幸せになる確率

小林一咲

第1話 放課後

 教室の窓を、秋の光が静かに満たしていた。

 窓際の席に座る星野壮流は、黒板に残るチョークの白さを眺めていた。

 授業が終わったばかりの空気には、まだ言葉の余熱が漂っている。

「なあ、幸せになりてぇなあ」

 隣の席の佐伯拓真が、ため息まじりに笑った。

 その言葉は、何の意味もなく放たれた冗談のはずだった。

 だが壮流の耳には、それが妙に重たく響いた。

 ——幸せ。

 なんだ、それは。

 教室の外では、部活へ向かう生徒たちの声が跳ねている。

 笑い声。足音。シャツの裾を揺らす風。

 世界はいつも賑やかに動いているのに、

 壮流の心だけが、少し遅れていた。

 帰り道、駅前の雑踏を歩く。

 人々の顔は、どれも忙しそうで、どれも笑っているように見えた。

 電光掲示板には「幸福度世界ランキング」というニュースが流れている。

 ——幸福が、数字で測れるのか。

 その疑問が浮かび上がった瞬間、彼の胸の中で何かが軋んだ。

 コンビニの前を通ると、ポスターに「しあわせの味」という文字が踊っていた。

 ふと、笑っている誰かの口元に自分の影が重なる。

 それは、まるで自分がいない世界を見ているような感覚だった。

 家に帰ると、母がリビングのテーブルにレトルトのカレーを並べていた。

「おかえり、温めるだけだからね」

 そう言って母はテレビをつける。ニュースのアナウンサーが言う。

 ——“今年の幸福度は昨年を上回りました。”

 壮流は無言のままスプーンを握りしめた。

 カレーの匂いが鼻をくすぐる。

 その温かさの中で、ふと自分がどこにいるのか、わからなくなった。

 夜、部屋の灯を消して、窓の外を見る。

 街の光が、遠くの空に滲んでいた。

 誰かの笑い声が、どこかの家の壁を抜けて届く。

 それは知らない誰かの幸福の音。

 壮流は窓を少しだけ開けた。

 風が入ってくる。

 夏の名残を溶かしたような匂い。

 ——幸せになる確率。

 自分にそれがあるとしたら、どのくらいなんだろう。

 彼はそう呟いて、息をひとつ吐いた。

 風がカーテンを揺らした。

 まるで、答えを持って通り過ぎたように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る