第5話

 その日の夜。

 小さいクロエは、ソフィアとベンの歓待を受けた後、新生児ケア装置の中でぐっすり眠っていた。出産したほうのローラは、出産しなかったほうのローラに声をかける。

「おやすみ」

「うん、おやすみ」

 出産しなかったほうのローラは、眠りにつく前に、クロエを抱っこしたときの感触を思い出す。そして、これまで目を覚ましてきた毎日を。しかし、明日自分が目を覚ますことはないのだ。その選択に後悔はなかったが、確実に目を覚まさない眠りを前に、ローラは少しでもその時間を遅くしたい気持ちだった。それでも、睡眠導入剤によってもたらされる眠気には勝てなかった。


 翌日、二体のローラは目を覚ます。残っているのは、昨日クロエを出産したという記憶だ。そう選択したのだ。ローラたちは目を合わせ、前日出産をしなかったローラの心に思いを寄せる。

「怖かったのかな」

「そう思うよ」

 何の話かは言わなくても、言いたいことは十分に伝わっていた。


                * * *


 肉体の補充が行われる上限は七十五歳と定められた。それを超えると、二体のうち一体が失われた場合、その後は一体として生活することになる。

 一体目の喪失では儀式などは行われない。二体目が失われたときに初めて、それは公的な死と扱われる。葬式もそのタイミングで行われる。

 言葉の用法にも変化が生じていた。一体目の生命活動の停止は「止まる」と言われるようになった。「死ぬ」という言葉は、二体目の生命活動の停止のみを指すようになった。

 職場の定年は六十五歳だったが、その年齢を超えても、七十五歳までは肉体の補充が行われる。その後も、一体が止まるまでは通常の二体体制が続く。夜ごとに送信元のランダム選択と記憶の同期が行われるのもそのままだ。ただ、定年後のブリーフィングは、はるかにリラックスしたものになるのが普通だった。


                * * *


 クロエが十八か月になり、新生児ケア装置を完全に離れる日が来た。その日の夜、それを祝うパーティーが行われた。

「クロエをぼくと君の両親の家に連れて行ってあげないとね」とジェームズの一体が言う。

「そうね、来てもらうばっかりだったし。クロエ、どう思う?」とローラの一体。

 クロエは理解しないまま、ローラの呼びかけに笑顔で答える。

「ケンおじいちゃん? おじいちゃんとチェスがしたいな」とベンが言う。

 ベンは最近チェスに熱中している。ジェームズの父のケンから教わったものだ。普段はオンラインで指導を受けているが、ケンの家を訪問するときは本物のボードを使うのが習慣だった。

「ああ、いいよ。じゃあ、先にケンおじいちゃんの家に行こうか」

 子供たちは、ジェームズの両親の家を「ケンおじいちゃんの家」と呼んでいた。ジェームズの父のケンは八十五歳で二体、母のエレノアは八十三歳で一体だった。出産平均年齢が上がったことにより、小さい子供の祖父母が八十歳を超えていることは普通になっていた。


                * * *


 肉体補充の際には、ほぼ同年齢の体が補充される。シナプス同期の際には、送信元と受信先の肉体年齢が離れると成功率が下がることが原因だった。そのため、何度肉体補充を経ても、若返ることはない。この時代の生命技術をもってしても、老化というのは抗いがたいものだった。


                * * *


「おじいちゃん、こんにちは」

 最初に家に入ったベンが、祖父のケンに挨拶する。

 ジェームズの父のケンは二体で、母のエレノアは一体だ。彼らは郊外の二階建ての家に住んでいた。ジェームズたちのマンションに比べるとスマート化は進んでいなかったが、趣味のいい家だった。

「いらっしゃい、ベン」と玄関に出てきたケンが答える。青い腕時計をしている。

 リビングからも、赤い腕時計のケンとエレノアの「いらっしゃい」という声が聞こえる。

 続いて、青い腕時計のジェームズとローラ、そしてソフィアが入る。

「お父さん、お母さん、久しぶり。あっちは渋滞でちょっと遅れるって」とジェームズが言う。

 青い腕時計の夫婦は、上の二人の子供と一緒にトラムで来ていた。赤い腕時計の夫婦は、一歳半になったばかりのクロエを乗せて、車で来ることになっていた。


                * * *


 旅行の際には、一体ずつルートを分けることが習慣になっていた。二体体制の理念——二体の同時停止を防ぐ——を考えると、そうするのが自然だった。

 ホテルの各部屋には同期用のヘッドギアが備えつけられている。また、各家庭にも来客用のものが数セットあるのが普通だった。大量生産されるもののため、価格はゲーム機と大差ない。

 長距離旅行で飛行機を利用する場合は、別々のルートを取る。そのことが前提となっているため、チケット予約の際には、出発地と目的地を入力すると、最適な二つの経路が提示されるのだった。


                * * *


 ソフィアは祖父母の家の近くにあるテーマパークが目当てで、挨拶もそこそこに出かけたがった。

 青い腕時計のジェームズ夫婦がソフィアを連れて行き、赤い腕時計のほうはクロエを連れて、青い腕時計のケンとエレノアと一緒にレストランに食事に行く。ベンはおじいちゃんとチェスがしたいと言うので、赤い腕時計のケンと二人で家に残ることになった。


 ケンは二階の寝室にチェス盤を置いていた。寝る前に二体でチェスを指すのが習慣なのだ。

「ちょっと待っててね。チェス盤を取ってくるから」

 ケンは手すりにつかまって階段を上がり、チェス盤と駒の収納ケースを両手に持ち、階段を降りる。エレノアにはいつも、物を持って階段を上り下りするのは危ないからドローンを使うように言われていたが、ケンはそれを面倒がっていた。

 階段を数段降りたところで、ケンは足を踏み外す。手すりにつかまろうとするが、手がふさがっており、そのまま前に倒れてしまう。

 鈍い衝撃音。


 ベンがそれを聞き、階段に様子を見に行った。そこでベンは、ショッキングな光景を目にする。チェスの駒があたり一面に散らばり、赤い腕時計をつけたケンが頭から血を流して倒れている。

「おじいちゃん!」

 ベンは祖父に駆け寄り、体を揺さぶった。ケンは返事をしない。その体からは、ぬくもりが次第に失われていった。


 レストランで食事を取っていた青い腕時計のケンに通知が来た。

「頭部に強い打撲。生命反応なし」

 ケンはあわてて、エレノアと子供夫婦にそれを見せる。

「だからいつも気をつけなさいって言ってるじゃない。どうせまた物を持ったまま階段を上ったりしたんでしょ」とエレノアはケンを責める。

「決めつけるなよ。実際のところはまだわからないじゃないか」ケンはそう言いつつ、痛いところを突かれた顔をしている。

「とりあえず、帰らないと」とジェームズは言う。「警察と救急にはもう連絡が行っているはずだし。ソフィアのほうのぼくたちにも伝えるよ」

「ベンにも、そのままそこにいるように伝えないとね」とローラは言う。


 テーマパークのジェームズがメッセージを読む。

「大変だ。お父さんの一体が止まったらしい」

「じゃあ、早く帰らないと」とローラ。

「えー、別にそのぐらいいいじゃない。一体が止まっても大したことないんでしょ。学校でそう教わるよ。それに、おばあちゃんのときは特に何もしなかったじゃん」とソフィアはふくれっ面をする。

「おばあちゃんの一体は癌で病院で止まったんだ。今回は事故だから話が別だ。警察も来るし、ベンもショックを受けているだろう」

 ソフィアはまだ不満げだが、いったん祖父母の家にみんなで帰ることになった。

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