第6話 臨界
その夜、雪杜は布団に入ってからもしばらく眠れなかった。
心臓の音がいつもより近く聞こえる。
耳の奥で、静寂が泡のように膨らんでは弾けていた。
胸元へ手を伸ばす。
勾玉が、指先にかすかに触れる。
冷たい。
いや、冷たすぎた。
冬の部屋の空気より、外の風より、もっと深いところ――“温度のない場所”の冷たさだった。
(……光ってない……?)
薄暗い天井を見上げながら、勾玉を指で軽く押す。
いつもなら、淡く返ってくる微光が、今日はどこにもない。
闇の中に沈んだ石。
それだけのはずなのに、胸の奥の何かがそっと擦り減る音がした。
風が窓を揺らす。
カーテンがふわりと膨らむ。
外の世界は確かに動いているのに、雪杜の部屋だけ、時間の流れが少しだけ遅れているようだった。
(なんか……変だ……)
言葉にするとすぐに逃げてしまう感覚。
でも、確かにそこにあった。
勾玉の表面を親指でなぞる。
冷え切った石の下、ほんの一瞬――
――キィ……
金属を細く引っかいたような音が、骨の内側で鳴った気がした。
雪杜は息を止めた。
だが音はそれきり消え、勾玉は何事もなかったように沈黙を続けた。
(……気のせい……だよな……)
そう思おうとすると、静寂が胸の裏側をひんやり撫でていく。
光を失った勾玉を握りしめたまま、雪杜はようやく眠りへ沈んだ。
そして翌朝――
目を覚ました雪杜は、反射的に胸元へ触れる。
やはり、冷たい。
深い井戸の底みたいに、どこまでも静か。
その静けさが、不安の形をしていることに気づきながらも、理由が見えないまま着替えを済ませる。
玄関の戸を開けると、冬の空気が、思っていたより軽く感じた。
何か大事なものがひとつ、夜のあいだに世界から抜け落ちたみたいに。
雪杜は胸のざわめきを押し殺しながら、不穏な予感の正体を掴めないまま学校へ向かった。
―――
朝のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が“ぴん”と張った。
本来なら、いくつもの声が重なってざわめきの層ができるはずだった。
だがその日――
生徒たちが流れ込んでくる音は、妙に揃っていた。
足音のテンポ。
椅子の軋み。
笑い声の高さ。
全部が“同じ型”から生まれたみたいな均一さだった。
雪杜が教室へ一歩足を踏み入れると、空気に沈んでいた静寂が、うっすら色づくように揺れた。
まるで、雪杜の存在だけが「音」を持っているかのような、そんな異様な気配だった。
歩くたび、床の反響が雪杜の靴裏にまとわりつく。
教室全体の聴覚が、彼にだけ注がれているようだった。
雪杜は席へ向かい、椅子を引いた。
金属が擦れる“ガタン”という音がいつもよりやけに鮮明に響く。
同時に――
教室のざわめきがすっと薄れた。
生徒たちが振り返る。
一斉に。
かすかな笑顔。
かすかな息。
かすかな動き。
その“かすかさ”が驚くほど揃っていた。
雪杜が席についた瞬間。
ひとりの女子が、机の端に手を置き、吸い寄せられるように声を落とした。
「……あ、天野くん……今日も、かわいい……」
声の柔らかさが、不自然に均等だ。
すぐ近くの別の女子が、机を少し寄せながら言葉を重ねる。
「席……隣、いい?ね、いいよね?」
その声の温度が、先ほどの女子の声とほとんど同じだった。
まるで、同じ喉から生まれた音みたいに。
雪杜の背後から、男子が息を詰めたように近づく。
「天野、プリント渡す。いや……渡したい。
なんか、俺が渡したい」
“渡したい”という言葉の衝動だけが、他の感情を全部押し流していた。
さらに後方から男子が一歩踏み出す。
足音が、雪杜へ向けて一直線に響いた。
「なあ、天野。今日、放課後……一緒に帰らねぇ?」
声は違うのに「天野に触れたい」という欲求だけが、どの声にも同じように宿っていた。
空気の温度が上がる。
吐息の濃度が変わる。
距離感が曖昧になる。
敵意は一切ない。
ただ――
奪い合う前に、全員の“向く先”が揃ってしまった狂気。
その熱を受けて、雪杜は息を詰める。
「……あ、あの……みんな……?」
呼びかけた瞬間。
教室中の笑顔が、反射の速さで雪杜へ向いた。
光さえ一瞬止まったように見える。
前列の女子が、微笑みながら小声で。
「ねぇ、天野くん。今日……手、繋がない?」
すぐ後ろの男子が、ほぼ同じタイミングで声を落とす。
「いや、それは俺が……」
そのときだった。
椅子の脚がガタン――
教室中で揃って鳴った。
偶然じゃない。
揃うために動いたような音。
雪杜を中心に、教室の空気がひとつに収束する。
雪杜の周りにできた小さな人の渦は、まるで意志を持った生き物のように脈打っていた。
近づく者、
伸びてくる手、
笑う顔、
揃う息。
そのどれもが「雪杜の重力圏」の内側に吸い寄せられていた。
輪の外に立つ咲良には、その光景が、とても現実とは思えなかった。
息を吸うたび、胸の奥がぎゅっと掴まれるように痛む。
(また……はじまってる……。
……でも……今日のは変……変すぎる……)
咲良の心がそうつぶやくのと同時に、教室の空気が小さく歪んだ。
雪杜へ伸びるいくつもの手は、触れる寸前で震えて止まる。
“触れたい”衝動をすべて雪杜へ向けて、全員が無意識に自制しているようで――
その自制さえも、均一だった。
咲良には、その光景が胸の奥の痛みを悪化させる毒のように見えた。
「……やだ……やだ……これじゃ雪杜が……壊れちゃう……」
声が漏れる。
自分の耳に届くまで一瞬遅れる。
世界の聴覚だけ、ズレている。
雪杜が困ったように息をのむ。
そのわずかな動きへ、周囲が反射的に身体を寄せた。
それは、雪杜の一挙一動に反応する“群れ”のようだった。
もうひとつ手が伸びる。
またひとつ。
指先の震えはみな同じ。
呼吸のリズムも同じ。
視線の角度でさえ、
ほとんど揃っていた。
咲良は胸を押さえた。
机の天板が冷たくて、その冷えが指先から腕に伝わっていく。
――どうして……
なんでみんな……
雪杜くんばっかり……
胸の奥で、小さな何かが薄く割れたような感覚がした。
世界の中心が“雪杜”に固定された瞬間、咲良の存在だけが、教室の空気からそっと滑り落ちていく。
吐息が震え、膝に力が入りにくくなる。
咲良の視界は、雪杜の周りに集まる光だけが鮮明で、他のすべてが白く霞んでいた。
まるで自分だけが、この世界の“外側”に追いやられていく。
机に手をついたまま、咲良は痛みに合わせてかすかに肩を震わせた。
胸の奥のひびが、静かに、ゆっくりと広がりはじめていた。
その音は、まだ世界には聞こえない。
咲良自身にだけ、微かな悲鳴のように響いていた。
―――
朝のざわめきがまだ天井に薄く残っていた。
だがそのざわめきは生徒の声というより、雪杜を中心に渦を巻く「熱の残響」のようだった。
そんな空気の中、廊下から足音が近づく。
規則正しい大人の足取り。
学校で唯一“均一ではない”はずの存在――教師。
教室の戸が開いた。
「おーし、席につけー……って……」
声が途中で崩れた。
石田の視線が雪杜に触れた瞬間、まるで心臓を素手で掴まれたみたいに、呼吸が止まった。
目の焦点が、一瞬で甘く、遠く、濁る。
理性がふっと抜けた音が、空気の底で“カサ”と鳴った気がした。
石田はゆっくり雪杜に歩み寄る。
その歩き方は、普段の“授業へ向かう大人”ではなく、何かに引き寄せられた子どものようだった。
「……天野……髪……切った?
……いや、違うな……」
出席簿を持つ手がゆっくり下がる。
握力が抜けていくのが分かるほど、指が微かに震えていた。
「なんだ……今日の……その……」
声はかすれていた。
喉の奥の音が言葉になりきれず、陶酔と混乱がすべて混ざったような響き。
教室の空気が、その声に合わせて微かに揺れた。
息を吸う音。
机が軋む音。
生徒たちの衣擦れ。
全部の音が、雪杜へ向かうひとつの線になっていた。
そして――
「……綺麗だな……」
その言葉が落ちた瞬間。
世界の境界が少しだけ歪んだ。
生徒たちは息を飲んだ。
しかし誰も怒らない。
誰も驚かない。
誰も笑わない。
ただ、雪杜を見る熱だけが燃え上がる。
教師ですら、雪杜という“重力源”に堕ちた。
雪杜は小さく後ずさった。
その動きに反応して、クラスの視線が波のように揺れる。
「先生まで……なんで……?」
雪杜の声だけが、この空間でただ一つの“正常な音”だった。
だがその声は、もう誰にも届いていない。
教師の瞳には、雪杜の姿しか映っていなかった。
御珠という制御の光が消えた世界で、最後の大人の防波堤が――
音もなく崩れ落ちた。
雪杜の周りで、何かがはじけた。
誰も触れていないのに、空気が一気に中心へ吸い寄せられていく。
冬の朝の冷たい教室が、そこだけ異様に熱を帯びていた。
ひとりが近づく。
すると隣も、さらに隣も同じ速度・同じ角度で雪杜へ滲み寄っていく。
半径1メートルの輪が、生き物の心臓のように脈打ちながら狭まっていった。
触れようとする手がいくつも伸びる。
その指先は震えているのに、迷いがない。
呼吸が雪杜の肩口へ集中し、そこだけ白い息が濃く漂う。
一人の女子が、雪杜の視界へ割り込むように顔を近づけた。
「天野くん……ねぇ、見て……見てよ……」
声の震え方まで均一だ。
その直後、背の高い男子が雪杜の腕を掴みかける勢いで前へ出る。
「俺を……見ろよ……なあ……なあ……」
視線と視線がぶつかるのではなく、視線そのものが雪杜を中心に揃っていく。
まるで教室全体が、ひとつの巨大な目になったようだった。
その目が雪杜を囲むたびに、空気がビリ、ときしむ。
咲良は席に座ったまま、その光景を見ていた。
でも“見ている”という感覚にズレがあった。
光景が、目に入るより少し遅れて心に届く。
寒いはずの教室が、雪杜の周りだけ蒸気みたいに熱い。
そこへ近づく人影の動きは、呼吸より遅いのに、意志だけは雪杜へ真っ直ぐ伸びている。
息を吸うたび、咲良の胸の奥に薄い痛みが走る。
――これ……嫌……胸の奥で……また“あれ”が……動いてる……
咲良の心の声と同時に、雪杜へ群がる人影の輪がさらに密になる。
雪杜は身体を少しのけぞらせ、怯えとも戸惑いともつかない表情で後ずさった。
だが後ずさるたびに、クラス全員の呼吸が揃う。
吐息がひとつの波のように雪杜へと押し寄せた。
その統一感は“人間らしさ”から遠ざかっていた。
まるで、全員が雪杜へ向かうためだけに存在しているようだった。
咲良の視界が揺れた。
頭がくらりとする。
胸の奥が、ゆっくり、深く沈んでいくような痛み。
ついに咲良は机へ手をついた。
「……やだ……やだ……これ……胸が……いや……」
その声は、群がる熱とざわめきの向こう側でひどく遠く響いた。
雪杜の名が、咲良の胸の奥で何度も反響していた。
教室の喧騒とは別の場所で――心臓の内側だけが、痛みに合わせて脈打っている。
周囲では、人影が何重にも雪杜を囲んでいる。
伸ばされた腕、肩へ置かれそうな指先、均一に揺れる呼吸、飲み込まれた囁き。
どれも雪杜へ向かう一本の線のようだ。
咲良は机に手をつき、胸を押さえた瞬間、世界がふっと遠ざかった。
「ねぇ……どうして……
なんでみんな……
雪杜くんばっかり……」
胸の奥が、きゅ、と細く縮んだ。
息を吸うたびに、自分だけ世界から外れていくような感覚がした。
「どうして……わたし……こんなふうに……なるの……」
自分の声が、自分の耳に届くまで一拍遅れて聞こえる。
それはまるで、咲良だけ時間の外側に押し出されたみたいだった。
雪杜へ群がる生徒たちの熱は、冬の朝の温度とは別物だった。
生き物の体温というより“欲望”だけが発する熱に近い。
その熱が雪杜を中心に球状に膨らみ、咲良のいる場所へは、一滴も漏れてこない。
咲良の胸が、圧迫されるように痛んだ。
肺ではなく、心臓でもなく――胸の奥のもっと奥。
感情がぶつかり合う場所がきしんでいる。
呼吸を一度吸うたび、肺の後ろで“ぱきっ”と小さな音がした気がした。
教室のざわめきが薄皮一枚の向こうに消えていく。
雪杜の顔だけが、はっきりと見える。
誰よりも困っていて、誰よりも怯えていて、誰よりも優しい目をしている。
その優しさが――咲良の胸を、逆に痛めつけた。
痛い。
苦しい。
消えたい。
御珠ちゃん……。
……雪杜くん……。
……好きなの、誤魔化せない……
全部がひとつの線になり、胸の中心へ向かって押し込まれる。
胸の奥で、最後の抵抗みたいに“薄い線”が震えた。
――ピキッ。
乾いた、細い音。
ひびが入ったのが分かった。
「――っ!!」
咲良の膝が抜ける。
床へ落ちていく間、視界が真っ白に弾け、音がするりと世界から落ちていく。
誰かの手が雪杜の腕を掴む。
視線が雪杜の頬をなぞる。
近すぎる息が、雪杜の肩へ落ちる。
だけど咲良の世界には、そのどれも届かない。
ただひとつ、雪杜が自分の名前を呼ぶ声だけが――
残酷なくらい鮮明に響いた。
「さくら!!」
その声が胸のひび全体を震わせ、亀裂を更に押し広げる。
咲良は、崩れた。
胸の奥で“ひび”が音を立てて砕けた。
雪杜は、崩れ落ちる咲良の身体を慌てて抱きとめた。
薄い肩が手のひらの中でふるえ、布越しに彼女の体温が乱れて伝わる。
それなのに――
教室の空気は、まるで雪杜の周りだけを中心に“渦”を描いていた。
壁に貼られた掲示物の紙が、風もないのにじり、と揺れる。
生徒たちの呼吸が、同じ方向へ流れる。
足音がすべて雪杜の位置を基準に響いていた。
「咲良……どうしたの……?苦しい?痛い?
ねぇ、咲良……!」
雪杜の声だけが、この空間の唯一の“生きている音”だった。
他の声、他の物音は膜の向こうに押し込められたようにくぐもっている。
咲良は、その膜の外側に取り残されたみたいにかすれた声を漏らす。
「……ゆき……とくん……」
その名を呼ぶたびに、涙がぽたぽたと床に落ちる。
涙の落ちた場所だけが、薄く濡れた月みたいに暗く光る。
本来なら、クラス中がざわつくはずだった。
でも誰も咲良を見ない。
声を上げるでも、駆け寄るでもなく――
ただ、雪杜に吸い寄せられたまま。
泣きながら咲良は言葉を絞り出した。
「雪杜くん……好きになって……ごめんね……
わたし……もう……無理……なの……」
その瞬間、教室の空気が“ひくっ”とひきつれた。
まるで、咲良の告白が世界の法則を一瞬だけ曲げたようだった。
けれど、クラス全員は相変わらず雪杜のほうだけを向いている。
咲良の声が届いていないのではなく“届く仕組みそのものが壊れている”ようだった。
誰かの眼が雪杜を光で射抜く。
また別の誰かが、雪杜へ吸い寄せられるように一歩踏み出す。
雪杜を中心に、小さな波紋がいくつも重なり、空気が濃く沈む。
咲良の胸に、痛みがゆっくり沈んでいった。
見えない指先で胸の奥をつままれているような、そんな苦しさ。
「……雪杜くんの中には……
いまでも御珠ちゃんがいるんだよね……
分かってる……分かってたの……
だけど……もう……耐えられないの……」
咲良は体を折りたたんで肩を震わせた。
その小さな背中の震えだけが、この教室の中で唯一“弱さ”として存在していた。
だが――誰もその震えを見ていない。
見ているのは、
息をしているのは、
生きているように見えるのは、
“天野 雪杜”ただ一人。
まるで雪杜という一点に、この教室のすべての酸素が流れ込んでいるようだった。
「ねぇ……わたしじゃ……ダメかな……?」
咲良の声は、教室の床をかすかに震わせて広がった。
誰も答えない。
答えられないのではなく“答える回路”が世界から抜け落ちている。
その瞬間だった。
咲良の視界に、白い光の縁がにじみ始めた。
輪郭が溶けるように歪んで、クラスの声が、椅子の音が、すべて遠ざかる。
音という音が、咲良から“はがれていく”。
胸の奥で、何かが音を置き去りにして裂けた。
――ピシッ。
「……あ……っ……」
声は自分の口から出ているのに、耳には届かない。
床が急に遠くなり、次の瞬間、逆に近づいた。
力が抜けて、咲良の身体が横に流れていく。
雪杜が咲良を呼ぶ声だけが、世界の中心に刺さるように聞こえる。
「咲良!!誰か!!先生!!」
叫び声が空気を震わせた――はずだった。
だが、クラスは誰も動かなかった。
もともと何かを考えていなかったかのように、ただ雪杜を見つめていた。
目の奥に灯るのは“同じ熱”。
色も温度も、全員が揃っていた。
教室の隅で立ち上がった女子が、雪杜の涙へ手を伸ばす。
「天野くん……泣かないで……ねぇ、泣かないで……」
その声も、まるで雪杜の皮膚のすぐ近くで囁いているみたいに距離感がおかしい。
別の男子が一歩前へ出た。
靴が床を擦る音が、雪杜の心臓に重なるように響く。
「天野……俺が……守る……」
そして教師までもが、雪杜へと歩み寄ってくる。
足取りはふらついているのに、迷いがない。
まるで引力の方向が“雪杜”に固定されたようだった。
「……天野……大丈夫か……?……ずっと……そばに……」
咲良はその輪の外にいる。
横たわったまま、誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ世界の“外側”に落ちている。
空気そのものが、雪杜だけに向かって流れていた。
咲良のいる場所だけが、真空のように冷たかった。
雪杜は震える手で、倒れた咲良の髪をそっと払った。
その指の震えだけが、雪杜がまだ“人間”の側にいる証のようだった。
「……僕が……生きてるだけで……
世界が……壊れていく……」
涙が落ちて、咲良の髪にしずくが小さな水音を立てる。
それは世界で最後に残った“正しい”音だった。
「……ごめん……咲良……ごめん……」
雪杜は立ち上がる。
その瞬間、クラス全員の背筋が同時に伸びた。
雪杜が一歩下がれば、全員がわずかに息を呑む。
まるでひとつの生き物が、主人の動きを追うみたいだった。
「僕は……ここにいたら……だめだ……
みんなを……壊してしまう……」
呟きながらドアへ走り出すと、後ろの椅子が十数脚いっせいに鳴った。
「天野くん!!!」
「待って!!!」
「行かないで!!!」
教室中の叫びが、同じ高さ、同じ響きで重なった。
声は違うはずなのに、ひとつの音に聞こえた。
雪杜は振り返らない。
その背中が教室から消える瞬間――
“ガンッ”
扉が閉まった音が、冬の空気のどこよりも強く響いた。
それは、
教室の狂気を閉じ込めた音であり、
雪杜の逃走を宣言する音であり、
咲良の世界が完全に“割れた”印でもあった。
――この日、冬は、完全に満ちた。
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