ホワイトスカーレット

かなね

新・白銀邂逅編

白銀に出会った日

 煌びやかなネオンの光が夜の街を明るく照らす。

 月明かりよりもなお煌びやかで冷たい光に誘われ、大通りはたくさんの人で溢れていた。

 人々の歓談する声と足音、店先から漏れる音楽などが混ざり合って、絶え間ない喧騒が街全体を包んでいる。

 行き交う人たちの表情はみな夢見心地。

 まるで明日の到来を拒むかのように、まどろみの中を揺蕩っているようだ。


 目も眩むような繁華街から少し奥へと踏み込めば、そこには全く異なる世界が広がっている。

 湿った風が吹き抜け、鉄の土の匂いが充満した高層ビルの隙間――喧騒はおろか、月明かりすら届かない路地裏を縫うように、一人の少女が闇の中を駆ける。


「はっ……はっ……!」


 静寂に包まれた狭い路地に、乱れた呼吸音がかすかに響く。

 しきりに背後を気にしながら、わたし――やくもゆずりは(八雲杠)は必死に地面を蹴り上げた。

 足の筋肉は激しく痙攣し、悲鳴を上げている。いや、むしろ絶叫していると言うべきか。もはや感覚はほとんどない。どうやって走っているのか、自分でもよくわからないほどだった。

 許容量を超えるほどの強い負荷に、胃の中は激しく荒れ狂っている。少しでも気を抜けば中身が全部飛び出してきてしまいそうだ。

 苦しい、辛い、痛い、しんどい――もう、休んでしまいたい。

 けれど、止まれば死ぬ――その強迫観念だけが、今のわたしを突き動かしていた。


 正面、ビルの外壁に行く手を遮られ、足がもつれそうになりながら、わたしは咄嗟に右へと曲がった。

 ……あとどれくらい走っていればいいんだろう。

 依然として変わり映えのしない景色を前にして、わたしはぼんやりとそんなことを考える。

 このまま逃げ続けていれば、いずれは追跡を振り切れるはず。そうでなくても、負うのをあきらめてくれるはずだ――既に形を失いつつある希望をもう一度思い起こしていると、

 

 ――タッ、タッ、タッ――。


 どれだけ逃げても無意味だと言わんばかりに、気持ち悪いほどに規則的な足音が、しんとした静けさの中に響いた。

 背後からその音が耳に届いた瞬間、わたしは思わず息を呑んだ。

 心臓の鼓動が一気に跳ね上がって、血の流れを加速させていく。激しくなった拍動はまるで焦燥を煽っているかのように思えて、わたしの足取りはだんだんと乱れつつあった。

 

「なんで、なんでこんなっ……!」


 思わず泣き言が口から飛び出す。

 そうだ、なんでわたしがこんな目に遭わなくちゃいけないのか。

 あまりの理不尽さに、頭の中には次々と罵倒や不満の言葉が浮かんでいく。

 もっとも、それを口にしたところで、それが理解してくれるとは思えない。言葉が通じるかどうかも怪しいところだ。

 なんせ、今わたしを追いかけているそれは、人間ではないのだから。


 ケーブルの中身がむき出しになったような銅線を、何重にも束ねて作られた足と腕。手や指などは見当たらず、あくまでも人の形を模している何か。

 本当なら人の頭があるはずの部分には、代わりに細長く巨大な筒状の――乾電池のようなものが突き刺さっていて、首の付け根から垂れ落ちる真っ黒い液体は、アスファルトに触れるたびに焼けるような音を鳴らしながら、黒い染みを作り出していた。


 追われている理由なんか知る由もない。教えてくれるなら聞いてみたいくらいだ。

 ――その化け物は、わたしが一人で繫華街の大通りを歩いている最中に、唐突に姿を現した。

 どうしてそう思ったのかはわからない。けど、それを目にした途端、わたしは一目差に逃げ出した。

 本能的に危険を感じ取ったのだろう――実際、その判断は正しかった。

 背を向けた途端、化け物は夥しいほどの殺気を纏って、立ち去ろうとするわたしを追い始めたのだ。

 わたしは大通りに群がる雑踏を強引に押しのけて路地裏に身を潜めた。

 どうやら他の人たちにはあの化け物が見えていないらしい。彼らから見ればわたしは、一人でパニックを起こした変な奴でしかなかっただろう。

 路地裏に入り込んだのは、ここで息を殺していれば、いずれはいなくなってくれるんじゃないかと考えたから。

 結論から言って、その判断は大きな誤りだったわけだが――。


 水かどうかもわからない液体を踏み抜いて、乱雑に置かれた段ボールの山を強く蹴り飛ばして。

 無我夢中で続けていた逃走劇も、いよいよ終わりが近づきつつあった。

 薄まりつつあった足の感覚が、とうとう完全になくなった。

 必死に酸素を取り入れようとするも、喉が詰まって息を吸うことすらままならない。

 思考はさっきよりも増して曖昧になって、視界がぐにゃりと歪み始める。

 

「っ…………あっ……!」


 諦めの二文字が頭に浮かんですぐ、突然わたしの足がピタリと止まった。

 正面には高層ビルの壁が、行く手を阻むかのようにそびえ立っている。

 左右に首を向けるも、そっちにも逃げ道はない。別のビルの壁面が、わたしを静かに見下ろしていた。

 こういう場所を袋小路と呼ぶらしい――そうだ、まさに袋のネズミ。

 ついに逃げ場がなくなった。

 いや……そもそもそんなものは、最初からなかったのかもしれない。

 途端、全身から一気に力が抜けた。

 足が力尽きたかのように崩れ、わたしの体は重力に引かれるがまま、ぺたりと地面に腰を下ろす。

 ……全部、無駄だった。

 懸命に生きようとしたことも、ここまで逃げ続けたことも……全部、無意味だったんだ。

 もはや、抵抗する気も起きない。わたしは逃げる意思を失ってしまった。

 

 放心するわたしを、黒く大きな影が背後から覆った。

 恐る恐る振り返る。怖いもの見たさか、それとも単に気が動転しているだけか。

 化け物はもう、手を伸ばせば届く距離まで迫っていた。

 首の付け根から流れるドロドロの液体。口らしきものは見当たらないのに、どこからかコシュ、コシュ、と不自然な呼吸音を漏らしている。

 目のようなものはどこにも見当たらない。けれどそれは確かに、しっかりとわたしの顔を覗き込んでいるのがわかった。


「……う……こ、来ないで……!」


 後ずさりながら、弱々しい拒絶を口にする。

 当然聞き入れられることはない。そもそも言葉が通じていないのだ。何を言ったって理解されるはずがない。

 とっくに諦めたはずなのに、視界がぼんやりと滲んだ。

 全身を包む込む死の気配が、わたしの終わりを静かに告げている。


「あ、ぐっ……!」


 怪物は唐突に、わたしの首に腕を巻き付けた。

 細い銅線の束が空気の通り道を奪い、鋭く喉に食い込んで痛みを与えた。

 反射的に呼吸しようとするも、締め付けられた状態では息を吐き出すこともままならない。

 ただでさえ足りていなかった酸素の供給が遮断され、薄まりつつあった意識がゆっくりと濁り始めた。


 ――色も音も、何もかもが消えていく。

 世界と自分との境界が曖昧になる。

 わたしは飛んでいる。空高くから、今まさに殺される寸前の自分を眺めている。

 どんなに必死に戻ろうとしても、わたしは天に吸い込まれてしまって、自分の体にたどり着くことができない。

 首を絞められる自分の姿はとても苦しそうで、痛々しくて、眺めているだけでも息が詰まった。

 さっさと殺されれば、もう二度とこんなつらい思いをしなくて済むのかもしれない。もしここで助かったとしても、生きていればきっといつかは、今日と同じ苦しみを味わうことになる。

 

 ――でも、ああ、それは……嫌だ。

 苦しいのもしんどいのもつらいのも、全部嫌だ。

 だけど、何も感じられなくなるのは、もっと嫌だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!

 死ぬのは嫌だ――!


「……し、……く、な……い……」


 無意識に声を絞り出す。

 喉は変わらず圧迫されていて、まともな音にはなっていない。

 でも、わたしは口を開く。言葉にしておかなければならないと思った。


「――死にたく、ない……!」


 ……きっと今、わたしは酷い顔になっている。息苦しさと恐怖で歪み切って、とても他人には見せられないはずだ。

 吐き出した言葉だって滑稽と言わざるを得ない。通じるわけもない相手にこんなことを言ったところで、何の意味もないのだから。

 怪物のケーブルがさらに鋭く締まる。

 かろうじて確保されていた細い余白も潰されて、いよいよ本当に息ができなくなった。


 ――わたしの気持ちはちゃんと口にした。そこに関しては後悔はない。

 言ってやりたいことも、やりたいことも、本当はもっといろいろあったけど……

 それを今すぐ実現するのは難しいみたいだ。

 来世に期待を込めて、今の自分にさよならを告げよう。

 諦めて両目を瞑った、その瞬間。


 

 ――天から突如、閃光が迸った。



 はっと瞼を開いて――わたしは目の前で起きた光景に、自分の目を疑った。

 わたしの首を掴んでいたはずの化け物の腕が、真っ二つに切り裂かれていた。

 喉から圧迫感が取り除かれると、わたしは両手を地面の上について必死に息を吸い始めた。今何が起こったのか、そんなことは後回しだった。


「げほっ……はあっ、はあっ……」


 頭も喉も、体中が酷く痛む。無理に呼吸をしすぎたせいか、苦しくて咳が止まらない。ああ、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ、まったく。

 痛いし苦しいししんどい――けれど、わたしは生きている。どれもこれも、生きているから味わえる感覚だった。


「やあ、いい夜だな」


 懸命に呼吸を整えていると、ふとすぐそばから声が聞こえた。

 四つん這いの姿勢のまま、顔だけを上げる。

 立っていたのは男だった。

 歳は同じか少し上……大学生くらいに見える。

 何よりも目についたのは真っ白の長い髪。

 まるで雪のように透き通っていて――触れれば掻き消えてしまうんじゃないかと思うほどに、儚さを感じた。

 右手には鞘のない日本刀を携え、彼はじっと化け物の姿を捉え続けていた。


「なあ、おまえもそう思うだろ」


 男が続けて口を開く。

 さっきの言葉が自分に向けられてはいなかったことに、わたしはようやく気がついた。

 気づけば化け物は、いつの間にか袋小路の入り口まで後退していた。

 斬られたところから黒い液体を溢れさせ、しかし微動だにせず、男をじっと見つめている。まるで次の動きを伺っているかのように。

 まだ万全ではなかったものの、わたしはゆっくりと立ち上がると、隣の男に対して声をかけた。


「あの、わたし、その、助けてくれて……!」


 言いたいことがまとまっておらず、なんだかよくわからないことを口走った。


「いいよ、ついでだし。それにまだ安心するのはちょっと早いよ」


 そう言った彼の声はやけに冷たくて、なんとなく鋭さを感じた。



   ◇



「■■■■■■■■■――!!」


 けたたましい咆哮が開戦の合図となった。

 斬ったはずの腕はすっかり復元されている。

 化け物はそれを見せつけるように両腕を男に向けて突き出すと、短い銅線が小さな針となって、腕の先から勢いよく放出された。

 まるで、礫の雨――その一本一本が鋭さを伴って、無機質に二人へと迫る。


「ひっ……!」


 咄嗟に身を縮めた杠を横目に、男は自ら礫の雨に足を進めた。

 銅線の針が体をかすめ、肌を裂き、肉を容赦なく抉り、血を迸らせる。

 その様子に、杠は無意識に歯を食いしばった。

 あの男が今感じている激痛を想像するだけで、全身から血の気が引いた。

 顔を青くする杠とは対照的に、男は依然として涼しい顔を浮かべたまま、決して歩みを止めようとはしない。

 確かに体を斬られたり刺されたりするのは痛い。

 だけど、それだけ。

 肉体的な痛みなど、男の前では全く意味を持たない。

 意味があるとすれば、それは明確な殺意のみ。命を刈り取ろうとする攻撃こそ、男にとっての有効打になり得た。

 どれだけ針の雨が降り注ごうとも、血肉を激しく貪られようとも、足取りに迷いはない。

 宿すのは静かな殺気――次で殺すという決意。それだけで十分だった。


 これでは埒が明かない――そう判断したのか、化け物は唐突に針の礫を中断すると、今度は男の首めがけて勢いよく両腕を伸ばした。

 どうやら手ずから命を奪うつもりらしい。

 ――生物には共通した弱点がある。頭部、とりわけ首という奴は、その中でも最も狙いやすい箇所と言ってもいい。

 喉を絞めれば呼吸は絶える。上を狙えば脳みそがあるし、一息に断ってやるだけで生物は確実に命を落とす。

 あれが首に執着しているのは、それを理解しているからだろう。

 知能があるのか、それとも本能的に認識しているのか。

 だけど、それはつまり、奴も同じだということ。

 ――なんだ、結局そんなものか。

 男は心の中でそう落胆して――迫る腕を紙一重でかわすと、勢いよく前方へ跳躍した。

 優に数メートルは飛んでいただろう。ただ一度の一直線な跳躍は、化け物との空白を埋めるには十分だった。

 迫る脅威を前にして、化け物は咄嗟に踵を返した。

 どうやらあれに知能はないらしい。この状態で敵に背を向けるなんて、知能を携えている生物の行動ではない。

 逃げようとするも、既に手遅れ。

 男はとうに、化け物の懐に潜り込んでいた。


「そんなに首が欲しいのならくれてやるよ」


 挑発的な声に反応するかのように、化け物がわずかに振り向く。

 それが致命的なミスだったかどうかはわからない。こっちを向こうが向くまいが、斬られる向きが変わるだけのことだ。

 あれが男の姿を捉えた瞬間――化け物の天地が、真っ逆さまに反転した。

 左下から右にかけての逆袈裟。流れるような剣捌きが、首を一瞬で刎ね飛ばした。


「――おまえ自身のを、だけどな」


 べちゃ、と生々しい音とともに乾電池の頭が落下して、化け物は動かなくなった。

 ケーブルの四肢が解け、パラパラと散っていく。

 張り詰めていた緊張感の糸はプツンと切れて、杠はようやく、息をすることを思い出した。


「どうだ、怖いだろ――死ぬってのはさ」


 刀に付着した真っ黒い液体を拭いながら、物言わぬ骸に男が静かにそう言った。



   ◇



 彼が化け物の首を刎ねるのを、わたしは黙って眺めることしかできなかった。

 わかっているのは、自分が殺されそうになっていたことと、あの人が助けてくれたということだけ。

 それ以外の出来事は理解の範疇から遠く離れすぎてしまっている。

 呆然と立ち尽くしていると、男が不意にこちらを向いた。


「うん、何ともなさそうだな」


「はい、おかげさまで……その、ありがとうございます。助けてもらって」


「いいって。ついでだって言ったろ」


「……そうだ、あなたはいったい――」


 問いかけようとしたそのとき、彼の姿が目の前から消えていた。

 慌てて首をきょろきょろとさせると、袋小路の入り口に消えていく彼の背中が目に入る。


「あの、せめて、お名前だけでもーーー!!!」


 漫画の台詞じみた言葉を叫ぶ。

 彼はわずかに振り返ると、


「シラナミカノン」


 とだけ口にして、そのまま闇に消えていった。

 ……なんだか酷く疲れてしまった。

 走り回っていたのもあるし、強く恐怖を感じたのもある。

 肉体的にも精神的にも、わたしはすっかりヘロヘロだった。


「……帰ろう」


 そう呟いて、袋小路を後にする。

 動かなくなった化け物をちらりと見る。横切った瞬間、急に動き始めたらどうしようかと思っていたけど、首のなくなったそれが動くことはなかった。

 ほっと胸を撫でおろしながら、わたしは光の差す方へと向かう。

 細い路地裏を通り抜けると、開けた大通りへと出ることができた。

 耳障りなほどの喧騒。夜が更けてなお消えない雑踏。目に悪そうな電光板の明かりと、甘さと苦さの混ざり合った独特な匂い――刺激に溢れた夜の楽園。

 さっきは拒んだ光の眩さも、今は平然と受け入れられるようになっていた。

 わたしがそれを拒絶したのか、それとも光がわたしを弾いたのか、今となっては定かではない。


 しばらく歩いていると、不思議と今日会ったことが、全部悪い夢だったのではないか、などという考えがふっと湧いた。

 雰囲気に呑まれたとでも言うのだろうか。

 街の賑やかさがあまりにも非現実を作り出すものだから、きっとそれに影響されたのだ。

 もしさっきまでの出来事が単なる夢まぼろしであったら、どれほどよかったろうと思う。

 けど、未だに残っている息苦しさと、制服が肌に張り付いている感覚が――思い出すだけで脳の奥が冷えるような、死の気配が、まごうことなき現実であることを、確かに思い知らせてくれた。

 あまりに信じられない出来事の連続。これが夢であったかのような錯覚を感じてしまう。



   ◇



 あれから、わたしはまっすぐ家に帰った。

 到着したころは門限を少し過ぎてしまっていて、扉を開けるのにちょっとの勇気が必要だった。

 恐る恐る玄関を開けると、両親が二人して出迎えてくれた。

 父も母も最初は仕方のない子だ、なんて軽く見てくれていたものの、わたしが汗だくなのを確認するなり、表情がわずかに曇った。

 部活動には入っていないし、運動が好きというわけでもないことを知っているから、何かあったのではないかと勘繰ってしまうのも無理はない。

 今日体験したことを説明するわけにもいかず、


「友達と遊んでたら、たまたまちょっと体動かそっか、みたいな話になってね。楽しくなって無理しちゃったんだ」


 なんて適当な話を取り繕った。

 二人は微妙な顔をしていたけど、わたしが強気で言うものだから、渋々納得してくれた。

 ……しかし、このままでは作り話の詮索が始まりそうだったので、わたしは急いで話を切り上げ、浴室へと駆けこんだ。

 とっとと入浴と食事を済ませ、わたしはすぐさま自室に引っ込む。

 さて、どうしたものか……作り話のディテールをもう少し作りこんでおくべきだろうか。それとも、さっきみたいに詮索を回避し続けるべきだろうか。

 布団の中に潜りながら、そんなことを思う。

 難しい議題について一人頭を回転させていると、眠気はすぐにやってきた。体が存分に疲労をため込んでいたのもあるのだろう。わたしは静かに瞼を閉じ、眠りの世界へと旅立った。



   ◇  



 ――カーテンから差し込む日の光で、目を覚ました。

 妙に額が汗ばんでいる。あんまりうまく眠れなかったらしい。そのわりに、途中で起きたような記憶もないが。


 少し重たい体を引きずりながら部屋の外に出る。どうやら疲れはすべて抜けきらなかったらしい。

 こんな状態で今日の授業を聞きとおせるだろうか。休み時間に仮眠を取ればどうにかなるかもしれない。

 ふと、窓の外の景色を眺める。

 太陽はいつものように大地を照らす。小学生らしき子供が団体で元気よく歩いていて、お年寄りと朗らかに挨拶を交わす。スーツ姿のサラリーマンはそれを微笑ましそうに眺めながら、近くのバス停へと足早に向かっている。

 どれもこれも、見慣れたいつもの光景。

 昨日の出来事が嘘だったかのように、世界はまた当たり前の日常を繰り返している。



 ──繰り返している、はずだった。



 最初に気がついたのは、音だった。

 ピィーッという甲高い音がずっと鳴り続けている。おそらくやかんが沸騰したのだろう。

 ……どうして火を止めないんだろう。

 今の時間なら母は台所にいるはずだし、とっくに沸騰しているをほったらかしにし続けるのはどう考えても不自然だ。

 ふと、思う。

 そういえば今日は起こしに来てくれなかった。

 わたしが時間まで降りてこないときは、決まって母が部屋に来て声をかけてくれる。もう起きないと遅刻するぞ、とか。

 ふいにスマホの画面を見る――今は朝七時四十三分。わたしが起きなきゃならない時間はとっくに過ぎていた。

 妙な胸騒ぎを覚えて、わたしは駆け足で階段を降りた。

 心臓の音が耳の奥で反響している。この感覚を、わたしは昨日感じたはずだった。

 階段を降りてすぐ――玄関を見た途端、わたしは小さくひゅっと喉を鳴らした。


 あるはずのない父の靴が乱雑に散らかっている。それだけじゃない。母のサンダルも、わたしのローファーも。

 それから何かに引きずられるように床に染みついた、黒い液体の跡――。


「――お父さんっ、いるの――!?」


 たまらずリビングに飛び込んだ瞬間、目の前に広がる光景に、わたしの頭は真っ白になった。

 割れた花瓶、乱されたカーペット、ひっくり返った椅子と、床に散らばる食器。トースターから飛び出した食パンは焼きあがってから少し時間が経っているみたいで、やかんの沸騰する音だけが、相変わらず騒々しく響いている。

 わたしは呆然と、ソファの上に視線を移す。

 そこには、父の姿があった。

 いつものようにスーツを着て、ネクタイを締めて、だというのに、何故かソファに横たわっている。

 白のビジネスシャツは胸元からじわじわと赤く滲んでいて、腕を伝って床に小さな水たまりを作り出していた。


「ね、お父さん、起きて、ね、起きてよ――」


 恐る恐る駆け寄って、父の体をゆする。

 だって、もうとっくに家を出てなきゃいけないはずなんだ。寝てたら、起こさないといけない。仕事に行かなきゃいけないって、いつもそう言ってるじゃないか。

 どうして、起きてくれないの――?


 何度揺さぶっても、父が目を覚ますことはない。

 わたしの視線は呆然と、台所へと向く。

 見覚えのある背格好の人が、シンクに突っ伏したまま動かない。

 背中には赤く大きな染みが広がり、シンクの中に流れ落ちている。

 

「お母さん……? ね、お母さん、お母さんってば――」


 すぐそばで呼びかけてみるも、反応はない。

 父と同じように目を閉じたまま、苦しそうに顔を歪ませている。


 まるで時間が止まったみたいに、わたしはその場に立ち尽くした。

 ――何も考えられない。

 なんで二人は目を覚まさないのか。

 ここで何が起こったのか。

 わたしは、どうすればいいのか。

 鼻を通る鉄っぽい匂いが気持ち悪くて、心がじわじわと赤く蝕まれていく。

 昨日と同じだ。うまく呼吸ができない。整えようにも、それすらできない。


「ばん、ごう……なんだっけ、救急車の……」


 わたしははっと我に返って、たどたどしい手つきでスマホに番号を打ち込み始める。

 体の奥が妙に冷たくて、わたしは無意識に体を擦った。

 短いはずのコール音。しかし今はそれが、やけに長く感じてしまう。

 赤く滲んだわたしの世界――わたしの日常が、音を立てて壊れた瞬間だった。

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