第5話

 ホールはすでにわたしたち以外には人がおらず、使用人たちはそれぞれの持ち場や自室に戻っていた。兄様とわたしとノルはホールから離れた別棟に移動する。大公家に滞在するときに使う部屋は、大公一家が暮らす場所に近いプライベートな空間にある。親戚だからというのもあるが、お父様が騎士団の指導のため頻繁にこの城を訪れているからか、わたしたち一家はお客様扱いされていない。わたしと兄様なんて屋敷の人たちに「お嬢様」「若様」と呼ばれる始末だ。兄様は似合ってるかもしれないが、わたしはちょっと分不相応だろう。男爵家で散々呼ばれているはずなのに、大公家でそう呼ばれるのはちょっと身の縮こまる思いがした。


「じゃあここで、また明日ね」


 階段の手前で二人に声をかける。わたしは階段の上の部屋、二人は通路の奥の部屋だ。いつものことなので二人の返事を待たず階段を上り始める。一段、二段と上ったところで足を止めた。


 ……、後ろから足音が聞こえる。わたしはそっと振り返る。


「……ノル、なんでついてくるの」

「送ってもらえ」


 ノルの代わりに兄様が階段の下から返事をした。


「どうしてよ」

「今この屋敷には他の招待客の方々もいらっしゃいますので」


 今度は兄様の代わりにノルが答える。息の合う二人だ。


「だから何なのよ」


 さらに食い下がったが、ノルは無言で階段をのぼりはじめた。わたしを置いてさっさと部屋に向かう。わたしは兄様を目の端に捉えたあとノルを追いかけた。


 幅の広い廊下にはわたしたち以外の人影はなく、月の光が窓から差し込みいくつもの線を描いている。わたしたちは静まり返った廊下に同化するように、沈黙して足を進めた。窓からは暗く反射する湖が見える。この城は湖の中に土台を築き、湖畔と城を石橋でつないでいる。そのため遠くから見ると、まるで城が湖に浮いているように見えるのだ。数十メートル離れた湖畔には緑の芝生と色とりどりの花が植えられているはずだけど、わたしの目には吸い込まれるような闇だけが映っていた。

 ひたひたと、廊下に二つの足音が響く。しかし廊下の曲がり角からもう一つの足音が聞こえ、わたしはノルと目配せをした。首を傾けて角の向こうを覗き込む。わっ、と思わず小さな声が出た。


――足音の正体は想像以上にわたしの近くに来ていた。


「……おや」


 その人はたった今わたしたちに気づいたとでも言うように、わざとらしく眉を上げた。


 銀髪の真っ直ぐな髪を無造作に下ろし、深い緑の瞳はわたしを貫くように見つめる。白い肌と白い服。どこか浮き離れした長身の男性だ。独特な雰囲気の正体は彼が身に着けているローブの紋章を見てすぐに分かった。わたしはゆっくりと首を垂れる。


「失礼しました。……はじめまして。ラヴィニア・ラディスと申します。お会いできて光栄です、司教様」

「ご丁寧にありがとうございます。わたしはヨーゼフ・シラーと申します。あなたがたに神の祝福があらんことを」


 彼のローブの紋章は、教会の中でもわずかな者しか着用を許されない司教の地位を示すものだった。見た目の若さとは対照的に、彼は落ち着いた声で応対する。今まで数多くの信者たちを導いてきたことによる余裕と威厳。それを包み隠すような優しい笑顔。容姿も表情もふるまいも、司教にふさわしい気高さを持っているはずなのに、彼にはどこか不気味な空気がまとわりついていた。


「こんな夜更けに何を?」

 シラー司教はわたしに尋ねる。

「さきほど城に到着しまして、自室に向かっていたところです」

「……そうでしたか」


 わたしは無言で司教の来た道に目をやった。ここは別棟、大公一家が住む空間だ。司教が出てきた廊下に繋がるのはシリルの自室だったはず。わたしの不審がる様子に気づいたのか彼は横目で元来た道を一瞥する。


「私は大公ご夫妻に招かれ、この城に滞在しています。両殿下はご令息の体調をご心配されていらっしゃったので祈祷を行っておりました」

「シリルは体調が悪いんですか?」

「いえ、落ち着いていますよ。明日の園遊会には出席なさるでしょう」


 ご心配なく。と司教は言葉を続ける。


「お嬢様、そろそろ」


 今まで黙って聞いていたノルがわたしに耳打ちした。静かな廊下ではむしろ逆効果で、ノルの声は司教にも届く。


「お嬢様をお引止めして申し訳ありませんでした。明日の園遊会でお会いしましょう」


 そう言って彼は小さく視線で礼をすると、わたしたちが来た道を歩いていく。階段を下って姿が見えなくなったところでわたしは大きくため息をついた。はりつめていた空気が一瞬で緩む。しかしノルは無表情で階段に顔を向けていた。


「どうしたの」

「特には。……やはり私が付いてきて正解だったと思っただけです」

「どういう意味よ」

「夜更けに司教と立ち話をはじめて、私がいなければいつ切り上げるつもりだったんですか」

「しょ、しょうがないでしょ。相手は司教様なのよ!」


 言いがかりだ。わたしから話を切り上げたら、それも無作法だというくせに!

 教会の立場は難しい。聖職者は貴族の地位を持つ人間が務めることはほとんどなく、身分上は平民として扱われるのだが、彼らは神のしもべという権威と責務を担っている。いくら貴族や皇族といえど彼らを無下に扱うことはできないのだ。わたしたちは再び廊下を歩きだした。


「というか、あなたの態度の方が問題じゃない? 司教様に聞こえるように耳打ちしたりして」

「お気づきでしたか」

「さすがに気づくわよ」


 ノルは軽く肩をすくめた。彼の内心は表情にこそでないが一挙手一投足に失礼がにじみ出ているのだ。それはわたしに発揮されることが多いけど、さっきみたいに他人に対しても、ちょっと指摘しづらいような方法で失礼な言動をすることがある。その塩梅あんばいのバランス感覚といったら、十年来修行を積んだ大道芸人並みである。ちなみにほめてない。


「明日は朝早くからエレナ嬢にお世話になるのですから、早くおやすみになってください」


 彼と意味のない言い合いをしていたらいつのまにか部屋の前まで来ていた。ノルは送り届けたことで任務完了だと思ったのか、わたしが部屋に入るのを確認することなく背を向ける。


 何だか癪だったから彼の背に向かっていーっと顔を歪めた。

 そして、ノルが勘づいて振り向く前にさっさと部屋に入ったのだった。

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