第12話 私たちの、始まりのチャイム
5年前、東京ドームの空気を震わせたあのキスは、単なる伝説では終わらなかった。それは、一つの時代の幕開けを告げる、革命の号砲だった。
桐島美玖と早乙女梨乃は、アイドルという枠を遥かに超えた、文化の象徴になった。二人の愛は「尊厳」と呼ばれ、その生き方は多くの人々に勇気を与えた。
彼女たちは、ただ歌い踊るだけの人形ではない。自らの意志で愛を選び、世界にそれを認めさせた強く美しい人間として、人々の記憶に刻み込まれた。
そして、5年という歳月が流れた。
二人が、26歳と25歳になった、秋の日の夕暮れ。
その場所は、再び、あの東京ドームだった。
今日、この場所で、二人はアイドルとしての物語に、自らの手で幕を下ろす。
楽屋の空気は、不思議なほど、静かだった。
壁の向こう側から、5年前と同じ、あるいはそれ以上の熱量を伴った地鳴りが響いてくる。しかし、鏡の前に座る美玖の心は、穏やかな夕凪の海のように澄み切っていた。
鏡に映る自分は、5年前よりも少しだけ、大人びて見えた。シャープだった輪郭は少し柔らかさを帯び、自信と、そして愛される幸福が、その表情に深い奥行きを与えている。
「…綺麗だよ、みく」
背後から、そっと抱きしめられる。鏡越しに、梨乃の優しい笑顔が見えた。彼女もまた、無邪気な『天使』から、芯の強さを秘めた美しい女性へと成長していた。変わらないのは、私を見つめる、その瞳に宿る愛の色だけ。
「あなたこそ。今日の梨乃は、世界で一番綺麗だわ」
「えへへ。みくに見せるためだけに、綺麗にしてきたからね」
私たちは、もうテーブルの下でこっそり手を繋いだりはしない。梨乃は、美玖の肩に顎を乗せると、鏡に映る自分たちの左手薬指を、満足げに眺めた。そこには、5年前にスキャンダル(?)を巻き起こしたシンプルなプラチナリングと、そして、その隣で寄り添うように輝く、もう一つの指輪があった。一年前、海外の小さな教会で、ごく親しい友人たちだけに見守られて交換した、誓いの証。
「……ねぇ、覚えてる? 初めてドームに立った日のこと」
「忘れるわけないでしょう。あなたがステージのど真ん中で、とんでもないことをしでかした日ですもの」
「ひどい。あれは、愛の告白だったのに」
「ええ、知ってるわ。世界で一番、素敵な告白だった」
私たちは、くすくすと笑い合った。あの頃の恐怖も、不安も、今となっては全てが愛おしい思い出だ。私たちが必死に守ろうとしていた「秘密」は、世界に解き放たれたことで、もっと強固で、もっと美しい「絆」へと昇華したのだから。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「二人とも、そろそろ時間よ」
入ってきたのは、マネージャーの佐々木さんだった。彼女は、この5年間で、すっかり貫禄のある敏腕プロデューサーの顔つきになった。ただ一つ変わったことと言えば、常備していた胃薬が、今はただのビタミン剤に変わっていることくらいか。
「佐々木さん」
「なぁに?」
「…今まで、本当に、ありがとうございました」
私と梨乃は、椅子から立ち上がり、彼女に向かって、深く、深く頭を下げた。
私たちの無茶苦茶な恋を、一番近くで、一番ハラハラしながら、それでも、誰よりも強く信じて支え続けてくれた、最大の恩人。
佐々木さんは、一瞬だけ、泣きそうな顔で唇を噛み締めたが、すぐにプロフェッショナルな笑顔に戻った。
「やめなさい、しんみりするのは。最後のステージでしょ? 最高の笑顔で、ファンに感謝を伝えておいで」
「「はい!」」
「…そして、あなたたちの新しい人生を、胸を張って歩き始めなさい」
その言葉は、まるで母親が娘を送り出すような、温かさに満ちていた。
最後のステージ。
私たちは、アンコールの最後の曲として、一曲だけ、二人きりでステージに立った。それは、私たちがデビューする前に、二人だけでこっそりと作った、未発表の曲だった。
梨乃がアコースティックギターを爪弾き、私が、その隣で歌い出す。
それは、特別な愛の歌ではなかった。
うまくいかないこと、不安な夜、それでも隣にいてくれた君がいたから、また朝日を迎えられた、という、不器用で、ありふれた感謝を綴った歌。
私たちの10年間の、全てがそこにあった。
歌いながら、客席を見渡す。
五万五千の光の海は、5年前と変わらず、そこにあった。泣きながら、それでも笑顔で、私たちを見守ってくれているファンたちの顔、顔、顔。
ああ、私たちは、本当に、愛されていた。
曲が、終わる。
万雷の拍手。ありがとう、という声にならない声の波。
私たちは、マイクを通さず、二人で手を取り合い、ステージの中央へと進み出た。そして、顔を見合わせ、頷き合う。
「「ありがとうございました!」」
最後の挨拶。
私たちは、アイドル、桐島美玖と早乙女梨乃として、このステージに、全てを置いていく。
鳴り止まない拍手の中、私たちは、ゆっくりとステージを降りた。
もう、振り返らない。
私たちの物語は、ここでは終わらない。ここから、始まるのだから。
***
誰もいなくなった東京ドームの、巨大な駐車場。
一台の、ごく普通の乗用車に、私たちは乗り込んだ。きらびやかな衣装ではない。Tシャツとジーンズという、ありふれた格好で。
エンジンをかけると、車は静かに、夢の跡地を滑り出した。
バックミラーに、巨大なドームが、どんどん小さくなっていくのが見える。
「……終わったね」
「……ええ、終わったわね」
隣でハンドルを握る梨乃の横顔を、街灯の光が優しく照らしている。
「これから、どうする?」
「そうねぇ…」
私は、窓の外を流れる、見慣れた東京の夜景を眺めながら、ゆっくりと答えた。
「まずは、明日の朝、二人でゆっくり、スーパーに買い物にでも行こうかしら」
「いいね、それ! 特売の卵、ゲットしなきゃ!」
「ふふ。それから、小さなベランダでいいから、ハーブでも育ててみたいわ」
「じゃあ、私がプランター買ってくる!」
「夜は、あなたのお気に入りの映画を、ポップコーンでも食べながら、のんびり観るのもいいわね」
「最高! 私、キャラメル味がいいな!」
それは、アイドル、桐島美玖と早乙女梨乃には、決して叶えることのできなかった、ささやかで、ありふれた、けれど、私たちにとっては、世界で一番贅沢な夢のリスト。
車が赤信号で止まる。
梨乃は、ふと、私の方を向くと、悪戯っぽく笑った。
「ねぇ、美玖」
「なぁに?」
「ただいま」
「…ええ」
私も、満面の笑みで、返す。
「おかえりなさい、梨乃」
信号が、青に変わる。
私たちの車は、未来へと向かって、走り出した。
もう、スポットライトは当たらない。
けれど、私たちの人生は、きっと、これまで以上に、光に満ちている。
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