第14話 「読み声を増やす」

 朝の鐘が一度。白樺亭の一階は、湯気とパンの香りがふわりと回っていた。

 マルタが鍋を持ち上げ、リナが木椀を並べる。テーブルの端でクロが椅子に前足をそろえ、湯気を真剣な顔で見つめている。


「今日は“読む場所”を二つ増やすんだってね」

 マルタが粥をよそいながら言う。

「御者宿の裏と、学校の門です」

「どっちも人が集まる。短く、はっきりだよ。猫さんの分は塩ぬき」

「のむ」

 クロは小椀の縁に舌をそっと当て、ちいさく目を細めた。飲み終えると、今度は俺の靴ひもを鼻先で押して結び目を確認する。

「ほどけない?」

「ほどけない。――いく?」


「行こう」


 角の果物屋。フィオナが瓶の栓を布で拭き、光に透かす。

「薄め一本。君は海塩ひとつまみ、猫さんは塩なし。掲示をもう二か所って聞いたよ」

「先生と御者宿の親父さんが手伝ってくれます。字は昨日のまま。言い方も変えません」

「それが一番。……あ、これ」

 差し出されたのは、角が丸く削られた古い札。裏は白く塗り直してある。

「祭りのときに使った“列は歩き”の札。角が丸いと怪我しない。好きに使って」

「ありがたく」

 クロがぴょこんと前足をのせて、札の角をちょい、と押した。

「つるつる、すき」

「気に入ったなら、学校の門はクロが“見張り役”だな」

「やる」


 鍛冶通り。フーゴは砥石の水を替え、俺の棒の革キャップを指で弾いた。

「湿りは抜けた。掲示の紐は二結びで外側に寝かせろ。風でめくれにくい」

「覚えます」

 クロが横から真顔で合いの手を入れる。

「にぼう、そとがわ」

「いい相棒だ」フーゴが笑い、クロの額を指で軽くつついた。


 ギルド。ミレイユが地図の前で札束を指で揃える。

「順は学校→御者宿裏。先生には“読み上げの刻”を書いて渡して。御者宿は若い御者が多いから、絵を一枚足すといい。――イリアは清書、ミーナは紐と紙釘、サビーネは外回りの位置取り」

 白いローブのセレナが奥から顔を出す。

「喉は薄めで大丈夫。息を先に吐いてから声を出す。猫さんは日なたが続いたら合図して、木陰へ」

「おぼえた」クロがきっぱり言う。


 学校。低い門をくぐると、子どもたちが列をつくっていた。

 先生が出てきて、掲示板の高さを半歩だけ上げる。

「この高さなら遠くからでも読めますね」

「お願いします」

 イリアが太い字で書き、俺が読み上げる。

「――白い丸の線を見たら、右によって歩きます。遊ぶのは紙の上だけ。粉は道に置かない」

 子どもたちが声をそろえる。短く、元気な声だ。

 クロは掲示板の下で前足をそろえ、先生の顔を見上げた。

「よむと、あんぜん」

 笑いが起きて、列の空気が少し柔らかくなる。先生が控えを受け取り、刻を書き込んだ。

「朝と昼の二度、声に出します」


 門を離れようとしたとき、校庭の奥の物置の影で、小さな白い点が二つ、土の上に見えた。

 ミーナがハンカチで拭いながら子どもに目線を合わせる。

「紙で“にゃ”を書くのはいいけど、道に粉は置かないよ。馬が鼻を下げるからね」

「……はい」

 クロは子どもといっしょにしゃがみ、前足でそっと土をならした。

「きれいになった」

 子どもは照れ笑いをして、掲示をもう一度、声に出して読んでいった。


 御者宿の裏。昼前で人の出入りが多い。親父さんが柱を二本、裏口の脇に持ってきてくれた。

「ここなら馬をつなぐ目印にもなる。大きく頼む」

「任せてください」

 イリアが絵札を一枚足す。白い丸の横に、右側に寄った二本線。

 言葉は短く、同じ。

「白い丸の線を見たら、右によって、歩く」

 若い御者が声に出して復唱し、結び目を確かめる。

「二結び、外側に倒す……覚えた」

 クロは柱の影に入って尻尾を立て、鼻先で風を確かめる。

「におい、すこし、あまい」

 甘い匂いは風に薄い。昨日の袋の粉とは違う、もっと弱い残り香。

 柱の根元をのぞくと、白い粉の点が一つ、木くずにかすっていた。

 布で拭う前に、鼻先を近づける。甘さは弱いが、確かに残っている。

「拭っておきます。掲示はこの高さで固定」

「頼む」親父さんは手を打ち合わせ、通りのほうへ声を飛ばした。「おい、新人! 読むんだ、“右によって歩く”!」


 小休止。

 角の果物屋の軒先まで戻ると、フィオナが手を振った。

「学校の子たち、もう口で言ってたよ。御者宿の絵も効く」

「角が丸い札、助かりました」

「角が丸いのは、気持ちも丸くするんだ」

 クロは木箱の上に前足をそっと置き、顔だけぴょこんと出す。

「つぎ、どこ?」

「関所。昼の短い報告をして、橋の札も見に行こう」


 関所アルダ。塔影は涼しい。

 セルジオが帳面を手に出てくる。

「学校と御者宿の掲示、どうなった」

「学校は朝と昼の読み上げ。御者宿は絵札付き。柱は二結びで固定。――物置の影と柱の根元に小さな白い点、拭去済み」

「刻印の写しは?」

 写しを渡すと、セルジオは一度だけ頷いた。

「“灰指”は名で呼べば、逃げ場が減る。言葉を揃えろ。……午後は橋の上塗りを一枚、門の掲示も一度確認しておけ」

「了解です」

 クロがセルジオの脇にすっと回り込み、塔影の端を見上げる。

「ひかげ、すずしい」

「見る目があるな」珍しくセルジオが笑った。「その場所、番を立てるときに使う」


 橋へ向かう途中、路地から顔を出した古道具屋のオズワルドが手を振った。

「おまえさんの“右寄せ歩き”、うちの若いのにも効いた。……そうだ、変な客の置きみやげがあってな」

 差し出されたのは、安っぽい錫の小片。昨日見た刻印に似ているが、縁が歪んでいる。

「これ、薄いな。使い捨てだ」

「そう、踏んだら曲がっちまう。橋の名前を問われて、答えたらこれを落としていった。顔は見えない、手はきれい」

「預かります。関所に写しを出します」

 クロが鼻先で小片をそっと押し、眉間にしわを寄せた。

「におい、ない。……いや」

 ひげがふるえ、クロは俺の肩にぴょんと飛び乗る。耳を伏せ、尾をぴんと立てた。

「うしろ」

 振り返る。人混みの向こう、白い布の袖がふっと引っ込む。

 追いかけない。

 俺はオズワルドに礼を言い、ゆっくり歩調を戻す。

 すれ違いざま、ミーナが小さく言った。

「札を見せたかっただけ、って顔つきだった」

「“読む声”が邪魔になってきたんだろう。目でなく、耳を止めるつもりで来る」


 橋に着く。昼の光で川面が白い。

 欄干の札は生きている。昨日の糸も、まだ静かだ。

 イリアが縁取りを細く上塗りし、文字の太さを整える。

 俺は欄干の継ぎ目に手を当て、石の冷たさを確かめた。

 クロは欄干の影から影へ、猫らしく音もなく動く。

 ときどき振り返って、目が合うと「うん」と小さく鳴く。

 それだけで、橋が少し頼もしく見えた。


 戻り道。

 門の脇では、衛兵のランベルトが新しい見張りに掲示を読み上げさせていた。

「白い丸の線を見たら?」

「右によって、歩き」

「よし」

 クロが見張り台の階段を三段だけ上り、鼻先を欄干に押しつける。

「ここ、すずしい」

「猫の観察力は大したものだな」ランベルトは笑い、指で階段の影を示した。「そこ、いい風が通る」


 ギルドへ戻ると、ミレイユが地図の赤い点を二つ増やしていた。

「学校の門と御者宿裏、稼働。先生から“子どもが自分で読む”って伝言」

「御者宿は若い御者が絵を指差しながら口で言ってました」

「それが狙いどおり。……“灰指”の小片、写しを二枚作る。関所と橋守へ」

 ミーナが紐を結び、イリアが清書を重ねる。

 クロは机の端からちらりとのぞき込み、写した指の絵にちょん、と前足を触れた。

「これ、きらい」

「うん。だから、読む声を増やす」


 夕方の白樺亭。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べる。

「学校の子、掲示を指でなぞりながら読んでたよ。猫さんの“よむと、あんぜん”も真似してた」

 クロは照れくさそうに尾をふり、椀の縁に顎をのせてごくごく飲む。

「おいしい」

「よかった」

 食後、帳場でマルタが紙片を渡した。先生からの短い礼状だ。

――声に出すと、目がそろう。明日の朝も読みます。

 紙の手触りは薄いのに、重みがあった。


 部屋。

 今日も紙を三束に分ける。街/橋/関所。刻印の写しは一番上。

 窓から入る風が少しだけ涼しい。

 クロが丸くなり、左前足の黒い点を俺の手の甲にそっと当てた。

「あした、また、よむ?」

「読む。声を増やす」

「わかった」

 小さな返事が、部屋の隅まで届いて消えた。

 灯りを落とす。

 外では人の足音が水平に流れ、どこかで子どもが短く復唱する声がした。

 ――白い丸の線を見たら、右によって、歩く。


 その響きに背中を預けて、目を閉じた。明日の朝も、同じ声から始める。



 翌朝。白樺亭の一階は、湯気がうすく立っていた。

 マルタが匙を止め、客の気配を見渡してから俺たちの椀に粥を盛る。


「きのうの学校、評判だよ。今朝も子どもが先に読んでた」

「うれしいです。今日は広場の水飲み場を一度見てから、御者宿の裏を回ります」


 クロは椀の縁に鼻先を寄せてから、そっと舌を伸ばす。飲み終えると、椅子の上で前足をきゅっとそろえた。

「きょうは、はやくあるく」

「転ばない程度にな」


 角の果物屋。フィオナが小瓶を二本、色の薄いほうと濃いほうで並べる。

「薄いのが君、塩なしが猫さん。――あ、昨日の先生がね、『読む番を子ども同士で回す』って」

「いい流れです。声が増えるほど、足がそろう」

「その言い方、好きよ。……はい、干し皮。噛みすぎると顎が疲れるから、ほどほどに」


 広場へ向かうと、水飲み場の石の縁で、二人の子が掲示を指でなぞっていた。

「『白い丸の線を見たら、右によって、歩く』」

「『遊ぶのは紙の上』」

 最後まで読み終えると、クロのほうをちらりと見た。

「ねこさん、きのう、いった」

「いった」クロは胸を張って答え、掲示の端を前足でとん、と押した。「これ、たいせつ」


 石の陰に粉の小さな点。ミーナが布で押さえ、俺は鼻へ寄せる。甘さは薄い。

「残り香。子どもの指か、袋の口が甘いか」

「どちらにしても、道から消すのが先」サビーネが短く言って、周りの視線をひと掃きした。弦は弾かない。ただ居場所を確かめる動き。

 拭き終えると、近くで桶をかつぐ男が足を止め、掲示に目をやった。

「“歩く”。――口で言ってやると、ほんとに歩くんだな」

「声は釘より強い日があります」


 御者宿の裏。柱の絵札は残っている。若い御者が二人、顔を寄せて読んでいた。

「“右によって、歩く”」

「“粉は道に置かない”」

 親父さんが奥から顔を出し、笑って手を振る。

「荷は午後。今朝は馬の調子を見るだけだ。猫さん、こいつに“歩き”を教えてくれ」

 クロは頼まれると、急に背筋が伸びる。馬の前へ行き、前足を胸の前で一度だけ揃える。

「あるく」

 馬が鼻を鳴らし、首を軽く上げた。御者は笑い、手綱を短く持ち替える。

「覚えやすい合図だ。――ありがとよ」


 関所アルダへ寄る。塔影はひんやりとして、風がすっと通る。

 セルジオが帳面を持って出てきた。

「朝の様子を」

「広場は子どもが読む、粉は拭去。御者宿は絵札が生きてます。昨夜の錫の小片は写し二枚、関所と橋守へ」

「受けた」

 セルジオは写しを一枚めくり、ふとクロを見た。

「その猫は、影を選ぶのがうまい。見張りに向く」

「ひかげ、すき」クロは得意そうに尾を立てて、塔影の端から端へ歩いてみせた。

「仕事ぶり、二銅分はあるな」

 セルジオが珍しく冗談を言うと、クロはなぜか胸を張ってこちらを見る。

「ぼく、こうにゅう?」

「雇用だよ」ミーナが笑って訂正した。「買わない」


 昼前、ギルドへ戻ると、受付の前に見慣れない顔が二つ。

 薄い外套の若者と、深くフードをかぶった女。

「掲示の写本を頼みたい」と若者。声は柔らかいが、少し落ち着きすぎている。

「行き先は?」ミレイユが尋ねる。

「旅籠。客が多いので」

 イリアが清書の札を数枚見せると、女のフードがほんのすこし動いた。視線は札の角、結び目の向き。

 俺はカウンターから半歩離れて様子を見た。クロは椅子の影からひょいと顔を出し、女の裾の端をじっと見る。

 女は気づいたようにふと視線を落とし、笑わない目でクロを見返した。

「賢い猫」

「……うん」クロは小さな声で言って、俺の足に額をこつんと当てた。

 若者は札を三枚、銅貨をちょうどの数だけ出して受け取り、礼を言った。

 去り際、ミーナが俺の腕を軽くつつく。

「結び目、外側に倒すほうを見てた。……“読ませたくない側”の動きに見える」

「しばらく街の内回りを増やそう」


 昼。白樺亭の片隅で、薄いスープと硬いパン。

 クロは塩抜きの水を真面目に飲み、パンを小さく割って口の端に粉を付けた。

「ついた」

「こっち向け。――よし、取れた」

 取ってやると、くすぐったいのか首をすこしすくめる。こういうときだけ、完全に子どもだ。


 午後、広場へ戻ると、桶の影に白い帯が一本。朝はなかったものだ。

 甘い匂いは弱い。けれど、わざと「見える線」の太さで引かれている。

 クロが短く鳴いて、尻尾を真上に立てた。

「ひと、かくした」

「ああ。見せるための線だ」

 周りの人に声が届くよう、少しだけ高く言う。

「“右によって、歩きます。遊ぶのは紙の上だけ”」

 掲示の前で、子どもが先に復唱した。

「『右によって、歩きます!』」

 その声に大人たちが合わせる形で、列が自然にずれる。馬は鼻を上げ、足並みがそろう。

 ミーナが線の端を布で押さえ、俺は砂を手に薄く撒いて、色だけ消す。

「道は元どおり。――ありがとう。君の声が早かった」

 子どもは胸を張って、クロのほうを見た。

「ねこさんが、さきに“あるく”って」

「あるく」クロは得意げに言って、掲示の下で前足をそろえた。


 通りの角で、白い袖が一度だけ揺れて消えた。

 追わない。こちらが追わないのを前提に、彼らは「見せて」くる。ならば、こっちも「見せて」返すだけだ。

「イリア、縁取りを少し太く。字の間は詰めずに」

「了解」

 赤の縁が細く一本、重なる。声が増えれば、線は消える。

 ただ、それでも彼らは「次」を出してくるはずだ。今日の一本は、次のための踏み台。


 夕方。御者宿の裏で、若い御者が声を合わせる稽古をしていた。

「“右によって、歩く”」

 言い方が合うたびに、親父さんが親指を立てる。

 クロは柱の影から影へ、小走りで移動してはぴたりと止まり、顔だけがにょきっと出る。

「ここ、ここ。――ここ、かぜ」

「見張り役に向いてるな」親父さんが笑って耳の後ろを撫でる。「うちで雇えないかな」

「それは俺の役目」

 クロが胸を張ったまま、こちらにちらりと目をやる。

「ぼく、うらぎらない」

「うん、知ってる」


 関所へ夕の短報。

 セルジオは帯に挟んだ赤チョークを親指で回しながら、こちらの口上を聞く。

「広場に白い帯一本。声で寄せて、砂で薄く。追跡はせず。――掲示は昼より縁取りを太くした」

「よし。子どもの声が先に出るのはいい兆しだ。明朝、学校で一度、御者宿で一度、読みを増やせ」

「やります」

 クロは塔影の端で腰を落とし、前足で地面をとん、と叩いた。

「よむ。あしたも」

「頼んだぞ、猫の番人」


 日が落ちる。

 ギルドへ戻ると、ミレイユが台の上に薄紙を並べていた。

「“広場一本”の件、写しを三枚作った。関所と橋守と学校。――それと、さっきの“外套の二人”、行き先を追ってみたけど、旅籠の記録が曖昧。気をつけて」

「了解」

 サビーネが弓袋を肩にかけ直し、窓の外に視線を巡らせる。

「目立つのは嫌いじゃない連中だ。こちらも“目立たせる”つもりでいよう」

「札の角、もう少し丸くしておきます」イリアが笑い、角を紙やすりでやさしく撫でた。

 クロはその音が好きらしく、机の下で前足をちょん、ちょん、と鳴らす。

「つるつる、すき」

「角が丸いとぶつかっても痛くないからね」ミーナが言うと、クロは「うん」と頷いた――ように見えた。


 白樺亭に戻るころ、路地に晩の灯りが点っていった。

 マルタが湯気の鍋を回し、リナが木椀を運ぶ。

「今日も掲示の前で声が揃ってたよ。猫さん、柱の影にぴたりって座ってたでしょう」

「見られてたか」

「かわいかった」

 クロは得意そうに尾をふり、椀に顔を落としてごくごく飲んだ。

「おいしい」

「よかった」


 部屋。窓を半分だけ開け、紙を三束に分ける。学校/御者宿/広場。

 錫の小片の写しを一番上へ。

 灯りを落とす前、クロが胸の上に乗ってきて、左前足の黒い点で俺の手の甲をぽす、と押した。

「アキラ。あした、ぼく、はやく“あるく”いう」

「頼んだ。――俺は“読もう”と言う」

「うん」

 猫の重さは軽いはずなのに、眠気がすとんと落ちる。

 外では、誰かが掲示を読み上げる声が一度だけして、すぐ静かになった。

 街は、声で守れる。

 そう信じられる夜だった。



 朝の白樺亭。湯気の上に光がさす。

 マルタが粥をよそいながら言った。


「今日は学校と御者宿で読み合わせだろ。声は落ち着いてね」

「はい。長くは話しません」


 クロは椀の縁に鼻を寄せ、舌でそっと味見してから前足をそろえた。

「きょう、こども、よむ?」

「読むよ。クロの“あるく”も頼む」

「まかせて」


 角の果物屋。フィオナが小瓶を二本、色で見分けて渡す。

「薄めが君、塩なしが猫さん。――昨日の“外套の二人”、旅籠に荷も下ろさず出たり入ったりしてたって噂だよ」

「気を付けます」

「気に入らない人は、札の角を見てくる。倒し方や結びをね。そこだけ、よく見ておきな」



 学校の中庭。柵の内側に子どもが並ぶ。先生が掲示の前に立ち、俺に視線で合図をくれた。

「今日は短く、二つだけ」


 まず、白い線を見たらどうするか。

 掲示の一行を指でなぞり、ゆっくり読む。

「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」

 子どもたちが声をそろえる。

「みたら、みぎよって、あるきます」

 クロが前に出て、胸の前で前足を一度そろえた。

「あるく」

 笑いが起きて、緊張がとける。


 もう一つ。“砂糖遊びは紙で”の件。

 先生が白紙を配り、俺は地面の近くにしゃがんで言う。

「地面は道。紙は遊び場。今日は“にゃ”を書いてみよう」

 「にゃ」が増えていく。指に粉はつかない。

 最後に先生が小声で言う。

「昼にも読みます。――ありがとう」

「こちらこそ」


 門へ出ると、外套の女が遠回りに学校の塀を見ているのがちらりと見えた。

 追わない。そう決めている。代わりに、こちらから“見せる”。

 イリアが太い字で書いた携帯札を、塀の内側に一枚追加した。

 ――白い線を見たら、右に寄って歩く。遊ぶのは紙。


 塀の影で、クロが俺の足に額をこつんと当てる。

「みてた。あのひと、むすび、みてた」

「うん。こっちは角を二つ、外へ倒しておく」

 結びはほどけにくく、でも外す時は速い向きに。



 御者宿。表の梁の掲示は無事。裏手の柱の絵札も残っている。

 若い御者が二人、昨日より大きな声で復唱していた。

「右によって、歩く!」

「よし」親父さんが親指を立てる。「猫さん、今日も合図を」

 クロは柱の影からすっと出て、前足をそろえる。

「あるく」

 馬が鼻を上げ、御者が笑う。

「覚えやすい。言いやすい。大事だな」


 その時、裏の樋の陰で小さな袋が光った。

 ミーナが先に気づき、布越しに拾い上げる。口は雑な結び。甘い匂い。

「落とし物に見せた置き物」

「札の横に出されやすい。――提出に回そう」

 親父さんが眉をひそめる。

「ここに置かれるのは気持ち悪い。掲示の横に“見つけたら触らず声を”って一行、足せるか」

「足します」



 関所アルダ。昼前の短報。

 セルジオは帳面を開き、俺たちの言葉をまとめる。

「学校は読み声が増えた。御者宿は合図が定着。――砂糖袋を一つ拾得。口は雑。匂いは薄い。提出物として預かる」

「お願いします。結びは写真写しします」

 セルジオは赤チョークで“声”の欄に小さな丸を足した。

「声が先に出ると、手が遅れる。今日はそれでいい。――午後、広場と市場を一度見て、夕方にもう一回、学校の前で読むといい」


 塔影を出るとき、クロが足を止めてじっと空を見た。

「かぜ、かわる」

 本当に、細い風向きが変わっていた。匂いの筋も。

「ありがとう。水を少し飲んでいこう」

「のむ」



 広場。水飲み場の石に、薄い指跡がひとつ。

 布で押さえて拭き、掲示の端を軽く撫でる。

 子どもが二人、また読んだ。

「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」

 通りがかりの年配が続ける。

「『遊ぶのは紙の上』」

 声が二つ三つ重なると、周りの歩幅がそろうのがわかる。


 市場の角。干し草の陰は人が集まりやすい。

 露店の女将が掲示を指で叩いて聞いてきた。

「“右によって歩く”はわかったけど、荷車は?」

「同じです。列の外に出るときだけ、手で合図を足してください」

 女将はすぐ覚え、隣の若い衆にも教えた。

「手は顔の高さ。短く、はっきり」

「はい」


 そこへ、外套の若者がひょいと現れて掲示をのぞき込む。

 今度は札の角ではなく、字の並びを見ている。

「読みやすいな。余白が多い」

「子どもが読むからです」

「……なるほど」

 若者は短く笑って、そのまま人混みに消えた。

 クロがぴたりと足を止め、俺の裾をちょい、と引く。

「いまのひと、におい、かわった」

「へえ」

「きのうは、すっぱい。きょうは、からい」

 妙な言い方だが、クロの中では確かな違いなのだろう。覚えておく。



 午後の学校前。

 午前と同じ二行を、今度は子どもが先に読む。

 先生が「いいね」と笑って、最後に一言足した。

「『道に甘いものを見つけたら、大人を呼ぶ』」

 声がそろう。

 読み終わったあと、ひとりの子が手を上げた。

「ねこさん、どうして“あるく”なの?」

 クロはしばらく考えてから、真顔で答えた。

「はしると、こける」

 みんな笑ったが、先生はまじめにうなずいた。

「大事な答え。――転ばないことは、遠回りじゃない」


 帰りがけ、塀の外の露地に白い点々。

 布で拭き、石を一つだけ置いて“ここを歩いて”と示す。

 外套の女が角の陰からこちらを見ていた。

 目が合う。

 彼女は何も言わず、フードのひさしを一度だけ指で直して、路地の奥へ消えた。

 置き土産はない。今日は“見るだけ”の日だったのだろう。



 夕暮れ。関所で締め。

 セルジオは札の裏に小さな印を押し、短く言う。

「声が先。――それで人はそろう。明日の朝は御者宿から始めろ。動く前に口を合わせる」

「了解」


 ギルドへ戻ると、ミレイユが写しの束を三つに分けてくれた。

 街/路地/学校。

「“外套の二人”は、旅籠の名を二つ使い分けてた。気づいたら事務へ。君らは追わないで」

「任せます」

 クロは机の下から顔を出し、ふいっとあくび。

「ねむい」

「もうすぐ終わる」


 白樺亭。

 リナが椀を置いて、クロの額を指でそっと撫でる。

「今日も“あるく”言えた?」

「いった」

「えらい」

 クロは得意そうに、椀のふちをちょい、と前足で叩く。

 粥は薄く、あたたかい。体が落ち着く。


 部屋で道具を整える。

 携帯札の束は三種に分け、紐の向きをそろえる。

 拾得した砂糖袋の写しは、結びの癖がわかるよう角度をつけて描いた。

 窓を少し開けると、どこかで掲示を読む声が一度だけ聞こえた。

 クロが胸の上に丸くなり、左前足の黒い点を軽く当てる。

「アキラ。あした、ぼく、はやく、あるく」

「俺は短く、読む」

「うん」


 街は静かだった。

 今日は“読む側”が勝った。

 明日も、そうなるように。



 朝の白樺亭。湯気の上に光がさす。

 マルタが粥をよそいながら言った。


「今日は学校と御者宿で読み合わせだろ。声は落ち着いてね」

「はい。長くは話しません」


 クロは椀の縁に鼻を寄せ、舌でそっと味見してから前足をそろえた。

「きょう、こども、よむ?」

「読むよ。クロの“あるく”も頼む」

「まかせて」


 角の果物屋。フィオナが小瓶を二本、色で見分けて渡す。

「薄めが君、塩なしが猫さん。――昨日の“外套の二人”、旅籠に荷も下ろさず出たり入ったりしてたって噂だよ」

「気を付けます」

「気に入らない人は、札の角を見てくる。倒し方や結びをね。そこだけ、よく見ておきな」



 学校の中庭。柵の内側に子どもが並ぶ。先生が掲示の前に立ち、俺に視線で合図をくれた。

「今日は短く、二つだけ」


 まず、白い線を見たらどうするか。

 掲示の一行を指でなぞり、ゆっくり読む。

「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」

 子どもたちが声をそろえる。

「みたら、みぎよって、あるきます」

 クロが前に出て、胸の前で前足を一度そろえた。

「あるく」

 笑いが起きて、緊張がとける。


 もう一つ。“砂糖遊びは紙で”の件。

 先生が白紙を配り、俺は地面の近くにしゃがんで言う。

「地面は道。紙は遊び場。今日は“にゃ”を書いてみよう」

 「にゃ」が増えていく。指に粉はつかない。

 最後に先生が小声で言う。

「昼にも読みます。――ありがとう」

「こちらこそ」


 門へ出ると、外套の女が遠回りに学校の塀を見ているのがちらりと見えた。

 追わない。そう決めている。代わりに、こちらから“見せる”。

 イリアが太い字で書いた携帯札を、塀の内側に一枚追加した。

 ――白い線を見たら、右に寄って歩く。遊ぶのは紙。


 塀の影で、クロが俺の足に額をこつんと当てる。

「みてた。あのひと、むすび、みてた」

「うん。こっちは角を二つ、外へ倒しておく」

 結びはほどけにくく、でも外す時は速い向きに。



 御者宿。表の梁の掲示は無事。裏手の柱の絵札も残っている。

 若い御者が二人、昨日より大きな声で復唱していた。

「右によって、歩く!」

「よし」親父さんが親指を立てる。「猫さん、今日も合図を」

 クロは柱の影からすっと出て、前足をそろえる。

「あるく」

 馬が鼻を上げ、御者が笑う。

「覚えやすい。言いやすい。大事だな」


 その時、裏の樋の陰で小さな袋が光った。

 ミーナが先に気づき、布越しに拾い上げる。口は雑な結び。甘い匂い。

「落とし物に見せた置き物」

「札の横に出されやすい。――提出に回そう」

 親父さんが眉をひそめる。

「ここに置かれるのは気持ち悪い。掲示の横に“見つけたら触らず声を”って一行、足せるか」

「足します」



 関所アルダ。昼前の短報。

 セルジオは帳面を開き、俺たちの言葉をまとめる。

「学校は読み声が増えた。御者宿は合図が定着。――砂糖袋を一つ拾得。口は雑。匂いは薄い。提出物として預かる」

「お願いします。結びは写真写しします」

 セルジオは赤チョークで“声”の欄に小さな丸を足した。

「声が先に出ると、手が遅れる。今日はそれでいい。――午後、広場と市場を一度見て、夕方にもう一回、学校の前で読むといい」


 塔影を出るとき、クロが足を止めてじっと空を見た。

「かぜ、かわる」

 本当に、細い風向きが変わっていた。匂いの筋も。

「ありがとう。水を少し飲んでいこう」

「のむ」



 広場。水飲み場の石に、薄い指跡がひとつ。

 布で押さえて拭き、掲示の端を軽く撫でる。

 子どもが二人、また読んだ。

「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」

 通りがかりの年配が続ける。

「『遊ぶのは紙の上』」

 声が二つ三つ重なると、周りの歩幅がそろうのがわかる。


 市場の角。干し草の陰は人が集まりやすい。

 露店の女将が掲示を指で叩いて聞いてきた。

「“右によって歩く”はわかったけど、荷車は?」

「同じです。列の外に出るときだけ、手で合図を足してください」

 女将はすぐ覚え、隣の若い衆にも教えた。

「手は顔の高さ。短く、はっきり」

「はい」


 そこへ、外套の若者がひょいと現れて掲示をのぞき込む。

 今度は札の角ではなく、字の並びを見ている。

「読みやすいな。余白が多い」

「子どもが読むからです」

「……なるほど」

 若者は短く笑って、そのまま人混みに消えた。

 クロがぴたりと足を止め、俺の裾をちょい、と引く。

「いまのひと、におい、かわった」

「へえ」

「きのうは、すっぱい。きょうは、からい」

 妙な言い方だが、クロの中では確かな違いなのだろう。覚えておく。



 午後の学校前。

 午前と同じ二行を、今度は子どもが先に読む。

 先生が「いいね」と笑って、最後に一言足した。

「『道に甘いものを見つけたら、大人を呼ぶ』」

 声がそろう。

 読み終わったあと、ひとりの子が手を上げた。

「ねこさん、どうして“あるく”なの?」

 クロはしばらく考えてから、真顔で答えた。

「はしると、こける」

 みんな笑ったが、先生はまじめにうなずいた。

「大事な答え。――転ばないことは、遠回りじゃない」


 帰りがけ、塀の外の露地に白い点々。

 布で拭き、石を一つだけ置いて“ここを歩いて”と示す。

 外套の女が角の陰からこちらを見ていた。

 目が合う。

 彼女は何も言わず、フードのひさしを一度だけ指で直して、路地の奥へ消えた。

 置き土産はない。今日は“見るだけ”の日だったのだろう。



 夕暮れ。関所で締め。

 セルジオは札の裏に小さな印を押し、短く言う。

「声が先。――それで人はそろう。明日の朝は御者宿から始めろ。動く前に口を合わせる」

「了解」


 ギルドへ戻ると、ミレイユが写しの束を三つに分けてくれた。

 街/路地/学校。

「“外套の二人”は、旅籠の名を二つ使い分けてた。気づいたら事務へ。君らは追わないで」

「任せます」

 クロは机の下から顔を出し、ふいっとあくび。

「ねむい」

「もうすぐ終わる」


 白樺亭。

 リナが椀を置いて、クロの額を指でそっと撫でる。

「今日も“あるく”言えた?」

「いった」

「えらい」

 クロは得意そうに、椀のふちをちょい、と前足で叩く。

 粥は薄く、あたたかい。体が落ち着く。


 部屋で道具を整える。

 携帯札の束は三種に分け、紐の向きをそろえる。

 拾得した砂糖袋の写しは、結びの癖がわかるよう角度をつけて描いた。

 窓を少し開けると、どこかで掲示を読む声が一度だけ聞こえた。

 クロが胸の上に丸くなり、左前足の黒い点を軽く当てる。

「アキラ。あした、ぼく、はやく、あるく」

「俺は短く、読む」

「うん」


 街は静かだった。

 今日は“読む側”が勝った。

 明日も、そうなるように。

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