透明な鯨
涼波くじら
透明な鯨
透明な鯨の絵を描いた。
返し忘れた三原色と、毛先がパサついた大きめの筆と、新品の細筆で描いた。
泡となって海に溶けてしまう鯨の絵だ。
水彩絵具よりも透き通る日々があった。
挨拶に心は弾むし相槌はお手の物。
月曜から金曜をスキップと口笛で乗り越え、土曜は散歩、日曜は何もしないをするのだ。
小さな波が立って涙となっても、また同じ坂をのぼり、気怠い教室でミミズのような文字を書く。
「ねむい」と「つかれた」を挨拶代わりに、通り過ぎる先生を茶化してみたり。
何度も課題を忘れた。
あれもこれもどれも間に合わない。
とりあえず後回しにした美術の課題。環境保全がテーマのポスターだった。
ナマケモノみたいな先生の美術はお気楽で、お菓子も食べたしスマホもいじった。
ポスターだって適当に好きなようにやればいい。
好きに描けばいいのだと思ったら気が抜けた。
小学一年生の時にくじらぐもを見たのだ。
国語の教科書に載っていた、あの『くじらぐも』だ。
本当に見たのだ。
ランドセルを背負って、喧嘩中のあの子と眺めた。
サンタクロースの雲も見たのだ。
ただの水蒸気だなんて信じてやらない。雲の上にはブランコだってケーキ屋だって王国だってあるはずだ。
好きな景色がある。
散歩仲間と寝そべった小さな丘から見上げた空。
あれは夕方だった。夕方に朝日を浴びているのだと思った。
「きれいだぁ」
私たちの語彙はそれだけ。
田舎町の湖の畔で、どこまでも続く雲と夕焼けを見逃したくなくて、瞬きを忘れたら瞼が傷んで、冷たくなってきた風に肩を揺らして。
「きれいだぁ」
この景色を飲み込んだら消化してしまうような気がした。
拙い語彙くらいがちょうどよかったのだ。
綺麗なものは綺麗だと、好きなものは好きだと。
ただそれだけでよかったのだ。
私の日々は単調で少しだけ不健康だった。
日付を跨ぐまでブルーライトを浴びていたし、日付を跨いでも眠っていた。
それでも電車の車窓から景色を見ていたし、長い坂道を楽しめるようにプレイリストを作っていた。
挨拶にも相槌にも慣れて、何かの歯車がカチリとはまって流れ出した。
透明な鯨が生まれたのは、そんな時のことだ。
「自分の嫌いなとこ、ないでしょう?」
テスト終わりの帰り道に聞かれた。
小さな棘が主張する感情を追いやって、私は頷いた。
「ないよ!」
大嘘つき。
実力を過信する女の子という生き物において、醜さを非難することは悪ではなく娯楽だ。
中途半端な二重も、小さな黒目も、低い鼻も、黄ばんだ歯も、濃い体毛も、太い足も、黒すぎる髪も、優越に浸れるコンテンツなのだ。
過ぎたはずの記憶なのに彩度は下がらない。
俯いてばかりで猫背が治らない。
「心はどこにあると思う?」
女の子という生き物は極端だ。
醜さに惹かれる子もいて、美しさを求める子もいる。
あの子は、私の憧れの子だった。
心だけが繋がるインターネットで、小さな海の中で出会った子。
お砂糖と埃が主食の女の子だった。
金平糖のような『好き』を頬張る子だ。
心の在り処について、なぜだか私に尋ねてくれた。
私は困った。
私の感性はそこまで素敵なものではないから。
それでも考えた。
ふと浮かんだのは、目に見えない静電気のようなもの。
ピリリとして痛んだり浮かせたり、それでなんだろう。
それは、ただセンスが良いと思われたいだけの言葉だった。
本当に心がそんなものだと思うのか。
私は困った。
私は、綺麗な答えを導けないと思った。
私は答えた。
きっと脳みそにあるただの臓器なんだよ。
全身に響くのは自律神経が乱れるからなんだよ。
でも臓器の癖に主張が強すぎて嫌だ。
こんなもの、ただの臓器だなんて呼びたくないな。
だから、自分を構成する全てのものに心があるんだと思うんだ。
心臓も脳も肺も喉仏も爪も涙も血液も皮膚も髪も、全部まとめて心って言うんじゃないかな。
綿埃のような彼女は、こう答えた。
「心って自分という分子と、それとは異なる分子の間の空間接触が起きた時の間にある掴めない空気みたいなものという認識だったんだけれど――」
彼女は「やっぱりあなたの思考がすきだな」と私に伝えて返信を終えた。
日陰で咲く白い花のように、ずっと咲き誇っている女の子。
私が憧れたのは、『好き』を丹精込めて型に流し込み、小さな星型に砂糖をまぶして、満足そうに微笑む彼女だったのだ。
どんなに醜い言葉に触れても、私の近くには煌めきがいた。
透明な鯨を好きなように描いてみた。
透明な鯨は、どこかの偉い人に気に入られてクリアファイルになった。
透明な鯨は額縁に飾られた。
そんな絵を見て彼は言った。
「絵を描いててほしいよ」
私の『好き』は雫のように、波打ち際の泡のように、小さくて透明だったらしい。
透明な鯨 涼波くじら @soso220011113
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