花天月地【第112話 同じ空の下】
七海ポルカ
第1話
休んでいた
「断じて、一度としてそのような方は離宮で見たことがありません」
彼女は言い切った。
同時に、今度のことにその人物が関係していると直感を働かせたのだろう、今までは
「一体何者です?」
素性が分かれば、彼女自身が殺しに行きそうな目で、曹娟が言った。
初めて
「そのような者ならば、離宮にいたのならば目立ったはずです」
彼女の声には、何故それなのにまだ捕まえることも出来ないんだ、という苛立ちがはっきりと現われていた。
誰も姿を見ていないのですと説明すると、強く眉根を寄せた。
万が一その者を取り逃がして、すでに外界に逃れているにしても、誰も見ていないというのは妙だった。
離宮に残っている全ての者に尋ねてみたが、誰もそんな老人は見たことが無いと答えたのだ。
捕まえられていなくとも、これだけ人がいて、自分を隠すこともなく堂々と老人は離宮の通路を歩いていた。見た者がいないのは変である。
その後に起こったことの衝撃で仔細は覚えていなくとも、何故こんなに目撃した者がいないのか。
しかし
「構いません。その人物は何か今回のことと関わっているのは確かのようです。
瑠璃殿、私は大丈夫ですから、どうか
それが奥方様をお助けすることにも繋がるかもしれませんから」
曹娟がそう言うと、瑠璃は「はい」としっかり頷いた。
荀攸は瑠璃と離宮の外に出て、再び離宮の門は固く閉ざした。
まだ夜も明けぬ時間帯だ。
「とにかく許都の街を見てみます。
この時間に開いている店となると限られていますから、日が昇れば本格的な捜査が街にも入ります。その前に少し見ておきたいのです。
本当は貴方のように若いお嬢さんを伴うような時間帯でも店でも無いのですが。
非常時ということで、どうかお許しいただきたい」
荀攸がそんな風に言ったので、真剣な表情をして街の方を見ていた瑠璃が笑んだ。
「どうかお気になさらず。こういったことは何事も経験になると郭嘉様がおっしゃっていましたから。けれど……不思議です。何故あの方を見た方が離宮に全くいないのでしょう?」
「私もそれは奇妙に思うのですが」
荀攸は上手く答えられなかった。
「ですが、瑠璃殿があの人を覚えていてくださって良かった。
店とのやり取りは私がしますので、瑠璃殿も何か気づいたことがあったらすぐに教えてください」
「はい」
馬に乗り、走り出す。
瑠璃は普通の少女なので、馬の扱いはどうかと一度振り返ったが、危なげはなかった。
荀攸は安心する。
弱くなったとはいえ雨はまだ降っている。
離宮から林を少し抜け、街道に出るとなだらかに下りながら、許都の街が見えて来る。
薄暗い林の道を駆けながら、荀攸はあの時のこと――通路で老人とすれ違った時のことを思い出していた。
荀攸は荀家の男であったので、小さい頃からその枠組みの中で育てられ、生きて来た。
孤独というものをあまり知らなかったと思う。
節度を保つ家風から、個人同士が慣れ合いまくるという感じでは無かったけれど、世の中には親類なども本当におらず、他人の家を間借りするように肩身を狭くして、それでも心を曲げず世に出て来る人間がいる。
彼らは本当の孤独だ。
家族など、欲しくても最初から無い。
そういえば今、後ろからついて来る瑠璃も、元々は身分違いで結婚出来なかった、郭嘉の父と別れ、新しく縁付いた先ではすでに子供がいて、本妻の子供達と一緒に暮らしていたと聞いた。
彼女は今、大らかで聡明な性格を見せているが、かつてはその家の人間関係に馴染めず、血の繋がっていない兄弟たちとは上手く行っていなかったらしい。
郭嘉が憐れみを感じて荀彧に良き養父母はいないかと相談するくらいだから、相当冷淡に扱われていたのだと思う。
女というものは、結婚で後の人生が大きく変わって来るものだから、親が良き相手を探してやらなければならない。元居た家の親は瑠璃に無関心で、心を掛けてやっていないのが分かったから、このままでは幸せな結婚も出来ないに違いないと考えたのだ。
本当に娘を大切に想う親ならば、娘を預ける先のことは吟味してくれるに違いないから。
最初荀彧は荀家も広く血がつながる一族なので、さほど血の近くない親類でも、子供を欲しがっている人がいるからその人たちに任せようと思うが、と郭嘉に告げたらしい。
郭嘉は荀家が後ろ盾になってくれればこれからのあの子の人生は間違いない、と喜びながらも、しかしあまり政治には関わらず伸び伸びと暮らして来た子だから、荀家のように立派過ぎる家では気後れしてしまい、和むことが出来ないかもしれないと断ったようだ。
荀彧は納得し、郭嘉がどのように瑠璃を育てたがってるか理解出来たので、荀家とは血は全く繋がっていないが、荀家の私塾や道場に出入りする知り合いの中で、特に人柄がよく、しかし以前から子供が無いため、養子などを取りたがっていた夫妻に任せることにした。
それが今の瑠璃の養父母だ。
以前とは違って、身につけるものも手習いなども、瑠璃は大切に教え育てられていて、時折見に行く郭嘉は嬉しそうだと、荀彧から聞いた。
荀攸の場合は荀家の者だったから。
瑠璃の場合は郭嘉という異母兄がいたから。
本当の孤独からは免れた。
自分を気にかけてくれる人たちがいる。
そういうものを全く持たない人間が、この世の本当の孤独な者たちだ。
寄る辺が何もない。
荀攸はそういった人間とは明らかに違う背景を持っていたが、
だが時折、強い孤独を感じることがあった。
世界に自分しかいないという、確信。
最初からあったわけではない。
ある時から、荀攸の心の中に、何か異質な領域が出来た。
完全なる静寂。
それまで聞こえていた人間の醜いざわめきが、
ある時突然、聞こえなくなった。
(生きている者が自分しかいない世界)
林から出ると、葉に遮られていた雨粒がまた降り注いで来たので、外套を深く被り直しながらも荀攸はあの老人と会った時のことを何とか仔細まで思い出そうとしていた。
しかしそうすると何故か思い出すのである。
最近では思い出すことも稀になっていたというのに……。
死の世界。
現世や、自分の周囲を彩る友人たちや知人たちからも完全に切り離されて、
闇の囲いの中で朽ちて行く。
何故かあの時のことを思い出した。
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