呼ばれる名前
沙知乃ユリ
呼ばれる名前
平日の昼過ぎ。春の光が、やけにまぶしい。
車道の桜を揺らした風が、ガラス越しに頬を撫でた。
ゆっくりと走るバスに揺られる。
流れていく景色は、春の匂いと車の音を抱えていた。
柔らかい日差しが黒のワンピースに吸い込まれてゆく。
生地が熱を帯び、ジリジリと私をつつく。
窓側に座ったことを後悔し始めた頃、お腹が鳴った。
帰りに何か食べよう。
バスが橋をわたる。眼下にひろがる大きな川は、日の光を浴びてキラキラ輝く。
この景色がいつも好きだった。
橋を越えると目的地が見えてくる。
病院だ。
バス停から病院までのわずかな距離。
雪がとけて、新鮮な草木の匂いが鼻をくすぐった。
自動ドアの無機質な開閉音を背に、緑の香りとお別れした。
病院内は蛍光灯の白い光に照らされていた。
明るいけれど、どこか暗さを含んでいる。
最近、少し好きになれた気がする。
鞄から診察券を取り出す。
鞄の底にはいつも入れている、薄い折りたたみ傘がチラリと見えた。
天気がどうであれ、
私はいつだって折りたたみ傘を持っていた。
すみやかに受付手続きを済ませ、検査室へ向かう。
病院のお作法にも慣れきって、もはやベテランだ。
私の番号が呼ばれ、採血室の席につく。
棒っ切れみたいな、青白い腕を台上に差し出す。
……
今日は全然痛くなかった。そういうとき、大抵は調子が悪い。
ふと、一人で過ごした病室の匂いがした気がした。
唾液が苦い。
心臓が早くなる。
お腹の奥がモヤモヤと揺れ出した。
“そんなときは少しだけ、ため息をついてみよう”
いつかの言葉がリフレインされた。
胸をあげて息を吸う。音を出さないようにしながら、最後まで息を吐ききる。
……
悪いものが出ていったみたい。
体の揺れは震度一くらいになった。
“一歩ずつ、足の裏で体重を感じてみよう”
右膝が少し痛む。
左足の親指の爪が伸びてる。
冬用の靴下はもう暑いな。
いつの間にか2階の診察室の前にある、少し広めの待合室にたどり着いた。
窓からの眺望が良い、私の指定席に座る。
暗い気持ちは、もう晴れていた。
クローン病。17歳で出会った、私の相方だ。
当時、何となしに不調が続いた。
両親が見たことない真剣な目だったのを覚えている。
学校を休んで受診することになり、私の肩は小さくなっていた。
内科の待合室には、朝の光を飲み込んだ蝋のカタマリが並んでいた。
名前を呼ばれるたびに、ひとつずつ溶けていく。
まだ名前のない私は、古い番号札を握りしめていた。
やがて順番がきた。
私は、溶けてしまわないように光を避けて診察室へ入った。
秘密にしておきたい暗闇さえも曝け出すような蛍光灯の下で、
先生だけは太陽のように笑っていた。
鶴を折るように自然な手つきで、
一つずつ折り目をつけて、
私の中に病気の輪郭を浮き上がらせた。
隣にいた母は梅雨。後ろに立つ父はカンカン照り。
私は。
秒針の音だけを耳に響かせていた。
ふと、先生の目尻の深いシワが微笑みかけていたことに気づく。
体の芯にポッと灯りがついた。
私も蝋のカタマリになった気がした。
聞き慣れた看護師の声がした。
彼女は私に軽く会釈して、目の前を通った。
私は投げ出していた足を整えた。
彼女の後を、いかにも辛そうに体を傾けた女性がゆく。
付き添いの男性が連れ添う。両手に大きな鞄をもっている。
入院、かな。
そっと、お祈りした。
私の初めての入院は冷たい風が頬を突き刺す受験の冬。
二度目は同期と花火を見に行く約束をした夏。
三度目の入院のとき、私の中で何かが崩れ落ちた。
点滴の落ちる音が、私の呼吸音だった。
息を吸うたびに、終わりのときが近づいてくる気がした。
廊下からカートの走る音に混じって看護師の話し声が顔を出す。
「クローン病のヒト、明日の朝も採血だって」
クローン病のヒト、それが私の名前だった。
腸のお面を被せられたみたいに、生々しい匂いがした。
なぜ私が、私だけがこんな目にあうのか。
カレーも、すき焼きも、パスタも、ケーキもダメ。
最後に食べたのはいつだろうか。
カラオケもボーリングもデートも夜更かしもダメ。
やりたいことが何もできない。
普通の進学、普通の就職、普通の恋愛。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーんぶ駄目になった。
小さな女の子がお腹の中で迷子になり、あちこちで泣いていた。
私の口から漏れた女の子の叫びを聞いた人は、どんどん倒れていき、傍には誰も居なくなった。
泣き声が、臓腑の皺を擦った。
ワンピースの裾を伸ばし、小説を開く。
栞から再開した紙面には、洞窟を進む少年達の姿。
昼の光が差し込んで、松明のように彼らを照らす。
背表紙を撫で、指先が温度を取り戻す。
先生は私がどんなにハリネズミでも、かまわず温かった。
目尻のシワを一層深くしながら、次の手を用意してくれた。
私が諦めても、先生は諦めなかった。
トゲトゲの私に、いつも暖かい空気を送り続けた。
入院中、暇を持て余した私に、先生はいつも本を片手に会いにきた。
話題の本から、本棚の奥でカビが生えたような古い本まで。
ぜんぜん私の趣味じゃない。わかってない。
でも私は読んだ。読んで文句を言って。読んだ。
「若い子の趣味はわからないんだ」
先生の困った顔を見て、私はほくそ笑んだ。
眼球の裏に花火があがっていた。
あの頃の私たち、北風と太陽の物語みたいだったね。
いつの間にか私の針は一本、二本と抜け落ちて。
今は、たまに飛び出す頭のツノが数本あるだけ。
私のトゲが抜け落ちたからなのか、新薬に変えたからなのか。
幸運なことに、ここ数年は病状が安定している。
大好きだったチョコレートケーキも、時々なら食べてもよくなった。
甘い欠片が口のなかでほどけると、あの頃の味が胸の奥から立ち上がった。
諦めていた仕事は、先生が背中を押してくれた。
フルタイムは難しいけれど、不定期に派遣で働いている。
優しいひと、変なひと、色々な人と出会う。
そのたびに笑ったりモヤッとしたりしている。
冷や汗が背中を伝い、椅子がひんやりと沈黙した夜もあった。
だけど、それすらも楽しめるようになった。
気がつけば30歳を超えていた。
両親の背中は小さくなり。
周囲は結婚や出産の話が増え。
主治医は定年退職した。
今は、若い男性医師が担当医だ。それでも私は大丈夫だった。
将来のことはわからない。
漠然と、中途半端に狭い部屋に閉じ込められている感覚はある。
もはや、どこへでも行ける年齢ではない。
でも、これってきっと。
みんなが体験している、ふつうの感覚。
今、それを感じられていること自体、すごいことなのだ。
今日で、“私の”先生とお別れして一年が経つ。
いまでも、あの診察室の向こうで。目尻のシワを深くしながら頷いている気がする。
だけど、それを想像するのは、今の主治医に対する裏切りのような感じがして、両足をブラブラさせて振り払った。
鞄からお薬手帳を取り出す。
処方シールにある先生の名前を爪でなぞる。
白いスジが流れて。
消えた。
窓の外でビュウッと風が吹く。桜のピンクが揺れる。
花びらが一枚、窓に貼り付き、しばらく震えて、また飛んでいった。
私の名前が呼ばれた。
春風がまた、通り過ぎようとしていた。
先生の声が、聞こえた。
――もういないヒトなのに。
温かさと、ほんの少しの痛みを残していったひと。
私はそのまま、春の風を吸い込み、歩き出した。
初めての日から、今日まで。
いろんなことがあったね。
まだ少し痛いけど。
明日からも、よろしくね。
ふと、待合室に並ぶ蝋のカタマリの中に、小さな私を見つけた。
そっと、温かい空気をプレゼントする。
溶けますように。
病院を出ると、急な夕立に降られた。
背の高い男性が傘も持たずに立ち尽くしていた。
私は、珍しく誰かと話したい気分で、傘を差し出した。
傘をうつ雨音のなかで、
灯りが、遠くでひとつ、ともり、すぐに消えた。
遠くで、雷の音がした。
――――――――――――――――――――――
◆あとがき
病院という場所では、いつも多くの“名前”が呼ばれています。
それは病名でもあり、誰かの生き方でもあります。
本作は、そんな日常の中で感じた“呼びかけのぬくもり”を描いた物語です。
名前を呼ばれることで、ほんの少し呼吸が戻るような瞬間。
そんな経験を、どこかで覚えている方に届けばうれしいです。
呼ばれる名前 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane
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