太だ平らかな天の国は無く

 初めから信じてなどいなかったと主張するにはひどく狡詐的で、信じていたのに裏切られたと主張するにはひどく自己憐憫が過ぎた。

 ただ、一番初め、あの日彼についていったのは信仰心に依るものではない。こればかりは事実である。彼の説く、上帝という唯一の神を戴く教え。曰く上帝以外の神はすべて嘘であり本当は上帝ただ一人が真の神で、信仰を取り戻せば世界は正直で公正な世の中になる、と。

 村の人間はほとんどが奇怪な目を彼に向けた。話す内容よりも——そもそもさほど理解もできなかっただろう——どちらかというと彼の容姿を怪しんでいた。三つ編みをほどいて髪を下ろし、日常的に剃るべき箇所は灰色になりかけていて、髭も生やし放題、当然衣服も粗末だった。

 だから、彼についていくことを選んだ私たちもまた奇怪な存在ではあっただろう。

 当時の私はいわば最下層に位置する類の人間であり、殴られたり蹴られたりされない環境があれば飛びつくのは当然だった。でもきっと、それだけではなかっただろう。

 事実、あの空間は居心地こそいいとは言い難いが、誰も彼もが最下層に見えて、むしろ五体満足に動ける己が優位に立てた錯覚すらした。ここに私の一部禿げた頭を、がちゃがちゃの歯を、大きな足を馬鹿にする人間はいなかった。

 そんな環境さえあれば、私は位牌を壊したり廟を燃やす場面に立ち合わせようと構わなかった。そもそも、どうせ金持ちしか救わないような神だ。私たち最下層の人間に加護はもたらされない。

 このように上帝の教えを拡める行為についてはいささか冷めた目で見ていたけれど、彼の説く上帝の教えが心地よく感じたのは否定できない。曰く私たちは、信じさえば生きてさえいれば救われる、と。加えて淫らな行為をするべからず、という教えにも救われるところがあった。容姿の悪い私は縁談など来ていなかったが、この世の中歳を重ねた女の行く末は、よほど条件の悪い男に嫁がされるか、一生親元で近所に陰口を叩かれ中ら働き通すかの二つしかない。それにはどちらも「男」という存在——つまりは子を産み育てる行為がするにもしないにもついて回る。でも上帝の教えは子を作る行為を忌み嫌う。その考えが私の中に入れば、今まで想定していたたった二つの行く末が、いくつも枝分かれしたように思えた。

 彼に問うたこともある。

「上帝の教えは理解できます。でもこれを実践し続ければいずれ人は絶えてしまうのでは?」

「上帝は何も子を作るなと仰ってるのではない。あくまで『みだりにするな』と説いている。男は子を産んでくれると確信できる女のみを選び、女は子々孫々を繋いでくれると確信できる男を選ぶべきなのだ」

「ではその確信できる相手が見つからない場合は?」

「すなわちそれも上帝のお導きだ。見つかるまで、探し続ければいい。その道程を上帝は否定しない」

 つまり、貴方も否定しないということか——そう返したかったが、唇は閉じられた。

 とはいえ私のような解釈をしたものは少数派で、大抵は「上帝を信仰しなければ災いが降りかかる」という脅しじみた文句で入ったものが多数派だった。この脅しで上帝の信者はみるみるうちに増えていった。が、同時にこの頃から妙な人間が増え始めたと思う。

 ただこれは個人的に感じていたものである。元々私がいわゆる偶像の神すらも腐していたのも大きい。とにかく、やたら演技ばった口調を取るものが増えたのだ。自らは上帝であると主張するもの、上帝の子、すなわち彼の兄に当たるものと宣うもの。周りは興奮していた。彼も含め。そもそも彼自身、上帝の子を名乗っていたわけで道理とは言えるものの、それでもあくまで信仰心を得るための演技だと私は捉えていた。けれど、あのはしゃぎ様を見るに誰も彼も本気だったのだ。強い乖離は感じたが、当然言葉に出す真似はしなかった。今考えるとこの時点で逃げるのが正解だったのだろうか。いや結局、私の行く末の枝がいくつか落ちるだけに過ぎない。それに、正直彼の信仰が深いさまに安心を覚えた節もあった。

 だが何よりも、これは布石でもあったのだ。これから長い長い戦いが始まるについて。気づいたら、私は保存の効く食糧を作っていた。気づいたら、行軍のための衣料のつくろいに励んでいた。気づいたら、武器を作っていた。気づいたら、その武器を持っていた。

 そして気づいたときには、私は男を一人殺していた。

 それは密偵に来た官軍の兵士だった。兵士が息を絶えると隠れていたものたちがわあっと飛び出し、「よく妖のものを退治してくれた」と称えた。これは彼にも報告されるところとなり、私は賛辞の言葉をもらった。

 正直、嬉しかった。彼は私が男女どちらであろうと、ただ仲間を守ったものを賞賛している、そう思えたからだ。

 その後も我々上帝を掲げる軍の勝利は重なり、彼は平げた領土を以て国を造った。

「ここより地上の天国が出来上がる。完成の暁には、功あるものに官位を約束しよう。功小さくとも、朝廷にて高貴な服を身につけられよう」

 彼の言葉に誰もが沸いた。私もそのうちの一人だった。こればかりは沸かざるを得なかったのだ。高貴な服、傍目くらいにしか見たことはないが、少なくとも肌に斑点ができたり、ぼろきれになることはないのだろう。ひょっとしなくても、自分で洗わずともいいのかもしれない。さらに飢えることも決してない。そんな光景は、まさしく夢のようだった。だがこのときの私は、私が仮にそんな生活を送れるようになろうと、服を洗う人間がいて、自ら作った食糧を奪われる人間がいるのは変わらない事実から、目を背けていた。いや見てすら、いなかった。

 このように我々の進撃の犠牲になる人間は目に映さないことで、天国への道は着々と開いていった。いつの間にか唱える言葉も少し変わった。満を滅ぼし、漢を興す。今ならば上帝はすべての人民を対等に救うのではなかったのかと問えるが、あの日清兵を殺した私にとって、あれは妖であると断じるのはよほど楽だった。

 そして我々は南の都をも平げた。彼は城に黄色の旗を掲げ、都の名を「天京テンケイ」とした。——此処こそが天の国の都である、と。

 この頃が一番いきいきとしていたように思う。私含め。想定よりも天京での生活は大変なものではなかったのだ。衣食は均等に分配され、各々が自らの得意分野で働き、身体が不自由なものは相応の簡単な仕事が割り振られた。理不尽なことで取り締められたり斬られたりもしなかった。

 かつての都を取り戻さんと官軍が来ることはたびたびあった。けれども流浪だった時期に比べれば我々の装備はかなり充実し、城の内からの防衛戦ということもあり大抵ほぼ無傷で撃退できた。何より死んだ官兵からは様々なものを頂戴できる。連中が来れば来るほど、我々の装備は充実していった。

 特に私が感嘆したのは、纒足テンソクが禁止された点だった。とはいえ私の足は纒足を受けていない。働かせるためだ。我々のような貧乏な家の娘にはよくある話だったが、すなわち成人した女が大きな足で歩いているのはその事実を簡単に結びつかせ、周囲にとって格好の侮蔑の対象にさせた。

 だから私を含めた大きな足を有する女たちは、この女の足を解放させる政策に積極的に関わった。対し、世の中には想像以上に足の不自由を望む女が多かったのだ。

 今思うと、自由を拒んだ理由も理解できなくもない。足を自由にしたところで、また足が元のように走れるほど大きくなるわけがなかったのだ。だが誰もそう理解することはなく、誰かによって不自由にされた女を、私は馬鹿な罪人として躊躇わず鞭を打った。

 やはり私は何も理解していなかったのだ。我々が戦うことで生まれる犠牲も、理不尽に押し潰され罪人とされる無辜も。

 つまりは、彼の説いた上帝の救済を理解している信者などいはしなかった。いや、彼自身すら理解していなかっただろう。

 ゆえに私は何も言わなかった。天京に入って以降の彼が現れるたび腹を膨らませていったことも、市井では家族も男女も別れて生活させているのに宮中には彼の一族も麗しい足の小さい女が大量にいたことも、「功あるもの」は幼い息子にすら官位を与えられたことも、誰も何も口を出しはしなかった。

 「功を立てればいつかはああなれるのだ」そう自らに言い聞かせるものもいた。

 いきいきとしていた分、この生活が崩れることを全員がおそれていた。波風は官軍襲来くらいで十分だった。耐えれば、いつか救われる。そんな馬鹿馬鹿しく思ってた教えを、いつしか私も信じるようになっていた。

 だから、食糧が減っていって新しく労働が課されるようになっても、それで逃亡者が増えていっても、管理者が食糧を独占するようになっても、我々「功少なき」古参は一歩も動こうとはしなかったのだ。

 気づいたときには、天京は楽園とはほど遠い場所になっていた。男女を分ける制度は撤廃され、自由な婚姻が許された。すなわち、男が好みの女を見つければ好きにしていい、となったわけだ。それで女が大勢自ら命を絶った。中には男児すらも手籠てごめにするものまで現れた始末だ。結局先に犠牲になるのはいつも弱いものたちからだった。死体がそこらに転がるようになるまでそう時間はかからなかった。

 これは北へ進軍した同志たちが全滅したという噂が広まり始めたのと同時期だったと覚えている。内も外もほころびが出始めていたのだ。

 そしてそのほころびを繕わないまま、何ヶ月か過ぎた頃だった。

 早朝だった。突然大砲の鳴る音が響いて飛び起きた。武器を持って外に出ると、同じように飛び出したものが何人かいた。

 ひゅっと息を飲んだ。そこらには同志たちの死体が転がっていた。何より、ちょうど同志が同志を刺し殺していたのだ。

 私たちに気づいたその男は、こう宣った。

「東王が反逆を図った! 東王の息のかかったものは皆殺しにせよ!」

 言い終わると男は東に向かう軍勢の後ろに加わった。

 そのあとはひたすら仕事に没頭する一日を過ごした。気が気でなく集中できないものが大多数だったが、私はむしろ今起こっていることに目をそらしたくて何も考えないようにしていた。

 帰ると、同じ屋根の下に住む皆がざわついていた。

「お願いです……このままじゃ殺される……」

 皆は円の中にぽっかりと穴を作っていた。その穴の中心にいたのは見覚えのある女だった。あのとき官兵を殺した私に感謝していたもののひとりだ。この人は罪人なのか? と私はすぐそばにいたものに尋ねた。

「罪人、ではあります。東王の直轄地に暮らしてたから……」

 意味がわからなくて、思わず聞き返した。

「お達しなんです。東王に関わったものは妖であるから、殺せ、と」

 私はようやく今自らが置かれている状況を理解し、青ざめた。古参である私はここらの長を務めていた。皆は、私が、彼女を断罪するのを待っていた。

「お願い……」

 彼女を覚えている。あの日官兵を殺した、初めて人を殺した私に大層感謝していた。『よく動けるもの、お腹がすくでしょう』と自分の食べ物を分けてくれた。彼女も覚えていたのだろう。住む場所は離れたが、きっと自分なら助けてくれるだろうと。

「あ」

 私は何も言わず、彼女の首元を斬った。

 どすん、と彼女は横に倒れた。瞳は私を見つめ、口は何かを言いたげにごぽごぽと血を震わせている。

 私は地に伏した彼女の首めがけ、刀の刃を真っ直ぐに落とした。がきん、と嫌な音がした。欠けたのだろう。砥石なんて私のような末端には行き渡らない。

 さっき私に経緯を教えたものに、官兵への報告を頼み私は水辺に向かった。刀についた血をすすぎたかった。

 川の付近には人だかりができていた。けれど血のついた刀を携えるものがいれば誰でも道を開けた。ようやく川が見える位置につく。だけど、川は私の見知ったものではなくなっていた。川と言えるかも怪しかった。

 ぼちゃん、と音がすると流れてきた、新しい死体が。

 けれど、流れはすぐ止まった。他の死体に阻まれて。

 川下に向かうにつれて、流れは止まる。死体がひしめき合って、お互いが流れるのを阻んでいる。

 ああ、ついでにあの死体も持ってくればよかったのか、と思った。それと、こんなに真っ赤だと刀もすすいだところで意味がないだろう、と。

 無駄足だったと私は踵を返し、自らの寝床へと帰った。彼女の死体はまだあった。周りに人は誰もおらず、打ち捨てられていた。

 この事件に際しては、彼を中心とする上の間でもかなりいざこざがあったようだ。彼の東王に対する仕打ちはあまりにも残酷すぎる、と逃げ出す王も何人か現れた。けれど実行者が死んだことで戻ってきた王もいた。その帰還で天京は数ヶ月ぶりに静かな時を取り戻した。

 だけど静かなだけだ。静かなのは、人が大幅に減ったのもあるかもしれない。あれから逃亡者も多数出たが、おそらく出た死者の数の方がずっと多いだろう。

 それに逃げたところで、髪型や足で判別のつきやすい我々は官軍に見つかれば殺される。行き詰まっていた、完全に。

 この状況に対しむしろ彼は開き直った。親族を堂々と重用するようになり、東王が務めていた任に自ら座り国と軍を指揮するようになった。私はというと、こんな状況にさほどしか失望していなかった。去った王に連れ立って武将も多く去ったため仕方がない、と都合よく捉えたのだ。このように好意的に解釈したのは、あの事件で人手が足りなくなり宮殿勤めに配属されたのが大きい。彼は覚えてくれていたのだ。私を見て『久しい顔だ』そう言ってくれた。戦いに出ずとも良くなった事実にも、正直安堵した。

 この喜びに運が味方したのか、またしばらく大した波乱のない月日が続いた。何でも我々の国の外でも戦争が起こったらしい。官軍は我々よりも、ずっと西の海から来た敵を恐れたのだ。彼の神は元々西の海の向こうで信仰されていたらしい、ゆえに彼はこれを天の加護と大層喜んだ。

 また日常を過ごせる日が戻ってきた。進軍は一進一退で、天京を襲う妖がいなくなったわけでもないのに、それを日常と感じる程度にはだいぶ麻痺していた。

 満足に食えず満足に清潔な衣服を着られぬ日常だったとしても、食べるものがあって着るものがあるこの日常に、満足しようとしていた。

 それでも罵倒され、殴られ、汚される日常よりずっと、敵を妖として殺し、味方を妖として殺すことで得られるこの日常の方を愛していた。手放したくなかった。

 誰かを蹴落として得られる安寧など、すぐに崩れるつぎはぎでしかない。なのに私はそれが永遠に続くよう祈っていた。

 対し、意外なことに彼はこの安寧をただ享受するだけでなく、形にして感謝を示す選択をした。国の名に上帝の文字を冠したのだ。しばらくすると、上帝に加え彼の兄を示す天兄を、そして己を示す天王の文字を冠したのだ。

 私自身は大したように捉えなかったが、各地で奮戦していた王たちは異なった。彼の苛々する様子を覚えている。人づてでしか聴いてはいないが、一時期ここ天京よりは向こうの方が富んでいたときもあったそうだ。

 けれどその奮闘もそんなに保たなかった。しびれを切らした官軍は、己を負かした西の海の連中に助けを求めたのだ。そもそも我々が使う中でも一番に強い砲や銃などは、元々彼らのものだという。勝てるはずもなかった。

 あたたかくなってきた夏のはじめ、終わりが始まった。

 自らの才をさんざんに唱えていたはずの彼は、ひと月も経たない内に自分で外に放った王たちに、救援はまだかまだか、と繰り返すばかりになった。

 救援が来たとしても、滅びをほんの少し遠ざける程度にしかならなかった。支配していたはずの地域はひと月経てばひとつ、ふた月経てばふたつ、と陥ちていく。彼の焦燥は激しくなり、言葉をいちいち狩り立てた。たかだか『我が兵』とでも滑らせれば「お前の兵などどこにもいない、私の兵だ!」と宣っていた。

 罵詈雑言が響く中、なぜ宮などに来てしまったのか、そんな後悔が初めて生まれた。

 気づいてしまうと、間近で見る彼の姿がひどく痛々しく思えた。

 あのとき『久しい顔だ』と言ったのも誰にでも吐く適当な言葉で、いたずらに国の名を変える面白くもない行いで戦ってくれる仲間の機嫌を損ねて、そもそも彼らを労る真似すらせず自分の利益のため動かない点ばかりに文句を言って、つまらない新しい言い方を作って相手が間違えれば鬱憤を晴らすように責め立てる。

 この男は、何なのだろう。

 そもそもこの男はどんな男だったのだろうか。

 誰よりも深く上帝を信仰していた男か。——では上帝を身に宿らせていた東王をなぜ殺したのか。

 誰よりも上帝の教えを実践していた男か。——では宮中にいたあの女たちは何だったのか。

 誰よりも我々の上に立ち導くに足る男か。——仲間を労らず、罵り、自らは決して宮中から出ようとしないこの男が?

 ばちん、と頭に弾ける音が響く。

 頬を叩いた。まるでやましいことを考える子を叱責する親がごとく、自らの頬を。

 考えるな。

 きっと言葉にするならそう叱りつけていた。

 ——考えたってどうにもならない。だってそう考えたところでどうする? 彼に思いついたぶんの言葉を投げかけてみようか。そんなのすべて言い終わる前に首と胴体が切り離されるに決まってる。ああでもきっと昔だったら答えてくれた。彼なりの理屈で。納得できない答えも多かったけれどあんまりにも彼が自信たっぷりに宣うさまが面白くて、眺めてて何だか安心できて。こんなに自信がある人なら大抵は説得できてしまうだろう。そう思えたんだ。天京に入って、彼についてきて間違ってなかったと確信できたはずだった。誰も醜くて足が大きくて子もいなければ夫もいない私のことを馬鹿にしなかった。戦えることをはしたないなんて誰も言わなかった、頼りになると褒めてくれた。だけど今はどうだ? 私は今や戦いに向かうのを恐れていて、彼はあんなざまだった。あれでは誰も説得できるわけがない。きっと彼自身も自分が何を言っているのか理解できていないんだ。何が起きているかも、何をどうするべきなのかも、何もわかっていない。

 けれどもそれは、

「考えるな……」

 私も同じだった。

 彼は、私と何ら変わらない人間だった。

「考えるな!」

 当時の私は、喧しい周囲の中、意味もなく小さく唱え続けていた。

 けれどそんなまじないを唱えたところで、私自身も周囲も好転するわけがなく。

 この都、いや天の国の終わりはすぐそこまで迫っていた。

「もはや天京の守護は不可能です! 天王、ご決断を」

 終わりを言い換えて主を説得せんとする忠王——その称号に相応しくこの国を最期まで守ろうとした将軍だ——に対して彼は堂々と宣った。

「朕はこの天下万国唯一の主である、いったい何をおそれると言うのか! お前が支えずとも他に支えるものがいる。朕の天兵は水よりも多いのだぞ。今後政は朕の次兄に任せる、従わねば処刑だ!」

 頬が腫れるより先に濡れてしまった。その理由を考えたくなかった。

「腹減ったな……」

 わざとらしくぼそりとつぶやいた。空腹に耐えかねこぼれたということにしたかった。無理があった。

 向こうの忠王も頬を濡らしていた。

「ならばいっそ、ここで斬ってくだされ」

 それを最後に、忠王は宮殿を去っていった。

 それでも忠王は天京に留まってくれていた。不思議でしかたがなかった。今からでも情報を明け渡してしまえばいいのに、もはや主に正気はなく己が降れば兵の士気すらもなくなるだろう、と。

 ここまで想像していていまだ私は自らの本音を聞こうとしなかった。ただひたすら口を塞いでその声をなかったことにしていた。

 このとき私が私に許していた思考は、『腹が減った』それだけだ。

 というか、空腹が過ぎてそれ以外頭が働きようもなかったのはあるかもしれない。それくらい食糧が欠乏していた。当然彼が空腹を感じているわけはない。

 忠王は本当に懸命だった。天京の都を守りながら何とか食糧を確保しようと奔走していた。それからの『米が二日後来る』という報はずいぶん久しく城に歓喜の声を響かせた。結局失敗して、よく聴く悲嘆の声に替わったわけだが。

 そして忠王は、もう二度と踏み入れたくはなかったであろう宮殿に再び足を踏み入れた。予想した通り、ここの食糧を人民に解放してほしいという旨の説得だった。

 忠王の言葉を何でもない風に聴いていた彼の返しは、私も最初上手く飲み込めなかった。

甜露テンロだ」

「は?」忠王も飲み込めず聞き返した。

「甜露を食えと言ったのだ。あれだ」

 彼は外に向かって指をさす。指の先は草が茂るばかりだ。

「仰ってる意味がわかりませぬ」

「頭の悪いやつだな。よいか、あれは甜露である。上帝が預言者の危機に対し与えし天の賜物だ。あれを食えば飢えはしのげる」

 どさりと、私は思わずへたり込んだ。

 この男は、この男は。

 女として価値のない私なんかよりも低俗な男だったのか?

「…………っ」

 忠王は何も応えず踵を返した。

 彼はそれに対し何の反応もない。

 膝を崩した私に、忠王は耳打ちした。

「この国は終わりだ。お前も逃げよ」

 その言葉で、膝が力を取り戻した。

 すっくと立ち上がり、彼をまっすぐ見据えた。

 瞳が合った。しかしすぐそらされた。

 右足を軸に、私は彼に背中を見せて、駆け出した。

 これが最期の彼の記憶だ。

 その後忠王は自らの食糧庫を放出して、かつ人民の天京脱出を手助けした。私もそれに加わろうとしたが、いざ城門を前にすると動けなくなった。

 結局私は忠王にも背中を見せ、今ここにいる。

 彼は死んだらしい。

 当然、死体は見ていない。食糧がないというのに、葬儀はちゃんとしたものをやっていて滑稽だった。はたから眺めながら曰く彼の最期の言葉を聞く。

「朕は今から天上に昇り、天将天兵を得て天京を守る」

 何も響かなかった。

 昔の私も一笑にふしただろう。でも違いは、どこか信じていたという点。

 彼の教えは信じていなかった。でも彼の言葉を信じていた。

 彼の理想が私の理想と偶然合致して、望みを叶えてくれるように錯覚した。

 彼の作った社会は、まるで私の要求のひとつに応えてくれたようで、それがたまらなく嬉しくて。

 その感情をひたすら追い続けていた。それが湧かなくなっても、きっとまた見つかると信じて。

 彼が言ってくれた、はなはだひららかな、天の国が。

 もう無いのだと悟るのが恐ろしかった。悟っても首を振って拒んだ。その結果が、これだ。

 周りはひどく喧しい。

 男の怒鳴り声と笑い声。強いものがひたすら己の欲求に従いうごめく音。

 女の助けを求める声に老人の天に縋る声、子供の泣き声。弱いものがただただ虐げられ続けている音。

 ずっとずっと、耳をすまして聴いている。

 誰かが掘ってすぐ諦めた、浅い井戸の中。

 乾いた喉から、木枯らしみたいな音を出して。

 そして光が差す。

 私と天を隔てていた板がずらされた。

「んだよ……気配がすると思ったら、こんな年増の醜女か」

 刃が真っ直ぐに落とされた。

 

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紙上談爾〈再録〉 @he1le

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