人魚の血を分け合った僕たちが紺碧にいざなわれるまで
近藤銀竹
第1話 深夜の邂逅
黒。
黒、黒、黒――
僕の目の前に、ひたすら広がる黒い空間。
鼓膜を揺らす波の音だけが、そこに海があることを教えてくれる。
曇りの夜は好きだ。
この空間を真っ暗闇に閉ざしてくれるから。
懐中電灯を消し、灯りひとつないこの砂浜で視覚を閉ざされていると、感覚が研ぎ澄まされていく。つまらない日中の学校生活で色彩を失った心が拭われていくようだ。
熱帯夜の海の香りを肺いっぱいに吸い込むと、体内の澱が洗い流されていく。
いつしか、空が曇ると、深夜に海岸の散歩をするようになっていた。
どんよりと立ち込めた雲が切れ、月が顔を出す。それだけで真っ暗闇に慣れた僕の目は、周囲の景色を認識することができた。
砂浜に誰かが打ち上げられているのを見つけるのに、そう時間は掛からなかった。
濡れた長い髪が銀色に光った。
肌が月光を吸い込むように光る。
(放っておけない)
その気持ちが先に立って、気づけばその人に――彼女に駆け寄っていた。
歳の頃は、僕と同じくらいだ。
布に覆われていない彼女の肩は、所々血が滲んでいた。
一瞬の躊躇ののち、彼女の肩を揺することを決意する。
「……聞こえる?」
指先が触れたところの血が、なにかに吸い込まれるように消える。
次の瞬間、彼女は微かに目を開けた。まるで、長い夢の底から呼び戻されたかのように。
暗がりの中、海そのもののような瞳が、真っ直ぐこちらを映した。
その視線を感じた瞬間、なぜか息が止まった。
彼女が唇を開く。
「……みず、が……」
掠れた声。
渇きの苦しみを奏でたかのような声に、胸が締め付けられた。
水、水分か⋯⋯?
身につけていたランニングポーチの中には⋯⋯あった。茶コーラの瓶だけど。
彼女の体を抱え起こして、茶コーラの蓋を開け、そのまま瓶を取り落としそうになった。
彼女には足がなかった。
厳密に言うと、足ではなく、尾ビレが伸びていた。
「に⋯⋯人魚!?」
「うう⋯⋯けほっ」
彼女の呻きで我に返った。
半開きの口に茶コーラを少しずつ流す。
こぼす量は少ない。ちゃんと飲んでいるようだ。
彼女は少し眉毛を寄せながら、全て飲み干した。こぼした雫をハンカチで拭き取ろうとして、彼女が上半身になにも身につけていないことに気づき、慌てて目を逸らす。
「不思議、な、味⋯⋯」
彼女が、そう呟いた。ぴちっ、と尾ビレの先が小さく跳ねる。
当然だろう。お茶と、炭酸水と、糖分だから。水分ではあるが、水とはほど遠い味だ。
「水分、それしかなくて……」
「お山の、味だ……」
彼女が顔を顰めた。あまり口に合わなかったらしい。
「毒とかでは……ないから……」
「んん……」
彼女は納得のいかない表情をしていたが、その顔色は少し生気を取り戻した様子だった。ゆっくりと腕を持ち上げて僕の首に絡め――頭を持ち上げて僕と唇を合わせた。
「⁉」
急な行動に、僕は身動きが取れなかった。
僕は目を閉じるのも忘れ、されるがままになりながら彼女の目を見つめ続けていた。
彼女の瞳ははうっとりと……は、しておらず、何かを確かめるように忙しなく動いてた。
唇が、離れる。
口には、驚きと、海の香りと、うっすらとした鉄の味が残された。
彼女は僕に絡めた腕を放し、自力で身を起こす。
「⋯⋯わかったよ。お山の味も、嘘じゃないのも、あなたが助けてくれたのも。あなたの水が、教えてくれた」
彼女が力無く微笑んだ。
頬が熱を帯びていくのを感じた。
同時に、周りの世界がふわりと色を変えた気がした。
「え、と⋯⋯」
「ハウリナ」
「?」
「わたし、ハウリナ」
「あ、ああ⋯⋯僕は
「?」
「そういうことは⋯⋯えと⋯⋯好きな人とするべきであって⋯⋯」
「そういうこと?」
「その⋯⋯キ⋯⋯いや、唇を⋯⋯」
「ああ、そうなの? 口合わせは環境や体調の情報共有だよ。そんなことで好きとか言うなんて、ニンゲンって……大胆だね」
彼女――ハウリナは、今度はいたずらっぽく微笑んだ。
僕もつられて笑顔になる。
と、ハウリナはなにかに気づいて急に視線を落とした。
「あ⋯⋯」
「どうしたの?」
ハウリナの視線の先。そこにあった月光色の尾ビレは跡形もなく消え去り、すらりとした二本の足に変わっていた。
「尾ビレ、なくなっちゃった」
「そう、だね⋯⋯」
足は生まれたてのようにしみひとつなく、それでいて大人の伸びやかさを兼ね備え、月光を反射して艶めかしく輝いていた。
「どうしよう。帰れない⋯⋯」
その言葉を耳にした瞬間、ことの重大さに気づいた。尾ビレがなければ、人魚は海の底へ戻れないだろう。
陸に親戚などいないだろう。かといって、男子の家に誘うほどの軽薄さも度胸も持ち合わせてはいなかった。
ハウリナはしばらく途方に暮れていたが、急になにか決意したように頷くと、こちらに視線を向けた。
「あなたの巣に入れて。一晩考える」
「え? あ……僕は……構わない……けど……?」
「じゃあ早速案内して……っとと」
ハウリナは立ち上がろうとして、よろけた。咄嗟に助けようとして、彼女を抱き止める姿勢になってしまった。そこでようやく気付いた。下半身が足になったハウリナは、文字通り一糸纏わぬ姿だということに。
「と、とりあえず腰にタオルを巻こうか。あと、む……胸も隠そうね」
「?」
首を傾げるハウリナからできるだけ顔を逸らして、持っていたスポーツタオルを差し出す。新品ではないけど、洗濯済みだから勘弁してもらおう。
足元のおぼつかないハウリナに手を貸して、家への道を戻る。
僕のかさついた日常に、鮮やかな色が差し込まれた。
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