第13話 溢れ出す感情

秋は日に日に深まっていた。気温も夕方になれば肌寒いくらいで、水貴はベージュの薄いダウンを羽織って、塩原はるのが住まうマンションに到着した。


エントランスで城山センター長と落ち合う。

「お待たせしました」


「私も今着いたばかりですよ」

城山は手にウインドブレーカーを提げている。


「……緊張しますね。少しでも落ち着いて話を聞いてくださったらいいんですけど」


水貴も同感だった。城山の顔にはいつになく険しい表情が浮かんでいる。「ええ」と応じた水貴はダウンを脱いだ。深く息を吸って、呼吸を整える。


やや大きめのマンションの敷地には小さな公園があって、遊具で遊んでいる子供たちの声が満ちていた。母親達が子供を見守りながら、他愛ない世間話で笑いあっている。静かな暮らしの気配があった。


そんな平和な光景に水貴の緊張がいくぶん和らぐ。走り回っている子供たちはもれなく薄着だ。元気でいいな、水貴は思った。


「塩原さんにお電話した時は、どうでしたか?」


「意外と落ち着いて聞いてくださいましたよ。ただ、いったん話し出したら止まらないんですよね」


「やはり妄想の話ですか」


「そうですね。ヘルパーが物を盗んでいったと、繰り返し……。新しいケアマネさんと改めてお話をうかがいます、ということで納得してもらいました」


今回の約束を取り付けたのは城山だ。塩原の手元にはもう薬はないはず。すんなり話が通るはずもないだろう、そう水貴は覚悟した。


エレベーターで上がり、部屋番号を確かめながら進んでいく。程なく『塩原』の表札がかかった部屋の前に辿りついた。


――私が押しますね、と目配せする城山に、水貴は静かに頷いて応じた。インターホンを押すと「どなた?」と上品な声が応じる。


「包括支援センターの城山です」


――お待ちください

そう言うとすぐに、声の主は玄関を開き、水貴達を中に招き入れた。



通された部屋は、意外なほどに整っていた。玄関の靴は綺麗に並べられ、芳香剤の香りが漂っていた。ファミリータイプのマンションは、塩原が独りで住むには広いだろうか。廊下を歩いてすぐのリビングに水貴達は通された。


「包括支援センターの方がお越しになるなんて初めてだわ。ケアマネさんもこんなに若い方だなんて」


わずかに弾んだ声に、第一印象は悪くなさそうだと水貴は安堵した。城山と水貴は緊張を表に出さないようにつとめた。



どうも、と軽く頭を下げ、城山と水貴は言われるままにテーブルにつく。二人は簡単に自己紹介を済ませた。


クリーム色のセーターを着た塩原は、80代少し手前のはずだ。――若く見えるな、と水貴は思った。背筋もしっかり伸びていて、緩くパーマのかかった髪はしっかりと黒く染め上げられている。その顔に薄いメイクが施されていて、言われなければ統合失調症に罹患しているとは思われないだろう。


だが、どことなく違和感を覚えるのは、赤い口紅の色が妙に鮮やかで、絵の具を塗ったように見えるからだろうか。指にはめた大きい指輪も不自然に大きな存在感を放っている。言葉にならない小さな違和感が水貴に残った。


「それで、早速なんですけど」


単刀直入に、塩原は切り出す。「はい」と、水貴たちは応じた。否が応にも体が強ばる。だが、動揺を悟られるわけにはいかない。


「膝を痛めていましてね。本当はヘルパーさんにお風呂やトイレだけでも掃除をお願いしたいんですよ」


「なるほど」

短い相槌だけで水貴は先を促した。自分から喋らず、本人の言葉を待とうとした。だが、そうするまでもないことが明らかになるまで、時間がかからなかった。


「ちょっとだけでしたけど、家にヘルパーさんが来てくれてたんですよ。でもね、来る人来る人、なんだかおかしいんですよ。


家に入ってくるなりキョロキョロして、お掃除をお願いしたら雑巾を絞りもしないであちこち拭いて家中水浸し。


どの人も教育がなってないですよ。あたしが年寄りだからってバカにしてるのかしら?嫌ですねえ歳をとるのは」


一気にまくし立てた。城山が口を挟めず、無理やり笑顔を作っているのを水貴は横目に捉えた。


明らかに頬が強ばっているようだが……。無理もない、と水貴は思った。塩原はそんな城山の事は意に介すつもりも無いようだ。


「挙句にですね!ヘルパーさんが帰ったあとおかしいんですよ、私のお気に入りのカップが無くなってる!あの人が盗ったに違いないです。


帰る時に見ましたら、カバンがパンパンに膨らんでるんです


……警察にも相談に行きましたよ。相手にしてもらえませんでしたけど」


塩原の剣幕に気圧されてしまったらしい。城山は目を瞠って聞き入るばかりだった。水貴も似たようなものだった。だが、相手のペースに飲まれているばかりではどうしようもない。――このままではいけない。水貴は胸の奥でつぶやき、軽く咳払いした。


「そうでしたか……。警察に相談行かれてたんですね」

水貴は塩原に調子を合わせる事にした。決してなだめようとしてはいけない。


「ええ……。悔しかったわ。お年寄りの言うことだからと誰からも相手にされないんです。酷すぎる」


「誰にも相談できない……そう思われたんですね」


徐々に水貴の言葉が塩原に届いていく。手応えはあった。


被害妄想から出た発言を安易に肯定してはいけない。怒りの感情が固定されるからだ。だが否定するのもよくないとされている。――話を聞いてもらえない――そう思われたら、そこで繋がった支援の糸が途切れる。


それにしても感情の起伏がジェットコースターのようだ……第一印象の上品さはあっという間に姿を消している。場の空気をこちら側に引き寄せたい。そう思った水貴は、塩原の言葉と表情の全てから感情の変化をとらえていく。


口元を引き締め、静かに頷いて同意を示す。

なだめようとするのは逆効果だ。怒りがあるならその感情に同調する。その駆け引きが幸をそうした。徐々に塩原の口調が落ち着きを取り戻したのを見計らい、水貴は切り出した。


「できることはお手伝いさせてください。そして私もヘルパーを探してみます」


「ちゃんとした方、見つかるかしら」

塩原の表情にはまだ不安が滲んでいる。


「やるだけの事はやります」

水貴は瞬時に笑顔に切り替え、応じる。


とは言え

――これは絶対、受診しなければ同じことの繰り返しになる。

心の中でそうつぶやくしかなかった。第一段階クリア、とさえまだ言えない。

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