第14話 「読み声を増やす」
朝の鐘が一度。白樺亭の一階は、湯気とパンの香りがふわりと回っていた。
マルタが鍋を持ち上げ、リナが木椀を並べる。テーブルの端でクロが椅子に前足をそろえ、湯気を真剣な顔で見つめている。
「今日は“読む場所”を二つ増やすんだってね」
マルタが粥をよそいながら言う。
「御者宿の裏と、学校の門です」
「どっちも人が集まる。短く、はっきりだよ。猫さんの分は塩ぬき」
「のむ」
クロは小椀の縁に舌をそっと当て、ちいさく目を細めた。飲み終えると、今度は俺の靴ひもを鼻先で押して結び目を確認する。
「ほどけない?」
「ほどけない。――いく?」
「行こう」
角の果物屋。フィオナが瓶の栓を布で拭き、光に透かす。
「薄め一本。君は海塩ひとつまみ、猫さんは塩なし。掲示をもう二か所って聞いたよ」
「先生と御者宿の親父さんが手伝ってくれます。字は昨日のまま。言い方も変えません」
「それが一番。……あ、これ」
差し出されたのは、角が丸く削られた古い札。裏は白く塗り直してある。
「祭りのときに使った“列は歩き”の札。角が丸いと怪我しない。好きに使って」
「ありがたく」
クロがぴょこんと前足をのせて、札の角をちょい、と押した。
「つるつる、すき」
「気に入ったなら、学校の門はクロが“見張り役”だな」
「やる」
鍛冶通り。フーゴは砥石の水を替え、俺の棒の革キャップを指で弾いた。
「湿りは抜けた。掲示の紐は二結びで外側に寝かせろ。風でめくれにくい」
「覚えます」
クロが横から真顔で合いの手を入れる。
「にぼう、そとがわ」
「いい相棒だ」フーゴが笑い、クロの額を指で軽くつついた。
ギルド。ミレイユが地図の前で札束を指で揃える。
「順は学校→御者宿裏。先生には“読み上げの刻”を書いて渡して。御者宿は若い御者が多いから、絵を一枚足すといい。――イリアは清書、ミーナは紐と紙釘、サビーネは外回りの位置取り」
白いローブのセレナが奥から顔を出す。
「喉は薄めで大丈夫。息を先に吐いてから声を出す。猫さんは日なたが続いたら合図して、木陰へ」
「おぼえた」クロがきっぱり言う。
学校。低い門をくぐると、子どもたちが列をつくっていた。
先生が出てきて、掲示板の高さを半歩だけ上げる。
「この高さなら遠くからでも読めますね」
「お願いします」
イリアが太い字で書き、俺が読み上げる。
「――白い丸の線を見たら、右によって歩きます。遊ぶのは紙の上だけ。粉は道に置かない」
子どもたちが声をそろえる。短く、元気な声だ。
クロは掲示板の下で前足をそろえ、先生の顔を見上げた。
「よむと、あんぜん」
笑いが起きて、列の空気が少し柔らかくなる。先生が控えを受け取り、刻を書き込んだ。
「朝と昼の二度、声に出します」
門を離れようとしたとき、校庭の奥の物置の影で、小さな白い点が二つ、土の上に見えた。
ミーナがハンカチで拭いながら子どもに目線を合わせる。
「紙で“にゃ”を書くのはいいけど、道に粉は置かないよ。馬が鼻を下げるからね」
「……はい」
クロは子どもといっしょにしゃがみ、前足でそっと土をならした。
「きれいになった」
子どもは照れ笑いをして、掲示をもう一度、声に出して読んでいった。
御者宿の裏。昼前で人の出入りが多い。親父さんが柱を二本、裏口の脇に持ってきてくれた。
「ここなら馬をつなぐ目印にもなる。大きく頼む」
「任せてください」
イリアが絵札を一枚足す。白い丸の横に、右側に寄った二本線。
言葉は短く、同じ。
「白い丸の線を見たら、右によって、歩く」
若い御者が声に出して復唱し、結び目を確かめる。
「二結び、外側に倒す……覚えた」
クロは柱の影に入って尻尾を立て、鼻先で風を確かめる。
「におい、すこし、あまい」
甘い匂いは風に薄い。昨日の袋の粉とは違う、もっと弱い残り香。
柱の根元をのぞくと、白い粉の点が一つ、木くずにかすっていた。
布で拭う前に、鼻先を近づける。甘さは弱いが、確かに残っている。
「拭っておきます。掲示はこの高さで固定」
「頼む」親父さんは手を打ち合わせ、通りのほうへ声を飛ばした。「おい、新人! 読むんだ、“右によって歩く”!」
小休止。
角の果物屋の軒先まで戻ると、フィオナが手を振った。
「学校の子たち、もう口で言ってたよ。御者宿の絵も効く」
「角が丸い札、助かりました」
「角が丸いのは、気持ちも丸くするんだ」
クロは木箱の上に前足をそっと置き、顔だけぴょこんと出す。
「つぎ、どこ?」
「関所。昼の短い報告をして、橋の札も見に行こう」
関所アルダ。塔影は涼しい。
セルジオが帳面を手に出てくる。
「学校と御者宿の掲示、どうなった」
「学校は朝と昼の読み上げ。御者宿は絵札付き。柱は二結びで固定。――物置の影と柱の根元に小さな白い点、拭去済み」
「刻印の写しは?」
写しを渡すと、セルジオは一度だけ頷いた。
「“灰指”は名で呼べば、逃げ場が減る。言葉を揃えろ。……午後は橋の上塗りを一枚、門の掲示も一度確認しておけ」
「了解です」
クロがセルジオの脇にすっと回り込み、塔影の端を見上げる。
「ひかげ、すずしい」
「見る目があるな」珍しくセルジオが笑った。「その場所、番を立てるときに使う」
橋へ向かう途中、路地から顔を出した古道具屋のオズワルドが手を振った。
「おまえさんの“右寄せ歩き”、うちの若いのにも効いた。……そうだ、変な客の置きみやげがあってな」
差し出されたのは、安っぽい錫の小片。昨日見た刻印に似ているが、縁が歪んでいる。
「これ、薄いな。使い捨てだ」
「そう、踏んだら曲がっちまう。橋の名前を問われて、答えたらこれを落としていった。顔は見えない、手はきれい」
「預かります。関所に写しを出します」
クロが鼻先で小片をそっと押し、眉間にしわを寄せた。
「におい、ない。……いや」
ひげがふるえ、クロは俺の肩にぴょんと飛び乗る。耳を伏せ、尾をぴんと立てた。
「うしろ」
振り返る。人混みの向こう、白い布の袖がふっと引っ込む。
追いかけない。
俺はオズワルドに礼を言い、ゆっくり歩調を戻す。
すれ違いざま、ミーナが小さく言った。
「札を見せたかっただけ、って顔つきだった」
「“読む声”が邪魔になってきたんだろう。目でなく、耳を止めるつもりで来る」
橋に着く。昼の光で川面が白い。
欄干の札は生きている。昨日の糸も、まだ静かだ。
イリアが縁取りを細く上塗りし、文字の太さを整える。
俺は欄干の継ぎ目に手を当て、石の冷たさを確かめた。
クロは欄干の影から影へ、猫らしく音もなく動く。
ときどき振り返って、目が合うと「うん」と小さく鳴く。
それだけで、橋が少し頼もしく見えた。
戻り道。
門の脇では、衛兵のランベルトが新しい見張りに掲示を読み上げさせていた。
「白い丸の線を見たら?」
「右によって、歩き」
「よし」
クロが見張り台の階段を三段だけ上り、鼻先を欄干に押しつける。
「ここ、すずしい」
「猫の観察力は大したものだな」ランベルトは笑い、指で階段の影を示した。「そこ、いい風が通る」
ギルドへ戻ると、ミレイユが地図の赤い点を二つ増やしていた。
「学校の門と御者宿裏、稼働。先生から“子どもが自分で読む”って伝言」
「御者宿は若い御者が絵を指差しながら口で言ってました」
「それが狙いどおり。……“灰指”の小片、写しを二枚作る。関所と橋守へ」
ミーナが紐を結び、イリアが清書を重ねる。
クロは机の端からちらりとのぞき込み、写した指の絵にちょん、と前足を触れた。
「これ、きらい」
「うん。だから、読む声を増やす」
夕方の白樺亭。
マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べる。
「学校の子、掲示を指でなぞりながら読んでたよ。猫さんの“よむと、あんぜん”も真似してた」
クロは照れくさそうに尾をふり、椀の縁に顎をのせてごくごく飲む。
「おいしい」
「よかった」
食後、帳場でマルタが紙片を渡した。先生からの短い礼状だ。
――声に出すと、目がそろう。明日の朝も読みます。
紙の手触りは薄いのに、重みがあった。
部屋。
今日も紙を三束に分ける。街/橋/関所。刻印の写しは一番上。
窓から入る風が少しだけ涼しい。
クロが丸くなり、左前足の黒い点を俺の手の甲にそっと当てた。
「あした、また、よむ?」
「読む。声を増やす」
「わかった」
小さな返事が、部屋の隅まで届いて消えた。
灯りを落とす。
外では人の足音が水平に流れ、どこかで子どもが短く復唱する声がした。
――白い丸の線を見たら、右によって、歩く。
その響きに背中を預けて、目を閉じた。明日の朝も、同じ声から始める。
◇
翌朝。白樺亭の一階は、湯気がうすく立っていた。
マルタが匙を止め、客の気配を見渡してから俺たちの椀に粥を盛る。
「きのうの学校、評判だよ。今朝も子どもが先に読んでた」
「うれしいです。今日は広場の水飲み場を一度見てから、御者宿の裏を回ります」
クロは椀の縁に鼻先を寄せてから、そっと舌を伸ばす。飲み終えると、椅子の上で前足をきゅっとそろえた。
「きょうは、はやくあるく」
「転ばない程度にな」
角の果物屋。フィオナが小瓶を二本、色の薄いほうと濃いほうで並べる。
「薄いのが君、塩なしが猫さん。――あ、昨日の先生がね、『読む番を子ども同士で回す』って」
「いい流れです。声が増えるほど、足がそろう」
「その言い方、好きよ。……はい、干し皮。噛みすぎると顎が疲れるから、ほどほどに」
広場へ向かうと、水飲み場の石の縁で、二人の子が掲示を指でなぞっていた。
「『白い丸の線を見たら、右によって、歩く』」
「『遊ぶのは紙の上』」
最後まで読み終えると、クロのほうをちらりと見た。
「ねこさん、きのう、いった」
「いった」クロは胸を張って答え、掲示の端を前足でとん、と押した。「これ、たいせつ」
石の陰に粉の小さな点。ミーナが布で押さえ、俺は鼻へ寄せる。甘さは薄い。
「残り香。子どもの指か、袋の口が甘いか」
「どちらにしても、道から消すのが先」サビーネが短く言って、周りの視線をひと掃きした。弦は弾かない。ただ居場所を確かめる動き。
拭き終えると、近くで桶をかつぐ男が足を止め、掲示に目をやった。
「“歩く”。――口で言ってやると、ほんとに歩くんだな」
「声は釘より強い日があります」
御者宿の裏。柱の絵札は残っている。若い御者が二人、顔を寄せて読んでいた。
「“右によって、歩く”」
「“粉は道に置かない”」
親父さんが奥から顔を出し、笑って手を振る。
「荷は午後。今朝は馬の調子を見るだけだ。猫さん、こいつに“歩き”を教えてくれ」
クロは頼まれると、急に背筋が伸びる。馬の前へ行き、前足を胸の前で一度だけ揃える。
「あるく」
馬が鼻を鳴らし、首を軽く上げた。御者は笑い、手綱を短く持ち替える。
「覚えやすい合図だ。――ありがとよ」
関所アルダへ寄る。塔影はひんやりとして、風がすっと通る。
セルジオが帳面を持って出てきた。
「朝の様子を」
「広場は子どもが読む、粉は拭去。御者宿は絵札が生きてます。昨夜の錫の小片は写し二枚、関所と橋守へ」
「受けた」
セルジオは写しを一枚めくり、ふとクロを見た。
「その猫は、影を選ぶのがうまい。見張りに向く」
「ひかげ、すき」クロは得意そうに尾を立てて、塔影の端から端へ歩いてみせた。
「仕事ぶり、二銅分はあるな」
セルジオが珍しく冗談を言うと、クロはなぜか胸を張ってこちらを見る。
「ぼく、こうにゅう?」
「雇用だよ」ミーナが笑って訂正した。「買わない」
昼前、ギルドへ戻ると、受付の前に見慣れない顔が二つ。
薄い外套の若者と、深くフードをかぶった女。
「掲示の写本を頼みたい」と若者。声は柔らかいが、少し落ち着きすぎている。
「行き先は?」ミレイユが尋ねる。
「旅籠。客が多いので」
イリアが清書の札を数枚見せると、女のフードがほんのすこし動いた。視線は札の角、結び目の向き。
俺はカウンターから半歩離れて様子を見た。クロは椅子の影からひょいと顔を出し、女の裾の端をじっと見る。
女は気づいたようにふと視線を落とし、笑わない目でクロを見返した。
「賢い猫」
「……うん」クロは小さな声で言って、俺の足に額をこつんと当てた。
若者は札を三枚、銅貨をちょうどの数だけ出して受け取り、礼を言った。
去り際、ミーナが俺の腕を軽くつつく。
「結び目、外側に倒すほうを見てた。……“読ませたくない側”の動きに見える」
「しばらく街の内回りを増やそう」
昼。白樺亭の片隅で、薄いスープと硬いパン。
クロは塩抜きの水を真面目に飲み、パンを小さく割って口の端に粉を付けた。
「ついた」
「こっち向け。――よし、取れた」
取ってやると、くすぐったいのか首をすこしすくめる。こういうときだけ、完全に子どもだ。
午後、広場へ戻ると、桶の影に白い帯が一本。朝はなかったものだ。
甘い匂いは弱い。けれど、わざと「見える線」の太さで引かれている。
クロが短く鳴いて、尻尾を真上に立てた。
「ひと、かくした」
「ああ。見せるための線だ」
周りの人に声が届くよう、少しだけ高く言う。
「“右によって、歩きます。遊ぶのは紙の上だけ”」
掲示の前で、子どもが先に復唱した。
「『右によって、歩きます!』」
その声に大人たちが合わせる形で、列が自然にずれる。馬は鼻を上げ、足並みがそろう。
ミーナが線の端を布で押さえ、俺は砂を手に薄く撒いて、色だけ消す。
「道は元どおり。――ありがとう。君の声が早かった」
子どもは胸を張って、クロのほうを見た。
「ねこさんが、さきに“あるく”って」
「あるく」クロは得意げに言って、掲示の下で前足をそろえた。
通りの角で、白い袖が一度だけ揺れて消えた。
追わない。こちらが追わないのを前提に、彼らは「見せて」くる。ならば、こっちも「見せて」返すだけだ。
「イリア、縁取りを少し太く。字の間は詰めずに」
「了解」
赤の縁が細く一本、重なる。声が増えれば、線は消える。
ただ、それでも彼らは「次」を出してくるはずだ。今日の一本は、次のための踏み台。
夕方。御者宿の裏で、若い御者が声を合わせる稽古をしていた。
「“右によって、歩く”」
言い方が合うたびに、親父さんが親指を立てる。
クロは柱の影から影へ、小走りで移動してはぴたりと止まり、顔だけがにょきっと出る。
「ここ、ここ。――ここ、かぜ」
「見張り役に向いてるな」親父さんが笑って耳の後ろを撫でる。「うちで雇えないかな」
「それは俺の役目」
クロが胸を張ったまま、こちらにちらりと目をやる。
「ぼく、うらぎらない」
「うん、知ってる」
関所へ夕の短報。
セルジオは帯に挟んだ赤チョークを親指で回しながら、こちらの口上を聞く。
「広場に白い帯一本。声で寄せて、砂で薄く。追跡はせず。――掲示は昼より縁取りを太くした」
「よし。子どもの声が先に出るのはいい兆しだ。明朝、学校で一度、御者宿で一度、読みを増やせ」
「やります」
クロは塔影の端で腰を落とし、前足で地面をとん、と叩いた。
「よむ。あしたも」
「頼んだぞ、猫の番人」
日が落ちる。
ギルドへ戻ると、ミレイユが台の上に薄紙を並べていた。
「“広場一本”の件、写しを三枚作った。関所と橋守と学校。――それと、さっきの“外套の二人”、行き先を追ってみたけど、旅籠の記録が曖昧。気をつけて」
「了解」
サビーネが弓袋を肩にかけ直し、窓の外に視線を巡らせる。
「目立つのは嫌いじゃない連中だ。こちらも“目立たせる”つもりでいよう」
「札の角、もう少し丸くしておきます」イリアが笑い、角を紙やすりでやさしく撫でた。
クロはその音が好きらしく、机の下で前足をちょん、ちょん、と鳴らす。
「つるつる、すき」
「角が丸いとぶつかっても痛くないからね」ミーナが言うと、クロは「うん」と頷いた――ように見えた。
白樺亭に戻るころ、路地に晩の灯りが点っていった。
マルタが湯気の鍋を回し、リナが木椀を運ぶ。
「今日も掲示の前で声が揃ってたよ。猫さん、柱の影にぴたりって座ってたでしょう」
「見られてたか」
「かわいかった」
クロは得意そうに尾をふり、椀に顔を落としてごくごく飲んだ。
「おいしい」
「よかった」
部屋。窓を半分だけ開け、紙を三束に分ける。学校/御者宿/広場。
錫の小片の写しを一番上へ。
灯りを落とす前、クロが胸の上に乗ってきて、左前足の黒い点で俺の手の甲をぽす、と押した。
「アキラ。あした、ぼく、はやく“あるく”いう」
「頼んだ。――俺は“読もう”と言う」
「うん」
猫の重さは軽いはずなのに、眠気がすとんと落ちる。
外では、誰かが掲示を読み上げる声が一度だけして、すぐ静かになった。
街は、声で守れる。
そう信じられる夜だった。
◇
朝の白樺亭。湯気の上に光がさす。
マルタが粥をよそいながら言った。
「今日は学校と御者宿で読み合わせだろ。声は落ち着いてね」
「はい。長くは話しません」
クロは椀の縁に鼻を寄せ、舌でそっと味見してから前足をそろえた。
「きょう、こども、よむ?」
「読むよ。クロの“あるく”も頼む」
「まかせて」
角の果物屋。フィオナが小瓶を二本、色で見分けて渡す。
「薄めが君、塩なしが猫さん。――昨日の“外套の二人”、旅籠に荷も下ろさず出たり入ったりしてたって噂だよ」
「気を付けます」
「気に入らない人は、札の角を見てくる。倒し方や結びをね。そこだけ、よく見ておきな」
◆
学校の中庭。柵の内側に子どもが並ぶ。先生が掲示の前に立ち、俺に視線で合図をくれた。
「今日は短く、二つだけ」
まず、白い線を見たらどうするか。
掲示の一行を指でなぞり、ゆっくり読む。
「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」
子どもたちが声をそろえる。
「みたら、みぎよって、あるきます」
クロが前に出て、胸の前で前足を一度そろえた。
「あるく」
笑いが起きて、緊張がとける。
もう一つ。“砂糖遊びは紙で”の件。
先生が白紙を配り、俺は地面の近くにしゃがんで言う。
「地面は道。紙は遊び場。今日は“にゃ”を書いてみよう」
「にゃ」が増えていく。指に粉はつかない。
最後に先生が小声で言う。
「昼にも読みます。――ありがとう」
「こちらこそ」
門へ出ると、外套の女が遠回りに学校の塀を見ているのがちらりと見えた。
追わない。そう決めている。代わりに、こちらから“見せる”。
イリアが太い字で書いた携帯札を、塀の内側に一枚追加した。
――白い線を見たら、右に寄って歩く。遊ぶのは紙。
塀の影で、クロが俺の足に額をこつんと当てる。
「みてた。あのひと、むすび、みてた」
「うん。こっちは角を二つ、外へ倒しておく」
結びはほどけにくく、でも外す時は速い向きに。
◆
御者宿。表の梁の掲示は無事。裏手の柱の絵札も残っている。
若い御者が二人、昨日より大きな声で復唱していた。
「右によって、歩く!」
「よし」親父さんが親指を立てる。「猫さん、今日も合図を」
クロは柱の影からすっと出て、前足をそろえる。
「あるく」
馬が鼻を上げ、御者が笑う。
「覚えやすい。言いやすい。大事だな」
その時、裏の樋の陰で小さな袋が光った。
ミーナが先に気づき、布越しに拾い上げる。口は雑な結び。甘い匂い。
「落とし物に見せた置き物」
「札の横に出されやすい。――提出に回そう」
親父さんが眉をひそめる。
「ここに置かれるのは気持ち悪い。掲示の横に“見つけたら触らず声を”って一行、足せるか」
「足します」
◆
関所アルダ。昼前の短報。
セルジオは帳面を開き、俺たちの言葉をまとめる。
「学校は読み声が増えた。御者宿は合図が定着。――砂糖袋を一つ拾得。口は雑。匂いは薄い。提出物として預かる」
「お願いします。結びは写真写しします」
セルジオは赤チョークで“声”の欄に小さな丸を足した。
「声が先に出ると、手が遅れる。今日はそれでいい。――午後、広場と市場を一度見て、夕方にもう一回、学校の前で読むといい」
塔影を出るとき、クロが足を止めてじっと空を見た。
「かぜ、かわる」
本当に、細い風向きが変わっていた。匂いの筋も。
「ありがとう。水を少し飲んでいこう」
「のむ」
◆
広場。水飲み場の石に、薄い指跡がひとつ。
布で押さえて拭き、掲示の端を軽く撫でる。
子どもが二人、また読んだ。
「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」
通りがかりの年配が続ける。
「『遊ぶのは紙の上』」
声が二つ三つ重なると、周りの歩幅がそろうのがわかる。
市場の角。干し草の陰は人が集まりやすい。
露店の女将が掲示を指で叩いて聞いてきた。
「“右によって歩く”はわかったけど、荷車は?」
「同じです。列の外に出るときだけ、手で合図を足してください」
女将はすぐ覚え、隣の若い衆にも教えた。
「手は顔の高さ。短く、はっきり」
「はい」
そこへ、外套の若者がひょいと現れて掲示をのぞき込む。
今度は札の角ではなく、字の並びを見ている。
「読みやすいな。余白が多い」
「子どもが読むからです」
「……なるほど」
若者は短く笑って、そのまま人混みに消えた。
クロがぴたりと足を止め、俺の裾をちょい、と引く。
「いまのひと、におい、かわった」
「へえ」
「きのうは、すっぱい。きょうは、からい」
妙な言い方だが、クロの中では確かな違いなのだろう。覚えておく。
◆
午後の学校前。
午前と同じ二行を、今度は子どもが先に読む。
先生が「いいね」と笑って、最後に一言足した。
「『道に甘いものを見つけたら、大人を呼ぶ』」
声がそろう。
読み終わったあと、ひとりの子が手を上げた。
「ねこさん、どうして“あるく”なの?」
クロはしばらく考えてから、真顔で答えた。
「はしると、こける」
みんな笑ったが、先生はまじめにうなずいた。
「大事な答え。――転ばないことは、遠回りじゃない」
帰りがけ、塀の外の露地に白い点々。
布で拭き、石を一つだけ置いて“ここを歩いて”と示す。
外套の女が角の陰からこちらを見ていた。
目が合う。
彼女は何も言わず、フードのひさしを一度だけ指で直して、路地の奥へ消えた。
置き土産はない。今日は“見るだけ”の日だったのだろう。
◆
夕暮れ。関所で締め。
セルジオは札の裏に小さな印を押し、短く言う。
「声が先。――それで人はそろう。明日の朝は御者宿から始めろ。動く前に口を合わせる」
「了解」
ギルドへ戻ると、ミレイユが写しの束を三つに分けてくれた。
街/路地/学校。
「“外套の二人”は、旅籠の名を二つ使い分けてた。気づいたら事務へ。君らは追わないで」
「任せます」
クロは机の下から顔を出し、ふいっとあくび。
「ねむい」
「もうすぐ終わる」
白樺亭。
リナが椀を置いて、クロの額を指でそっと撫でる。
「今日も“あるく”言えた?」
「いった」
「えらい」
クロは得意そうに、椀のふちをちょい、と前足で叩く。
粥は薄く、あたたかい。体が落ち着く。
部屋で道具を整える。
携帯札の束は三種に分け、紐の向きをそろえる。
拾得した砂糖袋の写しは、結びの癖がわかるよう角度をつけて描いた。
窓を少し開けると、どこかで掲示を読む声が一度だけ聞こえた。
クロが胸の上に丸くなり、左前足の黒い点を軽く当てる。
「アキラ。あした、ぼく、はやく、あるく」
「俺は短く、読む」
「うん」
街は静かだった。
今日は“読む側”が勝った。
明日も、そうなるように。
◇
朝の白樺亭。湯気の上に光がさす。
マルタが粥をよそいながら言った。
「今日は学校と御者宿で読み合わせだろ。声は落ち着いてね」
「はい。長くは話しません」
クロは椀の縁に鼻を寄せ、舌でそっと味見してから前足をそろえた。
「きょう、こども、よむ?」
「読むよ。クロの“あるく”も頼む」
「まかせて」
角の果物屋。フィオナが小瓶を二本、色で見分けて渡す。
「薄めが君、塩なしが猫さん。――昨日の“外套の二人”、旅籠に荷も下ろさず出たり入ったりしてたって噂だよ」
「気を付けます」
「気に入らない人は、札の角を見てくる。倒し方や結びをね。そこだけ、よく見ておきな」
◆
学校の中庭。柵の内側に子どもが並ぶ。先生が掲示の前に立ち、俺に視線で合図をくれた。
「今日は短く、二つだけ」
まず、白い線を見たらどうするか。
掲示の一行を指でなぞり、ゆっくり読む。
「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」
子どもたちが声をそろえる。
「みたら、みぎよって、あるきます」
クロが前に出て、胸の前で前足を一度そろえた。
「あるく」
笑いが起きて、緊張がとける。
もう一つ。“砂糖遊びは紙で”の件。
先生が白紙を配り、俺は地面の近くにしゃがんで言う。
「地面は道。紙は遊び場。今日は“にゃ”を書いてみよう」
「にゃ」が増えていく。指に粉はつかない。
最後に先生が小声で言う。
「昼にも読みます。――ありがとう」
「こちらこそ」
門へ出ると、外套の女が遠回りに学校の塀を見ているのがちらりと見えた。
追わない。そう決めている。代わりに、こちらから“見せる”。
イリアが太い字で書いた携帯札を、塀の内側に一枚追加した。
――白い線を見たら、右に寄って歩く。遊ぶのは紙。
塀の影で、クロが俺の足に額をこつんと当てる。
「みてた。あのひと、むすび、みてた」
「うん。こっちは角を二つ、外へ倒しておく」
結びはほどけにくく、でも外す時は速い向きに。
◆
御者宿。表の梁の掲示は無事。裏手の柱の絵札も残っている。
若い御者が二人、昨日より大きな声で復唱していた。
「右によって、歩く!」
「よし」親父さんが親指を立てる。「猫さん、今日も合図を」
クロは柱の影からすっと出て、前足をそろえる。
「あるく」
馬が鼻を上げ、御者が笑う。
「覚えやすい。言いやすい。大事だな」
その時、裏の樋の陰で小さな袋が光った。
ミーナが先に気づき、布越しに拾い上げる。口は雑な結び。甘い匂い。
「落とし物に見せた置き物」
「札の横に出されやすい。――提出に回そう」
親父さんが眉をひそめる。
「ここに置かれるのは気持ち悪い。掲示の横に“見つけたら触らず声を”って一行、足せるか」
「足します」
◆
関所アルダ。昼前の短報。
セルジオは帳面を開き、俺たちの言葉をまとめる。
「学校は読み声が増えた。御者宿は合図が定着。――砂糖袋を一つ拾得。口は雑。匂いは薄い。提出物として預かる」
「お願いします。結びは写真写しします」
セルジオは赤チョークで“声”の欄に小さな丸を足した。
「声が先に出ると、手が遅れる。今日はそれでいい。――午後、広場と市場を一度見て、夕方にもう一回、学校の前で読むといい」
塔影を出るとき、クロが足を止めてじっと空を見た。
「かぜ、かわる」
本当に、細い風向きが変わっていた。匂いの筋も。
「ありがとう。水を少し飲んでいこう」
「のむ」
◆
広場。水飲み場の石に、薄い指跡がひとつ。
布で押さえて拭き、掲示の端を軽く撫でる。
子どもが二人、また読んだ。
「『白い線を見たら、右によって、歩きます』」
通りがかりの年配が続ける。
「『遊ぶのは紙の上』」
声が二つ三つ重なると、周りの歩幅がそろうのがわかる。
市場の角。干し草の陰は人が集まりやすい。
露店の女将が掲示を指で叩いて聞いてきた。
「“右によって歩く”はわかったけど、荷車は?」
「同じです。列の外に出るときだけ、手で合図を足してください」
女将はすぐ覚え、隣の若い衆にも教えた。
「手は顔の高さ。短く、はっきり」
「はい」
そこへ、外套の若者がひょいと現れて掲示をのぞき込む。
今度は札の角ではなく、字の並びを見ている。
「読みやすいな。余白が多い」
「子どもが読むからです」
「……なるほど」
若者は短く笑って、そのまま人混みに消えた。
クロがぴたりと足を止め、俺の裾をちょい、と引く。
「いまのひと、におい、かわった」
「へえ」
「きのうは、すっぱい。きょうは、からい」
妙な言い方だが、クロの中では確かな違いなのだろう。覚えておく。
◆
午後の学校前。
午前と同じ二行を、今度は子どもが先に読む。
先生が「いいね」と笑って、最後に一言足した。
「『道に甘いものを見つけたら、大人を呼ぶ』」
声がそろう。
読み終わったあと、ひとりの子が手を上げた。
「ねこさん、どうして“あるく”なの?」
クロはしばらく考えてから、真顔で答えた。
「はしると、こける」
みんな笑ったが、先生はまじめにうなずいた。
「大事な答え。――転ばないことは、遠回りじゃない」
帰りがけ、塀の外の露地に白い点々。
布で拭き、石を一つだけ置いて“ここを歩いて”と示す。
外套の女が角の陰からこちらを見ていた。
目が合う。
彼女は何も言わず、フードのひさしを一度だけ指で直して、路地の奥へ消えた。
置き土産はない。今日は“見るだけ”の日だったのだろう。
◆
夕暮れ。関所で締め。
セルジオは札の裏に小さな印を押し、短く言う。
「声が先。――それで人はそろう。明日の朝は御者宿から始めろ。動く前に口を合わせる」
「了解」
ギルドへ戻ると、ミレイユが写しの束を三つに分けてくれた。
街/路地/学校。
「“外套の二人”は、旅籠の名を二つ使い分けてた。気づいたら事務へ。君らは追わないで」
「任せます」
クロは机の下から顔を出し、ふいっとあくび。
「ねむい」
「もうすぐ終わる」
白樺亭。
リナが椀を置いて、クロの額を指でそっと撫でる。
「今日も“あるく”言えた?」
「いった」
「えらい」
クロは得意そうに、椀のふちをちょい、と前足で叩く。
粥は薄く、あたたかい。体が落ち着く。
部屋で道具を整える。
携帯札の束は三種に分け、紐の向きをそろえる。
拾得した砂糖袋の写しは、結びの癖がわかるよう角度をつけて描いた。
窓を少し開けると、どこかで掲示を読む声が一度だけ聞こえた。
クロが胸の上に丸くなり、左前足の黒い点を軽く当てる。
「アキラ。あした、ぼく、はやく、あるく」
「俺は短く、読む」
「うん」
街は静かだった。
今日は“読む側”が勝った。
明日も、そうなるように。
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