第7話 静けさの中で

世界は止まっていた。

窓の外では雪が降っているのに、その落ちる音さえも消えている。

風の気配も、街の遠いざわめきも、ひとつ残らず失われていた。

まるで、空気そのものが世界から切り取られたようだった。


家の中も同じだ。

夜の冷たい静けさが部屋を満たし、雪杜は布団の上でうつむいていた。

視線は沈み、呼吸だけが小さく揺れている。


そっと戸が開く。

晴臣が立っていた。

声をかけようとして――声にならない沈黙だけが落ちる。


「……雪杜」


そのひとことだけ残し、晴臣は戸を閉めた。

閉まる音さえ、どこか遠く、削り取られたように薄い。


胸の奥で、雪杜の心だけがゆっくり沈んでいく。


(……世界は壊れてしまった……)


もうどこで歪んだのかさえ分からない。

ただ、その先に咲良がいた。


(……咲良さえも……)


外ではイルミネーションが瞬いていた。

ただ光るだけ。

そこにあるべき人のざわめきも、鈴の音も、冬の風の呼吸も――跡形もない。


雪杜は窓の外へ視線を向けた。

光が雪を照らしているのに、その光でさえ、どこか死んでいるように見えた。


「……御珠がいたら……この光、どんなふうに……」


言いかけた言葉が、途中で消えた。

世界のどこにも届かない。

声という形になる前に、空気へ吸われて消えていく。

音のない冬。

まるで世界が“聞くこと”をやめたみたいに。


雪杜はかすかに息を吸い、ただその静寂の中でひとり座り続けた。


───


部屋の灯りは弱く、天井の端だけをかろうじて照らしていた。

雪杜は布団の上に膝を立て、スマホを開く。

画面の光だけが、冬の空気にひとつの温度を落とす。


通知が次々に飛び込んでくる。

文化祭のグループチャット。

劇のことで連絡があるかもと思って参加したままの部屋だった。


だが、その文字列は――どれも、同じ形をしていた。


「天野くん、大丈夫?」

「心配だったらいつでも話してね」

「今日の天気やばいね」

「冬休みの宿題、一緒にやらない?」

「天野くん、無理しないでね」


名前は違う。

送った人も違う。

でも、すべてのメッセージは同じ温度で、同じ呼吸で、同じ場所から打たれたように並んでいる。


句読点の置き方も、言い回しも、声の高さも――揃っていた。


雪杜は画面を見つめたまま、小さく息を吸う。


「……みんな……狂ってる……全部、僕のせいなのか……?」


震えを押し殺すような声だった。

自分の喉から出た音ですら、どこか他人事のように聞こえる。


その瞬間、また通知が鳴る。

連打するように明滅する画面。

どれも似た温度で、似た優しさで、似た無機質さで。


誰も悪意を向けているわけじゃない。

誰も憎んでいるわけじゃない。

ただ――誰にも“個性”がなかった。


スマホを握る手がわずかに震えた。

その震えだけが、雪杜がまだ“人間”である証のように感じられた。


(……世界が……すり減り始めてる……)


胸の奥で、誰にも聞こえない小さな軋みが鳴る。

それは世界全体が削られていく音で――

聞こえているのは雪杜ひとりだけだった。


───


灯りの落ちた部屋に、カーテンの隙間からの細い光だけが静かに落ちていた。


咲良はベッドの端に座り込み、胸を押さえている。

指が胸元の布を掴み、そこだけ皺が深く寄っていた。

肩は小さく震え、呼吸は浅い。

「雪杜くん」と唇が動くたび、その形だけで涙が落ちた。


だが、その涙が落ちる音さえ、どこにもなかった。

世界全体が“ミュートされた動画”のように、ただ揺れるだけだった。


窓の外では雪が降り続いている。

けれどその静けさは、美しさではなく“音の死”そのものだった。

舞い落ちる雪が、本来持つはずの冷たさすら奪われていく。


部屋から漏れる微かなすすり泣きが、薄暗い家の中に静かに滲んでいた。


電気の落ちた廊下で、澪は壁にもたれ込むように腰を下ろしていた。

廊下の闇に紛れるように、ただ静かに息をしている。


奥の部屋から、咲良の泣き声だけが微かに届く。

家中の空気がその震えを吸い込み、澪の胸へゆっくりと沈んでいく。


咲良の泣き声が、家の暗がりへ静かに溶けていく。


(……雪杜くん……)


澪は目を閉じた。

異変が起きていることは分かっている。

けれど、廊下の闇のなかで震える娘の呼吸を聞いているだけで、胸の奥がぎゅっと掴まれるようだった。


澪は拳を強く握った。

指が白くなるほど強く。


(……ごめんね……

 もう……私の手には負えない……)


立ち上がろうとする気配は、どこにもなかった。

動けば壊れてしまうような静けさが、廊下全体に張りついている。


澪の無力な沈黙は、遠く離れた雪杜の世界にある“孤独”と、同じ影を落としていた。


───


外では除夜の鐘が遠くで鳴っていた。

その音だけが、世界のどこかにまだ“時間”が残っていると告げているようだった。

けれど部屋の中には、その響きさえ届かない。


雪杜は布団の中で、胸元の勾玉を両手で包むように握りしめていた。

指先に触れる石は、深い底の水みたいに冷たい。

かつて御珠の息を宿していた温度は、どこにも残っていない。


光らない。

呼吸しない。

ただの石に戻ったような静けさが、手の中に沈んでいた。


雪杜は小さく息を吸い、唇を震わせる。


「……御珠……聞こえる……?」


返事はない。

ただ、無音が広がるだけだった。


「御珠……僕……もうどうすればいいか……」


それも、音として世界に残らない。

言葉という形を失ったまま、空気に吸われて消えていく。


雪杜は勾玉を胸に押し当てた。

震える指先が石の縁をかすめ、胸の奥で淡い痛みが弾ける。


(……御珠も、僕の声……もう届かなくなったんだね……

 僕……本当にひとり……)


自分の心の声だけが、まだ生きている。

だが、それも今にも消えそうな弱い灯だった。


そのとき――

部屋の外で、ほのかな“風のような気配”が揺れた。

本当に微かで、耳で聞いたというより、胸の奥に触れた感覚だった。


(……え……?)


雪杜は顔を上げる。

心臓の奥で何かが震えた。


「今……祠の方……?」


その気配は、山にある小さな祠――

御珠と初めて出会った場所を、細く示すように流れていく。


風が吹いたわけではない。

けれど“そちらに吸い込まれる”ような感覚があった。


「……呼んでる……

 御珠が……呼んでる……!」


雪杜は布団を跳ねのけ、立ち上がった。

涙の跡で赤くなった目に、それでも小さな光が宿る。


「……行かなきゃ……御珠に……合いに……」


奇しくも、あの夜と同じ大晦日だった。

靴を履き、玄関を飛び出す。

凍てつく空気が頬を刺すが、それすら雪杜には感じる暇がない。


「……御珠……待ってて……僕、行くから……っ」


外の世界は音を失っていた。

雪が空から落ちてくるのに、その気配すら響かない。

ただひとつ――祠の方向だけ、微かな呼吸のような揺れがあった。


その細い“風の気配”を追うようにして、雪杜は歩き出す。

音のない冬へ、静かに足音を刻みながら。

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