都合のいい関係から始まる私たちの生活

恋みぞれ雨

第1話 恋愛感情なんて……

 ――――朝目覚めた時、目の前に広がっていたのは見慣れない天井だった。いや、正確には「見慣れないけど知っている」だ。


 光沢のある安っぽい壁紙。天井の端に埋め込まれ、点いたままの淡いピンクの照明。空気清浄機の低い駆動音が聞こえ、わずかに漂う甘ったるい芳香剤の匂いがする。


 あぁ、ここはラブホだった。


 それを思い出した瞬間、背筋を襲ってきたのは冷たい汗などではなく――全身を貫く鈍い痛みだった。


「……いった……」


 小さく呻いて、首筋に手を当てる。じわじわ広がる筋肉痛は、背中から腰、太ももに至るまで、重だるくて軋むように感じる。こうなったのは、間違いなく昨夜のことが原因だ。


 身じろぎしていると、規則正しい寝息が耳に届いた。もちろん私のものじゃない。私は起きてるんだから。


 恐る恐る隣を見やると、そこにはスーツ姿の若い女性が、布団に包まって気持ちよさそうに眠っていた。


 彼女は、数年くらい前から店によく来る常連客だ。料理と酒を飲んで、いつも気前のいい支払いをして帰っていく。目立つほどの派手さはないけど、妙に記憶に残る顔。歳は私よりずっと下。名前は――知らない。


「……あぁ、そうだった。この人もいた」


 布団の中で頭を抱えかけるが、痛みがひどくてそれすらままならない。肩をさすりながら、私はぼんやりと彼女を見下ろす。


 無防備な寝顔。仕事の疲れをそのまま引きずったような、けれど安堵に包まれたような表情。それを見ていたら、ちょっとだけ起こすのをためらった。


 ……いやいや、悠長に見ている場合じゃない。そろそろ起きてもらわないと。


 私は布団の上から、彼女の肩にそっと手を伸ばした。


 どうしてこんなことになっているのか。話は昨日に遡る――――




 ――

 ――――

 ――――――




 私、桜井京子さくらいきょうこの朝は早……くはない。

 いや、むしろ遅い方だと思う。


 職場である居酒屋の営業時間はお昼前から。だから、朝に使える時間だけは人よりずっと多い。けれどその分、油断してダラダラ過ごしてしまうのもまた事実だ。


 職場と言っても正社員ではなく、フリーターの身分。しかも、あと何ヶ月かすれば三十七歳……文字にするとちょっと重たい。数字ってどうしてこう、現実を突きつけてくるんだろう。


 洗濯物を干し終え、いつものようにのっそりと玄関を出ると、空は見事な晴れ。上から降り注ぐ太陽の光に目を細め、両腕をぐーっと空に向かって伸ばした。


「ふぁー……んーっ……あ、いててて」


 肩から背中にかけて、ピキッと筋肉が悲鳴をあげる。二十代の頃はこんなことなかったのに、今では毎日のように小さな悲鳴を聞かされている。


 三十を超えてからというもの、身体の変化を否応なく感じさせられる瞬間が増えた。徹夜なんてしようものなら、丸一日寝込んでも疲れが取れないし、ちょっと食べ過ぎただけで胃が重たくなる。無理は効かない。無理をしたら、翌日どころか翌々日まで尾を引く。


「このまま独り身で、四十、五十ってなったら……どうなるのかしらねぇ」


 ぽつりとつぶやいた声が、誰もいない住宅街の朝に溶けていった。


 でも、答えなんて出るはずがない。未来のことなんてわかるわけがない。わかっていたら、きっともう少しマシな人生を送れていたんだろう。


 けれど、これが私の選んだ人生だ。今更後悔するなって言われてもする気はないし、学生時代に戻ってやり直せれば……と思ってもいない。


 そんなふうに考えながら歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。嫌な予感しかしない。取り出して画面を見た瞬間、顔が引きつった。


「……げっ」


 表示されていたのは「母」の文字。


 この時間にかかってくる電話といえば、もう用件は一つしかない。毎日というほどではないけれど、十年以上も繰り返されているんだからわかりきってる。


 できることなら無視したい。でも、無視すればそれはそれであとが面倒。つまり……出ても出なくても面倒なことに変わりはない。だったら最初から受けたほうがまだマシかもしれない。


 深呼吸をひとつしてから、通話ボタンをタップした。


「も、もしもーし?」


『京子! あんた、まだ結婚相手見つかってないの!? 職場で出会いがないわけじゃないでしょ!?』


 ……やっぱりそれか。


 母の第一声が、まるで録音テープの再生ボタンみたいに毎回同じだから、返事をする気力すらそがれてしまう。


「だからさぁ……こんな三十七歳目前のフリーターを相手にしてくれる人なんていないってば……」


『いつ聞いてもそれね!? だったらどうしてこの前紹介した人に決めなかったの!?』


 案の定、その話を蒸し返してきた。


 少し前、母に「一回だけでいいから!」と押し切られ、渋々母の知り合いの人の息子という男性と見合いのような席についたことがある。


 相手は二歳年下で、大手企業勤務。条件だけ見れば文句なし。顔も、まぁ悪くはなかった。けれど、話してみたら中身は薄っぺらい。テンプレみたいな受け答えばかりで、こちらの言葉を深く考えて返す様子もない。なんというか、私と一緒で心ここにあらず、って感じ。


 極めつけはあの視線。会話の合間に、じろっと私を舐めるような目で見てきた。その瞬間、背筋がぞわっと冷たくなって、全身に鳥肌が立った。


 あれだけで無理。どんなに条件が良くても、生理的に受け付けない。


「……んー、単純に合わなかった」


『まったく……。じゃあ今度は近所のいい人を探しておくから、空いてる日をまたメールしなさい』


「え?」


 思わず声が裏返った。


 一回だけって言ったのはどこの誰だったっけ。


 母の「一回だけ」は「一回で終わるわけがない」の隠語だってことを、私はまたひとつ学んだ。


 結婚に対する母の執着は、年を追うごとに強くなっている。きっと「孫の顔が見たい」という願望や「親としての責任感」なんかが全部ごちゃ混ぜになって、もうブレーキが利かないんだろう。


 まぁ……正社員にもならず、この歳でフリーターなのは心配されても仕方ない。けれど、結婚なんてなぁ……。いや、こんな私だから結婚して養ってもらわないといけないと思われるのかもしれないけど。


「あーごめん、もう出勤時間だから。またね」


 そう言って通話を切ろうとした。


『え? こら京子! ――――』


 最後に聞こえたのは、母の怒声。ブツッと切れた通話のあとも、しばらく耳の奥にその声が残り続けた。


 私はスマホの電源を切って、ポケットに戻した。心の中に重たい石がひとつ落ちたみたいに、気分がずんと沈む。


 空を仰ぎ、深呼吸。真っ青な空は綺麗なはずなのに、心は晴れない。


「恋愛感情なんて……私にはよくわかんないからね。ましてや結婚なんて」


 つぶやいた声に自分で苦笑する。


 そんなものがわかっていたら、母にこんなに責められることもなかったはずだ。


 軽くため息をはきながら、私はいつものように職場へと足を進めた。

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