タイタン州立遺伝学研究所

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第1話 タイタン州立遺伝学研究所

『土星の衛星、太陽から遥か一二〇万キロメートルにあるタイタンの南極。激しい流れのメタンの大河と氷砂の渚が入り組んだ複雑な地形は、地球のリアス海岸を彷彿とさせます。更に奥には、周囲を取り囲んでいる氷の大地とは隔絶された巨大な氷塊があり、その氷塊の空洞の中には、逆ピラミッドが複数段重なった建築物が見えますね。これこそ我々の故郷、タイタン州立遺伝学研究所でございます。弊研究所では、日夜研究員たちが生命の設計図であるDNAの解明と、ゲノム編集技術を応用した遺伝子工学の進展に粉骨砕身しております。

 人類のゆりかごであった地球。その在りし日は、多様な生命が、美しい自然界を形作っておりました。タイタンに人類が下りたったその日より続く我らが研究所は、不毛の惑星に命の芽吹きと、未曽有の宇宙の脅威に立ち向かえる強き生命の実現に日進月歩努めているのです…。


―――土星の衛星、太陽から遥か一二〇万キロメートル…』


 穏やかな女性の声を模した人工音声のアナウンスが、有機高分子ガラスのモニターに映し出された研究所の紹介映像と共に、一切の滞りを感じさせないままにひたすら繰り返されている。

 長椅子に座った女は、その大きなモニターをじっと見つめていた。ミント色の病院服を着たこの女は、放射状の虹彩が彩り豊かで、乱れ髪も構造色のベージュが照明灯で乱反射し、凡そ現生人類とは思えない容貌である。どうやらこんな奇妙奇天烈な風貌でも、この場ではある程度の市民権があるようで、他にも異常な髪色の者や、そもそも毛髪其の物が無い人間も、お行儀よく等間隔に座して、静かに指示を待っている。


「 次! 番号2C753F 」


 甲高い看護師の声が廊下の白い壁に反響する。女は勢いよく挙手し自分の番であると示す。腕を繰り出す速度とは対照的に、女はのそりと身を起こし、合皮の硬い長椅子から流れ落ちるように起立する。


「 はい私です。 」

 

 人によれば不愛想とも見て取れる端的で事務的な返事も、ここでは機械的な洗練された応答として受け取られるのだ。この研究所では求められる資質以外の気質は須らく無用である。


 彼女の置かれた世界の情勢について、事実と真実が入り混じる情報の坩堝から、掬い上げられる幾分有用な因果関係の説明は困難を極める。歴史とは、勝者のみが語れる主観に過ぎないためだ。古代と現代、どちらの情報がより十分で、正確性を持つかは、判然としない。現代だからと言っても、全ての事象が正確に把握できる訳ではない。

 限りなく膨張しきった行政機関の力を以てすれば、〈歴史的事実〉を〈政治的真実〉に出力し直すことは容易だ。下手をすれば、古代のペルシア戦争と現代のイラク戦争では、ペルシア戦争の方が分かっていることが多いかもしれない。そのため、この世界を俯瞰して話せば、大抵大味な説明となる。


 第三次世界大戦をなし崩しで終えたこの世界では、明確な勝者は国家単位では存在しえなかった。結果的に、台湾危機に端を発する争いは、アジアの民主主義を駆逐し、超大国アメリカの経済的優位を破壊し、欧州と中国の旧大陸間の蜜月関係を齎した。

 東アジアの自由主義者・民主主義者は初期開拓時代の月面や火星へ逃げ延び、現地の政治・経済・技術に大きな影響力を根付かせている。彼らの悲願は故郷を、彼の邪知暴虐なる全体主義者から解放することである。 そして、そのイデオロギー的目標を達成する為に、旧世界(地球)と新世界(月・火星)の見えない戦争が繰り広げられている。その戦場は、学問・経済・産業・軍備・文化・外交・諜報・情報戦と多岐に渡り、国家間での闘争が人類全体の文明水準の底上げと、同一コミュニティ間での途方も無い格差を押し広げていた。

 この研究所もまた、宇宙生物学の基礎研究と生命工学の応用という領域の一兵科として計上され、遺伝子改変による知的生命の能動的進化の研究と、それによって生み出された新人類の実社会での活用について、実学的な研究がなされていた。


 この研究所は土星の第六衛星タイタンの南極部に位置し、タイタン全土の行政・司法・立法は、上位機関のタイタン開発局が執り仕切っている。これらの中央集権的な体制は、タイタン自治政府の国力向上に大きく貢献したものの、付随して国際水準よりも低い人権意識が醸成される下地となった。このような社会構造であるので、この研究所においても、人道的倫理観に反した実証実験を経て、超国家主義的な目的を主眼とした人的資源の生産が執り行われていた。人的資源のリソースが基幹産業に割かれてしまう本国政府に代わり、ここタイタンを始めとした植民惑星では違法な人体製造を受け持つという分業体制が確立していた。

 表向きは実験体のための、自己意識を持たない個体とされているが、実情は異なる。彼女もまた、そのような被検体の一個体であって、この日は被検体らの定期診断日であった。



 さて場面は変わり、タイタン開発局の局長室である。ここに、二人の人間と一筐体の人工知能がいた。一人は、垂れ目に細縁の眼鏡を掛けた白髪の男。次いで、黒塗りの軍服を着た青年の男。そして、透明なディスプレイに映し出された研究所の管理システムAIである。

 天井から壁面、床に至るまで真っ白に塗装された部屋では、開発局の今後の方針について会議が催されていた。


「さて諸君。月面共同体からのお達しだ。端的にまとめると、人員派遣の要請とのことだ。」


 ひび割れた局長の口から、淡々と電文が読み上げられる。くいと眼鏡に手を添えて、利き手のレーザーポインタをスクリーンに投影する。


『…昨今の国際情勢において、我が国は先んじて地上降下戦闘可能な特殊部隊を創設する方針となった。故に、タイタン軍閥の精鋭から有望な士官候補生、並びに戦闘員候補を派遣してほしい…。』


 軍服の男が口を割る。不機嫌そうな態度を隠そうともしない慇懃無礼な性格が服を着たようなこの男は、腕を組み直し、低い声を咽喉に籠らせて話す。


「本国の政治家連中は余程選挙に御腐心のようで。前政権が軍縮を掲げた挙句、政財界のスキャンダルで失った求心力を、外部への〈防衛戦争〉で解消したが為でしょう。本国がこのような聡明な官僚に率いられているとあれば、我らが組織の行く末も安泰で御座いましょうなあ。」


【今期の人員育成は、やや予定人数を下回っていますが、質については平年に比べ優れている傾向にあります。資料に掲示した人材の提供も充分に可能です。】


「…管理システム殿は大層慧眼であるな。」


【統計情報の共有は組織的整合性を維持する上で不可欠ですので。大佐殿。】

 

 局長が居直して話を続ける。


「…本国としても、我々のような植民土地開発の成果を確かめたいのだろう。惑星植民とは一種の賭博だ。多大な投資に対して、正当な報酬を民心に示す必要があるのだよ。この開発局が設置されて早十五年。地球と月面の緊張状態は、当時の苛烈さを取り戻しつつある。月面と火星との連携が増々迫られる折、早々に前政権の紛争介入に決着を着けたいのだろう。」


 件の紛争とは、宇宙陣営と地球陣営の代理戦争のことである。月面・火星連合と地球の利権対立に起因する国境紛争は、南北日本、インド、南米において熾烈を極めており、南北日本の軍事衝突に至っては、月面が直接の軍事介入を行う深刻な情勢に陥っていた。


「我々開発局としても、政権が安定していることとは別問題に、本国からの積極的な経済支援が未だ必要なのだよ。」


「勿論理解しておりますよ。局長殿。併しながら、私が申し上げたいのは、我々の同意も準備期間も無しに、本国側からの命令で、我らの〈財産〉を納めなくてはならない状況というのは、軍事的合理性も宇宙植民条約の履行にも疑問符が付けられるということです。」


【その点についてはご安心ください。既に資源管理課において、候補者の最終選抜を完了しております。また、植民都市での自治独立・意思決定機関の尊重という点につきましても、法令上問題となる箇所は回避する手続きが既に完了しています。】


 軍服の男が怪訝な顔を張り付けたまま、口を噤む。


「そのような手筈ということだ。田村君、良いかな?」


 局長が軍服の男の顔を窺いながら尋ねる。


「…我が軍の立場と致しましても、軍質と規律を示す良い機会となるでしょう。彼らも正規軍として武功を挙げることが、軍人の本懐でありますから…。」


 その言葉を聞いた局長はそっと胸を撫で下ろし、連絡会議を終了した。



 黒い軍服を着た男の名は田村という。その来歴についての詳細は割愛するが、彼はタイタン開発局内において、超国家主義的思想の伝播の張本人であり、局内での政治的派閥を構成している。彼の派閥を外部の軍事関係者は〈タイタン軍閥〉と呼称しており、その頭目である彼は、本国参謀本部内で要監視対象人物に分類されていた。


「私の言質が必要だったのだ。あの白狸は!」


 田村は自室に入室するや否や、声帯の奥に湛えられた鬱憤のダムを大放出した。


「タイタン軍閥が政治に幅を利かせている現状、局長だけでは最早開発局の自主的な意思決定など不可能となっているのだぞ!」

「そうと知っての、あの何の意味もない会議か!」

「終始あの機械風情に捲し立てられただけではないか!」


 田村は頭の中で、熱を帯びたこの言葉を何度も滾らせた。そして暫く言葉の洪水が彼の不満を押し流した。


「…望むべくもないことだ。」


 彼は冷静になって物事を考えられる体温になった。タイタン軍閥の息のかかった人材が本星で活躍すれば、当然本国参謀本部も彼の派閥をいよいよ無視できなくなる。天下無敵の参謀本部と言えども、自軍の勝利を手放しで誇ることが出来なくなれば、彼の発言力は局内外にて強化されるだろう。

 彼はそう溜飲を下げる。そして限られた自由時間の中で有意義に睡眠をとるべく、熱くなった額と速くなりすぎた鼓動を落ち着かせることにした。



 会議から一か月後。タイタン南極から月面シャクルトン国際宇宙港へ、候補生たちを移送する大型船が停泊した。本来この船は、タイタンを始めとする土星衛星の植民惑星から、鉱物資源や研究試料の移送などを生業としているが、時折要請された人的資源を本国へ輸出する場合でも重用される。

宇宙への進出が盛んになった今日でも、やはり気軽に本国を行き来することは難しい。そのため、この日は、候補生を見送るために出立式がこの船の応接室にて開催された。倫理性よりも合理性を幾何も重視する開発局の管理者たちが、人間性を配慮するような措置を講じるには理由があった。開発局は、表向きには被検体たち、つまりはタイタン開拓民の赤子を、健康上の問題から政府が管理しているという体裁を取っている為である。無論、人間工場から産出される被検体らに親など存在せず、当然候補生にも親はいない。故に局長や事務員、田村などの軍関係者が主な来賓であった。


「えー…。君たち候補生は、我々誇り高きタイタン開拓民第一の市民であり、月や火星での武功を信じて疑いません! 皆さん。是非ともタイタンの市民ということを肝に銘じ、里親の方々とも円満な家庭環境を育むように。皆さんの一挙手一投足がタイタンの威信を評価する基準となるのです。ですので、来賓の皆様には、今後とも我々開発局へご協力を…」


 局長の激励は、子供の駄々のように内容が希薄で、老人の昔話のように冗長であった。他の来賓は欠伸をする一方で、候補生八名は椅子の背凭れから胴を離し、背筋をピンと張り詰めている。


 かくて形式的な式典が終わり、続いて出席者達は立食パーティに出席する。タイタンでは植物工場・畜産工場・炭水化物醸造プラントが稼働されている為、必要な栄養は毎日配給されるが、食事を楽しむ程に余裕のある日は年に数えるばかりである。そのため、局長や田村のような外部顧問を除くと、植民都市の人間は往々にして食事への欲求は低く、料理を楽しむという文化は受容しにくいのである。立食パーティというのも、候補生たちは初めての体験であるので、どうすべきか分からずオドオドしている生徒もいる。

 ともあれ、候補生は候補生同士、幹部は幹部同士で会話に華を咲かせている。候補生同士は、新天地での生活に夢見て、月や火星の都市を巡りたいと話したり、データとしてしか認識していない地球の建築物や美術品について饒舌になったり、新しい生活様式に不安を漏らしたりするなど、種々の受け止め方が見られた。

一方で、幹部達は、月面と地球間での軍事衝突が激化している件や、系外文明との協調路線に舵を取った火星政府の外交についての議論に勤しんだ。食事会の当初こそ粛々としていたが、皆酒が回るに連れて日々の厳しい統制から解放された反動か、羽目を外し宴に興じた。


 二十年物のウィスキーを片手に、田村は応接室から離席し、艦橋付近にある展望デッキに向かった。備え付けられたソファに腰掛け、タイタン南極の織り成すオーロラを見ながら酒を仰ぐ。彼はこの至福のひと時以上に贅沢な時間の使い方を、タイタン赴任の折より、経験したことが無かった。興が乗って、グラスの内壁に丸氷をくるりくるりと滑らせる。

ふと隣に視線を流すと、ソファに先客がいた。放射状の虹彩が彩豊かで、まとめられたベージュの髪が美しい女性だ。式典用の制服から、田村は彼女が士官候補生の一人であると分かった。


「お隣、失礼しますね。」


「これは田村大佐殿! こちらこそ失礼致します。」


「良い敬礼だな。大佐の田村だ。君の名前は?」


「はいっ! 先ほど『神崎栞』を拝命致しました。」


「…食事会は満喫しているかね。」


「はいっ! ですが、少し酒気に当てられてしまいました。ここで休んでいた次第です。」


 まるで教師を目の前にした優等生のように、彼女は活発に答えた。


「ははは…そうか。そうか。」


 田村は困った。会話のタネが見付からないのだ。いや固より一回りも二回りも世代が違う異性と話すこと自体、軍学校の内部進学組であった田村にはハードルが高い。当然だろう。どうにか相手に主導権を押し付けて、自分は適当な話の節目で応接室に戻ろう。そう考え始めた矢先、神崎が話し始めた。


「あのっ! 大佐殿はなぜタイタンに赴任なされたのですか⁉」


 しめたっ! この手の自分語りは幾らでも話を膨らませるし、自分に都合の良いタイミングで切り上げることが出来る。きっと彼女が気を利かせてくれたに違いない。何と良い子だろうか!


「あぁ…。君は、このタイタンの自然環境が齎す国益について聞き及んでいるかね? この衛星は太陽系の中でも最大級なわけだ。宇宙艦隊のドッグに十分な重力を持つ天体だから、想定される系外勢力に対する防衛拠点として機能しているのだ。更にタイタンの海に豊富に含まれる有機燃料! これは長期航海する宇宙船には必要不可欠な資源なのだよ。次いで、ここは液体ヘリウムも産出されるからね。これも、宇宙船のエンジン冷却液やら、量子コンピュータと超空間通信を起動し続けるのに必要だから、この星は国防・資源採掘、この二点において極めて重要な地政学的要衝なのだよ。」


 自分に投げかけられた質問を、脳裏に散らかった知識を基に答えたためか、変な口調になっていることにさえ気づかない。酒が回っていることも相俟って、完全に脳が当惑していると感じた。


「そうでしたか…。為になる見識をご教授下さり、ありがとうございました!」


「ところで君はなぜこの展望室にいたんだい?」


 話を続けるために、今度は此方から話題を振る。これこそコミュニケーションの基本であるな。


「旅立つ前にオーロラを見に来たのです。」


 なるほど確かに。タイタンのメタンで構成された大気と太陽風の織り成すこの自然現象は、月面では観測できない。神崎たちは、当分この絶景ともおさらばだ。

「なるほど。やはりこの景色は一級品だな。」


 …返事が無い。何か気に障ることを口走ったのだろうか。田村は焦り出す。


「どうしたんだね。急に黙りこくって。」


 すると、彼女が話し始める。


「あの…。実は先の質問の真意なのですが、大佐殿ほどの崇高な志を抱いている方が、なぜタイタンのような僻地に赴任されているのか知りたかったのです。」


 田村は表面的に褒められていると同時に、自身も内心薄々気づいていた核心に迫る痛烈な批判に曝された気がした。動揺する心を抑え、田村は返答する。


「それは…どういうことだね。」


「はい。私は大佐殿の執筆された『文明改造論大綱』を拝読致しました。中央の腐敗しきった政府と、一向に問題を解決しようとしない月面の官僚連中に活を入れる素晴らしい思想書だと思います。」


「そうかね。いやあ中々、君見所があるねえ。」

「過分なお褒めを預かり光栄です。」

 

 田村の口角が少し緩んでいるのとは対照的に、彼女の表情はより一層真剣な面持ちになっていった。


「大佐殿はなぜ実行なされないのですか。」

「…なんだというのだね。」

「あれ程までに思慮深い計画を立案されているのに、なぜ人類のためにそれを実行に移されないのですか。」


 唐突な質問に田村がしどろもどろしていると、神崎は我が子を責め立てる親のように畳み掛けた。


「私のように『文明改造論大綱』に賛意を示す国民は多いのです。であれば、本星の政党政治に風穴を穿つこともできるでしょう。なぜそうなさらないのです。なぜこのような辺境の土地で派閥を造られたのですか! その派閥があなたに何か大事を成させる手助けになりましたか?」


 田村に火が付いた。握り締めたグラスの氷が、田村の体温で汗をかき始める。


「君! 随分と上官に対して失礼な態度ではないか⁉」

「大事の為ならば、社会的立場を問わず、国民が協和して意見を述べ合うことが肝要であり、立場が上の者も寛容な心を持つべきだとおっしゃられたのは閣下ではありませんか。私はかつての大佐殿がおっしゃられたことを、閣下自身に実践しているだけであります。」


 グラスがテーブルに叩き置かれた。変形した氷がからりからりとグラスの壁面を滑る。

「今日の非礼は、宴の無礼講の一環として許す。だが本星の連中にはくれぐれも非礼が無いように…。神崎君。」

 ソファに掛けた上着を取り、田村はその場を去った。タイタンの小さな重力は円柱型のグラスの内壁を溶けかかった氷がくるりくるりと滑り続ける。氷の軌道を落とすには重力が小さすぎたのだ。



 自室に籠ると、田村は冷気を含んだ溜息を吐いた。


「彼女をあのように教育した管理AIは何を考えて…。いいや、私があれを生み出したのだ。そうだ。そうなんだ…。大事の為には必要な実績なのだ。」


 額の汗を滅菌されたハンドタオルでギュッと拭う。

 理論と現実が乖離するように、彼の理想と本星の現実は遊離しつつあった。だが、彼は理想を現実に合致させるよりも、理想に合わせて現実を捻じ曲げる方を選んだ。彼は彼女含む八名を派遣する正式書類にサインをした。



 出立当日。田村は旅立つ候補生を載せ、資源を満載した船の出港に立ち会った。分厚い窓ガラスから誰かが手を振っているのが見えた。田村はその顔を十分に判別できなかったが、こんな豪胆なことをするのは彼女くらいだろうと思った。


 メタンも凍てつくような大気を突き抜け、土星の重力を振り払い、一路月面へ邁進する船の航跡を、田村は茫漠とした感情の目を受け皿に見守っていた。彼女との会話の中で、田村は自分の今までの行動を顧みた。自身が地球に残った家族の反対を押し切り、月面の軍大学へ進学したこと。国家を守護する立派な同僚の一方で、最前線から離れた安住の地で大佐の地位に甘んじていること。自ら組織したタイタン軍閥で、将来の国家を憂う議論を重ねても、自身は何ら目標を定めず、気の良い同僚と日々を浪費していること。一植民都市での政治的発言力を高めるのに躍起になり、かつての自身の心に抱いた大志を忘れたこと。



 田村の目には何も見えなくなっていた。自身の至らなさも、彼女が手段を択ばず道を切り開いたことの正しさも。自身が夢に見た超国家主義的な人々の在り方が、個人利益の追求という顛末を迎えたことも。


 彼は翌年火星の軍大学へ再入学した。彼自身の身の在り方と、今後の国家の趨勢を考えてのことであった。


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