第7話 「扉の裏側」
朝の白樺亭は湯気でやわらかい。
マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べる。
「今日は倉庫の“内側”に札を付けるんだって?」
「はい。昨日の斜線、扉の外だけじゃ終わらないと思うので」
クロは椅子で前足をそろえ、湯気に鼻先を近づける。熱い匂いがくすぐったいのか、くしゅんと小さくくしゃみ。
「……あったかい」
「冷ましてからな」
小さくちぎって皿に置くと、前歯で慎重に食べる。舌が少しだけのぞいた。
角の果物屋に寄ると、フィオナが瓶の口を布で拭いて渡してくれた。
「薄め一本、猫さんは塩なし。――昨日の“紙に書く”の札、子どもが指でなぞって読んでたよ」
「広場にも増やします。内側にも同じ言葉を貼るつもりです」
「いいね。紙紐は二結びで。はい、余りも持ってきな」
クロが瓶に鼻先を寄せる。
「すっぱい。すこし」
「ひと口だけな」
舌でちょん、と味を確かめて満足そうに瞬きをした。
鍛冶通り。フーゴは砥石を洗い、俺の棒の革キャップを指で弾く。
「乾き良し。扉の内側に付けるなら、紙釘は短いのがいい。抜き跡が目立たない」
「助かります」
「紐は噛むな」
「かまない」クロが即答して、胸を張る。
フーゴは笑って、紙釘と小さな木槌を包んでくれた。
ギルドの受付では、ミレイユが薄紙の束を三つに分けて待っていた。
「“内側札”は文をそろえる。――『粉は紙へ/見たら事務へ/扉は勝手に開けない』。字は大きく、絵も付ける」
イリアが炭筆を握り、ぱっと手元の札に小さな絵を描く。白い小丸と扉の絵。
ハーゲンは位置を指でなぞった。
「午前は倉庫筋の北側を一列、午後に南側。俺とアキラ、サビーネとミーナは対角で動く。合図は短く。追わない」
白ローブのセレナが顔を出し、俺の喉に視線だけ落とす。
「水は一口ずつ。息を先に吐いてから声。猫さんは日なたに長く置かない」
「のむ」
クロは真剣な顔でうなずいた。
◆
一本目の倉庫は粉屋組の番。その扉の裏、目線の少し上に札を一枚。
「見えやすい位置だな」番頭が腕を組む。「外の斜線は夜のうちに誰かが引いてった。中は初めてだ」
「外は拭き取ります。中は記録だけ。――匂いが残っていたら、布で少しだけ」
クロが扉の端を前足でちょん、と突いた。木の合わせ目。
鼻を寄せると、甘い匂いがわずかに混じる。
「ここ、粉がかすかに入ってます」
番頭が眉を寄せた。
「扉の合わせか……気味が悪いね。拭いてくれ」
布で軽くぬぐい、薄紙に日付と場所を記す。提出は夜のまとめでいい。
二つ目の倉庫。布屋の扉は古く、鉄のはしごが内側に立てかけてあった。
ミーナが札の位置を測り、俺は紙釘を二本だけ。
サビーネは半歩うしろで横を見る。矢は抜かない。
「線、通ってる」
クロは足裏の肉球で床をこつんと鳴らし、「ここ」と示した。視線の先、木箱の合わせ目に白い粉が細く入っている。
番頭が箱を開ける。中身は布。粉は上の板だけに薄く付いていた。
「箱の“印”にしてる?」
「そう見えます。外から分かるように」
イリアが絵で記録を残す。扉と箱、斜線の向き。
三つ目の倉庫に向かう途中、通路の端で小さな影がしゃがみ込んだ。
少年だ。扉の下の隙間に、紙紐の輪をそっと差し込もうとしている。
クロが小走りに近づいて、輪の先に前足をのせた。
「にゃ」
少年はびくりとして手を引く。
俺は走らずに距離だけ詰め、しゃがんで視線を合わせた。
「その輪、何に使うの?」
少年の目が泳ぐ。手の甲がうっすら灰色に汚れている。
「……置いとけって言われた。扉の下に通して、結び目を中に引っ張れって。銅一」
「誰に?」
「知らない人。……手袋、灰で汚れてた」
サビーネが周囲の視線を払うように一歩ふさぎ、ハーゲンは声を低くした。
「近くの衛兵を呼ぶ。少年はこの場に座って待て。指一本も動かすなって意味じゃない。逃げるな、だ」
少年はこくこくとうなずき、クロのしっぽを目で追いながら大人しく座った。
ランベルトがすぐ来て、事情を聞く。
「『灰の指』って言ってたか?」
「……うん。そう聞こえた」
ランベルトが短く息をついて、少年に水を渡す。
「手を洗え。今日は帰って寝ろ。明日、詰所へ来い」
少年は小さく「はい」と言って、指をこすり合わせながら去っていった。
クロがその場をくんくん嗅いでから、俺の靴に鼻先を当てる。
「におい、にがい」
「灰と油だな。覚えておこう」
昼前、北側の列がひと区切りついた。
ギルドに戻り、ミレイユの机で薄紙を広げる。
イリアが描いた扉と斜線の地図に、点が少しずつ増えていく。
「外から“扉→箱”へ、印の置き場が移ってる。誰かが中へ届く手を持ってるってことだね」
「鍵の貸し借りか、隙間からの合図か……。午後は鍵の管理が緩い倉庫に絞ります」
ハーゲンがうなずく。
「衛兵にも紙を回す。『灰の指』の文言は書き過ぎない。広げるなら“手袋が灰で汚れていた”までだ」
「了解」
セレナが奥から顔を出し、小さな茶を差し出した。
「喉は使えてる。息を先に吐くの、忘れてないね。猫さんも一口」
「のむ」
クロは器用に舌で掬い、飲み終わると俺の肘に額をこつんと当てた。
「おつきあい、ありがとう」
返事の代わりに、喉の奥で小さく鳴いた。
午後は南側だ。扉の裏に札を一枚ずつ。
中に“印”があるかどうかは、まず匂いで探す。
焦らないで、順に。
クロは先へ飛び出さない。角で止まって、ひげで空気を測る。
あの仕草が一番頼りになる。
◇
南側の倉庫筋に入ると、午前より人の気配が少なかった。昼の仕込みが終わり、荷さばきがひと段落した時間帯だ。
空気が乾いている。木箱同士がこすれる音が遠くに一度だけ響く。
「ここから三つ、扉の内側に札を付けていく。イリア、字は大きく。ミーナ、紙釘。サビーネは見張り」
ハーゲンの声で手が動く。
最初は麻糸屋。扉の蝶番が重く、内側の柱に古い釘の跡が並んでいる。
札の位置を決めて釘を打つあいだ、クロが床をすんすん嗅いで回った。角材の隙間でぴたりと止まり、前足でちいさくちょん、と示す。
「ここ、粉の匂い」
鼻先を寄せると、確かに甘い匂いがわずかに残っている。
番頭の顔が固くなる。
「箱の外に甘いのを塗られたのは前にあったが、中は初めてだ」
「いまは薄いです。布で拭っておきます。――鍵の貸し出し帳、後で写しを一枚いただけますか」
「分かった。表で用意する」
次は油紙屋。扉の内側に低い棚。そこにも札を一枚。
札を貼り終えたところで、外からゆっくりした足音が近づいた。灰をはたいたような色の手袋が、扉の隙間からのぞく。
ハーゲンが扉に手を添えたまま、静かに開ける角度を変えた。
入ってきたのは、背の低い若い男。袋を二つ提げ、視線は落ち着かない。
「納品で……」
「伝票は?」
ミーナの問いに、男は言葉を濁して袋を差し出す。
袋の口は二重紐のはずだが、結びが妙に浅い。
俺は布越しに口元を押さえ、紐を外して中を確かめた。油紙の端に、白い粉が薄く付いている。
「中身は油紙。粉は外側にだけ。――どこで袋に触りましたか」
「今朝。倉庫の……前で」
言いながら、男は無意識に手袋を握りしめた。指の関節に灰色の粉が落ちる。
サビーネが扉の外に視線を流して、短く首を振る。
「後ろは静か」
ハーゲンが男に向き直る。
「詰所へ行こう。君の話を紙にしておいたほうがいい。荷は預かる。ここで押し合いはしない」
男は観念したように肩を落とし、うなずいた。
クロがちらりと俺を見上げる。
「おこらない?」
「怒らない。話すだけだ」
その次の倉庫へ向かう途中、壁際に古い木箱が三つ積んであった。上の板に、短い斜線が四本。
イリアが炭筆で写しを取り、俺は指で軽くこすると、灰の粉が薄くついた。
「目印だね。『ここから』の線だ」
ミーナが周囲に目を走らせる。
「この斜線、扉の外にも同じ向きであったやつと揃ってる」
「外で足を止めさせて、中で箱を選ばせる。そういう手順か」
ハーゲンが顎に手を当て、扉の内側に貼った札を指す。
「“粉は紙へ/見たら事務へ/扉は勝手に開けない”。――文字は増やさないで、場所を増やそう」
イリアが頷き、同じ札を二枚、棚の別段にも貼った。
三つ目の倉庫は、穀物組合の小分室。番台にいた女性が、俺たちの札を見て安心した顔になる。
「市場で『紙に書く』って札を見てから、子どもが道に書かなくなったの。――中もお願いします」
札を貼り、内側の床を軽く拭いてから出る。
クロが戸口で一度だけ伸びをして、そっとあくびを噛み殺した。前足がふにゃっと伸びて、肉球が丸見えになる。
「眠い?」
「すこし。ねない」
「じゃあ、外で風に当たってて」
ベンチの脚に尻尾をくるりと巻きつけて座る。瞼は半分だが耳は起きている。見張りのつもりなのだろう。
四つ目は、問題の“鍵が緩い”倉庫だった。
番頭は悪い人ではないが、帳面の管理が雑だ。
「貸し鍵の数が合わない日がある、と?」
「倉庫を回すのに手が足りなくてね。昼に一度、合うけど、夕方に一本どこかへ遊びに出る」
ハーゲンが鍵束を受け取り、一本ずつ番号と刻印を確認する。
俺は扉の金具を見た。外から差す鍵の爪は健在だが、内側の掛け金に遊びがある。
「ここ、金具の穴が広がっています。板で受けを作って、遊びを消したほうがいい」
「今からできるかい?」
「匠の仕事じゃないので仮で。――フーゴのところで板を借りてきます」
ギルドに戻るより早い。鍛冶通りは倉庫筋のすぐ脇だ。
俺とミーナで走らず足早に向かい、端材を二枚、細釘と一緒に借りた。
戻って、穴の遊びを端材で塞ぐ。釘は浅く。
番頭がほっと息を吐く。
「夜番に自慢するよ」
そのとき、裏手の路地で布が擦れる音。
サビーネが視線だけ外へ流す。
灰色の手袋の男が二人、通りをはさむように立っていた。片方が小さな棒を手にしている。
ハーゲンが扉枠を押さえ、短く言う。
「ここは開けない。表へ回る」
正面に出ると、男たちはもういない。
ブラケットの上に白い点々。風向きで集まったのか、粉が点で残っていた。
クロが鼻先を寄せて、すぐに離す。
「すこし。あまい」
布で拭い、粉は紙包みにあずけておく。
イリアが写しの端に小さく丸を打った。
「“灰の指”、早くも反応したね」
「ここで動かないほうがいい。扉の内側が整えば、向こうが慌てる」
ハーゲンの判断はいつも通り冷静だ。
南側最後の倉庫は、香辛料屋の共同庫。
香りが強いので粉の匂いは分かりにくい。
クロに頼ると、彼は木箱の影に顔を突っ込んで、くしゅくしゅと鼻を動かした。
「ここ、あまい、ちがう。――からい」
「胡椒だね。ありがとう」
札を貼って外に出ると、夕方の光が斜めになっていた。
◆
関所の詰所で短い報告。
ランベルトが帳面を見ながら、灰色の手袋の話を聞き、顎を引く。
「“灰の指”は耳に入ってる。――子どもに輪を通させる真似は、見過ごせないな」
「明日の朝、鍵の写しと一緒に、外側の斜線の写しも持ってきます。内と外の向きが揃っている場所が二つありました」
「受ける」
ギルドに戻ると、ミレイユが机の上を片づけ、薄紙の束を受け取って並べ始めた。
「“扉の内側”の札が効き始めると、派手なことは減る。そのぶん、目立たない印が増える。――写しの欄を増やすね。『外の斜線→内の印→鍵の帳』の三段」
セレナが湯気の立つ小瓶を持ってきて、俺とクロに一口ずつくれた。
「今日はよく歩いたから、温かいのを先。猫さんは香りだけ」
「のむ」
クロは律儀に鼻先だけ近づけて、満足げに目を細める。
イリアが笑って、クロの額を指で軽く撫でた。
「頑張ったね、監視役さん」
クロは得意そうに胸を張り、尻尾をまっすぐにした。先っぽが小さく揺れる。
鍛冶通りに寄って、フーゴへ端材のお礼を言うと、彼は革キャップを軽く叩いて返してくれた。
「板の受け、効いたろ。――扉は中から固めるのが早い。外だけ強くしても、こじ開けられる」
「今日は中に札を増やしました。鍵の帳を写して、向きの合う斜線を追います」
「それでいい。道具で間を埋めろ」
白樺亭に戻ると、マルタが帳場を指で叩いた。
「顔つきが仕事の顔だ。粥をいつもより少し多めにしといたよ。猫さんのは塩抜き」
「助かります」
クロは椅子に飛び乗ると、前足をそろえて「おすわり」の姿勢で待つ。尾が椅子の足にからんで、先が小さくうねった。
リナが笑って小皿を置く。
「クロ、えらい」
「えらい」
自分で言ってから、恥ずかしくなったのか、耳が少し倒れた。可愛い。
食後、二階の部屋で今日の控えを並べ直す。
外の斜線の向き。扉の内側の印。鍵の貸し出しの穴。
重ねて見ていくと、三つだけ線が一直線にそろう場所が出てきた。
「ここが“通り道”だ」
イリアが炭筆で丸を付け、ミーナが小さく頷く。
「明日の朝、ここから回ろう。開け閉めの音も聞いておきたい」
ハーゲンは短くまとめた。
「衛兵には“輪”の話と、鍵の写し。――追い込みは急がない。札と帳で固めて、向こうに動かせ」
考えは同じだった。走らない。焦らない。目印を消して、言葉を増やす。
灯りを落とす前、クロが胸の上にのって、左前足の黒い点を俺の腕にちょんと押しつけた。
「アキラ。あした、どこ?」
「南の三つ。扉の音と、鍵の穴」
「ぼく、きく。ちいさいおと」
「頼む」
小さく喉を鳴らして、丸くなる。尻尾の先が指に当たって、くすぐったい。
深呼吸をひとつ。
明日は、扉の裏でつながる線を切る。
◇
翌朝の空は淡い灰色。湿り気のある風が倉庫筋をまっすぐ抜けていく。
俺たちは昨夜の写しで丸を付けた三点を、地図どおりの順にはしごした。鍵穴の高さ、蝶番の古さ、扉材の鳴り――細かい差をひとつずつ確かめる。
一本目。麻糸屋の横手。
扉に耳を寄せると、内側で金具がわずかに触れ合う小さな音。開け閉めの音ではない。遊びのある掛け金が、風で揺れている。
「昨日の受け板は効いてる。……でも、ここは鍵穴の口が乾きすぎ」
フーゴにもらった薄油を、綿に含ませてほんの少しだけ塗る。鍵の回りは軽くなるが、外側からの細工は逆に難しくなる。
番頭を呼び、貸し鍵帳の写しを並べた。
「昼に合って、夕方に一本“遊び”。ここ二日続けて同じ番号ですね」
「その番号、よそ見番の若いのがよく使う」
名前をメモに落とす。責める口調にはしない。後で詰所に渡す紙が、いちばん効く。
クロが床鼻をすんすんたどって、戸口に戻った。
上目づかいで俺を見上げ、前足で“ちょい、ちょい”。
「外」
「外を見ろってこと?」
「うん」
戸外の敷石に、白い点がふたつだけ。昨日より薄い。布で拭い、紙包みに移す。クロは満足げに尻尾を立てた。先がぴこぴこ揺れて、見ているこっちの頬が緩む。
二本目。斜線の向きが内と外で揃っていた油紙屋。
今日は扉を開ける前に、内側の空気を少しだけ動かした。
掌に集めた“微風”を指先でほどいて、床に薄くかける。舞い上がった埃が、棚の手前で不自然に途切れた。
そこに足先の跡。靴底が細い。昨日の若い納品人のサイズとは違う。
棚の陰から、灰色の手袋がちらと動いた。
目が合う。
相手は扉の外へさっと退き、通りの人波に紛れようとする。
サビーネが扉際から視線を送ると、男は肩をすくめてさらに速度を落とした。走らせない。
俺は追わず、棚の角に残った指の粉だけを紙に取る。
「形は昨日と同じ。――“灰の指”の印」
イリアが写しに印を加え、ミーナが扉の内側に札をもう一枚。
『粉は紙へ/見たら事務へ/扉は勝手に開けない』
字を少し大きくしただけなのに、部屋の表情が締まる。中で働く人の視線が、札の場所で一度止まるからだ。
三本目。穀物の小分室。
貸し鍵帳は整っているが、合鍵の“仮渡し欄”にすき間があった。
「ここ、印が薄い日がある。誰が押したか分からなくなる」
番台の女性が眉を寄せる。
「印泥を変えましょう。色を二種類にして、午前は赤、午後は青。押した手の色で混同しない」
ミーナが薄い布で印面を拭き、俺は赤と青の印泥を置いた。
「今日からでいいですか」
「もちろん」
女性は胸をなで下ろし、札を指さした。
「それと、内側の札、子どもにも見せます。外から覗く子がいるから」
いったん関所へ。
ランベルトに貸し鍵帳の写し三枚と、粉の小包み二つを渡す。
「“遊び”の番号、こちらで照合する。鍵の返却締切を一刻早める告知を張るか?」
「お願いします。返しに来た人の動きが分かります」
「詰所の前に札を出す。衛兵の立ち位置も変えよう」
彼は外出簿の横に短い紙を挟んだ。
〈貸し鍵返却:刻五→刻四に前倒し(本日のみ)〉
来るなら今だ――という札で、向こうに“動いてもらう”。
掲示が出て半刻ほど。
倉庫筋の角で、昨夜見た若い納品人がうろうろしていた。手には鍵束。
俺が声をかけると、彼はびくっと肩を上げた。
「返しに来た。……遅い?」
「間に合います。詰所へ一緒に行きましょう」
歩きながら、彼はぽつぽつ話した。
「“粉を運べ”って言われた。断ると、昼の仕事を外すって。怖くて」
脅しだ。
詰所でランベルトが帳面を照合し、別の衛兵が彼に温い麦茶を渡す。
俺は紙に短く書いて、彼の前に置いた。
『粉は危ない。次に声をかけられたら、門へ来る。あなたのせいにしない』
彼は何度も頷き、鍵束を台に置いた。手が震えていたが、顔は少し楽になっていた。
夕方近く。
油紙屋の裏手、井戸の側の木箱に、細い穴が一つ開いていた。覗くと、中に小さな紙包み。
棒の先でそっと引き寄せ、布をあてて持ち上げる。甘い匂い。
「ここが“受け”だ」
ミーナが周囲の足跡を見て、つぶやく。
「二人。片方は細靴、もう片方は厚い底」
サビーネは通りの角を見張りながら、矢を抜かない。視線だけが鋭い。
俺は拾い上げた紙包みを封じ、関所の紙袋に回す印を押す。
これで「ここで待っても成果はない」という印象を、向こうに残せる。
戻る道すがら、香辛料屋の札の前で、子どもが二人、指を伸ばしかけて止めていた。
クロがとことこ近づいて、鼻を紙にくん、と寄せる。
「かみ。ここ、かく」
イリアが白紙を二枚渡す。
「“にゃ”は紙へ。こっちは自由だよ」
子どもは照れ笑いして、白紙に“にゃ”を書いた。
クロはそれを覗き込んで、満足そうに喉を鳴らす。前足の肉球が紙の端にちょいと乗って、うっすら跡が残った。
「足跡サイン?」
「サイン」
得意げな顔が可笑しくて、みんな少し笑った。
夕刻、ギルドで小さな総括。
ミレイユが札と写しを並べ、欄外に赤い点を三つ打つ。
「鍵返却の前倒し、効いた。――“受け箱”は詰所経由で押収。明日は“渡し役”の影を追うより、印を消すのを優先しよう。相手が焦るほど、手元の線が乱れる」
ハーゲンが頷く。
「外側の斜線を洗い直す。内側の札は増設。貸し鍵帳は朝と夕に写し」
セレナは喉飴を一つ、俺にだけ押しつけた。
「今日は声を出す場面が多かった。夜は温かいものを飲んで寝る」
「はい」
クロは皿の水をひと舐めして、ぱっと顔を上げる。
「ぼく、みはり、じょうず」
「ほんと。助かった」
額を指でこつんと触ると、耳がぱたぱた揺れた。
窓の外は薄紫。倉庫筋の影が長い。
明日は、残った斜線を消していく。
道具も言葉も足りている。
急がない。けれど、迷わない。
◇
翌朝。白樺亭の台所は湯気で白く、パンの香りが静かに広がっていた。
マルタが鍋を回し、リナが皿を配る。クロは椅子の上で前足をそろえ、鼻だけ近づけて匂いを確かめる。
「熱いよ」
小さくちぎって皿に置くと、前歯でそっとかじった。口元に粥の粒がつく。リナが布で拭うと、クロは「にゃ」とだけ言って、得意げに尻尾を立てた。
今日の段取りは二つ。
一つは、倉庫筋の残りの“斜線”を洗い直すこと。
もう一つは、昨夕見つけた“受け箱”の動きを確かめることだ。今度は中身を入れない。代わりに、皮膚に残る藍の粉を紙包みに薄く仕込む。掴めば指先が青く染まる。水ではすぐ落ちない量にとどめる。
ギルドで顔合わせ。
ミレイユが、昨日の写しに赤い印を三つ重ねてから言った。
「箱は詰所の見える範囲に置き換えた。中身はなし。藍だけ。拾う手を見つけたら、名前を詰所に渡す。追いかけ回さない」
ハーゲンが頷く。
「俺とサビーネが少し離れて見る。アキラとミーナは扉の写しを続けて。イリアは時刻のメモを詰所へ回す」
セレナは喉当ての薄布を二枚くれた。
「声を出す場面は短くていい。乾きそうなら一口だけ飲んで」
「ありがとう」
倉庫筋。朝の光で石畳が乾き始めている。
まずは昨日印を付けた扉をもう一周。取っ手の高さ、鍵穴の口、蝶番の粉。変わりはない。
クロは背伸びして、戸口の匂いをひとつずつ確かめる。気に入らない匂いがすると、前足の先で「ちょい」と扉の下を叩いて教えてくれる。
「ここ?」
「ここ」
覗くと、鍵穴の周りにごく薄い粉。布で拭き取り、紙に移す。甘い匂いは昨日より弱い。
昼前、油紙屋の裏手。昨日の“受け箱”を詰所側の視界に入る位置へずらしておいた。
箱の口は、外から見ればただの節穴に見える。藍の粉入りの紙包みがひとつ。
ハーゲンとサビーネは通りの向こう側、露地の影から、往来に混じって流れを見ている。俺とミーナは表通りで札の差し替え。イリアは関所へ、時刻の紙を届けに行った。
半刻も経たないうちに、クロが耳をぴんと立てた。
尻尾が小さく上下する。目線の先、帽子を深くかぶった若い男が、誰にも触れないように人の流れから半歩だけ外れ、箱の前でしゃがんだ。
手袋は指の先が出ている。指が節穴へすべっていく。
藍の粉が、ごくわずか舞い上がるのが見えた。
男は紙包みをつまむ動作までして――空だと気づき、わずかに肩が上がった。
すぐ立ち上がって背を向ける。歩幅だけ速い。走り出すほどではない。
ミーナが小声で知らせる。
「青、付いた」
確かに、右手の指先が薄く染まっている。
サビーネが通りの向こうから合図を返し、ハーゲンが歩く人と同じ速さで前に回り込む。
俺は男のすぐ横を歩きながら、視線を手の甲に落とした。
「これ、落ちにくい色だよ。詰所で落とす薬をもらえる。話はそこで」
声は低く短く。責める調子は混ぜない。
男は振り向かなかった。代わりに、掌から小さな玉を石畳に落とした。
ぱん、と軽い音。甘い匂いの煙が白く立つ。
クロがくるりと俺の足元に回り込み、尾を上げて少し膨らむ。
煙は薄い。風は通りの向きに沿って流れている。
俺は手のひらを上げ、空気をわずかに持ち上げた。煙の層が肩の高さでほどけ、視界が抜ける。
男は薄い煙幕に紛れようとしたが、ハーゲンが一歩先で道を塞ぐ。サビーネは矢を抜かず、ただ視線で角へ誘導した。
走る気配は消えた。
男は諦めたのか、手を広げて見せた。指先が青い。
詰所へ行こう、とだけ言い、関所の塔影へ向かう。
詰所の前。ランベルトが帳面を開き、椅子を一つ引いた。
「座ってから話そう。色はすぐ落ちるわけじゃない。落とす薬はここにある」
男はうなずき、肩の力がわずかに抜けた。
名前と勤め先、依頼された言葉の筋。脅しの文句。受け渡しの合図。
全部が一度に出てくるわけじゃない。水で唇を湿らせ、少し間を置きながら。
俺は紙に要点だけ短く書き、本人の許しを得て署名の横に“藍の印”をひとつ押した。
「この紙は、あなたを罰するためじゃない。脅した側の線を辿るために使う。返却の締切を前倒ししたのは、今日だけだ。反応を見たかった」
男はうなずき、最後に小さく言った。
「もう、関わりたくない」
「では、ここで終わりにしよう。――門の外に出てもいい」
ランベルトが席を立ち、薬瓶を置いた。青は少しずつ落ちる。全部落ちるには時間が要る。それでいい。
詰所を出ると、通りの空気が軽くなっていた。
札の前で、香辛料屋の女将が子どもに字を教えている。
「“粉は紙へ”。はい、声に出して」
「こなは、かみへ」
クロが横に座って、同じ調子で「にゃ」と合いの手を入れる。
女将が笑って頭を撫でると、クロは喉を鳴らして、もう一度だけ「にゃ」。耳がぴょこぴょこ揺れる。近くにいた男たちの顔つきも和らいだ。
午後。扉の写しを最後まで回し、泥で鈍った蝶番に油を落として、錠前の口を布で拭う。
“勝手に開けない”――この札を、内側と外側の両方に増やすだけでも、扉の空気が変わる。開け閉めがゆっくりになり、目が合う回数が増える。
イリアは時刻を書き添える癖を付け、ミーナは結び目の向きを揃えた。
小さなことの積み重ねが、一日の終わりに太い線になる。
夕刻、ギルドで総括。
ミレイユが並べた写しの上に、今日の要点を三行で置く。
「“受け箱”は押収。拾い手は詰所で事情聴取、氏名確認、以後の接触は門の管理下に。――粉は三件拭去。扉は六枚、札増設」
セルジオからの短い紙が回ってきた。
〈倉庫筋:夜間の巡視配備を一段階増。貸し鍵の返却締切は今週いっぱい“刻四”。――“灰の指”の線、詰所で持つ〉
ハーゲンが短くうなずく。
「追いかけ回さなくていい。向こうが慌てる。焦りは印になる」
セレナが医務から出てきて、俺の喉と手首を見た。
「赤みはない。今夜は温かいものを飲んで、早めに寝る」
クロには塩なしの水。
「のむ」
飲み終えると、机の端に顎をのせて目を細めた。前足がすべって、鼻が“こつん”と当たる。
「だいじょうぶ?」
耳がぱたぱた動いて、恥ずかしそうに俺の袖をちょんと触る。その仕草に、周りの笑いがまたひとつ増えた。
鍛冶通りでフーゴに報告。
「扉は油が効いて、鳴きは消えた」
「良し。鍵穴の口は塗りすぎるな。軽ければ十分だ」
「分かった」
フーゴはクロの額を指で軽くつつく。
「今日も働いた顔だな」
「はたらいた」
胸を張るように座る姿が、ほんの少し大きく見えた。
白樺亭に戻るころ、空は薄い茜色。
マルタが鍋を回し、リナが木椀を運ぶ。
「倉庫筋、静かになったね」
「札の場所を増やしました。鍵の返却も早く」
「よくやった。粥は薄め、猫さんは塩抜き」
クロは前足を揃えて「いただきます」の形をすると、舌で静かに粥をすくった。
食べ終わると、胸の上で丸くなる。左前足の黒い点が袖口にそっと触れる。
その重みは軽い。けれど、今日の仕事を確かめるには十分だった。
明日は、詰所の“夜巡”に合わせて倉庫筋の外周を回る。
扉の札はそのまま。返却の締切は早いまま。
慌てさせるのはもう終わりだ。
次は、線を詰める番。
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