡単に捨てられるものじゃないからね……」


 母に限らず、どの家庭でも保管し続けていることの方が多いだろう。私だって息子の母子手帳はずっと取っておくだろうし。

 そう思いながら、初めて手にした自分の母子手帳をパラパラと捲っていく。妊娠中や産後の状態、予防接種を受けた日付など、医療機関などが書いたと思われる記録は記されていたが、その手帳の中に母の文字はほとんどなかった。月齢ごとの様子など、メモ書きするスペースはあったけれど、ほぼ空欄なままだ。


 私はその事実に、とてつもない空虚感を覚えてしまった。母は生まれたばかりの私に対しても、ほとんど興味を持ってくれてはいなかったのだと。だって、私は息子の母子手帳にはたくさんの成長の記録をメモ書きして残していたから。この必要最低限しか記載されていない母子手帳には、母の本音が溢れているように感じてしまった。


 パタンと閉じて、他の書類の束の上に置いた母子手帳を、夫が興味津々という顔をしながら手に取る。何も書いていない手帳なんて面白くも何ともないのに、と思いながら私は空になった金庫をぼーっと見つめる。


 ——たいしたこと書いてないんだから、母子手帳なんて捨ててくれたら良かったのに……


 金庫にしまってあるから、大事にしていた物なんだって勘違いしてしまうじゃないか。処分してくれていたら、私はあんな真っ白な母子手帳を見なくて済んだのに……

 苦々しい思いをしている私の隣では、夫がニヤニヤしながら母子手帳を眺めている。その夫が、「あ!」と短い声を上げて、私へ手帳の最初の方のページを見せてきた。


「金庫の暗証番号が何の数字か分かったよ! ほら、これ!」


 ちょっと興奮気味に言いながら、夫が母子手帳に記された私の出生体重を指さした。——2941g。


「え、店の電話番号じゃなかったの……っていうか、電話番号もわざわざ私の出生体重に合わせたってこと⁉」

「へー、お義母さん、やるね! 唯香の生まれた時の体重、ずっと覚えてたってことだね」


 私も我が子の出生体重は覚えているけれど、そこまで自信を持って答えられるわけじゃない。入園や入学時に保険関係のいろんな書類で書かされたことがあったから、何となく頭から離れないだけだ。

 でも、母にとっては大事なものを保管する金庫の暗証番号にするくらい、絶対に忘れない数字だったのだ。しかも、経営する店の電話番号にまで使おうと思うくらい、大切にしてくれていた。


 私は夫から返してもらったばかりの母子手帳を、両手で大事に抱えた。母親に愛されていたことに気付くのに、こんなにも長い時間がかかるとは思ってもみなかった。母は私が生まれた瞬間のことを大事に思っていてくれた。今日は初めてそれを知ることができた。

 母との間にあった小さなわだかまりが、じんわりと解けていくのを感じた。

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解錠 瀬崎由美 @pigugu

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