塵も積もれば

現実逃避星人

  

 こころ先輩が自殺したと聞いた時、不思議と驚きはなくて、なんとなく、やっぱり、と思った。思ってから、自分でそれに驚いた。先輩ほど自殺に縁遠い人なんていないはずなのに、どうして、って。

 こころ先輩は、苺のつぶつぶほどの隙もない、完璧な人だった。長い髪はいつもサラサラで、瞳は大きくて肌は白くて、成績は常に学年1位をキープしていて、それなのに少しも気取ったところがなくて優しくて。サックスも部で1番うまかった。

 新入生勧誘のコンサートで、先輩に一目惚れした私は、制服も体に馴染まないうちに吹奏楽部に入った。全くの初心者だった私に、先輩は手取り足取り教えてくれた。いつも微笑みを絶やさず、誰にでも公平に接する先輩は、みんなから好かれていて、部長としても頼りにされていた。私もその御多分に洩れず、先輩に憧れていた。

 なめらかな虹の橋のように続く記憶のなかで、ただひとつ、少しざらざらした部分があった。気にもとめず、すぐ忘れたつもりだったけれど、こうして今でも覚えているということは、やはり気になっていたのかもしれない。もしかしたらあれが、私が先輩の本音に触れた、唯一の瞬間だったのかもしれないのだから。

 夕焼けが琥珀色で、やけに綺麗だったのを覚えている。その日の部活は合唱祭の前で、ずいぶん人が少なかった。うちの学校の合唱祭はけっこう気合いが入っていて、練習も毎日放課後遅くまでやるのだ。私は新曲の練習を盾にし、合唱祭より先輩が大事なのかと友達からブーイングまで受けながら来たけれど、そんな思いまでして部活に来た子は案の定あんまりいなくて、日がだいぶ傾く頃には先輩と私の2人だけになっていた。実はこっそりそれを見越していた私だけど、もちろんそんなことおくびにも出さず、無事先輩と2人きりの帰り道にありつくことができた。

「合唱、まだやってるね。すごいな」

 夕日に染まる校舎から、かすかに歌声が聞こえていた。私のクラスもまだやってるかな、と耳を澄ませる。やってるんだろうな、みんなやけに燃えてたし。

「先輩のクラスは何歌うんですか?」

「地球星歌。知ってる?」

「あ、中学の時歌いました。私のクラスはプレゼントなんですけど...」

 先輩との帰り道にはしゃいでいた私は、ぺちゃくちゃとクラスのことなんかを喋って、でも先輩は笑顔で聞いていてくれた。帰り道が一生続けばいいのにと思ったのを覚えている。

「それから、今英語の羽村先生産休じゃないですか、それで臨時で新しい先生が来たんですけど、もうその人が最低で...」

「それ、田中先生?私のクラスにも来たよ」

「ほんとですか?2年のクラスでも嫌われてません?うちのクラスでもみんな嫌ってて...」

 私が田中先生の悪口を言っても、先輩はただ相槌を打つだけだった。先輩はいつもそうやって、人の悪口なんてぜったい言わないし、綺麗な言葉しか口にしなくて、でもその優しさに私は甘えて、ついヒートアップしてしまった。

「でね、『なんだか居眠りをしてらっしゃる人がいますけれども、私の授業なんかよりよっぽど役に立つ夢を見てらっしゃるんでしょうねー』なんて言うんですよ!ウザすぎじゃないですか?」

「それは確かに、ウザいよね」

「でしょ!?」

 言ってから、あれっと思った。同意なんて求めておきながら、てっきり私は、まあ居眠りはよくないよねとか、やんわり諭すような言葉が返ってくるとばかり思っていた。実際、それまでの先輩はそうだった。悪口に同意するような先輩なんて、見たことなかったのに。

 私の戸惑いがバレてしまったのか、先輩も少し黙ってしまって、それから慌てて話を変えて、もうそのことは終わったけれど、しばらく私は、先輩の言葉が頭から離れなかった。なんだか期待違いのような、ショックなような、それなのにどこか嬉しいような。ふわふわした気持ちは抱えているうちに合唱祭やらのごたごたでいつの間にか消えていって、もう忘れたと思っていた。今年の3月に先輩は引退して、私は後輩代表で泣きながら花束を渡して、そうして1年たった今でも、こんなに鮮明に頭に浮かぶだなんて、まるで思っていなかった。

 今なら少しだけ、先輩の気持ちも自分の気持ちも、分かる気がする。先輩があまりに完璧だから、私は非の打ち所のない女神かなにかだと勘違いして、人間なら誰もがもっているはずの一切の汚い感情も醜いところも、出すことを禁じてしまったんだろう。多分それは先輩の周りの人たちも同じで。それなのに私は、私だけにうっかり示された先輩の秘密に、少しの特別感と嬉しささえ覚えてしまった。それを受け入れるだけの器もないくせに。自分勝手この上なかった。

 そういった私の崇拝が先輩を追い詰めてしまったんだろうか、それともそんなものただの傲慢で、本当の理由は全然関係のないところにあるのだろうか、そんなこと分からないけれど、ただ悔やんだ。私があの時、戸惑いなんてしなければ、もっと別な反応をしていれば、違った未来もあったんだろうか。先輩に死んでほしくなかったという自分の気持ちさえなんだか信用できなかった。本当は私は、ただ先輩の特別な人になりたかっただけかもしれない。先輩を自殺から救った、唯一の理解者に。

 自分の心さえもよく分からないのだから、他人の気持ちなんて、理解できるはずもないな、そう思いながら、人の多い廊下で、少し泣いてしまった。

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