第3話 仕組まれたお泊まり温泉ロケ
その企画書がテーブルに置かれた瞬間、桐島美玖の背筋を氷のように冷たい予感が走り抜けた。純白の紙の上で、丸みを帯びた可愛らしいフォントが、無邪気な残酷さをもって踊っている。
『大人気アイドル!みくりの仲良し♡もふもふ温泉お泊まり旅!』
「…これは、何ですの?」
かろうじて『氷の姫』の仮面を貼り付けたまま、美玖は尋ねた。声が震えなかったのは、長年培ってきたプロ意識の賜物だ。
隣では、梨乃が「わー! 温泉! 温泉だって、みく先輩!」と、子犬のように目を輝かせている。その無邪気さが、今は美玖の神経を針で刺すように苛んだ。
マネージャーの佐々木恵は、こめかみを指で押さえながら、事務的な口調で説明を始めた。
「人気バラエティ番組の特番よ。最近の二人の人気、特にコンビとしての注目度が非常に高いから、ぜひメイン企画で、と。向こうのプロデューサーがえらく乗り気でね」
「乗り気、ですか…」
「ええ。『二人の“素”の魅力を、ファンは見たがっているんです!』って、電話口で三回は言われたわ」
“素”の魅力。その言葉の裏に隠された意図を察し、美玖は眩暈がした。それは暗に、私たちの「営業」をもっと見せろ、と言っているのだ。いや、もしかしたらそれ以上の――。
「最高じゃない! ねぇ、佐々木さん、これ受けましょう! 絶対受けましょうよ!」
梨乃が身を乗り出して佐々木に詰め寄る。その瞳には、温泉旅行への純粋な期待と、そしてもう一つ、美玖にしかわからない、悪戯っぽい光が宿っていた。
――お泊まり。二人きり。
その単語が持つ甘美な響きに、梨乃の思考が支配されていることは明白だった。
「…まあ、事務所としても断る理由はないわ。大型特番のメインだもの。光栄なことよ」
佐々木はそう言って企画を決定づけたが、その目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。
美玖にはわかる。これは、ただの仕事ではない。佐々木にとっても、そして私たち二人にとっても、これは戦場なのだ。
私たちの『秘密』を、テレビという巨大な顕微鏡の下で守り抜くための、過酷な戦いが始まろうとしていた。
その隣で、梨乃が「やったー!」と小さくガッツポーズをしている。これから始まる戦いの意味も知らずに、ただ愛しい恋人との「お泊まり」が仕事にかこつけて実現することだけを、無邪気に喜んでいる。その圧倒的な能天気さに、美玖はもはや諦観に近い感情を抱くしかなかった。
***
ロケバスの窓の外を、緑豊かな山々の景色が流れていく。渓流のせせらぎが、車内にまで微かに聞こえてくるようだった。目的地である温泉旅館は、都会の喧騒から完全に隔離された、まさに秘境と呼ぶにふさわしい場所にあるらしかった。
美玖は、隣に座る梨乃の体温を感じながら、固く目を閉じていた。バスには同乗しているスタッフたちの、和やかな談笑が満ちている。その全てが、まるで自分たちの関係を探るための盗聴器のように感じられて、少しも気が休まらなかった。
不意に、膝の上に置いた美玖の左手に、柔らかな感触が触れた。梨乃の右手が、スタッフの死角になるよう、巧みにブランケットの下で美玖の手を探り当てたのだ。指がするりと絡め取られ、ぎゅっと強く握られる。
「…っ!」
美玖は息を呑み、反射的に梨乃の顔を見た。梨乃は窓の外に広がる景色を眺めているふりをしながら、その唇の端に、楽しげな笑みを浮かべていた。ブランケットの下では、捕らえた美玖の指を一本ずつ確かめるように、自身の指を這わせている。その挑発的で、あまりにも大胆な愛撫に、美玖の顔から血の気が引いていく。
「…やめなさい、梨乃…」
「んー? 何か言った、みく先輩?」
「……なんでも、ありません」
わざとらしく、大きな声で梨乃が聞き返す。美玖は観念して、再び目を閉じた。心臓は破裂しそうなほど高鳴り、繋がれた手から伝わる梨乃の体温が、全身の血を沸騰させていくようだった。この甘い地獄は、まだ始まったばかりなのだ。
旅館に到着すると、そこは古き良き日本の情緒を凝縮したような、素晴らしい場所だった。手入れの行き届いた庭園、清流にかかる太鼓橋、そして硫黄の香りを運んでくる風。
「うわぁ…! まるで絵葉書みたいですね!」
「二人とも、まずは浴衣に着替えてもらおうかな!」
満面の笑みで迎えてくれた番組ディレクターに促され、二人は用意された部屋へと通される。スタイリストたちが手際よく、色とりどりの浴衣を広げた。
「美玖さんは、やっぱり凛とした寒色系がお似合いですね。こちらの藍染めなんてどうです?」
「りのちゃんは、絶対この桃色! 天使度がマシマシになっちゃう!」
スタッフたちは、まるで自分たちの娘を着飾るように、楽しげに二人を飾り立てていく。その善意に満ちた視線が、今の美玖にはひどく重かった。
藍色の浴衣に身を包み、帯を締めると、すっと背筋が伸びる。鏡に映る自分は、確かにファンが期待する『氷の姫』そのものだった。隣では、桃色の浴衣を着た梨乃が、くるりと一回転して見せる。その姿は、春の野に咲く花の精のように可憐で、美玖は思わず見惚れてしまった。
「ねぇ、みく。どう? 似合う?」
「…ええ。とても…可愛いわ」
「えへへ。みくも、すっごく綺麗。……まるで、お嫁さんみたい」
最後の言葉は、美玖にしか聞こえないほどの小声で囁かれた。その破壊力は凄まじく、美玖の耳は一瞬で燃えるように熱くなる。
最初の撮影は、旅館の名物である庭園の足湯だった。檜の香りがする湯に二人で足を浸し、仲良く談笑する、というありふれたシーン。だが、美玖にとっては試練以外の何物でもなかった。
「はい、それじゃあ、カメラ回しまーす! スタート!」
ディレクターの声が響く。美玖は完璧な営業スマイルを作り、梨乃と当たり障りのない会話を始めた。
「気持ちいいですね、梨乃」
「はい、みく先輩♡ 足の先からぽかぽかしてきますぅ」
その時だった。
「あー、ストップ! ごめん、カメラの調子が悪いみたいだ! ちょっと機材チェックするから、二人はそのままリラックスしてて!」
突然、ディレクターが大声を上げた。カメラマンや音声スタッフが、わざとらしく機材の周りに集まっていく。明らかに、仕組まれたアクシデント。二人きりの時間を作るための、稚拙で、しかし善意に満ちた芝居。
「…だってさ。どうする、みく?」
梨乃が、悪戯っぽく笑いながら囁く。
「…どうするもこうするも…」
美玖が答えに窮していると、梨乃は湯の中で、そっと美玖の足に自分の足を絡めてきた。素肌が触れ合う生々しい感触に、美玖の肩がびくりと跳ねる。
「…ねぇ、みく。スタッフさんたち、優しいね」
「…ええ、そうね…優しすぎて、心臓に悪いわ…」
「ふふ。私は好きだよ、こういうの。なんだか、世界中が私たちの味方みたいじゃない?」
梨乃は、事もなげに言った。その言葉は、美玖の心に温かい雫のように染み込んでいく。そうだ、彼らに悪意はない。ただ、私たちの「仲良し」を撮りたいだけ。そう割り切れば、少しだけ気持ちが楽になるような気がした。
***
その夜。
撮影は滞りなく進み、残すは部屋での就寝シーンのみとなった。通されたのは、信じられないほど豪華な、露天風呂付きの特別室だった。
「じゃあ、ここに小型の固定カメラだけ置かせてもらうね! あとはもう、本当にゆっくりしちゃっていいから! おやすみー!」
嵐のようにスタッフが去っていき、部屋には静寂が訪れた。美玖は、壁の隅に設置された、赤いランプを点滅させる小さなカメラを睨みつけ、深い絶望に包まれていた。
「……終わった。もう、私たちのプライベートは存在しない」
「ふふ、そうかな?」
振り返ると、梨乃はすでに浴衣の帯を解き、艶然と微笑んでいた。その姿は、天使などでは断じてない。男の理性を、いや、女の理性さえも容易く狂わせる、蠱惑的な夜の妖精だった。
「あれは、『アイドルのみく&りん』を撮るためのカメラだよ。私たちの時間を撮るためのものじゃない」
「…何を、言っているの…?」
「だからね、こうするの」
梨乃は美玖に近づき、その耳元で囁いた。
「これから、この世界で一番甘くて、素敵な『百合営業』を見せてあげようよ。カメラの向こうの、私たちの味方さんたちに」
それは、挑発であり、誘惑だった。
梨乃は美玖の手を取り、月明かりが差し込む露天風呂へと導いていく。
湯けむりの向こうで、二人のシルエットがゆっくりと一つに重なっていくのを、壁の隅の小さな赤いランプだけが、瞬きもせずに見つめていた。
別の部屋で。
ディレクターから「確認のため」と渡されたタブレットで、その一部始終を見ていた佐々木は、静かに画面をオフにした。そして、常備している胃薬を、水なしで一気に飲み干した。
「……私の給料、この子たちの幸せへの投資ってことで、いいのよね…」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな温泉宿の夜に溶けていった。
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