第13話 そして、夕食の献立を

潮の香りを運んでくる風が、庭先に干された真っ白なシーツを、穏やかに揺らしている。縁側の古い木材は、長年浴び続けた陽光を吸い込んで、飴色に深く艶めいていた。カタン、と鹿威しが澄んだ音を立て、静寂に柔らかな句読点を打つ。


ここは、都会の喧騒から遠く離れた、海辺の小さな町。

その町の、古いけれど手入れの行き届いた平屋で、桐島美玖(56)は、縁側に座って古書のページを繰っていた。緩やかに結い上げた髪には、銀色の糸が上品に混じり、目尻には、笑い皺が優しい年輪のように刻まれている。かつて『氷の姫』と呼ばれた鋭利な美しさは、歳月を経て、満月のような穏やかで深みのある光へと変わっていた。


「みくー、見て見て! 今年も、レモンがこんなに採れたよ!」


家の裏手にある小さな家庭菜園から、泥のついたエプロンを掛けた早乙女梨乃(55)が、籠いっぱいの不格好なレモンを抱えて、少女のようにはしゃぎながら現れた。日に焼けたその笑顔は、50年以上もの間、少しも変わらず美玖の心を照らし続ける、太陽そのものだった。


「まあ、すごいわ。今年は豊作ね、梨乃さん」

「でしょー? 今夜は、このレモンを使って、鶏肉のハーブ焼きにしない?」

「いいわね。ローズマリーも、ちょうどいい頃合いかしら」


そんな、ありふれた会話。

アイドルを卒業した後、美玖は小説家になり、梨乃は長年の夢だった小さな園芸店を開いた。派手な暮らしではない。けれど、季節の移ろいを肌で感じ、自分たちの手で育てたものを食べ、そして、毎晩同じベッドで眠りにつく。それ以上に望むものは、何もなかった。


梨乃が台所へと消えていった後、美玖は読んでいた本を閉じ、書斎の整理でもしようかと、ゆっくりと腰を上げた。本棚の奥、もう何年も触れていない段ボール箱が目に入る。埃をかぶったその箱には、『思い出』と、梨乃の丸い字で書かれていた。

何気ない気持ちで、蓋を開ける。

中には、ファンレターの束、使い古したレッスンシューズ、そして、一冊の豪華な写真集。それは、私たちのアイドル人生の全てを詰め込んだ、卒業記念の写真集だった。


そっと手に取り、表紙を撫でる。そこに写っているのは、20代の、若さと野心でギラギラと輝いていた、自分と梨乃の姿。ページをめくると、懐かしい光景が次々と蘇る。デビュー当時の硬い笑顔。初めてのライブで、感極まって泣きじゃくる梨乃。そして――東京ドームのステージで、誓いのキスを交わす、二人のシルエット。


「…ふふ、馬鹿みたいね、私たち」


必死だった。不器用だった。そして、盲目だった。

自分たちの恋が、世界から拒絶されると信じ込み、小さな秘密の城に閉じこもっていた、あの頃。


「なにしてるの、みく?」


不意に、背後から梨乃の声がした。振り返ると、エプロンを外した梨乃が、少し不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいる。


「あら、懐かしいものが出てきたわ」

「うわっ! 何それ、恥ずかしい! そんなもの、まだ取ってあったの?」


梨乃は顔を赤らめながら、美玖の隣にちょこんと座り込んだ。写真集を、二人で一緒に覗き込む。


「見て、この衣装。今見ると、すごいデザインね」

「この頃の私、痩せすぎじゃない? ちゃんと食べてたのかしら」

「あ、この写真好きだったな。みくが、私の寝顔、こっそり撮ったやつ」

「あなたが、あまりにも無防備に眠っているからよ」


それは、遠い昔の映画を観るような、穏やかな時間だった。嫉妬も、後悔も、未練もない。ただ、愛おしい追憶。あの熱狂の日々が、確かに今の、この穏やかな幸福へと繋がっているという、確かな実感だけがあった。


「…ねぇ、梨乃」

「ん?」

「幸せ?」


あまりにも、シンプルすぎる問い。

梨乃は、きょとんとした顔で美玖を見ると、次の瞬間、心底おかしそうに、くすくすと笑い出した。


「もう、みくったら。そんなの、35年前にとっくに答えは出てるでしょ」


そう言って、梨乃は、美玖の皺の増えた手の甲に、自分の手を、そっと重ねた。あの頃と変わらない、温かい手。


「私は、みくが隣にいて、毎日『今日の晩ご飯、何にする?』って相談できる、今が、人生で一番幸せだよ」


その言葉は、どんな愛の囁きよりも、美玖の心を深く満たした。

そうだ。これなのだ。

私たちが、命懸けで手に入れたかったものは、これなのだ。

美玖は、静かに写真集を閉じた。

私たちの物語は、この光沢のある紙の中に完結しているのではない。

それは、今も、この縁側で、台所で、庭先で、ずっと、ずっと、続いている。


「…そうね。鶏肉、そろそろ解凍しないと」

「あ、本当だ! レモン、絞らなきゃ!」


二人は、どちらからともなく立ち上がり、並んで台所へと向かう。

夕暮れの光が、二つの影を、畳の上に長く、優しく映し出していた。

それは、もう決して離れることのない、一つに結ばれた影だった。


(本当の、了)

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