第2話 秘密のデートは監視されている

しんと静まり返ったマンションの一室。

遮光カーテンが外界の光を拒絶し、部屋の中はまだ夜の残り香が漂っている。そんな薄闇の中で、桐島美玖は息を殺していた。心臓が、まるで罪を告発するかのように、肋骨の内側でけたたましく鳴り響いている。


「…梨乃、本当にこれで大丈夫なの…?」


鏡の前に立つ自身の姿は、滑稽と言ってもよかった。目深にかぶった黒いキャップ、フレームの大きな伊達メガネ、そして顔の半分を覆い隠す巨大なマスク。

雑誌で見た『芸能人のお忍びスタイル』を忠実に再現したつもりだが、かえって悪目立ちしているのではないかという不安が、胃の腑を冷たく締め付ける。


「大丈夫だって! 完璧だよ、みく。それだけ見たら、誰も『聖女みく』様だって気づかないって」


ソファの上で楽しそうに足を揺らしながら、梨乃が答える。

彼女もまた、ニット帽に丸いサングラスという出で立ちだが、その全身から溢れ出る「可愛い」のオーラは、分厚い布一枚で隠しきれるものではなかった。むしろ、変装によってそのオーラが凝縮され、一種のフェロモンのようにあたりに拡散している気さえする。


「でも、万が一…」

「もー、心配性なんだから。せっかくのオフなんだよ? 今日は水族館デートって、ずっと前から約束してたじゃない」

「それは、そうだけど…」


ぷくりと頬を膨らませる梨乃に、美玖は弱い。

この関係が始まってから、美玖の理性は常に梨乃のわがままの前で敗北を喫してきた。ステージの上ではあれほど冷静沈着でいられる自分が、この小悪魔の前ではいとも簡単にコントロールを失ってしまう。


「いい? これはただのデートじゃないの。『秘密の恋』を守り抜くための、重要な潜入ミッションなんだからね」

「…潜入ミッション…」

「そう! だから、絶対に手を繋いだり、必要以上に近づいたりしないこと。いいわね?」


美玖が真剣な面持ちで釘を刺すと、梨乃は「はーい」と気の抜けた返事をしながら、その実、全く聞いていない目をしていた。その瞳の奥は、これから始まるスリリングな遊びへの期待で、きらきらと輝いている。まるで、飼い主との散歩を前にした子犬のようだ。いや、獲物を見つけた肉食獣の幼体、と言うべきか。


一抹の、いや、かなりの不安を抱えながらも、美玖は覚悟を決めた。この愛おしい恋人をがっかりさせることだけは、どうしてもできなかった。


都心から少し離れた、巨大な水族館。

平日の昼間だというのに、館内はそこそこの賑わいを見せていた。低い天井に反響する子供たちのはしゃぎ声と、水が循環する静かなモーター音。

青く落とされた照明が、現実とは異なる時間の流れを生み出している。それはまるで、深海に迷い込んだかのような、幻想的で、どこか息苦しい空間だった。


「うわー! きれい…!」


巨大なメイン水槽を前にして、梨乃が素直な感嘆の声を上げる。イワシの群れが銀色の竜巻となり、巨大なジンベエザメが悠然と横切っていく。ガラスの向こう側で繰り広げられる生命のスペクタクルに、美玖もまた、しばし警戒を忘れて見入っていた。


「…すごいわね。あの中に、もう一つの生態系があるなんて」

「ねー。…私たちみたいだね」

「え?」


不意に、梨乃が囁いた。


「ほら、見て。あのクマノミ。二匹、ずっと一緒だよ。イソギンチャクっていうお家から、絶対離れないの」


梨乃が指差す先、小さなサンゴの水槽で、二匹のカクレクマノミが寄り添うように泳いでいる。その姿が、自分たちのようだ、と梨乃は言っているのだ。誰にも知られない、二人だけの世界で生きている、と。


その言葉に含まれた純粋な愛情に、美玖の胸がきゅんと締め付けられる。不安で強張っていた心が、温かいもので満たされていく。そうだ、私たちはこうして、二人だけの世界を守っていけばいい。


その時だった。


「…ねぇ、あの子たち、もしかして…」

「え、うそ…? でも、雰囲気似てない…?」


すぐ近くにいた、制服姿の女子高生グループのひそひそ話が、鋭敏になった美玖の耳に突き刺さる。血の気が、さっと引いた。全身の毛穴が開き、冷たい汗が背中を伝う感覚。見られている。気づかれたのかもしれない。


「梨乃、行くわよ」

「え、まだ見たばっか…」

「いいから!」


美玖は梨乃の腕を掴み、早足でその場を離れた。女子高生たちの驚いたような視線が、背中に突き刺さる。心臓が警鐘のように激しく鳴り響く。


「どうしよう、梨乃…気づかれたかもしれない…」

「大丈夫だよ、きっと人違いだって。私たちの変装は完璧なんだから」

「でも…!」


言い募ろうとする美玖の唇を、梨乃の人差し指が優しく塞いだ。


「しーっ。落ち着いて、みく。ほら、あっち、クラゲのエリアだよ。行こ?」


梨乃はまるで、怯える猫をなだめるように、美玖を薄暗い通路の奥へと導いていく。円筒形の水槽がいくつも並び、その中で、大小さまざまなクラゲが光を浴びて明滅している。それは、まるで宇宙に浮かぶ銀河のようだった。


その幻想的な光景に、美玖のパニックは少しずつ鎮まっていく。梨乃は美玖の手をそっと取り、自分のコートのポケットの中に入れた。誰にも見えない、二人だけの秘密の接触。指と指が絡み合い、互いの体温がじんわりと溶け合っていく。その温もりが、何よりも雄弁に「大丈夫」と語りかけているようだった。


「…ごめん、私、少し神経質になってた」

「ううん。みくが私たちのこと、それだけ大事に思ってくれてるってことでしょ? 知ってるよ」

「…梨乃…」


見つめ合う二人。水槽の青い光が、互いの瞳に映り込み、きらきらと揺らめいている。どちらからともなく顔が近づき、マスクの下で唇が触れ合おうとした、まさにその瞬間。


カシャッ、という小さな電子音が響いた。

びくりと凍り付く二人。音のした方を見ると、少し離れた場所に立っていた若いカップルの男性が、慌ててスマートフォンを隠すのが見えた。撮られた? 今の私たちを?


「……っ!」


今度こそ、終わりだ。

美玖の頭は真っ白になった。週刊誌の見出しが、ファンの悲しむ顔が、次々と脳裏をよぎっては消えていく。私たちの秘密が、私たちの世界が、今、終わる。


絶望に打ちひしがれる美玖の隣で、しかし、梨乃は違った。

彼女は男性の方をじっと見つめると、ふわりと、天使のように微笑んだ。

そして、サングラスを少しだけずらし、片目を瞑って見せたのだ。それは、彼女の得意なファンサービス、『秘密のウインク』だった。


男性は一瞬息を呑み、隣の彼女と顔を見合わせると、何かを悟ったように、深々と、本当に深々と頭を下げた。そして、二人そろって、足早にその場を去っていった。まるで、見てはいけない神聖な儀式を目撃してしまったかのように。


あっけにとられる美玖の手を、梨乃がもう一度強く握る。


「ほら、大丈夫だったでしょ? きっと、ただのシャッター音の誤作動だよ」


悪戯っぽく笑う梨乃。その笑顔は、美玖にとって何よりも強い魔法だった。そうだ、きっとそうだ。考えすぎだ。私たちはまだ、誰にも気づかれていない。

その頃、美玖たちの知らない場所――インターネットの海の中で、一つの祭りが静かに始まっていた。



>『【速報】本日14時頃、○○水族館にて、それらしきお二人組を目撃。尊すぎて声も出ませんでした。邪魔しないように即退散。#裏みくりの目撃情報』

>『先ほどの女子高生です。気づかないフリ、完璧でしたでしょうか…? 二人の世界を邪魔するなんて万死に値する。#裏みくりの守り隊』

>『クラゲエリアで奇跡に遭遇。スマホの誤作動でシャッター音鳴らしてしまって死ぬかと思ったけど、りの様から「秘密だよ」ってウインク頂いた。もう思い残すことはない。データは墓まで持っていく。#裏みくりの目撃情報』


無数の優しい視線が、自分たちに注がれていることなど露知らず。

美玖と梨乃は、二人だけの完璧な「潜入ミッション」を成功させた達成感に満たされて、固く、固く手を繋ぎながら、夕暮れの街へと消えていくのだった。

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