第2話 後には引けない
「谷本くん!君がボクを海から引き上げてくれたんだよね?」
呼びかけられて振り返ると、そこには転入生として紹介されたばかりの女子生徒が立っている。
彼がしばらく黙っていると、彼女は前髪や袖をめくり、手足や頬の絆創膏を見せてわずかに微笑む。
「君がこの手を握ってくれなかったら、ボクはあのまま海へ還っていたと思う、だからお礼を伝えたかったんだ」
「あ、そうか、あの時の…」
先週、学校からの帰り道。
遠く浜辺に倒れていた人影は、冷たい波にさらわれて見えなくなってしまったが。
彼が駆けつけて海へ飛び込み、その手を掴んで引き上げた少女は、ずぶ濡れのズタボロだったあの時とはまるで印象が違っていた。
吸い込まれそうなほど至近距離でまばたく青い瞳、ほんの数日前は冬の海を漂い、浜辺に打ち上げられていたと言うのに。
「これからよろしく。学校の事、みんなの事、まだよく分からないから教えてほしいな。…あと、白露ではなくて時雨と呼んでくれたらうれしい」
おとなしそうな見た目とは異なり、人見知りも物怖じすることもなく、真っ直ぐに相手を見つめて思いを言葉にする。
きびきびとした心地よさを持つ声は、近くにいた男子を振り向かせるほど気になる音色。
谷本はそんな転入生の容姿もほとんど眼中にない様子で、真正面の時雨から視線を外し、鞄の底をまさぐっている。
「えーと、谷本です、人助けなんて当たり前のことだから、気にしないで」
それよか昼休み、弁当を持参してない者は購買へ直行だ。
他の学生も足早に、と言うか全速力で走り出す様子を目で追い、その競争率は半端ないと彼は言う。
「お昼ご飯、用意してあるの?」
「編入手続きの後、授業に参加したいって希望したから、お昼は…用意して無いんだ」
「それじゃ色々話すのはお昼を手に入れてからにしよう」
彼は五百円玉を握りしめて席を立つ。
すでに教室へ残っているのは谷本と時雨だけなので、付いてくるよう促して走り出す彼だが、ドアのところでうつ伏せに倒れているひめ子を見つけ、襟首を持ってひょいと抱える。
「こいつ、お昼が手に入らないと周りにたかってくるんだ、連れてった方が面倒が少ない!」
小さくても重そうなので、時雨は腰を持って二人は駆けだした。
「小柄なのに結構重いね」
「食い意地の張ってる奴だからね」
高等部のある校舎から購買までは遠く、正面玄関脇の空き教室まで、奇妙な白い荷物を抱えて走る間、互いに差し障りのない質問をしてみた。
元々住んでいたところや、外国での暮らし、戦時中はどこへ避難していたとか、時雨は浦賀の生まれ、谷本は東北出身等々。
そして二人が運ぶ荷物がじたばたと動き出したので、床に降ろすとやたら素早く走り出す。
「短い足なのに…」
「早いんだよな…」
「失礼だぞ!」
三人が購買へたどり着くと混雑のピークは過ぎていたが、残ってるのはお察しのものばかり。
それでも食べれそうなものを選んで昼食を確保、あとはどこで食べようかと中庭を見たが、ベンチはどこも空いておらず、教室まで戻ろうか思案したが。
「おーい!ひめ!ひめ!こっち!」
先に来ていたリキューとジーナがイートインのテーブル席を確保し、紙袋を抱えたひめ子を手招いている。
時雨と谷本は教室に戻ろうとしたが、彼のズボンをひめ子が掴んで離さない。
「どうした?呼んでるぞ?」
まさかあそこまで運べとか要求してる訳ではないだろうが、あり得ない話でもない。
普段口数は少ない子なので、その意図を理解できずにいると、
「…一緒に来いってさ」
通訳したのは時雨。
ひめ子は横の鬼畜艦も心底嫌そうな目で見上げるが、仕方なく深いため息をつく。
「ん?ボクもいいの?」
結局五人で狭いテーブルを囲むことになり、リキューとジーナは複雑な表情で固まったまま、ひめ子は人の昼食にまで手を出し、谷本と時雨は気が付くと刻んだ生ナマコと照り焼きソースサンドを失っていた。
常に売れ残る危険な香りしかしない黒く艶やかな具材、恐ろしくボリュームたっぷりのゲテモノパンだ。
「それさ、今日初めて買ったんだけど、うまいのか?」
谷本は恐る恐る尋ねたが、ひめ子は腹の底から排出する、およそ未成年の女の子が発する事が無いであろう、豪快なゲップで答える。
「…」
リキューとジーナは腹抱えて笑っていたが、ランチを半分持ってかれた時雨、その瞳から光が消えるのを谷本は見逃さなかった。
午後は微妙な空気のまま授業を受け、クラスの全員が帰宅部なので気がつくと誰もいない。
特に谷本は窓の外をボーっと眺めてるので、声をかけられてもホームルームが終わったことさえ気付かぬまま。
仕方がないので今日の課題や予習を済ませてから学校を出たが、さすがに帰り道、あいつのおかげで空腹だ。
養護施設の小遣いは月に五千円ほど、昼食代は別個に支給されるが、五百円では育ち盛りの腹も満たされないだろう。
他のクラスの生徒は駅前商店街へ繰り出す者もいるが、谷本は一人、海沿いの国道に向かって歩く。
施設に戻ればおやつに夕食が待っているし、門限も厳しいので寄り道は考えもしない。
たまには街の飲食店に入ってみたい気もするが、貴重なへそくりを安易に使い込む訳にはいかない…、などと思いつつ、ついつい途中の自販機でコーヒーを買ってしまう。
坂の多い住宅地を抜けると視界は開けて更地が続く。
戦火を免れた家屋が点々とする中、国道沿いには真新しい住宅や店舗も多く、都心にも近い市街地は今も昔と変わらず賑やかだ。
反対に海沿いの歩道を行けば寂れた港町、木々の立ち並ぶ丘の上に彼の家がある。
しばらく歩いた堤防の先、夏場は海水浴客で溢れる浜辺が見えてくるが、海岸を散歩する無数の人影の中に、同じ制服姿の生徒を見つけていた。
ちょうど砂浜から登って来たようで、谷本の少し前を歩いている。
後ろ姿から察するに転入生の白露 時雨のようだが、わざわざ後を追う気もなかった。
彼女へ追いつかないように、特に理由は無いが歩くペースが落ちる。
あれから授業の合間、彼女と話す機会もなく、現在の住所も聞きそびれていたので、もしかしたらこの近くに住んでいるのかも知れないが。
彼女が浜に打ち上げられていた件について、事故なのか何なのか、特に理由を聞くつもりもない。
聞いたところで何がどうなるわけでもなく、他人の事情に首を突っ込むほど暇でもないと彼は思う。
施設での生活はあと二年、将来についてそろそろ真剣に考えなくてはならない時期なのだが…しかし時雨はいつまでも彼の前を歩き、ついには施設へ続く小道に入っていく。
まさかと彼は思ったが、ここまで来て道を間違えた訳でもないだろう。
「そうか、あの子、うちの施設に…」
今朝の違和感、彼は病み上がりでぼーっとしていたのではなく、テーブルに椅子が一つ増え、誰かが早々と食事を済ませた跡を見ていたのだ。
「いたんだ、今朝、あそこに、それを教えようとしてたんだな」
一度、時雨から視線を外し、彼の独り言は誰に向けられたのか、そして雑音混じりの声が夕暮れの林道に反響する。
深い暗闇から発せられる信号のような音声、充満する火薬と鉄の匂い。
「やはり我々を追ってきたようだな、ハイグレ!」
「しつこい鬼畜艦め、いいだろう、決着を付けてやる!」
語気は荒々しい海風をまとうよう、真っ白な面に敵意を載せたリキューとジーナが立ちはだかる。
その背後にはひめ子も腕組んで仁王立ち、ギラリと赤い瞳を見開いて時雨を見下ろしていた。
「帰れ!」
突然行く手を塞がれた時雨は困惑するばかり。
「ボクの帰るところがこの先の施設なんだけど…」
「噓をつけ!」
「油断させて不意打ちは貴様らの常套手段だ!」
「カエレ!」
三人からの総口撃を受けながら、それでも引き返さない相手を睨み、リキューが二人から押し出される形で前に出る。
「大人しく帰った方が身のためだ、こいつは重巡リ級でも規格外の改装を施された火力の化け物だぞ!」
本人は内緒にしてほしい感じだが、ジーナとひめ子は我が事のように猛プッシュ。
「もう、あんまり目立ちたくないんだけどな…」
火の粉が降りかかってくるのなら是非もなし、リキューはたくましい上腕をグルグル回して戦闘態勢に入る。
影に浮かんだ瞳が妖しく煌めき、大柄な彼女の背後から淡い光線が幾筋も走り出し、光の輪郭で形作られた右舷と甲板、8インチ三連装砲がぼんやりと浮かび上がる。
それは人の姿で背負う艦艇と艤装の一体化した姿。
重巡洋艦のリキュー、その威容を前にして、時雨も相手が単なる威嚇ではないと知って歩みを止めた。
「戦争は終わったはずなんじゃなかったの?」
時雨の問いかけにジーナは鼻で笑い、赤い四白眼をさらに見開いて嘲笑する。
「そうそう、いつの間にか終わってたんだよなあ!なーんで負けちまったんだろ?あたしが陸に上がって遊んでたからあ?この深海開発部門 統括棲鬼様がいなかったからだろうなあ!」
遅れてひめ子も何か口にしていたが、もごもご言ってるだけで聞き取れない。
しかし三人が明確に敵側の上級戦力であることを認識し、時雨もこの場を黙って見過ごせなかった。
制服はポリエステル繊維で防御の期待はできないが…、
「いつの間にか戦争が終わってた?」
時雨の背負う光の輪郭にも、まだ生きた武装が乗っている。
「ボクは…十三年目の大規模侵攻、マラッカ海峡を越えた先、そこで最後の戦いを目にしたよ」
その艦橋には、今も司令部施設が装備されたままだ。
「君たちの仲間も、ボクの仲間も、たくさんの犠牲があって戦いは終結したんだ」
時雨の背負う光は歪み、被弾の跡、破れた船体が今も煙を上げて浮かび上がっていた。
「それでも、まだ戦うのかい?…せっかく、一緒にご飯を食べた仲なのに」
爆撃でひしゃげた砲身を構え、リ級の右舷砲塔を睨む。
これはただのいがみ合いではない。
過去数度の大戦から受け継がれる記憶。
人の姿を借りて浮上した船体、異次元の火力と推進力を得た艦艇の力が、世界の海を赤く染め、全ての生命を絶滅へ追いやろうとした存在に立ち向かう。
十年以上も続いた光と深海の対立、怒涛のように押し寄せる赤い怨念、押し返す鎮守府の精鋭。
互いが守るべきものの存亡を懸けた戦いだった。
だから今更、
「後には引けない!」
「ここは我々の居場所だ!」
「…残念だよ」
双方は一触即発の緊張に包まれていた。
海の上ではないのだから、火力で上回るリ級が有利とは限らない、なにせ相手は鬼畜と恐れられた歴戦の駆逐艦だ。
吹き抜ける潮風、重なり合う眼光、息も詰まる沈黙の中、攻撃開始の指示が発せられるまであと一息。
…と、薄暮れの林道を学生が一人、また一人と、丘の上に向かって彼らの横を通り過ぎてゆく。
「…なにしてんの?喧嘩?」
お節介な中学生から何の遊びかと注目されて、後から来た谷本も立ち止まって見物していると、三人、四人とギャラリーが増えていく。
「え?いや、あ…あの…」
艤装を認識出来るのは特別な訓練を受けた資質を持つか、それなりの階級にあるものだけだ。
もちろん目には見えなくても、彼女たちの戦闘に巻き込まれたら無事では済まないが…。
しかし、だからと言って、衆人環視の中で艦艇による殴り合いを披露しては…今夜の夕食と寝床に重大な支障が出てしまうだろう。
そもそも艦艇が陸で殴り合うこと自体が非常識、脚部を損傷するリスクしかない。
「腹減ったなあ、もう限界だよ、今日の晩御飯て何だっけ?」
空腹に耐えかねた谷本が尋ねると、野次馬女子は豚肉の生姜焼きと即答。
「久しぶりの肉かあ…」
にらみ合っていたリキュー、ジーナ、ひめ子、時雨が生唾を飲み込む。
「ほら!しょーもない遊びやってないで、さっさとおやつ貰いにいくよー」
中等部の女子から子ども扱いで急かされると、誰よりも先にひめ子が反転して歩き出す。
「お!?おいおい!ひめ!?」
いくら何でも戦闘開始直前だぞ!?…その気まぐれに呆然とするリキューとジーナを振り向いて、
「戦争は終わった!腹が減った!」
舌っ足らずな早口で吐き捨てると、おやつ目掛けて最大船速、短い足で先頭を駆けて行った。
「え?お、終わった…の?」
「ま、確かに終わってんだけどさ…」
取り残された時雨やリキューたちは立ちすくんだまま、バツが悪そうに道を塞いでいた二人はひめ子の後へ続き、時雨も皆を追うように林道の先へ。
そこで一気に開ける視界、丘の中腹から見下ろす大海原。
彼らは夕焼け空の水平線に、夕食前のおやつと豚の生姜焼きを思い浮かべて走り出す。
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