第6話 「倉庫街の薄闇」
朝。白樺亭の窓から白い光が差しこんで、掛け布の端に丸い影が揺れた。
胸の上で丸くなっていたクロが、目だけ開けて「にゃ」。前足で一度、ふみ。ふみ。
「おはよう」
撫でると、喉が小さく鳴る。起き上がると、クロは窓辺まで跳び、外の空気を確かめてから、くるりと振り返った。
「きょう、かわのにおい」
「橋から回ろう」
一階に降りると、マルタの粥が湯気を立てていた。
「今日は倉庫の奥が気になるんだろ?」
「はい。昨日の目印、動いていないか確かめます。広場と橋はいつもどおり」
「なら、これを持っていきな」
手渡されたのは、小さな布袋に入った石鹸くず。桶の脇に吊す用だという。
クロの椀は塩抜き。前歯で慎重にすくって食べ、顔を上げると、ひげが一列にぴんと並んだ。満足の合図だ。
角の果物屋で薄い果実水を一本。フィオナが声をひそめる。
「倉庫の裏道に、夜のあいだに足跡が増えたよ。わざとらしく土を踏み散らしてある。今日は気をつけて」
「ありがとうございます。関所にも伝えます」
瓶を受け取ると、クロが秤の皿にのって、目を細めた。
「ぼく、かるい」
「はいはい、軽い軽い」フィオナが笑う。「でも今日は重たい顔でな。近寄らせないだけで効く」
◆
観音橋。水は落ち着いている。欄干の継ぎ目に指を滑らせて、昨日洗った跡を確かめる。
衛兵の若いのに、桶へ石鹸をひとつ吊して渡す。
「子どもが手を洗いやすい高さにしました」
「助かる。朝の読み上げに一文足すよ」
クロは橋脚の陰に鼻先を入れ、すぐ戻って尾を立てる。「におい、かわったなし」
「よし」
広場では、学校帰りの小さな列が紙の前を通り、「にゃ」と「止まれ」の字を練習していった。
紙束がまた軽くなる。イリアに多めに用意してもらわないと足りない。
桶の横で手を洗っている子に、クロがそっと近づいて、前足で「こする」の動きをしてみせる。子どもが真似をして丁寧に洗った。
「先生だね」と母親が笑う。クロは胸を張って、尾で小さく○を描いた。
◆
倉庫街の表通りを抜け、昨日セルジオが「目印のみ」と言った裏筋へ。
石畳が途切れて、土の道になる。両側に古い木壁。昼なのに薄暗い。
ミーナが立ち止まり、地面の端を指した。
「見て。踏み荒らした跡に、わざと深い靴底を重ねてる。消すつもりの“消しすぎ”」
「焦ってる」
ハーゲンは少し離れて全体を見る。「人が潜むなら角。猫、前に出ない」
「でない」
クロは自分で一歩下がり、俺の膝の影へするりと収まる。
昨日の目印の石はそのまま。だが、壁際の野積み箱の下に、新しい跡。
箱をずらすと、板が一枚だけ薄い。指でたたくと、軽い音。
「ここ」
釘は打っていない。布で手を覆って、そっと持ち上げる。
浅い空洞。中に粗末な紙包みが四つ。甘い匂いが混じった粉が、角からこぼれていた。
ミーナが息をのむ。「白い……」
「触る前に、位置を写そう」
イリアが膝をつき、輪郭をすばやく取る。俺は粉に直接触れないよう、布で包み直してから、紐でゆるく縛った。
紙包みの一つに、汚れた指跡が斜めに走っている。よく見れば、灰色の粉が爪の隙間に入り込んだみたいに線になっている。
サビーネが低く言った。「……灰をまぜた粉。指の跡が灰色――“灰指”のしるしだ」
空気が少し冷える。誰も大声を出さない。目だけで頷き、動作は落ち着いている。
ハーゲンが簡潔に指示する。「包みは二つ提出、二つはそのまま戻す。板は元の向き。箱は半歩ずらす。気づいたと思わせない」
「了解」
クロが鼻をひくひくさせてから、くしゃみを一つ。「にがい」
「そっとな」
俺は手早く包みを二つ布で巻き、封を作る。ミーナが紐を結び、サビーネは角で見張る。
板を戻す前に、空洞の端に小さく石を一つ置いた。次に開けたとき、動いたかどうかが分かるように。
箱をじわりと戻し、土の削れを指でならす。痕跡は減った。
路地の出口で、黒い影が一つ動いた。
背の高い男がちらりと裏をのぞき、こちらと目が合う前に踵を返す。
追える距離だ。
けれど、ハーゲンの首がわずかに横へ振れた。
「今は動かない」
影は倉庫街の外へ抜け、表通りで何人かと混ざって消えた。
サビーネが弓を半ばまで上げ、すぐおろす。「顔は見た。次に会えばわかる」
胸の内側に冷たいものが入り、同時に、決まりを保った手応えも残る。焦れば、向こうの思うつぼだ。
◆
関所アルダ。塔の影は短く、セルジオが帳面を手に待っていた。
包みを二つ、布ごと差し出す。匂いは強くないが、底に甘さが沈んでいる。
秤にかけ、封を割らずに、外から粉の粒立ちを確かめる。セルジオが短く頷く。
「混じっている。白に灰。比率は町に回して調べる。――板と箱は?」
「元通り。石を一つ置きました。次に動いていれば分かります」
「良い。小札を二枚。写しに挟め」
手渡された小札には、提出と位置、時間の欄。イリアが即座に書き入れる。
「顔は?」
「細い男。背が高い。靴は細い。動きは速いが、遠巻きに見るだけでした」
サビーネが補足し、セルジオは短く鼻を鳴らした。
「今日のうちは派手には動かない。紙と桶を増やせ。昼下がり、倉庫の表は衛兵が一筆書きで回る。君らは広場→橋→学校の順で“いつもどおり”を見せろ」
「了解」
◆
戻り道、角の果物屋でフィオナに短く伝える。
「倉庫の奥は、関所が押さえました。表は人の目を増やします」
「わかった。じゃあ、うちの前の掲示、字を太くしておくよ。『地面には置かない、紙へ』をいちばん上に」
クロは台に前足をそろえ、店先の小さな桶に鼻先を近づける。
「におい、きれい」
「洗っておいたさ。猫先生の通り道だもの」
広場に戻ると、昼のひと群れが来ていた。
掲示の前で、「どこで」「なにを」「どうする」を親がゆっくり読む。
クロはその横に座り、じっと見上げる。読めない子に紙を押し出し、読めた子には小さく尾を揺らす。
子どもは、動物に褒められると、信じられないくらい嬉しそうな顔をする。今日もそれが何度も起きた。
その度に、広場の空気が少し明るくなる。
橋を再確認して、学校に紙を一束届けると、先生が「午後の読み上げ、増やします」と言った。
クロは教室の入口で“香箱”になり、声に合わせて目を細める。歌を聴くみたいに穏やかな顔だ。
◆
夕刻前。ギルドの円卓。
ミレイユが地図に小札の番号を落とし、セレナが手洗いの札をもう一枚追加する。
ハーゲンが簡潔にまとめ、サビーネが影の男の特徴を二言だけ添える。
「目は細い。歩幅が長い」
誰も余計な言葉を足さない。
明日は朝から、倉庫街の表を“人の目で満たす”。同じ道を何度も歩く。ただそれだけで、できることがある。
解散の前、クロが机の端に前足をのせた。
「アキラ。あした、はしと、ひろば?」
「橋と広場。それから倉庫の表」
「おけ、ふやす?」
「増やす」
「にゃ」
短い返事。よく通る声だった。
外は、夕焼けが石畳を赤く染めている。
白樺亭に戻る道すがら、クロがときどき振り返って、誰かがついてきていないか確かめる。
誰もいない。風があるだけ。
けれど街は、今日からしばらく、いつもよりよく見て、よく歩くことになる。
紙と桶と、短い言葉で。
それで十分だ。今は。
◇
翌朝。白樺亭の階段を下りると、クロは一段ごとに「とん、とん」と前足を合わせて降り、最後の一段でこちらを見上げた。
「きょう、はやくいく?」
「早めに。倉庫の表を歩く日だ」
マルタが粥をよそいながら、布を一枚渡してくれる。
「掲示板の角、風でめくれるからね。角だけ濡らして押さえるといい」
「助かります」
クロは塩抜きの粥を少しずつ。食べ終わると、皿の縁をそっと前足で寄せて、きゅっと整えた。そういうところだけ、妙に几帳面だ。
角の果物屋。フィオナが店先の桶をこすっていると、クロが横から前足で「ごしごし」のまねをして、得意げにこちらを見る。
「先生ぶりが板についてきたねえ」
「褒めると図に乗るので、内緒で」
「聞こえてるよ」と言わんばかりに、クロは尻尾を三回だけ振った。
◆
観音橋から回って、倉庫街の表へ。
いつもより人を置いた。衛兵二人が通りの端をゆっくり往復し、露店の親方たちには掲示を一枚ずつ手渡す。
「道に粉は置かない。見つけたら紙で知らせる」
文句は短く、字は大きく。紙角は二重結び。
クロは配り終えた束の上にちょこんと座り、「はい、次」と言う顔。手を伸ばすと上手に避けて、棚板へ移ってくれた。
奥の薄暗い路地は、昨日と同じく静かだった。
板の下に置いた小石は――そのまま。空洞の封の結び目もそのまま。
「動きなし」
胸の奥の緊張が、少しずつほどける。だが、ほどいた紐はまたすぐ結び直す。
裏筋を出ようとした時だ。
クロがぴたりと止まり、ひげを前へ。耳が「くい」と同時に曲がった。
「なにか?」
クロは路地の角――壁と壁の隙間を、すばやく一度だけ見て、こちらへ戻ると座ってしまう。目はまっすぐで、尻尾は動かない。
気配がある時の癖だ。
サビーネがさりげなく視線だけ送る。「角の内、二歩半」
ハーゲンは声に出さず、肩で「いち、に」と数え、歩幅を合わせて角を回り込む。俺は半歩遅れて、視界を切らずにつく。
隙間の奥――古い樽の影に、人影がひとつ。
細身。背が高い。顔は見えない。
逃げようとはしない。ただ、こちらが通り過ぎるのを待っている風だ。
ハーゲンは真正面から行かず、通りの反対側にわざと広い間を残す。
「おはよう。通るよ」
影は動かない。
クロが先に歩き、影から二歩のところで、地面を嗅いで見せる。鼻先を上げ、空気のにおいを確かめるふり。
何も起こらない。
サビーネがわずかに顎を引き、「いまは“見ているだけ”」と目で告げた。
こちらは足を止めない。道具を出さない。必要以上に強くならない。
すれ違う時、樽の板に薄い灰色の線があった。指で引いた幅。昨日の包みの灰と、同じ色。
――見た。
それで十分だ。あとは紙と口で残す。
◆
昼前。関所アルダ。
セルジオに「動きなし」と「灰色の線」を落として、衛兵の巡回経路を一つ増やしてもらう。
「午後は倉庫の表をもう一度。橋と学校も見ておけ。目を増やすことが効く」
「了解」
関所を出る時、クロが門の石に前足をのせ、「たかい」と言った。
「高いね」
ランベルトが笑い、猫の額に指で小さく「丸」を描くふりをした。「今日も頼むぞ、先生」
広場に戻ると、昼休みの子が掲示の前で輪になっていた。
「地面には砂糖を置かない」「見つけたら紙に」「右へ寄って歩く」
声が揃うと、顔が揃う。
クロは輪の外から、前足で「右」を指すまねをして、最後だけ「にゃ」と言ってしまい、子どもたちに笑われた。
照れたのか、クロは掲示板の影にすっと隠れ、しっぽだけ出してぶん、と一度振った。
◆
午後。倉庫の表へ戻る途中、古道具屋オズワルドが手招きした。
「さっき、見慣れない男が裏に消えた。細い靴だ。歩き方が軽い」
「ありがとうございます。今は人を置いています。表からゆっくり行きます」
「ゆっくりが一番だ」
クロは台の縁に飛びのって、ひょい、とオズワルドの肩に前足をのせた。
「みた?」
「見たよ。猫先生」
倉庫街の表は、昼の光が斜めに差し、影が長い。
露店の親方が「紙、もう一枚」と言う。掲示を増やし、角を濡らして押さえる。
端を触って確かめるのはクロの仕事。前足で「ぺた、ぺた」と二回押して、満足すると尾で小さな○。
「検査、合格?」
「合格」
そう言うと、クロは急に胸を張って、行き交う子に見せたくなったのか、掲示の前で香箱になって座り込んだ。
親子が一組、足を止める。「猫がいるから読みやすい」と父親が笑った。
なるほど、そういう「目じるし」もあるのだ。
裏筋に入る前に、足音をゆるめる。
角の灰色の線は、やはり残っていた。
だが、その上に薄い水滴の跡。誰かが濡れ布でこすろうとして、やめたのか。
ハーゲンが指で示す。
「ここだけ乾きが遅い」
樽の並びの向こう――人の気配は消えている。
板の下の小石は、まだ動かない。手出しせず、すぐ離れる。
出口の手前で、クロが耳を向け直した。
「うしろ」
振り返ると、路地の入り口に、さきほどの細身の男。
今度は逃げない。こちらの数を数えるように目を動かし、最後に俺と目が合った。
視線は冷たいが、焦りは見せない。
サビーネが視線の高さをわざと変えず、静かに言う。
「通るよ」
男はわずかに肩をすくめ、道を譲る。
すれ違う瞬間、灰で汚れた指が見えた。爪の隙間まで、薄い灰色。
名前はまだ要らない。けれど「見た」という事実だけは、確かに残る。
◆
ギルドに戻ると、ミレイユが地図の倉庫筋に赤い点を打ち、セレナが桶の札を一枚追加した。
「手を洗う場所、もう二つ。高さは子どもの胸」
「了解。明日は朝いちで持っていきます」
クロは受付台に前足をそろえて座り、札の角を鼻で押した。
「これ、ぼく、もてる」
「持てるけど、噛まないで」
「かまない」
語尾が少し誇らしい。ミレイユが笑って、札を一枚だけクロの背にのせた。「配達員さん、お願いします」
クロは慎重に歩幅を合わせて、落とさないように出口まで運んだ。通りかかった常連たちが一斉に拍手。
拍手にびくっとして振り返り、札を落としそうになって、慌てて前足で支える。
「だいじょうぶ?」
小さく「にゃ」と返事をして、もう一度、ゆっくり歩いた。今度は落とさない。
◆
夕方。関所へ最後の一報。
セルジオは短くうなずき、明日の巡回図に赤い線を一本足した。
「倉庫の表を人で満たす。裏筋は“動かないまま見続ける”。――猫の鼻が利くなら、橋と広場も回してくれ」
「任せてください」
クロは関所の石段で前足をそろえ、「みました」と言わんばかりに姿勢を正した。
セルジオは笑わない人だが、目だけ少し和らぐ。
「頼りにしている」
白樺亭に戻る頃には、空の色が薄紫に変わっていた。
台所から香草の匂い。リナが「おかえり」と皿を置く。
クロは椀に顔を寄せて、ぴたりと止まり、こちらを見る。
「きょうは、すこし、はやくねる」
「そうしよう」
食べ終えると、椀をまたそっと寄せて、布団の端へすべり込む。
丸くなった背中に手を置くと、ふわりと熱が伝わった。
倉庫街の薄闇は、一日では晴れない。だから、明日も歩く。
紙と桶と、短い言葉と、猫の鼻で。
それで、十分に前へ進める。
◇
翌朝。薄曇り。白樺亭の戸を開けると、湿った木の匂いがした。
クロは肩に飛び乗り、耳だけ前へ。今日は桶と札、そして手洗いの場所を二つ増やす段取りだ。
角の果物屋で小瓶を受け取り、広場を抜けて観音橋へ。橋では子どもたちが昨日の札を指でなぞっている。
「道に砂糖は置かない」「見つけたら紙に書く」
声がそろうのを見届けてから、倉庫街の表へ入った。
一本目の通りは早足が多い。露店の親方に桶を渡し、高さを胸のあたりに合わせて留める。
「子どもの手が届く位置で」
「任せな」
水を張ると、クロが前足でそっと水面を叩き、輪っかが広がった。自分の顔が映ると、きょとんとした顔でこちらを見る。
「きれい?」
「きれい。だけど濡らしすぎ注意」
もう一度だけ、ぽちゃん――今度は我慢できたらしく、尻尾を一本だけ振って我慢の顔を作る。
裏筋に入る前、露店の古道具屋オズワルドが木箱を指で叩いた。
「朝方、細身の男がこっちに消えた。顔は布、靴は細い。手が汚れてた」
「ありがとう。表から回る。無理はしない」
クロが台の角にぴょんと乗り、オズワルドの肩に軽く前足をのせた。
「みた?」
「見たとも。猫先生」
昨日の角――灰色の細い線は、薄く残っている。
近づきすぎない距離で、俺たちは通り過ぎる。樽の影に気配はない。
板の下の小石は、まだ動いていない。
「そのまま」
サビーネが目だけで合図をよこす。ハーゲンは歩幅を崩さずに角を抜けた。
◆
昼前。関所アルダに一度上がり、セルジオへ短い報せ。
「灰色の線は薄く継続、気配は減。表の桶と札は追加。午後も同じ順で回る」
セルジオは地図へ赤の短線を一本。
「裏筋の角は“見るだけ”。人はさらに置く。――猫の鼻は広場と橋にも」
「了解」
クロは石段の一段目に前足をそろえ、きりっと座って見せる。
セルジオの口元が、ほんの少しだけゆるんだ。「頼りにしている」
広場で薄いスープを飲む。クロは塩抜き。
リナが通りかかって、クロの顎の下をそっと撫でた。
「先生、午後もお願いします」
「にゃ」
◆
午後。倉庫の表へ戻る。
一本目の通りを抜けて二本目の角へ差しかかったとき、クロが肩からすっと飛び降り、踵を止めた。ひげが前、耳が「くい」。
「なにか?」
クロは路地の口ではなく、反対側の木箱の影をじっと見た。
サビーネが視線でうなずき、ハーゲンは少し広く間を取り、俺は半歩うしろで角度を作る。
木箱の影から、きゅっと音。
細身の男が一歩踏み出し、指先で樽を叩いた。樽ががくりと揺れて、通り側へ落ちそうになる。
――狭い通路に転がせば、人の流れは崩れる。
「右寄せ!」
御者の列はないが、人足が数人。俺は声を先に置いて、足を止めずに板を一枚取り出し、樽の進路に差し込む。
重みが板に移る瞬間、ハーゲンが肩で支え、サビーネが反対側を押し返す。
樽はぐらり――で止まった。
安堵の息を一つだけ吐いて、樽をそっと壁へ戻す。
その間に、男は指先を樽の縁へ――砂粒のような白い粉。樽の木目へそっと擦り込もうとしていた。
布を投げ出すより早く、クロが男の足首の前にすっと入った。
「だめ」
ただ一歩、進路に体を置いただけ。けれど男は躊躇した。
その刹那、俺は濡れ布で指先ごと樽の縁を覆い、粉を布に移す。
男は手を引く。逃げる気配。
走らせないために、俺は手を大きく広げず、片方の腕で道の狭い角をふさぎ、目だけでサビーネに送る。
弓手は動かなかった。矢は必要ない。
代わりに、通りの端の衛兵に目で合図。ランベルトの若い部下が二人、早足で近づく。
男は飛び出さない。目だけが忙しく、ルートを探している。
クロは一歩もどかず、尾をぴんと立てたまま、男の足先を見ている。
「前に出ないで」
俺は柔らかい声で周囲の人に言う。人垣が自然に広がり、逃げ道が細くなる。
衛兵が肩へ手をかけた瞬間、男は妙な動きをした。
自分の掌を、反対の手でこすったのだ。粉を落とす仕草。灰色に汚れた指が、最後に小さく握る。
――印。
この街の言葉ではない、別の合図。だが「仲間に渡す印」の癖だ。
ランベルトの若い部下が、その手を軽く押さえる。「そのまま」
男は抵抗しない。視線の冷たさが、またこちらを一度だけ舐めていく。
引き立てられていく背中を、誰も追わない。
残ったのは濡れ布と、樽の木目に薄く残った白い筋。
布を折りたたみ、紙袋に入れて封をする。提出の用意。
店の親父が青ざめた顔でこちらを見る。
「勘弁してくれ、品はまともだ」
「分かってます。樽はあなたのじゃない。粉だけ、関所へ出す。今日はここまでで構いません」
親父は胸に手を当て、何度も頭を下げた。安堵が混じった汗の匂いがした。
◆
関所アルダ。
セルジオは布包みを受け取ると、鼻で匂いを確かめ、秤でわずかに量り、書記へ目で合図する。
「混ぜ物は薄い。扱いが慣れている指の汚れ――職業印がある。今夜から“樽”の経路に目を増やす」
「樽の縁に擦り込みでした。通りに出す前の段階」
俺が言うと、セルジオは短くうなずく。
「今日の動かし方は正解だ。人を止めず、物だけ止める。……猫にも礼を」
クロは関所の机の端に前足をそろえ、少しだけ胸を張った。
「にゃ」
ランベルトが横で笑う。「いい返事だ」
提出の控えを受け取り、裏筋の角へ戻る。
樽はもう店内へ。角は空だ。
灰の細い線だけが残っている。
指で触らず、紙に写し取る。線の形は、よく見ればわずかに三つ枝分かれ――簡単な印だ。
サビーネが言う。「目じるし。仲間のルートの印」
「消さずに、上から別の印を置くのは?」
「やり返しになる。今日は写すだけ」
◆
夕方。ギルド。
ミレイユは地図の倉庫筋に印を二つ足し、札束を一綴り増やした。
「“樽の縁に擦り込み”の図、入れておく。言葉より絵が早いときがある」
「お願いします」
セレナは医務の台所で、布を煮て消毒してくれていた。
「布は明日も使うから、袋ごと預かるね。――猫さん、今日はよく止まってくれた」
「とまった」クロは少し得意げ。
「偉い。鼻も、耳も」
そう言われると、クロはなぜか机の下に潜って、そこからだけ尻尾を出し、控えめに左右へ振った。照れている。
外に出て、白樺亭へ。
マルタが鍋を回し、リナが小皿を並べる。
「今日は顔が少しだけ固い。甘い果皮を噛んでから食べるといいよ」
「いただきます」
クロは塩抜きの粥をゆっくり。食べ終えると、椀の縁をまたそっと寄せて、鼻先を布で拭かせてくれた。
「えらい」
「えらい」――自分でも言った。みんなが笑う。
部屋に上がる前、窓の鍵を一度確かめる。
樽の縁の白い筋が、目に残っている。擦り込む指。印を切り替える癖。
名も知らない細身の男の目。冷たいが、焦りはなかった。
「見た」という事実だけが、今は確かだ。
灯りを落とすと、クロが胸の上に丸くなる。
左前足の黒い点が、そっと腕に触れた。
「アキラ。あした、また、みる?」
「見る。今日と同じ順で。人を止めず、物だけ止める」
「うん」
小さな息が寝息に変わる。
倉庫街の薄闇は、一日では晴れない。けれど、紙と絵と、いくつもの目があれば、暗さは薄くなる。
明日は印を見て、道を選ぶ。
それだけで、少し前へ行ける。
◇
夜の気配が早かった。曇りが濃く、倉庫街の石畳は夕方よりも色を失って見える。
ギルドの小隊で軽い巡回に出たのは、札の結び直しと桶の水替え、それから昼の一件が“続き”を呼ばないかの確認だ。
一本目の通りは静か。桶は半分ほど減っていて、子どもの手跡が周りに小さく残っている。
布で拭き、桶に新しい水を張る。クロは背伸びして縁の高さを確かめ、前足で「ここ」と小突いた。
「もう少し下にしようか」
店の親方がうなずき、縄を一つゆるめて位置を下げる。縁が子どもの目線に合った。
二本目の角。昼に樽が揺れた場所だ。
壁の影には誰もいない。けれど、さっきまで誰かが立っていた匂いが薄く残っている。湿った麻と、古い油。
クロが影の外側で座り込み、尻尾だけで道を指した。
「中へ入らない、ね」
クロはこくりと頷くように瞬きをした。
裏筋の一番奥、木の扉が並ぶ区画に差しかかる。
手入れのいい扉に、白い――正確には、灰の薄い筋が一本、斜めに走っていた。
昼の角で写した線と同じ“枝分かれ”。
サビーネが肩越しに視線を巡らせる。
「印の置き換え。昼の線が薄く、夜は扉。中へ投げ込む合図かもしれない」
「触らず写すだけにする」
薄紙に形を移し、扉の縁は布で軽く拭いただけにとどめる。痕跡は勢いを削がれ、夜風に混じった。
通りを折り返す途中、荷車の車輪が石の継ぎ目に乗り上げて止まっていた。
御者は若い。焦りで手綱を引きすぎ、馬が耳を伏せて動かない。
「上に、目を」
御者の横に立ち、顎の下を空に向けて撫で上げる。
クロが石の継ぎ目の前に座り、前足でちょい、と境目を示した。
「ここが段だって」
御者が苦笑する。「先生だ」
板を一枚差し込むと、車輪は音を立てずに越えた。馬の耳が戻り、御者の肩の力が抜ける。
「助かった。……さっき通りの奥で、白い線を見た。子どもが指でなぞってた」
「紙に書く札、広場にあります。帰りに寄ってください」
「わかった。言っておく」
関所への夜の短報は、塔影の下で済ませた。
セルジオは地図の倉庫筋に、小さな印を二つ。
「扉の斜線は“内”の印だ。今日は触らずで良い。明日の昼、倉庫番を一人ずつ呼ぶ。印は内側の物にも回る」
「昼の樽は、外へ向けた合図でした」
「同じ手の者だろう。……猫の鼻の位置取りがいい」
クロは机の端で前足をそろえ、少しだけ胸を張る。
若い書記が控えめに笑った。
白樺亭に戻る途中、広場で子どもが二人、札の前に立っていた。
「“道に砂糖は置かない”」「“見つけたら紙に書く”」
声に合わせて、クロが札の下の白紙を前足で押し出す。
「にゃ」
「先生、ありがとう」
紙に「にゃ」を書いた小さな手が、誇らしげに上がった。
「よく書けた」
白樺亭。台所はあたたかく、湯気の向こうでマルタが鍋を回している。
リナが木椀を二つ。ひとつは塩抜き。
クロは熱いのが苦手だ。ふうふうと冷ましていると、口を開けて真似をした。
「ふう、ふう」
「上手」
少し飲んでは、鼻先を自分で布にこすりつける。濡れた鼻が気になるらしい。
食後、帳場に座って今日の控えをまとめる。
――昼、樽の縁へ粉。濡れ布で回収。男は衛兵へ引き渡し。
――夕、扉に斜線。写すだけ。
――桶と札は位置調整。子どもは読む。
紙を重ねていると、ミレイユが後ろから声をかけた。
「明日は“扉の印”を先に回ろう。倉庫番に札の説明をして、内側にも紙を一枚。文は短く“気づいたら事務へ”。――絵はイリア」
「了解」
セレナが布束を渡してくれる。
「明日は一枚だけ布を持っていって。濡らし過ぎると匂いが残る。猫さんは水を少しずつ」
「のむ」
クロは自分の椀に鼻先をつけて、ひと口だけ。少し考えて、もうひと口。
部屋に戻る。窓の鍵を確かめ、棒と板を壁に寄せ、袋は受け取りと支払いで分ける。
クロは枕元の場所を自分で選び、丸くなってから、前足で布団を三回、きゅっきゅっと踏んだ。
それから顔だけこちらへ向けて、黒い点で軽く腕をつつく。
「アキラ。あした、ゆっくり、みる」
「うん。急がないで、よく見る」
「うん」
目が細くなり、呼吸が整っていく。小さな寝息は本当に小さくて、耳を澄まさないと分からない。
灯りを落とす。
倉庫街の薄闇は、印と印でつながっている。
線は消せる。けれど、消す前に、どうしてそこに線が引かれたのかを見ておく。
明日はその順番で歩こう。
窓の外に、雲の切れ間がひとつ。
そこだけが明るく、街の屋根の端がうっすら浮いた。
目を閉じる。指先の緊張がほどける。
クロが小さく喉を鳴らし、静かな夜が続いた。
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