こゆびの爪
涼波くじら
こゆびの爪
「最後の呼吸は吸うのかな。それとも吐くのかな」
朝焼けの差し込む教室で彼は言う。
どちらでもいいと思いながら、返事が億劫になって目を逸らす。
-
はじめて呼吸を意識したのは市民プール。
泳げないのに足がつかない深さへ落とされた。
陸に上がった魚のようにハクハクと空気を探して、沈んでいく体をどうにか持ち上げようと手足をばたつかせた。
浮き輪とビート板が命綱だったと知った。
私を落とした兄は怒られた。
次の年、また兄は私を落とした。
私の目標は穏やかに生きること。
波も風も立たなければ泳ぐ必要なんてないのだから。
しかし、泳げないは致命的だ。
水泳の授業は仮病が通じない。補習の常連になるくらいなら、水かきのひとつやふたつ、エラのふたつやみっつ、持ち合わせておけばよかった。
「
あれはそんな水泳終わりのブルーな時期。
夏の湿気がほどよく流されて、ぼんやりと眠たくなってきた午後のおわり。
屋外の掃除用具入れが校舎の日陰になっていて、蝉の声が遠くで鳴き止んで、
同時に、掃除用具入れから箒が落ちてきた。
「あたっ」
箒は私の頭に直撃して、私はおでこを抑えた。
美柚は私を睨みつけて走り去っていった。
理解できないことは息が詰まる。
蝉は再び鳴き出したし、おでこはヒリヒリと痛む。
湿ったままの髪の毛から水滴が落ちた。
-
アイスキャンディーを頬張る夕暮れ時。
住宅街に並ぶ街灯を二階の自室から眺める。
流したままのラジオから夏の歌が聞こえてきた。
そういえば、美柚はこのバンドが好きだった。
ラジオを止めて扇風機を最大にした。
風の音は邪魔なくらいがちょうどいい。
紺色に染まりかけた空を眺める。
アイスキャンディーが甘ったるい。
頬杖をついていた肘が痛んだ。
扇風機の音が少しうるさい。
耳を塞ぎたくなる衝動をぐっと堪えた。
空き缶に隠した二枚の札を握って部屋を出た。
札をくしゃりとズボンのポケットに入れる。
母親が何かを言っていたが、適当に相槌をうって外に出た。
蒸し暑い夜は、草のような匂いがした。
夏は別に嫌いじゃない。好きじゃないというだけで。
住宅街を通り抜けて河原道を歩いた。
空が広い。
爪先くらいの太陽しかなくて、もう夜だ。
歩幅を緩めた後、少し走った。
一気に汗ばんで後悔した。
額の汗を拭う。
無性に何かを叫びたい。
そんなに喉は強くない。
すっかり冷えたアスファルトで蝉が死んでいた。
田舎町に佇むコンビニは誘蛾灯だ。
盲目な蝿と共に入店したが、私は札を持っているから人間だ。
炭酸の強いジュースと吸うタイプのアイス、手持ち花火を購入した。
ペットボトルのキャップを開けると、二酸化炭素の漏れる音がした。
ひとくち飲んで顔をしかめる。
炭酸が強すぎて飲めたものじゃない。
アイスをくわえながら河原に戻る。
河川敷に降りてから重大な失態に気がついた。
「しまった」
ライターがない。
手持ち花火の騒がしい彩りが遠のく。
残念だ。
私の代わりに叫んでもらおうと思ったのに。
「あれ?柚?」
呆然としていると、河原道から私を呼ぶ声がした。
「こんな時間になにしてんの?」
「
「え、あるけど」
「貸してよ」
兄の友人の翠はヘビースモーカー。
翠は河川敷に降りてきて、屈んで私と視線を合わせた。
「どうしたの」
幼子をあやすように聞いてくる。
「花火するの」
「花火?ひとりで?」
「うん」
翠は静まり返った火薬たちを見た。
私は炭酸の強いジュースを取り出した。
「くれんの?」
「交換」
翠はペットボトルを受け取って、ライターを渡してくれた。
私はライターを受けとり、手持ち花火を一本摘んだ。
「辛っ」
翠はそう言いながらも炭酸を飲み干した。
私が花火に火をつけている傍らで、翠は川の水をペットボトルに汲んでいた。
「柚って線香花火からすんの?」
「うん」
「ふぅん。あ、これにいれなね」
翠は私が地面に放置したライターを拾って、ペットボトルを私の前に置いた。
そして煙草を一本咥え、ライターで火をつけた。
「それ、おいしいの?」
「おいしいよ。でも吸うなよ」
線香花火の火が落ちた。
袋から適当に花火を引っ張り出すと、翠がライターをくれた。
ライターを受け取って火をつける。
勢いよく光が放たれた。
「なんで吸っちゃだめなの」
「体に悪いから」
「翠もやめなよ」
「俺は手遅れ」
火花が水飛沫のように散った。
鮮やかな光は目が痛む。
しかし、すぐに暗闇がやってきた。
また花火を手繰り寄せ、ライターで火をつける。
「翠、人を泣かせたことある?」
「あるよ」
「なにしたの」
翠はタバコの煙を吐き出した。
「言っちゃいけないことを言った」
赤とオレンジの光が暗い河川敷を照らす。
煙草の煙と花火の煙が混ざっていた。
「謝った?」
「謝ったよ」
「許してもらえた?」
「いいや」
翠は煙草を口から離した。
花火の光が消えた。
暗い河川敷は輪郭が霞む。
手探りで花火を探し、また火をつける。
火花が散る音は思ったよりも小さい。
もっと盛大に散って欲しかった。
「俺も花火していい?」
「だめ」
「なんでだよ」
翠はペットボトルに煙草の吸殻を落とした。
私は花火をもう一本取り出して火をつけた。
少しだけ大きな音で、二本の花火が散る。
煙が目にしみた。
「翠、夏は好き?」
「きらい」
「なんで?」
「いい思い出が無い」
翠は煙草をふかす。
最初に火をつけた花火が消えた。
ペットボトルに花火の燃え殻が増えていく。
「私も嫌いかも」
少し風が吹いた。
ぬるい風だ。
煙がふわりと揺れた。
そのまま空高く上っていく。
はやく涼しくなればいい。
そして、全て忘れ去ればいい。
私は袋に残った花火を、左右に三本ずつ持った。
「つけて」
「おお、挑戦したな」
翠に向けると、翠はライターで火をつけた。
六本の花火から光が放たれる。
軽やかで鮮やかで、華やかで滑稽だ。
翠は二本目の煙草に火をつけた。
翠が息を吐くたびに、煙が夜空に溶けていく。
鮮やかな火花が血飛沫のようだ。
この痛々しさから目を離せない。
光が網膜を刺激する。
瞼が痛くて目をつむる。
火花の音が止んで目を開ける。
残りは線香花火だけになってしまった。
三本の線香花火のうち、一本を翠に差し出した。
「くれんの?」
「うん」
翠は、私の持つ二本の線香花火に火をつけてから、自分の持つ線香花火へ火をつけた。
彼岸花のような火花が散る。
その微かな音が、泣き声のようだった。
「明日、墓参りに行くよ」
「そっか」
線香花火が落ちる直前に翠が言った。
線香花火が落ちたら河川敷に暗闇が訪れた。
私の兄は、夏に死んだ。
-
「最後の呼吸は吸って終わりがいいな」
「どうして?」
朝焼けに染まる教室は現実味がなかった。
無駄に声がよく響く。
「忘れない気がするから」
「なにを?」
すっかり頬がこけた彼が振り返る。
無邪気な笑みを残したまま、彼は息を吸った。
こゆびの爪 涼波くじら @soso220011113
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