五代十国アソート

 五代十国ゴダイジッコクなる時代があった。

 今から二千年よりもずっと前、シンの始皇帝が統一せし中国大陸。

 今から千年と少し前、帝国滅び群雄たちに分割されし中国大陸。それが五代十国時代。

 五つの王朝と十つの国。乱立した皇帝と王たち。

 歴史は彼らのみによって紡がれたか。否。

 では正史に名の残りし者たちによってか。否。

 歴史とはすべての人間が作った。時代が頁であるならば、人は活字である。

 そしてそんなひとつひとつの活字が、皇帝たり王たる、あるいは将軍、宰相たる活字を彩ることもある。

 たったひとつの活字でも、歴史を語る一文字なのだ。


 


   

  『饅頭』(威通イツウ年間から九〇七年の許州にて)


 その饅頭の味は思い出せない。けれども不味かったのは間違いないと断言できた。

 一口かじってすぐ、「失敗した」そう思ったからだ。

 正直買った時点で嫌な予感はしていたのだ。饅頭と書かれたのぼりと売り手の背だけで声をかけてしまった。振り向いてきたのは眉と額は立派だが愛想のまるでない、人相の悪い男。腰を曲げていたがたぶん体格はいいだろう。

 私が少し気圧されながら饅頭ひとつを頼むと、男はこれまた面倒そうに饅頭を手渡した。彼の手は傷と汚れに塗れており、受け取った饅頭は若干土がついていた。

 男は私が寄越す代金を奪うように取り、去っていった。あの値なら釣りが少しばかり出るというのに、渡す素振りすら見せなかった。私が怖気づいていて引き止めたりしないと見抜いていたのだろう。

 私は汚い饅頭を片手に男の背を呆と眺めていた。

『あんた』

 少し遅れて私に話しかけてきたのだと気づいた。歩き売りでなく屋台を出している主人だった。

『あんた、もう思い知ったろうけどあいつからは買わない方が身のためだよ。やつは捕まったこともある、王さんとこのろくでなしの八男さ。最近出てきてね。兄夫婦のとこ居着いてるらしいけど、早くどっか行ってほしいもんだ』

 長くなりそうな主人の話に適当に相槌を打ちながら、私は手の上の饅頭をかじった。

 その饅頭の味は、思い出せない。

 

 唐突にこんなことを思い出したのは、今取り扱っている茶の産地に「ショク」という文字が書かれていたゆえだ。

 私が、蜀の茶が許州へ来るまでになったのか、とつぶやくと同僚のひとりが、

「知らんのか。今や蜀にすら新しく皇帝が立ったらしい。その『陛下』が茶なり何なり、色々交易させてるって話だ」そう応えたのだ。

「なるほどな。都でも元農民が冠を戴かれ、今や天下は帝がふたりというわけか」

「ああ。そうそう、その蜀の皇帝陛下も元は饅頭売りだったって話だぜ。ちなみにここらの出らしい。もしかしたらすれ違ったこともあるかもな」

「ふぅん。饅頭売りからよく成り上がれたものだ」

 あの饅頭の味を、思い出せる日はきっと来ない。

 

 

  

  『賜物』(九一七年の開封カイホウにて)


「これは元帥位を賜った際に贈られた甲冑……これは兜で……」

「ほほう、これはさすがの代物」

 都の守護者たるコウ将軍に招かれしもの、先ず謹んで彼の話に耳を傾けるべし——なる文句はこの開封でそれなりの地位を有している家にとっては誦じられるそれである。というのも、こればかりは寇将軍の直しようのない悪癖であり供養であり、正直矯正しようとするのは人としてどうかと言える行いだ。何より長身の見目麗しき男性が、鐘の如き美しく響く声ではしゃぐ様を見られるのは、私としては役得である。

「そうだろうそうだろう。今陛下が愛飲なされていた茶も淹れている。そして陛下が褒めてくだすった庭園でも眺めようではないか」

 寇将軍は陛下、陛下と繰り返すが彼の言う「陛下」は現在宮殿に座する今上陛下を指してはいない。その父である先帝陛下のことだ。不敬と受け取られてもおかしくない行為だが、彼だって参朝すればちゃんと今の皇帝を「陛下」と呼ぶだろう。ただやはり彼の心の内ではいまだに主君は先帝であり、その思いは家の中だけで発露しているのだと私は解釈している。

「寇将軍に対する陛下のご寵愛がよくわかります。邸宅に甲冑に馬。すべてが素晴らしい代物で……」

 はっと言葉が詰まる。眼前の彼は音もなく頬を濡らしていた。

一丈烏イチジョウウは……先日に死んだ」

 一丈烏、名の通り漆黒の馬である。寇将軍にとって一番の、陛下からの賜物の象徴と言える存在だった。失言を悟った私は膝を崩し頭を下げる。

「これは失礼を! 閣下のご傷心を察せられず……」

「一丈烏だけじゃない。これも、あれも、私が死んだらどうなるのか。私が陛下より賜った寵愛は、いずこへ行く?」

 その声は、鐘の鳴らす音ではなかった。ただ一人の人間が、死を恐れつつも受け入れざるを得なくなり、その未来に大事なものを守り抜く自らはいない。そんな当たり前の事実を悟った男の嗚咽だった。

 

 

 

  『啼泣テイキュウ』(九一八年の淮南ワイナンにて)


 私たちが仕える王はあまりにも王らしくないと、宮中でも宮外でも有名だ。

 この天下の南に座する呉は、初代の王様こそ立派な大人物であったが、その子息たちははっきりいって小人物と称していい方々だった。

 とはいえ今私が仕えるこの方は、喪も開けていない内から鞠遊びに乗じる兄君と比べればずいぶんましと言えるだろう。あくまで人格は、の話だが。

「ひっ、うぐっ、……」

 扉の前に立った私は自らの不運を嘆く。王のすすり泣く声が聴こえてきたからだ。そう珍しくもない状況ではあるが、涙を流す王をすぐそばに寝所の支度などしたくないのが人情だろう。だが早く仕事を終わらせたいのもまた人情。一瞬の躊躇いを無視して、私は扉を開けた。

「失礼いたします」

 私に気がつくと王はさすがに泣くのをやめた。彼は赤くなった鼻をこすり、牀に座り直した。

 私はいつも通り寝具を指定の位置に置いていく。さも王など気にもしていない風に。

「きみは……」

 そう心がけていたというのに、こんなときに限って話しかけられた。

「いや、応えなくともよい……」

 そんな私の不機嫌を察したのか、王はそんなことを宣う。一女官に気を使う始末だからこそ威厳もへったくれもないのだ。

「きみは、人間の生首を見せつけられたことがあるか?」

 予想外の質問だった。しかしつい反射的に応えてしまう。

「い、いえ」

 そうだろうな、と王は血の充ちた瞳をそらした。

「仮に、そんなもの見せられたらきみは自分がどうなると思う?」

「驚き、ますわね。きっと、恐ろしくて忘れたくても忘れられない……」

「そうだよなぁ、そうだよなぁ」王はうつむきながら拳を強く握っていた。「でも、そんな思いは表にあらわしてはならぬのだ」

 皆そう言う、小さく王はつぶやいた。

「引き留めてしまったな。もうよいぞ」

「いえ、失礼いたしました……」

 翌日、昨晩に起こった事件の仔細を聴いて初めて私はあの問答の意味を悟った。

 あの日は宴があった。私はそういった催しに駆り出されるような美人ではないため用いられなかったのだ。話はこうだ。臣下の一人が王を罵倒し泣かせた。それに対し将軍の一人が怒った。そして主君を罵倒された将軍の怒りは誰もの想像以上に激しく、熱に浮かされたまま彼は件の相手を斬り殺し、その男の首を王の元に差し出した。

 対する王の答えは、『そんなの自分には関係ない』というものだった。

 話してくれた相手は、それこそ呆れた風に嗤っていた。きっと、私も昨日の件がなければ王を嘲笑っていただろう。

 しかしあのとき王に問いかけられた私は、まるで笑い飛ばせなどできなかった。

 


 

  『失跡』(九二五年の秦川シンセン駅にて)


「勅書を読み上げる。——王衍オウエン一家、並んでよろしく殺戮すべし」

「!」

 否応なしに動揺してしまった。なぜなら私はその勅書を持ってきた文官の一人で、それでいてさっき見た内容と異なるものが読み上げられたのだから無理もない話だろう。

 王衍一「家」は激しく動揺していた。亡国の皇帝こそ放心した様子だが、他は阿鼻叫喚だ。

 しかし王衍一「行」とくくればそのざわめきは一部も一部に見受けられた。主君の一族が処刑される手前嘆く真似はするが、安堵の笑みを隠せていないものも何人かいた。

 もし勅書通り、壇上の彼が「王衍一行」と宣っていたら、この状況はもっとおそろしい様相を繰り広げただろう。

 勅書を読み上げたのはチョウ枢密使——当然一介の平文官である私などがおいそれと内容の不一致に関して訴えられる相手ではない。

 だがさすがに上官は違ったようだ。

「あの宦官カンガン風情、いったい何を」

 上官はすでに一歩踏み出していた。

「? おい、何を」

「へっ……あっ」

 何故か私は自分でも知らぬ内に上官の胸の前に腕を一本伸ばしていた。彼の行いを止めてはならない——考えるよりも先に、そう判断したというのか。

「何をしてると聞いている! その腕を降さぬか!」

「お待ちください。貴官は勅書の修正を宣言するおつもりでしょう」

「当然だ! あの宦官は勅令違反を犯した。今やらねば我々も同罪だぞ!」

「その通りです。しかし、修正したとて結局我々の死は濃くなるでしょうな」

「何を」

 ごくりと喉を鳴らして張枢密使の姿に瞳を合わせた。男のしるしがないから何なのだろう。彼の精神は私が見てきたどんな男よりも豪胆だ。

 自らの命だけではない、他人の命すらも平気で賭けられる側の人間なのだから。

「ご覧を。王衍一家を除く一行ども、もはや自らが助かった事実を喜ばない振りすらやめた」

「馬鹿な連中だ。陛下は鏖殺オウサツを命じたというのに、あの玉無しが適当な嘘を宣ったせいで!」

「ええ、では連中に明かしたらどうなるでしょう。『本当はお前らも皆殺しだ』と」

 上官の顔色はさっと青ざめた。ようやく想像力が追いついたようだ。しかし真に恐るるべきは——。

「訂正、なさいますか」

「……」

 沈黙による肯定と受け取り私は腕を降ろす。上官に動く気配はもうなかった。改めて、私は張枢密使を見据えた。

 もし彼の「失跡」が公になれば、上官の言葉通り流れる血は王衍一行に留まらない。

 それでも張枢密使はやってのけた。たかだか亡国の民数百の命を守るために、自分を含めた数百以上の命を賭けたのだ。

 対し彼はあらゆる感情をつゆほども見せない。これができるからこそ、枢密使にまで昇り詰めたのだろう、そう思わせる。

 若い頃は朝廷で雄弁に振舞う己の姿を夢想しては勉学に励んだ。今もなおどこか諦めていない節があった。

 だがあの姿を見て「なれない、なりたくない」そうはっきり思った。

 

 


 

 

 

   『万事』(九三〇年の荊州ケイシュウにて)

 

 嵐はない方がよっぽどいいが、世はそう上手くいかない。人の身では早く過ぎ去ってくれるよう祈る他ないのだ。

「唐の使者はまだ来ないのか!」

 我らが荊南ケイナンの王はすっかり平静を喪っていた。無理もないと言える。我々は中原に座する皇帝と現在敵対関係にあった。だがそれも先王——すなわち現王の父君である——の時代まで。彼が亡くなればもう争いを続ける力は我々に残っていなかった。

「はっ陛下。まだ到着までかかるようで……」

「もうひと月は経つのだぞ! 和睦の使者がここまでかかるなどあり得るか!」

 王は怒っていたが、それは自らの怯えを隠そうとするためのものだと誰もがわかっていた。

「連中は、兵を用意しているんだ。だから時間がかかってる……もしもまた攻め込まれたら、今度こそ終わり、万事休すだ……」

「もうおわったの? ちちうえ」

「え、お、王子⁈」

 ひょっこりと唐突に現れたのは王の御子が一人、高保勗コウホキョクさまだった。まだ七つを数えたばかりの彼は、遠慮なしに父の元へ向かおうとする。

「王子! すみませぬまだ議は終わっていないのですよ」

「えーだって、さっき言ってたよ、ばんじ……とにかくぜんぶおしまい! ってことでしょ?」

 息子越しに己の言葉を聴いて、王の顔がさっと青くなった。どうやら、王として口にしてはいけない言葉を吐いたのを自覚したようだ。

「ちちうえ……怒ってる?」

 様子が変わったのを察したか、王子は心配げに父をじっと見つめていた。

「……いや、違うぞ保勗。さっきの言葉もな。あれは……怒るのを終わりにする、という意味だ」

 不安にかられた我が子に対し、王は精一杯の父親の笑顔を浮かべた。

 父の笑みに王子はぱあっと顔を明るくさせて、

「なぁんだ! そうだったの!」ときらきらとした瞳を向ける。

 そして遅れてやってきた女官に連れられて、上機嫌で出て行った。

「すまぬ。冷静になった」

「よろしいかと思われます。もし仮に、唐がいまだ攻勢に出たとしても我らもまた、対抗する術はあります」

「励まねばな。あの子のためにも」

 結果として王は平静を取り戻した。本来だったら幼い子供がこのような場に入ってはならないが、それこそ万事休す——すべてよし、と称してもいいだろう。

 

 

  『佛子ブッシ』(九三八年の長安にて)


「大変だぁ! 佛子さまがこの長安に越してこられる!」

「はぁ? 何、帰ってすぐ……佛?」

 妻がぴんと来ていない様子を見せたためか、夫の興奮が一瞬止む。だがすぐに飲み込んだ言葉は違うものに変換され吐き出される。

「前に話しただろう! 張筠チョウイン将軍だよ! あの人がこっちの方に越してこられるんだと!」

「えっあの施しをされる御仏さま⁈ すごい! やったわあなた!」

「これでしばらくここで安心して暮らせるよ!」

 夫妻の喜びようは三日三晩続いた。

 

 しばらくすれば張筠の長安移住は市井周知の話になった。だがその事実がなぜかの様に喜ぶことなのか、ぴんと来ていないものもいた。

(施ししてくれるったって……この長安で?)

 青年は店番をしながら考えていた。彼の生活する長安という都市、元々の首都であるゆえ十分に発展し、そこらを歩けば名門貴族の血を引くものとすれ違う。そのぶん貧富の差は激しくもある。だから彼らに限れば施しを好む将軍の移住で喜ぶのは理解できる。わからないのは貴族や大きな商家のものまでも喜んでいる点だ。

「おう坊、そんなぼんやりしてて店番つとまるかい?」

テイさん、ご無沙汰ですね」

 思案を広げていたら常連客がやってきた。だがこの様子だと品物よりは店員との会話が目的だろう。

「そういえば鄭さんはご存知ですか? なんでも張とかいう将軍が越してくるって」

「ああ聴いてるよ。いやぁ嬉しいこったね」

「鄭さんも嬉しいんですか。なんでこう皆に歓迎されるんだろう」

「ふーん、坊はあの人について知ってることあるか?」

「なんか、金をばらまいてくれるそうですね。でもその金って泥棒で得た金らしくて。悪人なのか善人なのかよくわからない人だ。そりゃ俺も金をばらまかれたら駆け出しちまうけど、どうしてあそこまで皆喜ぶんだか」

 うんうんと鄭はうなずいている。そして承知したように青年に問いかける。

「坊はたしか同光ドウコウ一年(西暦九二三年)の生まれだったな?」

「ええ、大変な時期に生まれてくれたって、よく親父から言われます」

「知ってたら生まれなかったか?」

「妙なことを聞きますね。まあ叶うならもっと平和な時代がよかったな」

 当たり前の話だ。もし生まれる時代を選べるなら絶対に今は御免だと言うのが多数派だろう。

「脱線したな。まあ何というか、張筠……佛子さまはそれがわかる方なんだ」

「へ?」

「唐……古い方のな。あの方は当時ある群雄に仕えていた。でもその群雄は唐を滅ぼした朱溫に殺されちまった。ひでぇ攻め方されたみたいだぜ。食糧は尽きて兵も民もぼろぼろ。最後は自分で火をつけたくらいさ」

「恐ろしい話だなァ」青年はぶるりと肩を震わせる。「あれ、でも張筠将軍は」

「ああ、あの人はそれより少し前に朱溫に降ってたのさ。おかげで酷い目に遭わずに済んだってわけだ」

「なるほど」

 青年は顎をさすり推察する。だんだん鄭の意図が読めてきた様子だ。

「つまり彼は……朱溫の建てた梁が滅ぶ前もどこかへ降った、と」

「その通り、さすがいい勘してるぜ」鄭はおおげさに手を叩く。「そして今都の方では叛乱の真っ只中。そんな折にあの人が越してくる。あとはわかるな?」

「この長安はしばらく安泰ってわけですね。なるほどそりゃ『佛子』だ」

「そういうわけさ」

 去る鄭を見送りながら、青年は佛子の姿を想像した。

(いやいや、あの人が来るならこっちは平和ってだけだ。十分ありがたい話だけど、俺の儲けになるわけじゃない)

 青年は知らない。やってきた張筠はあちらこちらで遊び回り、辺りの経済を活性化させる『地仙』でもあることを。とはいえこれはまた別の話である。

 

 

  『台盤』(九四〇年の金陵キンリョウにて)

 

 男の笑い声が響く。女が笑っていないわけではないが、この場で心から笑うは男のみだ。

「おいそこの、それが食べたい。こっちに来い」

「はぁい、ただいま」

 私は粘ついた笑みを顔に貼り付けながら、声の方に寄る。

「おお、これだこれだ。どれどれ……うおっと」

「!」

 呼んだ男——皇帝に寵愛されている宰相だ——はわざとらしい声をあげたかと思えば、私の手をはたいてくる。私はからくも避けるが、肉の盛られた皿、すなわち我が手の上はあやうくこぼれかけた。

「はは、よく落とさなかったな。褒めてやろう」

 彼は心にも思っていないと言わんばかりのよどんだ目で私を見下ろした。睨んでやりたかったが、私には変わらず笑みを貼り付ける他ない。

「どうです陛下。この皿は呼べば自ら寄ってくる上に、つい手がぶつかってもこうして避けてくれる。肉の台盤でございまする」

「ほうほう、よく考えたものだなセイよ。だがあまり虐めてやるな。口に入れられなければ皿も甲斐がないだろう」

「おっとしまった……おい」

 宰相は皇帝にこそへらへらしていたが、いざ私——いや、「肉台盤ニクダイバン」と称すべきか。つまりは食器に顔を向ければさっきまでの愛想は消え失せた。

「ハイ、どうぞご賞味くださいまし」

 その点私からは笑みは消えない。にこやかに私は手の上の肉を彼に差し出した。宰相はそれを箸で口に入れ、いざ皇帝に向き合うと、

「うむ、これは格別」そうにっこりと気持ちの悪い笑顔を浮かべる。

 皇帝は𠹭𠹭カカと笑い、彼の笑顔を肴にするように酒に口づける。

 言ってしまえば宰相は女を皿に笑うが、皇帝はそんな宰相を見て笑っているわけだ。

 それすなわち彼の笑顔が皇帝陛下の肴にされているとすれば、その笑顔を浮かべる宰相こそ皿——台盤であると、私は思い至る。

 このときだけ、私は心からの笑みを浮かべた。

 

 

  『真実』(九四二年の福州と九四四年の金陵にて)

 

 この国が大嫌いだ。俺が生まれた頃より、この国で王族どもの争いが絶えた時期はないのだから。

 何より腹立たしいのは、俺の父親はそれでもこの国を愛していた。何よりは先祖代々のこの土地を。ひいてはその地を発展せしめた、建国者さまたちご兄弟を。

「どうしても、出て行くか」

 俺は同じ言葉を繰り返す親父を無視して家を出た。そして商隊に加えさせてもらい、苦労してこの長江のふもとまで来た。あの国よりずっと栄えている大都市で、昔から続けている彫り物職人としての仕事も何とか得られた。ここ南の方じゃ一番の都市だから、芸術面に関しては地元よりずっと仕事があってありがたい。何より作ったものが戦乱で朽ちていく有り様も見なくていい。

 ある日、結構な老人が客に来た。俺の親父よりずっと歳を食っている。

「お前さん、ここらの出じゃないね」

「わかるかい。福州から来たんだ。あそこは酷いとこでね……」

「福州だぁ⁈ 冗談言っちゃいけねぇ。あんなとこ人が住んでるわけあるもんか! ならお前さんはあんなとこでどうやってこんな技術を得たって言うんだ!」

「はぁ?」

 素っ頓狂な声を出してしばらく黙って話を聴いていたが、その内「あそこの連中はみんな洞穴で住んでる」、「言葉も通じるわけがない」とか不愉快な言葉ばかり並べ始めたので、さすがに仕事を断った。

「すみません、俺のせいでせっかくの仕事が」

 俺は内心悪態をつきながらも、雇い主である大旦那に頭を下げた。

「いいよ、あの爺さんはここらでも悪い意味で評判なんだ」

「ったくあの爺、人を野蛮人みたいに呼び腐って」

「本当失礼なもんだよな。なんもかんも若い頃のまんまだと思い込んでる」

「……へ?」

「嫌ンなっちまうねまったく」

「で、すね……」

 黙々と残った仕事を片づける。対して頭の中はぐるぐると動く。大旦那の言い方だと俺の故郷が昔はまるで洞穴とか、言葉が通じない云々が周知みたいだった。でもそれを、建国者の三兄弟が国にしたのだと。

 ふと、出来上がった成果を見下ろした。それは屋根の一部になる予定だ。どこかの、金持ちの。

 あの老人の言葉は人伝の大袈裟なもの、わかっている。でもそんな噂が世間に拡まるような土地に、こんな彫りが施された家など建てられたのだろうか。

 父親の、言葉を思い出した。

『こんな仕事が出来るようになるなんて。太祖さま、ありがとう……この地を諦めないでくれて……』

 

 

  『価値』(九四八年の開封にて)

 

 この年、元号が「天福テンプク」から「乾祐カンユウ」に替わった。これに関しては多くの臣下が安堵したことだろう。一介の禁軍兵である俺ですらそうだ。

 「天福」とは、先の王朝「晋」が用いていた元号だ。これだけなら滅びた国に敬意を払い、一年だけ使用を継続したと解釈できる。だが誰もが疑問を抱いた。なぜなら晋には天福の次に用いた元号「開運カイウン」があったからだ。

 陛下——太原にて即位し契丹に蹂躙されし開封を取り戻した英雄。彼は即位すると当然のごとく「開運」を無視して元号を「天福」とした。

 それに関して、陛下の長年の配下たちにとっては多少納得できる事情がないわけでもなかった。単純な話、晋将であった陛下はかつての主君をその死後も慕っていたのだ。対し実子と偽られて即位した後継の方は嫌っていた。だからその時代に用いられた元号は無視する。これで十分納得のいく話になったことだろう。だが本音を言うと、これは長年の配下であるほど首を縦に振りづらい話なのである。

 陛下の主君——晋皇帝石敬瑭セキケイトウは正直尊敬に値する人物ではなかった。容貌も立派とは程遠く、性格も年々卑屈になっていったそうだ。そして俺が特に納得いかない部分、あの男は陛下という人間を配下に置いておきながら、蜂起に際して彼の力でなく、契丹といういずれ自らの国を滅ぼす異民族の力に頼ったのだ。

 さらに即位後も、あの男は陛下の諫言に耳を貸そうとしなかった。自らの妹婿を優遇し——その男もいずれ国の滅亡に加担するとも知らずに——それを諌める陛下をむしろ鬱陶しがった。挙句に軍権をも剥奪しかけた。結局そうはならなかったものの、陛下は北方へと左遷させられた。

 恨んで当然の仕打ちをされ続けたのだ。それでも陛下は元号という形で、その忠義は今も変わっていないことを示した。下手したら、開封を取り戻したのもやはりかつての主君の都を取り戻すためだったのかもしれない。

 そう考えると、俺はわからなくなる。あの男が陛下にそこまで尽くされるまでのことをしたのか。あの男にそこまでの価値があったのか——ただ、たったひとつだけの価値はわかった。それは陛下がこの天下を収めようと決意するに至る契機になったこと。だからこそなのだろうか、陛下がかつての主君への思いを示すのは。

 卵があるから鶏が生まれたのか、鶏がいるから卵ができたのか。答えは決して出ない命題だが、互いがあって初めて互いがあるのは、間違いなかった。

 

 

  『関心』(九五〇年の灃州ホウシュウにて)


「なあなあ、さっき聴いたんだけどまた兄君さまが王さまのとこ攻め込んだってよ!」

 俺は若干興奮気味に、さっき聴いたばかりの情報を寝床の仕度をする仲間に報告した。

「へー」

「また失敗すんじゃねぇの」

 反面、仲間の反応は冷ややかなものだった。焚き火を発す方が大事だと言わんばかりだ。

「えぇ……お前らさすがに興味なさすぎないか。俺たちの故郷だぞ?」

 俺は呆れながら用意してもらった寝床に腰を下ろした。

「だってよぉ、俺は結構な田舎の方の出だし」

「同じく。どうせ争うとこなんてそこら周辺だろ」

「けど思い出くらいあるだろ? 都にもよ」

 俺の問いに仲間の一人は首をかしげて、

「ありはするけど……そんなに大層でもないな」と焚き火に枝を投げ入れながら応えた。

「えー」

「なるほど、お前はあるってこったな。どうせ妓女か何かだろうけど」

「う、うるせぇな。悪いかよ」

 彼はまた枝を投げ入れる。火は安定した様子だ。

「まあいいんじゃねーの。無事だといいな」

「……それにしたってお前ら興味がないにも程がないか」

「そりゃそうさ。俺たちの仕事は都に集まる茶を運んで運びまくること。たぶん、国にいる時間よか移動してる方がよっぽど長いぜ」

「でも帰る場所は必要だろ。無くなるかもしれない」

「無くなんねーよ」

 もう一人の仲間は、いつの間にかすでに寝そべっていた。

「まあ王さまはいなくなるかもな。でもそれだけだろ。ちょっと都が荒れるくらいさ。おれが大事なのは働けて金を稼いで家族に送る。それは絶対変わる気がしないね」

「なるほどねぇ。そういうもんか」

「そーそー。お上のやることいちいち気にしてたら損だぜ」

「そういうこった。じゃあ番は任せたぞ」

「あってめぇら図ったか⁈」

 焚き火はこうこうと燃え盛っていた。

 

 

  『役目』(九五一年の開封にて)

 

 第一印象は、思ったよりは芯のありそうな人、だった。何せ皇族だから、もっとお坊ちゃん然しているかと推察していたが、そもそも彼らが皇族になって五年も経っていないのだから、と考え直す。

「護衛してくれるとのことだったな。よろしく頼む」

 そう爽やかに彼は微笑みかけた。白い吐息を周りにまといながら。次に俺は芯があっても勘が悪いということもあるか、と頭の中だけでつぶやく。わかっていたら、これから自分を殺すかもしれない連中に微笑みかけたりは決してしないだろうから。

 異民族から都を取り戻した漢という国は、建国四年目にしてとんでもない危機を迎えていた。大将軍兼枢密使の叛逆、それに伴う皇帝の蒙塵モウジン、と思いきやその道中で皇帝が殺された。それで今実質の頂点に立つは件の叛いた将軍である。かく言う俺もその将軍の麾下キカだったから、さほどの波風は受けていない。けど次の皇帝に、と選ばれた皇族の護衛にされたのはやっぱり波風かもしれない。なぜなら、ほぼほぼこの男が皇帝になれないのは察しがつくからだ。ここ最近の天下の様相からすれば、我らが将軍が新しく即位するのがむしろ自然で、この皇族が後継に、と呼ばれたのは所謂いわゆる世間への牽制でしかない。

 何より、将軍が皇帝になった暁には彼はむしろ邪魔な存在になるわけだ。

 けれどもこの男は自身がどうなるかまるでわかっていないようだった。ついでに、彼の父親も息子が皇帝になると大はしゃぎしているらしい。馬鹿は遺伝か。

 ただ馬鹿といえど、性格の悪い馬鹿でないのは助かった。今のところ彼の様子は、節度使セツドシをしていた頃とそう変わらない生活を送っているからか平静なもので、下の者にも敬意を払ってくれる。これから死ぬ人間に相対している点を除けば、そう悪い仕事でもなかった。

 しかし、彼は将軍がついに即位してもその態度を決して変えなかった。そして命令が下された。

「ようやくか」

 彼は振り向かず、風に揺られ空を見上げていた。

「……わかってらっしゃいましたか」

「初めから察しはついていた。止めてくれたものもいた。だが逆らおうものなら我ら一族は叛逆者とされようぞ」

 眩しそうに、太陽を掌で覆っていた。

「まあ明るみになれば、父はどのみち怒り狂うだろうな。けれどあの人はいまだ太原だ。たぶん大丈夫だろう」

「抵抗する気はないのですね」

「ああ。私の命で漢が終わるなら、それでいい。……この役目が承勲でなくて良かった」

 彼でなくとも、もっと皇帝に血の近い皇族はいた。だが太后の意志で取り止められた。つまりこの男は親族にすら切り捨てられたわけなのだ。

「空は、綺麗だなぁ……」

 そして彼は捕えられ、その首は皇帝に献上された。ただ、それだけの話だ。

 私が英雄ならば、彼を解放し父の元へ逃げられるよう手配したのだろう。

 あるいは彼自身が英雄ならば、告知を受けた時点でその意図に憤慨し、すぐに父の元に駆けつけ抵抗の準備を拡げられたのだろう。

 けれども私は所詮一兵士に過ぎず、彼も成り上がりの皇族に過ぎなかった。ゆえに役目を全うする他なかったのだ。

 ただ、それだけの話だった。

 

  『殉節ジュンセツ』(九五四年の開封にて)

 

 気に入らない男がいる。何故かというとあの男は恥知らずの奸臣だからだ。

 それだけならば関わらずにいれば私の心は至極平穏だろう。しかしその領域は侵されている。腹立たしいことに政と儒の精神を知らぬ民草どもは、手放しにあの男を褒めそやすのだから。

 やれ民を一番に思ってくれているだの、やれ開封を守った彼こそが真の仏だの、やつの功績はすべて己がためと気づかぬ馬鹿どもの話は聴くだけで疲弊させられる。

 民を優先した政策を取るのはその支持を得て自らの政治生命を延ばすため、あの野蛮人どもの元締めを説得したのも、そうしなければ自分も殺されるとわかっていたからだ。

 たしかに今の時勢、儒に則り主君や国に殉じるものは少数派も少数派で、心底恥ずべき始末だ。なのにやつは市井に認められ讃えられる。そんな風潮を私は心から憎む。

 あの男が認められる様を見るのは、まるで私の信じてきたものが殺される思いだ。

 とはいえ今は多少穏やかだ。今やつは開封を離れ先帝の葬儀に赴いている。しかもやつは今の陛下の不興も買ったという話だ。そして私はいいことを思いついた。やつが戻ってきたらさも話を聴きたいなんて態度を装い、その行いの弾劾をするのだ。

 何てことにもならないとは自分でも思うが、少なくとも胸はすくだろう。

 そんな日を待ちわびれば、いずれやつが帰ってくる事実も憂鬱ではなくなった。そして帰還の日、てっきり周囲は騒ぎ立てるものかと思ったが、予想外に誰も彼も大人しい。

 話を聴くと帰りの途中で病魔に侵されたらしい。ようやく年貢の納めどきが来たわけだ。

 見舞いは一日一回、という条件を何とか乗り越え、私はやつの家へと向かう。しかし遠い。開封でも外れの方だ。

 地図を見る。たしかにここらのはずだが、それらしいものは見当たらない。どこもかしこも民家ばかりで、官僚が住まうような邸宅はなかった。

「なあそこの、私はフウさまの見舞いに来たのだが、あの方の家はいずこだ」

「ああ、あそこだよ。ほら、桑の木が見えるだろう」

「えっ」

 近所のものが指差したのは、それこそ農民の住まいのような場所だった。

「馬鹿な……」

 近くに行けばその粗末さをさらに感じさせた。家は当然小さく、あちらこちらが傷んでいる。あれでは雨が降れば洩れ放題だろう。

 私が呆然と眺めていると、女が話しかけてきた。使用人だろうか。

「もしかしてあなた、お見舞いに来られた方?」

「え、ええ」

「ごめんなさい!」

 唐突に謝罪されて私も面食らう。どうして謝るのか、ととりあえず尋ねた。

「実はさっきひどい発作を起こして、ようやく眠れたところなのです。昨日までも身体を無理に起こして話をしていたから……ここまで来るのは大変だったとは承知しているのですが、何卒……」

「頭を上げてくだされ。私はあの方の身を案じてここに来たのです。ならば帰るのは当然のことです」

 内心私はほっとしていた。そして彼と顔を合わせるのを恐れている自らに気づいた。

「あなたさまは使用人でしょうか。お伝えください、お大事に、と」

「かしこまりました……その、私使用人ではないのです。嫁いだもので……」

「こ、これはとんだ失礼を!」

「いいのです。あの方も使用人を雇えばよかったのに。奥方さまが亡くなって以降、全部一人でやろうとして。……ごめんなさい、そろそろ失礼します」

 女は井戸から水を汲み、家の中へ急ぎ足で駆けていった。

 帰り道、とぼとぼと歩きながら私は思考を重ねる。

 あの男は卑怯者のはずだ。自らの命惜しさに国に殉ずることなく高い地位を維持してきた。

 そもそも卑怯の果てに人が求めているのは何だろう。簡単だ。楽と、金、名誉である。

 彼は名誉以外何も手にしていないように見えた。

 それこそ滅ぶ国に殉じた臣下の如く。

 私は来た道を振り返った。すっかり遠くなった彼の家を見据えた。

 けれども私の足がそちらに向かうことはなかった。きっと、もう二度とない。


 

  『手紙』(九五七年の杭州にて)

 

 我らが王は一介の民草と文をやり取りしている。

 そんなことを話せばやれ嘘だの不敬だのと非難轟々だろう。だが当の本人がそう言ったのだから、酷い言葉を投げつけられる謂れはない。

 そう、あくまで王本人の言葉だ。そもそも俺に言いふらすつもりなど毛頭ない。言いふらしなどしたら同僚たちに鼻で笑われるのが想像つくからだ。『何とまあ、簡単に騙されるものだ』と。

 事実、王の嘘に騙されるのは幼稚もいいところ、子供同然だ。当時俺はまだ十を越えたばかりの小姓に過ぎなかった。もう許されてもいい頃合いだ。

 そして今日も王は、届いたばかりなのであろう例の「民草」からの文を、それは嬉しそうに眺めていた。上等な紙に綴られるは、気持ち悪いくらい均等に慎重に並べられる文字。はてさて、こんな真似ができる「民草」はこの世界のいずこにいるのだろうか。

「君も、読むかい?」

 ぎょっとして思わず後ずさった。しまった、近くで見すぎた。

「い、いえ。俺、あまり読めないので」

 本当のことだ。読める書けるはせいぜい指示程度。さっきちらと見ただけでも、知らない文字がわんさかあったあの文を読めるとは到底思えない。

「そうなのかい?」

 王は目を伏せる。まずい、何だか不機嫌そうな顔だ。

「わかった。では私が簡単に内容を教えよう。こちらへ」

 と思ったが俺に顔を向けるといつものほがらかな表情を携えていた。気のせいだったか。

 俺は恐る恐るながらも王のそばに寄った。

「この文字はわかるかい?」

「あっ、『祭』!」

「そうだ。この手紙の主は今住んでる村のお祭りに参加したようでね……」

 そして王はそれは楽しそうに手紙について話してくれた。内容も、角ばった文字に反してずいぶん俗めいたものだった。近所の子供に菓子を盗まれた、飲み過ぎて翌日は動けなかった、それこそ、「民草」の暮らしみたいだった。

「俺、てっきりこの手紙の人、田舎に移り住んだ偉い貴族さまかと」

 王様は目を細めてどこかへと視線をやる。遠くにある、愛おしいものを見つめるみたいに。

「そうだな。でもこの手紙の彼が、私にとって守るべきこの呉越の民の一人である事実は変わらないよ」

 後日、俺は仕事を減らされた。でも給料は変わらない。代わりに他の労働が増えたのだ。文字の勉強という労働が。

 王にとってあの文の主は、特別な民草なのだろう。けど王が、彼以外のこの国と民全員も大事に思ってくれているのも、本当の話だ。

 

 

 

 

 

  『勝利』(九六五年の開封にて)

 

 我々の国は滅び去った。そしてあとを追うように我らが皇帝も死んだ。今の誰が見ても、未来の誰が見ても蜀の敗北と宋の勝利は決して疑われはしないだろう。

 けれどもたったひとつ、いやいずれふたつの勝利を我々は手にするのだ。たとえ誰に認められずとも、我々の疑いのない勝利である。

 

 がしゃんと、派手に音がした。同時に床に鈍い音も。

「太后さま!」

「悪い、わね……憚りをしようと、したのだけれど……ふふ、水を飲まないとむしろ駄目になってしまうもの、ね」

「そんなもの私にお申し付けください! あと、せめてお水を……」

「いらないわ……無駄に、命を延ばすだけだもの……」

 我らが蜀の太后さま——つまり皇帝の母君に当たる——に私は肩を貸し、何とか憚りを済ませた。もう寝たきりにするべき状態だと判断し、私は彼女をショウに横たわらせた。

「美しい死とは、難しいものね……」

「いいえ太后さま、今この瞬間だけです。きっと後世には称えられることでしょう」

 強気に言ったつもりだったが、頬を伝う感覚で自らの声が震えていることに遅れて気づいた。

「ふふ……」

 太后はすっかり乾いた唇をゆっくりと弧に描く。おそらく、もうほとんどすべてが限界なのだろう。それでも彼女は私が挫けぬようにしてくれていた。そう思うとさらに頬が濡れた。

 翌朝、太后は文字通り眠ったまま世を去った。宋の皇帝——私にとっては偽のそれだ——がやってくるとのことで私は身を隠す。怒鳴り声が聴こえてきた。

 なぜ止めなかった、なぜ無理にでも食べさせなかった——そんな声が。

「ご苦労さま」

 はっと顔を上げた。目の前に現れたは、牡丹の髪飾りがよく似合う美しい女。

「お妃さま……」

 彼女は、我らが皇帝の妃。賢く、美しく、だがそれゆえに偽帝に囚われてしまった。

「よくぞ、守り通してくれたわ」

「私は、太后の臨む道の石を取り除いただけです。その道が修羅だと知っていながら……」

「それでいいの。臨む道を、阻まれたくはない。太后さまも、私も、皇帝はただ一人だから」

 妃の声は、胸に直接響くようだ。

「だから道を支えてくれる貴女に……我が道も往ってほしいと願う」

「はい」

 迷いはなかった。蜀の地は滅べど、蜀の心はいまだ滅びてはいない。

 敗れようと心が残っていれば、いずれ勝利は必ず掴める。

 これが、我々の戦いだった。

 

 

  『当然』(九七九年の広州にて)

 

 今日も港は大賑わいだった。幾多の外国の船が停まり、街に入れば知らぬ言葉が飛び交い合う。

 人混みの中、私は孫とはぐれないよう手を繋ぐ。この子は「もうそんな年じゃないよ」なんて生意気を吐くが、こればかりは大人でも手を放せばたちまち相手が見えなくなってしまう。

「ようご婦人! 今は一段と人が増える頃だ! 良ければうちで休んでいかねぇかい。甘いもんも置いてるよ!」

 そうこうしている内に、客引きに的をしぼられた。甘いものと聴いて孫も期待に満ちた目でこちらを見る。私は嘆息し餌に引っかかってやることにした。

「祖母とお孫さんだけで出かけたのかい」

 注文した品を持ってきた先の店主がじろじろとした目で尋ねてきた。私は受け取ったものを孫に手渡しながら、

「いや、夫が仕事中でね。この子が街を見たいって言うからちょっと出たけど、想像以上だった」これだけ返す。

「ここはもっとすごくなるぜぇ! 何せ天下の端っこだ。海の向こうの国はここを介して来るんだから!」

 興奮気味に話す店主をよそに、孫は一心不乱に甘味を貪り始めた。

「本当、あのいかれた皇帝がいなくなって良かったよ。連中、玉無しや女に政させるってんだ。そうそう、追い出されたあの皇帝が死んだって聴いたかい?」

「えっ」

 店主の話の途中から心の臓はどくんどくんと鳴っていた。けど最後の言葉でひゅっと強く跳ねて、そして止んだ。

「都に連れてかれた、あの人のこと?」

 何でもないように、頼んだ茶を含みながら聞き返す。

「そうそう。あれも頭おかしかったよなぁ。前の皇帝さまが痛い目見せてくれてよかったよ。あんなやつが今も君臨してたら、こんな景色は見られなかったろうし」

「そう、ですねぇ……」

 熱い茶の椀を、放せなかった。

 

「さて、そろそろお暇しますね」

「毎度あり!」

 孫が甘味を食べ終わる頃には、外の喧騒は多少ましになっていた。孫も好物を食べて機嫌が良くなったのか、今度は素直に手を繋いでくれた。

 改めて街を見渡す。あちらでは商談を、あちらでは客引きを、あちらでは賭博をと、至るところに人がいて生活していた。たしかに先の皇帝の時代では、ここまでの活気はなかっただろう。

 昔も賑わっていなかったわけではない。ただ皆が活気づくは処刑の有り様で、人が生きたまま腹を割かれたり煮られる様を嗤って楽しんでいた。喧騒を避け少し海の方へ行ったとしても、真珠採取で無理に駆り出され自らの命を失くしたものたちが浜辺に転がっていた。

 一方私は宮中にいた。当時、宮中には皇帝を除いて男はいなかったと言ってもいいくらい、宦官と女官しか見当たらなかった。先帝からの方針だ。曰く男は国より己が一族の繁栄を優先するから信用できない、と。

 彼は先帝である父の教え通り宦官と女に政治を任せた。実のところ、ひどく短い間だが私も政治に携わる一人だったのだ。夫と息子はその事実を恥じているため、誰に言いふらせもしないのだが。

 皇帝は、私にも話しかけてくれた。あの言葉は我が胸に焼き付いている。

『きみは新しいな。おお、前に聞いた名だ。発想が独特で面白いと聞いている。ぜひ色んな案を出して励んでくれたまえ』

 当たり前みたいに、彼は私にそう言った。

 たしかにあの国は良くない国だった。滅ぶべき国で、彼も皇帝に立てるような人間ではなかった。当然だ。

 けれども、あのときの彼だけに限っては、私にとって恥ずべき曇りなど一切ない。

「ねぇ」

 私は考えるよりも先に、孫に話しかけていた。

「今度、昔話を聴いてくれるかしら。お祖父様とお父様には内緒で……」

 昔々にあったここの国は、女の私が政に携われたのよ。——本当の話だ。この子にも教えてあげたい。もしかしたら、血を繋ぐだけでない未来もあるのかもしれない、そう思ってほしいから。

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