第15話 「狭い夜道、矢の影」

 夜のはじまり。白樺亭で軽く腹を入れて、俺たちは倉庫街へ向かった。

 昼のうちに「砂糖遊びは紙で」の札を貼り直したばかりだ。夕方の人波が引くと、通りは早くも冷えはじめる。


「今夜は見回りを少し延ばす」ハーゲンが短く言う。「昼の掲示が効いた分、気の抜け目に仕込みが出る」


 サビーネは弦を指で弾いて音の伸びを確かめ、ミーナは布切れと小瓶を腰に下げた。

 クロは俺の足もとで小さく伸びをして、尻尾をまっすぐ立てる。


「いく」


 角の果物屋はもう戸を下ろしていたが、フィオナが中から顔を出し、瓶を一本渡してくれた。


「薄め一本。猫さんは塩なし。息は先に吐いてから声ね」

「ありがとう」


 倉庫街は、夜になると音が少ない。車輪の軋みも、積み下ろしの掛け声も止まり、足音だけが石に返る。

 掲示板の札はまだ新しく、赤い縁が灯りを拾っている。


「通りの端と屋根の縁だけ見ていればいい」とサビーネ。「足音が急に消える場所は要注意」


 一本目の路地は何もなし。二本目、古い排水蓋の脇に砂粒がわずかに散っていた。

 ミーナが布でそっと拭い取り、小瓶に落とす。


「匂い、うすいけど甘い。落ち粉だね」

「記録だけでいい」俺は札の端を指で押さえ直し、結び目を確かめる。


 そのときだった。空気がひやりと動く。

 遠い屋根のどこかで、乾いた何かがはじけたような音。心臓が一拍、早くなる。


「上」サビーネが低く告げる。


 次の瞬間、闇の中から細い影が走った。矢だ。

 狙いは掲示板――ではなく、その前に立つ俺たちの列。


 考えるより先に、息が出た。

 胸の奥でひとつ押して、吐く。掌の前に薄い風をつくる。

 矢羽根がそこでふっと揺れ、軌道が半身ぶん外へ滑った。石柱に突き刺さり、硬い音がひとつ。


「っ……今の、見た?」ミーナが息を呑む。

「見た」サビーネは矢尻を睨み、頷いた。「音は東の屋根」


 ハーゲンが肩越しに一度だけ首を振る。

 走り出す者はいない。まず灯り、次に足場。俺は小さな携帯灯を指先で覆い、壁をなめる光で屋根の影を切る。


 クロが小声で知らせた。


「うえ、すぐじゃない。ひとつ、むこう」


 路地一本分、手前の屋根ではない。さらに先。

 俺たちは速度を上げず、角をひとつ回る。そこは風がたまりやすいT字。砂埃が壁に沿って集まり、屋根の端から、ほそい灰がひと筋こぼれていた。


 サビーネが弓を半引きのまま、屋根の縁に向かって地面へ矢を一本、ドン。

 音の方向が跳ね返り、屋根上の影が短く動く。すでに退き脚。追う足音はない。


「行ったね」ミーナが小瓶を掲げる。「灰、指の跡。三つ分」


 指幅で押したような、円の重なり。灰が指先にすこし移る。

 クロが鼻先を近づけて、くしゅん、と小さくくしゃみをした。


「にがい。すこし」


「ここに印を残す相手、決め打ちだな」ハーゲンが柱を軽く叩く。「掲示の前で人が止まるのを待ってた」


 矢を拾ってみる。羽根は黒染め、軸は軽い葦。街で手に入るものだが、矢尻の付け方が荒い。急ぎの仕事。

 俺は羽根の根元を指でなぞり、粉の付着を確かめる。無い。狙いは毒や粉ではなく、混乱自体か。


「出所を追うなら、屋根伝いの逃げ道だね」サビーネが顎で示す。「東に二枚渡って、物見台のほう」


 ハーゲンは短く考えたあと、首を横に振った。


「今は追わない。記録と補強。掲示の前は一呼吸立ち止まらせない工夫を足す。……アキラ、息は温めておけ」


「大丈夫」胸の鼓動はもう落ち着いていた。掌に残るわずかな風の感覚が、まだ皮膚にいる。


 掲示板の位置を半歩ずらす。通りの流れの中心から、外へ半歩。

 足が自然に止まりにくくなる。ミーナが札の下に小さな矢印を描き、視線を右へ流す。サビーネは屋根の縁を見張ったまま、周辺の暗がりを見切っていく。


 そこへ、見張りの交代に来たランベルトが小走りに現れた。

 俺は一息で伝える。「掲示前、屋根から一矢。外れ。灰の三指跡あり。東へ退き」


「受けた。屋根足は衛兵の足じゃ追えない。……札の前で止めずに流すの、いいな。口でも流す」

 ランベルトは息を整え、通りへ短く声を飛ばす。「読むなら歩きながらだ!」


 人の動きが少しだけ変わる。立ち止まる背中が減る。

 クロは柱の根元に前足をそろえて座り、耳だけを動かしている。通りすぎる足音が、猫の片耳ごとに小さく分けられていくみたいだ。


「クロ、寒くないか」

「へいき」


 見回りは続く。次の角、白い粉はない。

 倉庫の裏手へ入る細い道で、古い踏み板が一枚、わずかに浮いていた。

 俺は指でそっと押し、沈み具合を見てから、片側に小石を詰めて水平に戻す。


「そこ、よく気づいたね」ミーナが感心したように言う。

「板が言ってた」俺は苦笑する。「すこしだけ、浮いてるって」


「言うのはアキラのほうだろ」ハーゲンが口の端をわずかに上げた。


 巡回をひと区切り。ギルドへ戻って、ミレイユに短報を渡す。

 彼女は真顔で矢尻を見て、うなずいた。


「“屋根から一矢、灰で三指”ね。掲示の配置は今の案で続けよう。夜の台紙を一枚、丈夫なのに替える。人を止めない配置で」

「頼む」

「猫さん、水いる?」

「のむ」クロはちょこんと前足をそろえ、木椀をぺろりとひと舐め。舌の先だけがきれいに見えて、ミレイユが小さく笑う。


 鍛冶通りにも寄った。フーゴは表に出て、矢を一本、指の腹で転がす。


「荒い仕事だな。狙いは札そのものじゃない。人の足を止めること。……屋根からなら、通りの明かりの切れ目を選ぶはずだ」

「次にやられるなら、ここから二筋先の細道か」

「そこだな。柱の影が長くなる。衛兵にも言っとけ」


 白樺亭に戻る前、広場の掲示をもう一度見た。

 紙角の二結びは生きている。札の前に、子どもが二人。足を止めそうになって、すぐ歩き出す。

 ランベルトが口で流しているのが、ここまで届く。


 白樺亭では、マルタが鍋を回していた。


「顔で分かる。何か一つ、来たね」

「一矢。外れました」

「それなら何より。粥は薄め、猫さんは塩抜き」


 クロは椀の縁に鼻先を当て、熱さを確かめてから舐める。

 食べ終わると、爪を出さないよう気をつけながら俺の袖をちょんと引いた。


「アキラ。あした、うえ、みる?」

「見る。屋根伝いの道筋を、昼に歩いておく」

「ぼく、きく。ちいさい、おと」


「頼りにしてるよ」俺が言うと、クロは自慢げに喉を鳴らした――小さく、短く、誰にも気づかれないくらいに。


 夜は長くはならなかった。

 灯りを落とし、道具を枕元に置く。矢羽根の揺れが、瞼の裏で一度だけ反復し、それから消えた。

 眠る前、心の中で並べたのは、決まりの三つではなく、確認の三つだけ。

 ――屋根、影、指跡。

 明日はそこから始める。



 翌朝。白樺亭の窓から差す光は薄くて、木の机に矢羽根の影が落ちたまま動かない。

 粥を半分ほど腹に入れ、クロの皿は塩抜きにしてもらう。


「きのうの、カサって音。おぼえた」

「頼りにする。今日は屋根の道筋を歩いて確かめよう」


 角の果物屋に寄ると、フィオナが瓶の栓を拭きながら、掲示の話を切り出した。


「札の前で立ち止まらせない。あれ、効いてたね。今朝は人の流れが滑らか」

「夜に一矢きました。外れたけど、灰の三指跡。屋根から退き」

「じゃあ、昼は上を見る日だ。薄め一本、猫さんは塩なし」


 鍛冶通り。フーゴに矢を見せる。


「二流の仕事だが、急ぎの色。屋根へは梯子が要る。倉庫三番の横に借りられるのが一本」

「助かります」

「上がるときは、音より影に気をつけろ。猫は地面の役を頼む」

「ぼく、した。みはる」


 倉庫三番。荷主の許可をもらい、梯子を軒にかけた。

 ミーナは下で周囲の人の流れを見張り、ハーゲンは路地の入口に立つ。サビーネは反対側の屋根から横目を利かせる。


 瓦に乗ると、朝の空気は思ったより乾いていた。

 昨日、灰が筋になっていた箇所を起点に、東へ二枚わたる。

 瓦の合わせ目に、指で押した小さな灰の楕円。三つ、間隔は狭い。あの「三指」だ。


「ここで屈んで、一拍置いた跡」サビーネが隣の屋根から囁く。「身のこなしは軽くない。若いか、小柄か」

「この先、物見台の屋根へ移るのが筋」俺は身を伏せて、灰の続きと靴底の擦れを探した。


 物見台の脇。瓦の裏、細い梁のあいだから、布袋が見えた。

 紐を切らず、梁に通したまま、口だけ開けて中を確かめる。

 安い矢が八本、黒染めの羽根。巻かれた細い麻糸、鈴なしの鳴子一組。それと、薄い鉛の輪――輪の面に、指で押したような三つの円。


「印、出たね」ミーナが下から声を上げずに唇だけ動かす。

「〈灰指〉のまんまの形だ」ハーゲンが頷く。「回収して、置き替え」


 袋の中身は抜いて、代わりに石ころを八つ。袋の重みはほぼ同じにして戻す。

 麻糸の端は、屋根の縁から下の陰に落ちるよう仕掛けてあった。人の足が引っかかると、合図を出せる寸法だ。

 端だけ切り、見えるように瓦の上に残す。


「夜に戻ってくるはず」サビーネが視線だけで周囲を掃く。「今夜は、下に走らせない」


 昼のうちに関所へ短報。セルジオは矢と鉛の輪を見て、紙の角に小さな印を打った。


「“三指輪”は初見だ。屋根置きの袋は置き替え、紐は切った――よし。夜は衛兵を流す。追うのは一組だけ、捕るのは一人だけで足りる」

「了解。掲示の位置は昨夜のまま、半歩外へ」

「それでいけ」


 ギルドに戻ると、ミレイユが台紙を重ねてくれた。


「夜用の厚手。風でもめくれない。――イリアが清書を手伝うって」

「助かる」

 クロは受付台に顎をのせ、目だけでこちらを追う。呼べば尻尾を一回だけ振った。

 そのしっぽが、細い旗みたいに見えておかしくて、緊張が少しほどける。


 夕刻。人波が薄くなる頃、持ち場へ。

 段取りはシンプルだ。

 ミーナは掲示前で人の流れを直し、俺は板と布を手元に。サビーネは物見台に、ハーゲンは通りの入口で歩きの速度を保たせる。

 ランベルトが衛兵を二人、角に立たせた。余計な言葉は出さない。


 空が群青に沈み、最初の灯りがともる。

 クロが耳を立て、呼吸だけ変えた。

「うえ、ちいさい、こすれ」


 くる。

 斜めの闇から、一本。

 俺は胸の奥でひとつ吐いて、手前に薄い風をかける。矢がわずかに揺れ、札の上で空を切る。

 同時に、サビーネの矢が、屋根の縁へぱしんと刺さった。狙いは人ではなく、布袋の紐。袋が瓦の外へ滑って、石ころが転がる音がした。


 影が体勢を崩す。

 屋根の上に、細い影。背は高くない。

 サビーネは二本目を番えながら、低く言う。「降りなさい。逃げ道は切ってある」


 影は走るか、迷うかの一瞬をためらい、物見台から隣の軒へ跳んだ。足が瓦の角を踏み外す。

 俺は板を片手で投げ、路地の箱と箱のあいだに斜めの橋をつくる。

 落ちたら怪我をする高さ。板に足が乗り、体が滑って、勢いのまま地面へころんと落ちた。


 ハーゲンが前へ出る。走らず、二歩で間合いを潰す。

 若い。布の頭巾。手には短い弓。刃物は出していない。

 衛兵が左右から挟み、ランベルトが肩の砂を払い落としながら、静かに腕を取る。


「名前」

 返事はない。

 俺が拾い上げたのは、腰袋の底に入っていた鉛の輪――三つの押し跡。

「これ、誰に渡された」

 沈黙。

 クロが、その少年の靴先に鼻を近づけて、ぴ、と短く鳴いた。驚いた少年が、反射で視線を落とす。

 その拍子に、頭巾が少しずれ、頬の薄い火傷跡が灯りに浮いた。


「子どもだぞ、と言う顔はするなよ」ランベルトが俺に言う。「やることはやる。聞くことは聞く」


 詰所へ連れていく手順を、無理に荒立てず決める。

 サビーネは屋根の上から降りてきて、落ちた袋の中身を見せた。


「安い矢、黒。鳴子、糸。今夜の分は、もう空」

「外しに来るつもりだったのかな」ミーナが眉を寄せる。

「足元の合図が切れてるのに気づいて、回収だけしに来た。そんなところか」俺は袋の口を結び直した。


 詰所の前。セルジオがすでに待っていた。

 少年の手首は縛らない。両脇を衛兵が固め、通りへ見栄えの悪い見せ物にしないように、静かに入れる。

 帳面に簡潔な経緯を書いただけで、セルジオは余計な言葉を吐かなかった。


「話は明日。今夜は屋根をまわす。――矢を外したのは誰だ」

「俺です」

「なら、喉を冷やしすぎるな。明朝、同じことを頼むことになる」


 詰所を出ると、クロが俺の足に体をすりつけた。緊張がほどけるのを、猫が一番早く気づく。


「アキラ、よかった」

「みんなが位置にいたからだ。クロのおかげでもある」


 小休止でギルドへ戻ると、ミレイユが湯気の出る杯を差し出した。

「薄い茶。息を整えてから飲むと楽だよ」

 指で杯を包むと、温かさが掌から肘へと上がっていく。

 クロは受付台の端に顎をのせ、目を細めてこちらを見ている。眠いのをこらえて、俺が戻るのを待っていたらしい。


「もう一回りだけ歩いて、すぐ帰る」

 クロは、きゅっと小さく返事をした。声にならない声で。


 倉庫街をもう一度、一筆書きでなぞる。

 掲示の二結びは生き、札の前で立ち止まる背中は減っていた。

 屋根の上は、風が少し増えただけ。誰もいない。


 白樺亭に戻ると、マルタが鍋を火から下ろしたところだった。


「顔がまだ熱い。今日は薬草茶を先にしな」

「いただきます」

 クロは自分の皿を前足で押し、俺の足元までちょいちょいと寄せてきた。

 中を覗いてから、ちらっと俺の顔を見る。――“塩、なし?”とでも言いたげだ。


「塩なしだよ」

 安心したように、舌を出してゆっくり舐めはじめる。耳が横にゆるんで、時々ぴこぴこ動く。

 その耳の動きに合わせて、今日の張り詰めがようやくほどけた。


「明日は?」マルタ。

「朝、詰所。今日の少年の話を聞く。それから屋根の道筋をもう少し。掲示は維持」

「気をつけておいで」


 部屋で道具を拭き、矢羽根の揺れをもう一度、頭の中でなぞる。

 息を置く場所、手を上げる高さ、板を投げる角度――どれも、一歩ぶんの差しかない。

 その一歩を外さないために、今日は眠る。

 灯りを落とすと、クロが胸の上に乗り、丸くなる。鼻先が布に沈み、黒い点のある前足が、俺の手の甲にそっと触れた。


「アキラ。あしたも、いっしょ」

「もちろん」


 外は静かだった。屋根の上も、もう誰もいない。

 明日、詰所の机に載る紙は、今夜より少しだけ厚くなるだろう。

 そのために、目を閉じる。



 夜が明けきる前の関所詰所は、板の匂いが濃かった。

 少年は椅子に腰かけ、指先を膝の上で固く組んでいる。頬の火傷は古い。目は眠そうに見えて、実際はよく動く。


 セルジオは帳面を閉じ、椅子を一つだけ引き寄せた。机は挟まない。

「名は?」

「……レン」

「誰に袋を受け取った」

「倉庫街の裏。粉屋の路地で、“モズ”って呼ばれてる人から」

「合図は?」

「鉛の輪。小さいの。穴が三つ、指で押した跡みたいな」


 俺は、昨夜回収した輪を机の上に置いた。少年の視線が、そこに吸い寄せられる。

「渡された場所を言え」

「粉屋の裏。昼と夕のあいだ。……夜は、物見台から“落ちる音”がしたら、袋を外して戻る。そう言われた」

「鈴は鳴らさない決まりか」

「“人の音を借りろ”って」

 言いながら、少年は肩をすくめた。自分の言葉が正しいかどうか、いちいち確かめるように。


 セルジオは短く息を吐いて、結論を置く。

「よし。お前は今夜までここで寝ていけ。飯は出す。――代わりに、裏の場所と、顔を五つ、紙に描けるか」

 少年は一瞬きょとんとして、うなずいた。


 詰所を出ると、クロが廊下で待っていた。

 俺を見るなり、前足で“とん”と床を押す。行こう、の合図みたいに。

「戻ろう。今日は昼までに屋根筋を洗い直す。粉屋の裏も見る」


 ギルドで段取りを詰める。

 ミレイユが地図を広げ、赤い点で昨夜の足場を打っていく。

「“粉屋の裏”は倉庫三番の筋とは別。裏抜けの小通りがある。――サビーネ、屋根からの見張り。ハーゲンは表の角。アキラとミーナは路地内。イリアは掲示の差し替え」

「掲示の文は“立ち止まらず、右に寄る”。短くで」

「任せて」


 鍛冶通りへ回り、フーゴから薄い皮手袋を一組もらう。

「瓦は指が冷える。つかむ物が一つあるだけで落ちない」

「助かります」

 クロは店先の木箱に前足を掛け、そっと背伸びをした。目が合うと、うすく“にゃ”と鳴く。

「はいはい、あとで果実水」


 角の果物屋。フィオナは栓を拭きながら耳を傾ける。

「粉屋の裏で、ね。昼に一度覗いてみる。あそこの娘は、たまに“安い粉”を仕入れたがるの。袋口の結びがいつも甘い」

「見ておいてください。こちらも昼過ぎに通る」

「猫さんは塩なし」

「のむ」クロは胸を張る。

 その胸の張り方があまりに真面目で、通りがかりの子どもが笑いをこぼした。


 昼前、粉屋の路地。

 表は人が多いが、裏は静かだ。樽と樽のあいだに、薄汚れた板。板の影に、白い粉が筋になって落ちていた。

 鼻に寄せると、甘い匂いがする。

 ミーナが布で拭き取り、俺は樽の輪に指をかけて、底の隙間を覗いた。

 短い紙片。**〈今夜、袋は空〉**と殴り書き。

「昨夜の入れ替えに気づいてる」

「うん。今夜は“来る”。外すために」

 サビーネが屋根から合図を送る。視線の先、角のほうで、目立たない格好の男が一度だけ帽子に触れ、通り過ぎた。合図にも見える、ただの癖にも見える。

 ハーゲンが低く。

「追わない。目だけ残す」


 午後、関所へ経路だけを渡すと、セルジオは頷いて紙を閉じた。

「“今夜、袋は空”なら、向こうは証拠を消しに来る。屋根の縁は板で抑えておけ。人は落とすな。落ちたら拾うだけで、捕ればいい」

「了解」


 日が傾く。

 俺たちは、昨夜と同じ位置に散った。ただし違うのは、屋根の袋が空だということ。

 サビーネは物見台の少し奥、暗がりに身を伏せ、視線だけ出す。

 ミーナは掲示の下に立ち、紙角の結びを指でなぞってから、どこを見るでもなく立ち続ける。

 俺は路地の板を一本、箱と箱のあいだに渡す準備だけしておく。

 クロは俺の陰に入り、尻尾の先だけ少し動かす。音は出さない。


 夜の一段目が落ちる頃、屋根の端に影が浮いた。

 昨夜の少年より大きい。動きは速いが、足音は雑だ。

 袋の紐に手が伸びる――空振り。手が止まり、紐の根元を確かめようと身をかがめる。


 その瞬間、物見台の反対側からもう一つの影が滑り込んだ。

 合図なし。こちらを見ない。仲間を信用していない動き。

 サビーネの矢が屋根の縁にぱしんと刺さり、二人目の目だけがそちらを向く。

「降りなさい。上は逃げ道が少ない」

 静かな声。

 一人目は躊躇、二人目は跳ぶ。屋根を伝って、昨夜と同じ箱の上へ。足裏の音が、昨夜よりも重い。


 俺は板を前へ滑らせる。落とさないための橋。

 男の足が板に乗り、勢いのまま地面へ――来ると思っていた。

 ハーゲンは待っていた位置から半歩だけ前に出て、両腕を上がらない角度まで押し上げる。

 刃は出ない。短い息が一つ漏れる。

 そのとき、屋根の上から“チッ”と乾いた舌打ち。

 二人目が、屋根の縁を蹴って、サビーネの死角へ走る。

 追いはしない距離。

 俺は夜風の向きを確かめ、足元から砂を少し巻き上げるだけの微風を前に押し出した。

 目に入ったのか、影の足が半拍だけ鈍る。

 その間に、サビーネが位置を変え、矢を番えた。


「降りなさい」

 今度は、影の肩が僅かに沈んだ。

 彼は自分で屋根の端に座り、手を上げて見せた。

 降りる梯子は、こちらが置いたものしかない。

 地面に足が触れると、ランベルトが肩を押さえ、言葉を少しずつ引き出す。

「誰から輪を受けた」

「……“モズ”の使い。顔は隠してた」

「どこで」

「倉庫街の裏、粉屋の路地。昼頃」

「合図は」

「鉛の輪。三つの跡」

 同じだ。昨夜の少年と。


 詰所へ。

 二人目は口が固い。けれど、輪は同じ、粉は同じ、やり口も同じ。

 セルジオは紙片を重ね、端を揃えてから言った。

「“モズ”は屋根には来ない。袋の受け渡しだけに顔を出す。――明日は路地の奥を、昼の顔で歩く。粉屋の裏から倉庫三番へ抜ける筋。人の目を借りろ」

「はい」


 ギルドに戻る途中、角の果物屋で足を止める。

 店はもう閉めていたが、フィオナが中から顔を出した。

「粉屋の娘に聞いた。昼に“安い粉”の話を持ちかけてくるのは、青い襟の男だって。背は中くらい。笑う時に片方の口角が上がるそうだよ」

「助かる。明日、その青い襟を探す」

「猫さん、すこしだけ水をどうぞ」

 クロは瓶の口に鼻を寄せて、ちいさく舐めた。

 舌をしまうと、前足で店の敷居を“とん”と押し、もう行こう、の顔をした。


 白樺亭。

 マルタが鍋を火から下ろし、皿を並べている。

「戻ったね。顔に砂がついてる。猫さんは……今日もえらい顔だ」

 クロは自分の皿の前で座り、俺を見る。

「しお、なし?」

「なし」

 安心したように、舌が出て、ゆっくり粥を舐める。耳がふにゃりと横に倒れて、しっぽが椅子の脚に“こつん”と触れた。

 その小さな音が、家に帰ってきた印みたいに聞こえる。


 食後、部屋で道具を拭く。

 板の角を布でなで、手袋を裏返して乾かす。

 クロは机に顎をのせ、黒い点のある前足で、俺の袖口をちょんちょんと叩いた。

「アキラ。あした、ひる、さがす?」

「昼に探す。青い襟と、輪の持ち主」

「ぼく、みる」

「頼りにしてる」


 灯りを細く落とす。

 外は静かだ。屋根の上も、今夜は誰もいない。

 瞼が落ちていくのを感じながら、明日の通りの色を頭の中で並べる。

 人の歩き、粉の匂い、布の擦れる音――そのどれもが、嘘をつく。

 だから、短く確かめながら歩く。

 クロの体温が胸に乗り、呼吸が合う。

 眠りが、静かに降りてきた。



 朝いちのギルドで、地図の上に指を置く。粉屋の裏から倉庫三番へ抜ける細い筋。昼は人で埋まるが、夕方にわずかな空きができる。そこを待つ。


 クロは机の角に顎をのせ、しっぽの先だけぴくぴく動かしていた。

「きょう、あおえり?」

「うん。片口で笑う男だ」

 ミレイユが掲示の束を揃え、短くうなずく。

「見つけても、声は小さく。目だけで回して」


 昼前、粉屋の路地。

 樽を運ぶ若い衆の肩越しに、青い襟が見えた。よくある作業服の色だが、襟だけ新しい。片口で笑う癖――間違いない。

 男は露地の突き当たりの掲示をちらりと見て、右下の角を二度、指で弾いた。合図のつもりか、ただの癖か。

 サビーネが屋根の影であくびでもするみたいに弓弦を一度はじき、こちらを見ない。

 ハーゲンは果物かごの陰に立ち、買い物客の背に紛れて視線だけを送ってくる。

 イリアは店先で“砂糖遊びは紙で”の札を一枚重ね、結び目を外側に寄せた。


 男は袋を一つだけ肩に担ぎ、倉庫筋へ。早足ではないが、ひと足ごとに人影の濃い側を選ぶ。

 ミーナが露地の奥で野菜籠の位置をずらし、抜け道の幅を指一本分だけ狭くする。

 クロが俺の踵に鼻先をあて、小さく「こっち」と鳴いた。

 わずかな粉の匂い。甘い。昨日より薄い。


 倉庫三番の脇で、青い襟は一度だけ立ち止まり、指に鉛の輪を転がした。穴が三つ――昨夜の輪と同じ刻み。

 その輪を、角の影から出てきた若い手に渡す。

 受け取った若者は裏手へ消える。

 こちらは動かない。ベルンの荷を思い出す。列は歩き、声が先――浮ついた足で追いかける場面じゃない。


 日が傾く。

 青い襟は染物屋の軒先に腰をかけ、布を受け取っては畳み、受け取っては畳む。ふつうの客に見える仕事ぶり。

 サビーネが屋根から、見張り台に下りるふりで位置を変えた。

 ハーゲンは職人通りの角を一つ背にする。

 俺は露店の樽に肘を置いて、買い物客の列の切れ目だけ数える。

 クロは樽の影でふんわり丸くなり、耳だけは路地の方へ向けている。眠ってはいない。しっぽがころんと足首に触れて、すぐに離れた。


 夜の一段目。

 門のほうで、列の声が少し高くなる。子どもが多い。甘い匂いは……薄い。

 そのとき、空気が少しだけ締まった。弦の鳴る寸前の気配。

 クロの耳がぴくりと跳ね、短く「いま」と鳴く。

 俺の喉が先に動いた。

「下がって」

 ミーナが一歩、掲示の下から人の流れを外へ寄せる。

 空気の筋がまだ固まらないうちに、指先で息を集める感覚をつかむ。

 矢は音を残さない。けれど、狭い路地では角を回る風が指南役になる。

 小さく前に押す。

 矢羽根がひゅと鳴り、木柱をかすめて逸れた。先端は何も刺さない。地面にころり、と転がる。


 サビーネは矢が落ちるのを見ない。もう一段、射線に身体を滑らせ、屋根の稜線に向けて一本、地面に打った。

 乾いた音。合図でもあり、釘でもある。

 ハーゲンは角を切り、通りの幅を肩で塞いだ。刃は抜かない。

 俺は矢の来た方角に目を送る。染物屋の二階――白い布が干してある奥。

 布の揺れの向こうに、影が二つ。

 一人は弓を抱え、もう一人は袋を肩に背負っている。袋の口は紐が甘い。粉は……甘い匂いがする。

 階段は表に一本。裏は抜け道があるが、人が多ければ使えない。


 ランベルトの笛が遠くで一度。

 青い襟は、その笛の音に反応して視線を落とした。逃げるなら今だ、と顔が言っている。

 サビーネの声は静かだ。

「降りるなら、今。降りないなら、布を落とす」

 意味は単純で、脅しではない。布が落ちれば人が動く。動けば逃げにくい。

 弓の男が迷った。

 そこへ、クロがきゅっと短く鳴き、染物屋の内側の階段の脇に身体をすべらせた。

 猫の影は小さい。けれど、目がつられる。

 その半拍で、サビーネが射線を取り直す。

 地面にもう一本。音は二度。

 弓の男は判断を変え、弓を下ろして両手を挙げた。袋の男は階段へ走る。

 ハーゲンが一段目で肩を抑え、転がさずに止めた。


 詰所へ連行。

 押し込まれた袋の中身は、白い粉と短い鉛の輪、細い麻糸。

 セルジオは粉を指先でなで、匂いを一度だけ確かめた。

「甘い。――袋の出所は染物屋の裏の倉庫だな」

 男は口を固く閉ざすが、手の甲に灰色の細い線が付いている。布染めの色じゃない、灰の色。

 セルジオは帳面に新しい記号を一つだけ書いた。〈灰指〉。

「名前は今はいい。場所が先だ。……倉庫の鍵は」

 ハーゲンが静かに差し出す。階段で押さえた男の腰紐に、鍵束が挟まっていた。

「偽装倉庫か。――夜のうちに動くか?」

「いいえ」サビーネが首を振る。「今夜は人が多い。昼の顔で入るほうが効く」

 セルジオはうなずき、押印を一本。

「明朝、倉庫の踏みの前に、門の掲示をもう一枚追加。“白は右、歩く”。夜に矢が飛ぶ街は、声が先に落ち着く」


 ギルドへ戻る道すがら、路地の人影はもう薄い。

 イリアは札の束を抱え、明朝分の太字をつくり直している。

 ミーナは糸と輪を布に包み、袋を閉じる。

 クロは俺の膝に前足をのせ、爪を出さないままふみふみした。

「アキラ、や。ひゅって、よかった」

「偶然、風が味方しただけだよ」

「アキラの、いき」

 言い切る声がまっすぐで、笑ってしまう。頭をそっと撫でると、目を細めて喉を鳴らした。目尻がほんのり赤いのは、さっき布埃をかぶったからだろう。


 鍛冶通り。

 フーゴに落ち矢を見せると、矢尻の角度と羽根の癖を指で示してくれた。

「街射ちの癖だ。森の獣じゃなく、人の間を抜く矢。……板に勝つな、の話は置いとく。今日は無事でよかった」

「明日は倉庫です」

「刃を出す前に、鍵を数えな」

「はい」


 白樺亭。

 マルタが鍋の蓋を開けて湯気を逃がし、皿を二つ置いた。

「遅かったね。……顔、緊張のあとが残ってる。猫さんは先に」

「のむ」

 クロは塩抜きの粥を舐め、ひげの先に一粒だけ白い点をつけた。

 リナが笑って布でそっと拭う。

「きょう、えらかった人には、あったかい席」

 クロは胸を張って隣の椅子に座り、尻尾を背もたれにふんわりかけた。


 食後、帳場でミレイユが紙を差し出す。

「明日の段取り。“倉庫の鍵合わせ”“掲示追加”“関所へ口上”。順に回して、昼の顔のまま入る」

「了解」

 紙を折ってインベントリに差し込み、部屋に戻る。


 道具を拭いて並べる。手袋は裏返しで乾かし、矢の羽根についた埃を布で落とす。

 クロは胸の上に丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと押し当てた。

「アキラ。あした、くらい?」

「倉庫の中は暗いかもね。でも、明るくしてから入る」

「いく」

「一緒に」

 灯りを落とす前、窓を指一本分だけ開ける。

 夜風がやわらいで、粉の匂いはしなかった。

 矢は逸れ、袋は残った。

 明日は扉の先を見る。

 目を閉じると、クロの喉の音が、遠い川の水音みたいに小さく続いた。

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