第1章

地図とビルを見比べ、俺は思わずため息をついた。

「ここか……」

「テナント募集中」のままの3階は、確かにニュースで見たものと同じだ。

行こう……いや、やっぱり辞めておこうか……。

ビルの前で二の足を踏んでいると、声が聞こえた。

「兄ちゃん、あそこを借りるのはやめた方がいい」

すっ、とどこからともなく老人が、俺の目の前に現れた。

老人は野球チームのマークがついたキャップを深く被り、土埃塗れのダウンジャケットを羽織っている。

まるで絵本に出てくるような、悪い魔法使いのようだ。

「あそこは1年前に事件があったんだよ……覚えていないかい? 殺人事件があった、ほら、男がけったいな格好をして働く……執事っていったっけな、そう、執事喫茶だ」

くくく、と老人は嗄れた声で笑った。

もちろん俺は事件のことをよく覚えている。

忘れたくても、忘れられるはずがない。

しかし、その経緯を初めて会った老人に説明するのは、面倒だった。

「そうなんですか? 覚えていないですけど……」

「くくっ……兄ちゃん、今でも時々執事の霊が、あの窓から顔を覗かせているそうだよ!」

俺の声にかぶせるようにして、老人は声を上げた。

声のボリュームに驚き、俺が身体を強張らせるのを見届けると、老人は満足そうに笑いながら去っていった。

「気をつけるんだよ……」

振り返ったが、すでに老人は雑踏の中に消えていた。

……執事の霊って……。

そもそも執事は、ひとりも亡くなっていないはずだ。

もし出るとすれば被害者の女性か、自殺した女か……もしくは。

オーナーの斎藤隆臣……兄のはずだろう。

俺は老人の忠告を無視して、ビルに向かうことにした。なんだか馬鹿馬鹿しくて、却って事実をはっきりとさせたくなったのである。

そして階段を上がりながら俺は、兄のことを思い出していた。

親は幼いころに亡くなり、年の離れた兄がほとんど俺の親代わりのようなものだった。

兄は高校卒業後すぐに就職して懸命に働き、俺を養った。

それだけじゃなく「隆之は勉強ができるから」と言って、俺を大学にも行かせてくれたし、入学と同時に独り暮らしを始めてからは仕送りもしてくれた。

社会に出た今ならわかる。兄はほとんど自分のために金を使っていなかったはずだ。

「会社を辞めて、カフェを経営しようと考えている」

だから、ある日の電話で兄から話を聞いたとき、心から応援しようと思った。

……まさか執事喫茶だとは思わなかったけど。

一方で俺は就職に失敗し、大学卒業後はぶらぶらフリーター生活を送っていた……そんなさなかの、突然の訃報。

兄が生きている間に、一度くらいは店に行っておけばよかった。

なぜ執事喫茶なのか、聞けばよかった。

兄のことを、俺は何も知らない……だからこそ、ここに来た。

ビルの3階に到着し「テナント募集」をしている部屋のインターフォンを押した。

「あれ?」

何度もボタンを押してみる。しかしカチャカチャと鳴るだけで、反応がない。

そうか、電気が通っていないのか。

コンコン。

今度は扉をノックをしてみた。

……返事がない。

やはりアレはただのイタズラだったのか……。

俺はドアノブを回してみた。

バタバタバタ、カチャ。

一瞬何かがひっかかったが、扉はあっさりと開き、カビの臭いが鼻をついた。

中は昼間だというのに薄暗く、到底人がいるように思えない。

諦めて帰ろうとした、そのとき。

……ガサゴソガサゴソガサゴソ。

「ん?」

部屋の隅で積み上がっていた段ボールが動き出した。

バサバサバサッ!

「うわっ!?」

「うぅ……やっと出れた……あっ」

頭に乗っていた段ボールを振り払い、顔を見せたのは犬の耳をつけた執事だった。

「ご主人様!?」

執事は真っ直ぐ俺に向かって突っ走ってした。

……執事の幽霊。

はっ、としてその場から逃げ出そうとした。

しかし……。

ガバッッ!

それよりも早く、執事に肩を掴まれてしまった。

「どこに行ってたんですか、ご主人様!? 待ちくたびれましたよー!」

執事は俺を引き寄せると、無遠慮に頬を摺り寄せてくる。

「ご、ごめんなさいっ、成仏してくださいっ!」

「ジョーブツ?」

「え、いや……あの、幽霊じゃ……ないんですか?」

「何言ってるんですかー? 俺はご主人様のワンコですよ♪」

そう言うと執事はペロリと悪戯っぽく舌を出した。

ワンコ……そう言えば兄の経営していた「アニマル執事カフェ」は動物好きのご主人様の家、というコンセプトカフェなんだっけ。

つまりこいつは犬の執事ってことか……って、いやいや、とっくの昔に店は潰れているのに、今さら何をやっているんだ?

「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど……もしかして手紙をくれたのは君?」

「わん? 手紙?」

「ほら『兄が命がけで守った執事カフェを知りたいなら、ここに来い』って手紙、俺に送ってない?」

俺は地図が裏面に書かれたその手紙を、犬執事に突きつけた。

興味津々に手紙を見つめてはいたものの、不思議そうに首を傾げていた。

「うーん? ワンコなので手紙はかけないのですが」

「いや、今はそういうのいいから、真剣に答えてくれ!」

「ご主人様、今日はなんだか変ですよー……」

ガリガリと頭をかき、ふんっ、と犬執事は鼻を鳴らす。

……さっきからこいつは俺を誰かと勘違いしているのだろうか。

「今日はって言うけどさ、俺たちが会うのは、今日が初めてだろ?」

「えっ? 初めて……?」

犬執事ははっ、と目を見開くと、おもむろに俺の体へ鼻を押し付ける。

「お、おい、ちょっ……」

「ふんふん……ん? ……ええええ!?」

ガバッ、と犬執事は顔を上げ、ズザザザザ、と転ぶようにして後ずさっていった。

「ご主人様じゃないっ、だ、誰ですかっ」

「だからここに来いって手紙が来たんだってば! 本当に君が書いたんじゃないんだな?」

ぶんぶんと、犬執事は大きく首を縦に振る。

「じゃー、他に手紙を出してそうな奴、心当たりないか?」

「そうですねぇ。俺の他にもまだ何匹か住んでますが、手紙は誰も書けないかと……」

「……は? 住んでる?」

バタンッ!

突然窓が大きく開け放たれた。

「わぁぁ!?」

「くるなくるなー!」

金色の短髪と、水色で長髪の背格好が似かよった個性的な男がふたり、窓から飛び込んできた。

ふたりとも執事の服を着ている。

「かえせっ!」

ふたりに続いて今度は窓から、こげ茶色のウェーブがかった短髪に猫耳のカチューシャを付けた……またもや執事が現れた。

お尻にはくるんとカールした長い尻尾が生えている。

……ところでここ、3階だよな。

どうやって登ってきたんだ?

3人は何やら言い争いながら、バタバタと追いかけっこを始めた。

「あれっ!? ご主人様じゃん! ひさびさー!」

水色髪は俺を見ると、軽快な足取りで近づいてきた。

「は? ご主人様?」

猫耳は一瞬、訝し気に顔をしかめてから、はっ、とした表情で俺を見つめた。

澄んだ、よく研磨された宝石のような美しい瞳だった。

「……して……」

彼の瞳に吸い込まれそうになっていると、ぼそっ、と何か呟いた。

「えっ?」

聞き返そうとしたが、ふいっ、と猫耳は俺から顔をそむけてしまった。

「ほんとだぁ。おかえりなさい」

猫執事に服を掴まれていた、金髪もようやく俺に気がついたのか、気の抜けるような声で微笑む。

「はいっ、ピィ!」

突然、金髪が水色髪へと何かを投げつけた。

「おっ、ちゅちゅ、ナイスー! ご主人様、これこれーっ!」

そして水色髪は受け取ったそれを俺に手渡した。

にゅるり……気持ちの悪い感触だ。

恐る恐る見てみると……。

「ひいいいいいっ!!」

慌てて俺は手からそれを払い除けた。

床には、かなり大きめのムカデが蠢いている。

「ご主人様ー、ピィのムカデ落としちゃダメだよー!」

「ピィのじゃないっ、俺のだっ」

「あーもうっ! 諦めろってー!」

落ちたムカデを巡って3人の男が争う、異様な光景が目の前で繰り広げられた。

呆気にとられていると、犬執事が慌てて割って入った。

「喧嘩はダメですよっ!」

犬耳執事の声に反応し、3人の視線が逸れた瞬間、ムカデは床の割れ目にシュルシュルと入り込んでいってしまった。

「あーーーっ!」

3人は同時に叫ぶと、がっくり肩を落として項垂れてしまったのだった。

「ええと……この3人がさっき言ってた……」

「はい。ここに一緒に住んでいる子たちです。けど、この子たちも手紙は書けないはずです……人間じゃないので」

「そういうのいいってば……どっから見ても人間だろ」

「ん? 青のこの子はインコのピィ、同じく黄色のこの子はインコのちゅちゅ、それから猫のリクですけど?」

「はいはい、犬にインコに猫って設定ね……で、もう他にはいないのか?」

「あと一匹いるんですけどー……あっ」

しゅるしゅるしゅる。

何かが這う音が聞こえた。

まさか、またムカデが……!?

とっさに音のした天井を見上げる。

「……お……おお……」

天井には、執事服の男がへばりついていた。

伸びっぱなしになっている長い髪を垂らし、目を剝きこちらを見下ろしている。

さながら、体格が良く、いつか映画で観たターザンのようだ。

なんだ、アレは。

訳の分からなさと恐怖で、目の前が白くなっていく……。

「きーちゃーん! そんなところにいたんですかっ! 降りてくださーい!」

男はカサカサカサと手足を動かして、天井を走り抜けた。

「あーっ! きーちゃん捕まえてくださいっ」

「へっ!? つ、捕まえる!? あっ」

きーちゃんと呼ばれたその男は、巨体にも関わらずよほど身体が柔らかいのか、少し空いたドアの隙間からするりと出て行ってしまった。

俺が開けっ放しにしていたせいだ……。

慌てて男の後を追う。

男は四つん這いのまま、いつの間にか床に降り立ち、階段まで到達していた。

「ま、待ってくれ!」

パタタタタッ

俺の呼びかけも虚しく、男は階段を降りていった。

しかし急いだ甲斐あってか、男は目前だった。

あと少し、あと少し……!

転びそうになりながら階段を駆け、手を伸ばした。

男の足首を掴むことができた。

「ぎゃうっ!?」

男は一声鳴くと、びくっと体を跳ねさせ、ようやく動きを止めた。

捕まえた。

捕まえた、けど……これからどうすればいいのだろう……。

このまま引き摺る……わけにはいかないよな?

「おい」

ドスの効いた声が聞こえ、俺ははっ、として顔を上げた。

顔半分に大きなトカゲの刺青が入った男が、俺を見下ろしていた。

「何やってんだ、お前」

「あ、いや、これは……」

喉が乾燥して、うまく喋ることができない。

まずい……刺青男は、かなりガタイが良い。

外でつかみ合いをしているひ弱な不審者の俺なんて、彼の腕っぷしですぐにねじ伏せられてしまうだろう。

違うんです、誤解なんです。

……いや。本当に誤解なんだろうか。

犬執事の言うことを何も疑わず、追いかけてしまった俺も悪いのではないだろうか……。

「そんな捕まえ方したら、怪我するだろ」

言い訳を考えて口をパクパクさせていた俺を横目に、刺青男はひょいと男の両脇腹を掴んで持ち上げた。

まるで子どもが親におしっこをさせてもらうときのような体制である。

ん?

んんん??

「こいつ、お前のペットだろ? 大事にしてやらないと」

男を抱えたまま、苦笑した。

これは……どう言う状況なのだろう。

「あの、ペットじゃありません。そもそも人に対してそういうことをするのは……し、失礼じゃないですか?」

俺は刺青男の表情を伺った。

真顔で口を一文字に閉じ、じっと俺を見つめている。

全く感情を読み取ることができない。

「はははっ。悪い悪い。こいつはお前の恋人なんだな」

「えっ!? いや、ちが」

「じゃ、大事にしてやれよ。いくらゴツい見た目でも、ヤモリなんだから」

「……は? ヤモリ?」

「あぁ。ヤモリだよ。ジャイアントゲッコーだろ」

「え? ジャ、なんですか?」

聞き慣れない言葉に、俺は思わず聞き返してしまった。

「は?」

顔をしかめた刺青墨男をまともに見ることができず、俺はとっさに目を逸らした。

看板が目に飛び込んでくる。

「爬虫類カフェ」と書かれていた。

あぁ、どこかで見た顔だと思ったけど……ニュースでインタビューに答えていた爬虫類カフェの店長か。

確か……兄を親切だと言って、泣いてくれた。

「何か分からないのに飼ってたのか? まさか適温度も適湿度も餌も分からずに?」

店長は男を抱き上げたまま、険しい表情でぐっ、と顔を近づけて俺を覗き込んだ。

嘘や冗談を言っているようには見えない。

この人は本当に男がジャイアントなんとかに見えているのだろうか。

ーー私はワンコなので手紙は書けないのです。

犬執事の言葉が頭に浮かんだ。

「あの……ち、違うんです。俺のペットじゃなくて、捕まえてくれって頼まれて!」

じっ、と黙ったまま店長は俺を凝視する。

この間が怖い……。

「あー、そういうことね。いや、それにしてももうちょっと丁寧に扱えよ。ほい」

店長に男を手渡され、俺は一瞬躊躇した。

……が、受け取らないわけにもいかず、店長と同じように脇腹を掴んだ。

……軽い。

背格好に対してあまりにも男が軽く、その薄気味悪さに背筋が冷たくなった。

「爬虫類はナイーブなんだから気をつけろよ……ん? お前どっかで会ったっけ?」

「えっ? いや、初めてだと思いますけど?」

厳密に言うと俺は店長をテレビで見ている。

しかし、このビルを訪れたのは……そもそもこんな都会に出たのは、全く初めてのことだ。

「本当か? 名前は?」

「斎藤ですけど」

「斎藤? あれ、斎藤っつったら……」

サァ、っと店長が青ざめた。

かと思うと……。

「キャァァァァ、出たーーーー!」

バタンッ!

乙女のような声を上げ、ものすごい勢いでカフェへと戻って行ってしまった。

「えっ、あ、あのー……あっ」

居なくなってから、俺は気がついた。

3階から現れた斎藤。

そうか、店長は俺を兄だと勘違いしたのか。

犬執事といい、そこまで俺は兄に似ているのだろうか……?

「ぐぇ」

男がひと鳴きし、俺を見上げた。

「す、すいません。帰り、ましょーかね……」

再び男が暴れ出さないよう、そっと抱いたまま俺は階段を上った。

やはり、軽い。

それに服の上から触っているはずなのに、妙に冷たい感触でペタペタしている。

ヤモリ……なのだろうか。

「あっ、おかえりなさーい! ちゃんと捕まえてきてくれたんですね!」

ニコニコと犬執事が俺を出迎えた。

「なあ、この人って……ヤモリなのか?」

「そーですよ? あっ、おっきいからトカゲかと思いました?」

「いや、そうじゃなくて……俺には人にしか見えないから……わっ」

ヤモリ男は俺を押し除けてぴょん、と飛び上がり、カサカサと這いずりながら部屋の奥へと向かって行った。

「もー、きーちゃんったら落ち着きないなぁ……」

どう見てもあの動きは人間じゃない……か。

「もしかして本当に……そうなのか?」

「何がですか?」

「お前も犬……なのか?」

「だから最初からそう言ってるじゃないですかっ」

ふんっ、と鼻を鳴らし、犬執事は胸を張った。

耳がぴょこんと動く。

「で、でも……変じゃないか? 何で普通に会話できるんだ?」

「変ですか? ご主人様とは普通にお話しできましたけど……あぁ、でも確かに変ですかね、初めてお会いした人間様とはお話しできませんもん……わぅ? どうしてでしょうね?」

犬執事は首を傾げた。

「お……俺がおかしくなったのか……どうして動物が人間に見えるんだ……!?」

頭を抱え、グッと力を込めて目を細めてみた。

……しかし、そんなことで見え方が変わるはずもなかった。

「きーちゃんも? ピィもちゅちゅも、リクも人間に見えてるってことですか?」

「あぁ……ん? そういえば3人はどこに行ったんだよ」

「また獲物狩りに出かけました。もっと大きいの捕まえてご主人様に見せるんだーって、はりきってましたよ」

「はは……俺はご主人様じゃないんだけどなぁ」

「本当にそっくりなんですけどねぇ……あーっ! わかりましたっ」

突然の大声に、俺は飛び上がった。

「な、何!?」

「手紙の差出人ですよっ、よくよく考えれば、あの人しかいないじゃないですかっ」

犬執事はキラキラと目を輝かせ、ふんっ、と鼻息を荒くする。

「誰だよ……」

「ご主人様ですっ」

犬執事は得意げに、きっぱりと言い切った。

あぁ、そうか。

こいつは、まだ知らないんだ……。

「それはあり得ない」

「どうしてですか?」

「お前らのご主人様……俺の兄はもう、死んでるんだ」

「えっ……」

すとん、と犬執事は座り込んだ。

「嘘……嘘です」

「1年前の事件から姿を見ていないだろ?」

「けど……ご主人様は、言ってました。絶対に帰ってるから、待ってて、って……」

兄は刺された際、即死ではなかったと後から聞かされた。

最期に兄は待ってろなんて、そんな無責任なことを言い残していったのか。残されたものたちの気持ちも考えずに。

そしてこの子は……いや、この犬はまるで忠犬ハチ公のように、兄を待っていたんだ。

「辛いとは思うけど、嘘じゃない」

「う、うぅ……」

犬執事は体を小さく震わせて、ポロポロ涙を流していた。

長い睫毛が濡れ、白い頬が赤く染まっていく。

思わず、その体に手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。

相手は犬だ。犬なんだ……多分。

改めてそう、自分に言い聞かせる。

「ひっく、ひぐっ、うぁあああああっ……!」

ついに犬執事はしゃくり上げて泣き始めた。

顔がドロドロだ。

頭でも撫でれば少しは落ち着くのだろうか……どう慰めればいいのか、見当もつかない。

代わりに俺は身を屈めて、犬執事と同じ目線になった。

犬執事は俺と目が合うと、ようやく少しだけ顔を上げてくれた。

「……ひとつだけお願いしても、いいですか」

「あぁ、何だ」

「ご主人様が亡くなったこと……他のみんなには黙っていてください」

「えっ、何で……?」

ぷるぷるっ、と犬執事は首を振った。

細かい涙があたりに散っていく。

ぴたっ、と首を止めた犬執事の目にはもう涙は浮かんでおらず、真っ直ぐに俺を見つめていた。

「ご主人様を待つことが、皆の生きる希望だからです。だから……お願いしますっ」

犬執事の目は澄みきっていて、俺は息が詰まりそうだった。

どう生きれば、これほどまでに美しい瞳になれるのだろう……。

「わ……わかったよ。黙ってる。でも……」

兄の死を知った君は、生きる希望を失ったのか?

そう、尋ねようとしたとき、ダンダンダン、とけたたましく窓ガラスが鳴った。

「あ。帰ってきたみたいですねっ」

犬執事は軽やかなステップで、窓辺へ近づいた。ちょうど窓からは身を乗り出した猫耳執事……リクが入ってくるところだった。

いつの間にか、夕陽が差し込んできていた。

「……これ、獲れた」

リクの手には1メートルほどの長さの蛇が握り締められている。

蛇はリクから逃れようと必死にウネウネ動いていた。

「あーあ。またそんなもの持ってきて……。それにね、リク。あの人はご主人様じゃないんですよ」

「は?」

リクはぺいっ、と床に蛇を放り投げると、俺に向かって駆けてきた……かと思うと、

むぎゅ。

いきなり鼻先を押し付けてきた。

これ、本日二回目だな。

リクも犬執事と同じく、俺の匂いを執拗に嗅いでくる。

リクの体はとても華奢で、振りほどこうにも簡単に壊してしまいそうで……俺はそのまま固まっていることしかできなかった。

「違う!? 誰だお前!」

バタバタバタッ。

「えっ、なになにー?」

「ご主人様がどうかした?」

タイミングよく、ピィとちゅちゅが飛び込んできた。

さっきは謎だったが、なるほど、ふたりとも鳥なので3階の窓から入るのも容易だということか。

「ピィ、ちゅちゅも聞いてください。実はこの人、ご主人様の弟さんなのだそうです」

「「「はぁーっ!?」」」

3人……いや、3匹というべきなのか。

とにかく執事たちは声を上げて驚いた。

……それほど俺は兄と似ているのだろうか。

「挨拶が遅くなって悪い。俺は斎藤 隆臣の弟、隆之だ。よろし……」

「なぁ、あんた弟なら知ってんのか? ご主人様、どこで何してんだよ!」

俺の挨拶が終わらないうちに、ずいっ、とピィが顔を寄せて睨みつけてきた。

「それは、えーと……」

俺が視線を宙に泳がせていると、犬執事が間に割って入った。

「こらこら、ピィ。困らせないの。この方も、ご主人様を探してここまできたんですよっ」

「えっ、そうなのか? なーんだ」

ぷいっ、とピィは踵を返した。

「じゃー、君がご主人様の代わりに、遊んでくれるのー?」

にこにこ笑いながら、ちゅちゅは俺に頭を擦りつけてきた。どこかでみたことのある、確か、インコの求愛行動……?

「えっ!? いや、それは……」

「いいですね、それ!」

パチン、と手を合わせて犬執事は微笑んだ。

「しばらく、ここにいてください。もしかするとご主人様もここに帰ってくるかもしれませんし」

犬執事は笑顔のまま続けた。

何でそうなるんだ……?

帰ってこないことを知っているはずなのに。

こいつは、何を言ってるのだろうか……。

「あのさ、お前は……」

「お前じゃないです。俺はシロです」

「えっ?」

「俺の名前は、シロ。……ご主人様がつけてくれた名前です」

シロの瞳が、きらりと潤んだ。

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