第2話 「隊列のはじまり」
朝の鐘が一度。白樺亭の一階は、パンの香りと湯気であたたかい。
女将のマルタが鍋を回し、娘のリナが皿を置く。
「今日は掲示板の上段を見るんだろ? 水は多めに持っていきな」
「ありがとうございます」
クロは椅子の上で前足をそろえ、鼻先を湯気に向ける。
「パン、すき」
「分かってる。冷ましてからな」
小さくちぎって皿に置く。クロは前歯で静かに食べる。舌がちょっとのぞいた。
「のど、あったかい」
「よし。今日は無理せず動こう」
通りは朝露でしっとり濡れている。角の果物屋では、店主のフィオナが籠を積み直していた。
「おはよう、アキラ。果実水の小瓶、補充?」
「一本ください。今日は護衛の掲示を見ます」
「いいね。海塩ひとつまみ入れたやつにする。歩きが楽になるよ」
「助かります」
銅貨を渡すと、フィオナは指で小さく合図する。
「昼前に一度のどを湿らせること。干した果皮は噛むと気がまぎれる」
「覚えます」
クロが瓶の口をくんくん嗅いで、目を細めた。
「すっぱい。すこし」
「少しだけ飲もう」
冒険者ギルドは朝から人で混んでいた。掲示板の上段に、新しい羊皮紙が二枚、太い鋲で留めてある。人波の切れ目を待って近づく。
――商隊護衛の募集。行程はブライアから関所アルダ、春風街道の分岐を往復。二泊三日。槍二、弓一、補助二。銅等級でも可。
条件の欄に、太い文字が目に入る。走らず、はぐれず、独断で刃を抜かない。
隣は村送り。薬と布を西の小村へ運ぶ日帰りだ。雨天中止の印。
「“独断で刃を抜かない”は、いい線だ」
背後から落ち着いた声。行商のベルンだった。
「頭のハルドは口が固い。列を乱すやつを嫌う。お前さんの歩き方は向いてる」
「申し込みは現地で?」
「ああ。顔合わせして、短い試技。受けるなら昼までに荷置き場へ」
カウンターに移り、受付のミレイユへ口頭で仮予約を伝える。
「午後の顔合わせだね。――セレナ呼ぶ?」
「お願いします。出る前に足の状態を見てほしい」
白いローブのセレナがすぐ来て、手を洗う。
「歩きだこ、出はじめ。油を薄くのばします。猫さんは塩なしで水分ね」
「のむ」
クロは素直にうなずく。セレナは包帯と細紐を手渡した。
「転ばない結び。くるぶしの上に軽く。痛くなる前に緩め直して」
「ありがとう。帰ったら報告に寄ります」
「うん。無理しないで」
鍛冶通りでフーゴの店へ。小刀を見せ、鞘の口の緩みを直してもらう。
「ここを薄革で締めた。音が静かになる。銅1でいい」
「お願いします」
鞘に収める音が変わる。肩の力が少し抜けた。
「護衛は、刃より先に声と手だ。覚えとけ」
「心に入れます」
クロが横から首を伸ばす。
「フーゴ、つよい?」
「腕より道具の数だ。数が人を助ける」
「おぼえた」
昼前の通りは少し騒がしい。屋台の前で、若い男が肩で風を切って歩き、反対から来た小商いの女マノンとぶつかった。布袋が転がり、果実が散る。
「すみません」
反射で身をかがめ、果実を拾って袋に戻す。そのとき、男の袖口から薄い手が伸び、マノンの腰袋に触れた。
「待って」
声を先に置く。腕を伸ばし、手首だけを軽くつまむ。握り込まず、親指と人さし指で輪を作り、手の甲をこちらに返す。力を込めなくても、指が動かない角度だ。
「袋を返して、離れて」
男は目を泳がせ、腰袋を離す。指をほどき、一歩下がる。通りの端で衛兵のランベルトが笛を鳴らし、駆け寄ってきた。
「よし、あとはこっちだ」
男は連れていかれ、マノンは胸を押さえて礼を言った。
「ありがとう。私はマノン。市場で量り売りしてるの。――これ、干し果皮。噛むと気が紛れるよ」
「助かります」
クロが小声で、少し誇らしげに言う。
「アキラ、はやい」
「走らないで済んで良かった」
白樺亭に一度戻り、荷を軽く整理する。水袋は大きいものに替え、清潔布を増やす。板切れを二枚、細い棒を一本、手前に差す。
「板と棒は今日、役に立つはずだ」
「ぼく、においでぬかるみも言う」
「頼もしい」
再びギルドへ。ミレイユが魔石板を軽く叩き、公開表示を更新する。
「午後は荷置き場北棟で顔合わせ。“名乗りは短く”“装備は見せて言う”“質問は一つだけ”。これで行こう」
「了解」
奥からセレナが顔を出し、短く添える。
「昼の一口、忘れないで」
「はい」
胸の奥で、緊張が少しだけ熱になる。クロは尻尾を立て、まっすぐ前を見る。
「いく」
荷置き場北棟は、乾いた木の匂いと車輪の油の匂いがまじっていた。荷車が三台、帆布は新しい。ハルドが腕を組み、短く全体を見る。四十代半ば、肩が厚い。
「ベルンの顔。――少年、アキラだな。猫はクロ」
「はい」
「うちは列で生きる隊だ。走らず、はぐれず、独断で刃を抜かない。これを守れない者は要らない。これから顔合わせと短い試技をやる」
槍のハーゲン、弓のカトリナ、斥候のドリス。御者はエドゥアルドとロイ。名を呼ばれたらはっきり返事する。
「アキラ」
「クロ」
笑いが少し漏れて、空気がやわらいだ。ハルドは手を上げ、合図の形を示す。
「合図は短く同じ言葉で。前は『前、注意』、側面は『横、注意』、後方は『後、注意』。では始める」
軒下で、雨だれの音が刻みを作る。ハルドが手を上げた。
「試技は三つ。声出し、初動、報告。言葉は短く、同じ言い方で揃える。――始め」
まず声出し。槍のハーゲンが荷車の前に大股で出る。俺は一歩早く声を置く。
「前、注意」
間を詰めず、手のひらを下に向けて止まれの形。弓のカトリナが横目でうなずいた。
「聞き取りやすい。声が跳ねない」
続けて側面。ドリスが荷車の脇をかすめる距離で寄ってくる。
「横、注意」
体は引かず、腕で通り道を示す。肩をぶつけない。
「後、注意」
最後に背後。ふり向かずに声だけ落とし、クロの位置を視線の端で確かめる。猫は隊長の背後でぴたりと座り、尾を立てて小さく復唱した。
「まえ、よこ、うしろ」
笑いが少し漏れる。空気がさらにやわらぐ。
次は初動。ハルドが荷車の前に浅い木片を置き、道に小さな段差を作った。
「押し返すな。通す。言葉は『前、足下』」
「前、足下」
板を一枚出し、棒で角度を作る。御者エドゥアルドが歩きのまま一輪ずつ通す。ころん、と静かな音で抜け、帆布が揺れもしない。ハルドが短く顎を引く。
「走らないで済ませた。良し」
さらに濡れた麻縄が足もとに転がされた。
「絡みだ。踏むと面倒。まず言う、次にどける。手で直接つかまない」
「前、足下。縄」
清潔布で縄を包み、袋へ落とす。ドリスが小さく笑う。
「道具の扱い、手癖がきれいだね」
「傷をつけないで済むなら、そのほうが速い」
「同感」
三つ目は報告。ハルドが腕を組む。
「一息で。どこで、何が、どうした」
「北棟前で段差ひとつ、絡み縄ひとつ。板と棒で通過。縄は布で包んで回収。歩き維持」
「十分」
カトリナが弓弦を指で弾き、軽く顎を引いた。
「弓の視界を切らない位置取り、できてる」
「心がけます」
ハルドは全員を見回し、短く告げた。
「補助の二枠は――アキラ、ドリス。明朝、刻ひとつ前に集合。荷は今夜のうちに積む。水と布は多め。猫は俺の後ろ」
「受けます」
胸の奥が熱くなる。クロの尾がぴんと上がった。
「いく」
解散のあと、行商のベルンが肩を軽く叩く。
「初日でようやる。セレナに一声かけておけ。医務は仲間だ」
「分かりました」
ギルド医務室。白い布の匂い。セレナが手を洗い、足首と手首を見て薄く油をのばす。
「転ばない結び、今日は二巻きで。雨だと皮膚が冷えやすいから」
「はい」
小さな包みをひとつ渡される。
「薬草茶。夜の番の前に一口だけ。眠気は出ない」
「助かります」
彼女の声は落ち着いていて、言葉がまっすぐ入ってくる。
「戻ったら、また見せて」
「必ず」
鍛冶通り。フーゴが炉の火を絞り、油紙と麻ひもの束を出した。
「柄が濡れたら巻き直しだ。手が道具を裏切るな」
「覚えます」
「それと――」フーゴはにやりとする。「紐は噛むな」
「かまない」クロがきっぱり。
白樺亭に戻り、インベントリの並びを整える。清潔布、薄手の手袋、板二枚、棒、油紙。水袋は大きいのを二本。銅貨は受け取り用と支払い用に分けた。
「出立の子は早寝だよ。粥を早めに出す。猫は塩抜き」
「ありがとうございます」
リナがクロの頭をそっと撫でる。
「クロ、がんばって」
「がんばる」
夕刻前、荷置き場に顔を出すと、御者のロイが帆布の縁を結んでいた。
「結び、覚えるか?」
「教えてください」
一回と二回の違い。濡れの日は一回が解きやすい、とロイは手を止めずに見せる。エドゥアルドは車輪の軸に油を差し、短く言う。
「御者にとっては声が一番の刃だ。届かせろ」
「はい」
刻六。準備を切り上げてギルドへ。ミレイユが板を叩き、公開表示に一行を足した。
「『アキラ(補助)/ドリス(補助)/ベルン商会・護衛(ハルド隊)』。――夜の貼り紙に星印が混じったら、拾って事務へ。追わない」
「分かりました」
台所で薄いスープ。湯気で体が温まる。クロの皿は塩抜き。
「うまい」
「よかった」
部屋に戻り、明日の順番を紙に三行だけ書く。刻前集合、装備確認、歩調合わせ。紙は折って袋へ。灯りを落とす前に、窓を指の幅だけ開け、息を整える。
クロが左前足の黒い点で俺の腕をちょんと押す。
「あした、はやい」
「早い。寝よう」
屋根を打つ雨は遠くなり、音が薄れていく。目を閉じる。
明日は隊列で歩く。走らず、はぐれず、独断で刃を抜かない。
その三つを、ここで一度だけ心に置いた。
明け方の白樺亭は粥の湯気でしっとりしていた。
器を受け取り、クロの皿には塩を抜く。鼻先が湯気に触れて、目が少し細くなる。
「いってらっしゃい」
マルタとリナに見送られ、通りへ出る。
荷置き場北棟。帆布は露でわずかに暗く、車輪の金具が冷えている。
ハルドが手を叩き、目だけで各人の位置を確かめる。
「並びは昨日どおり。前はハーゲン、側はカトリナ、間をドリスとアキラ。御者はエドゥアルドとロイ。猫は俺の後ろな」
「いく」
クロが尾を上げ、ハルドの踵の影に入った。
門で外出簿に線を引くランベルトが顎を上げる。
「歩きで入れ出ろ。列は崩すな」
「了解」
朝の街道は湿った草の匂い。鳥の声が近い。
最初の丘を下りきるところで、ハーゲンが石突で地面を軽く叩いた。
「前、注意」
路肩に太い枝。端にほつれた麻縄が絡んでいる。引けば道の真ん中へ転がる仕掛けだ。
ハルドの声は短い。
「横は見とけ。道具を使え。手でつかむな」
棒で結び目を手前に寄せ、布をかぶせてから縄を抜く。枝はドリスと二人で道の外へ。
御者の二人は歩きのまま待っていて、声がかかると静かに再始動する。帆布は鳴らない。
ほどなく藪の奥で小さく舌打ち。
カトリナが半引きで矢を地面に落とす。土の音が一拍。草の中の影が止まり、遠ざかった。
追わない。目だけで合図を回し、歩調は乱さない。
小川で短い水分補給。海塩をひとつまみ入れた果実水を、口の中で転がすくらいに飲む。
クロは塩抜きの水。舌の先がきらりと光る。
「すこし、すっぱい」
「効くからな」
草地に出ると視界が開ける。風は弱く、荷車の影が道の線に沿って伸びる。
ドリスが肩越しにささやく。
「弓の視界を切らない位置取り、助かる」
「昨日、カトリナに言われました」
刻二。路面に金属が光った。
足を止めず、声を落とす。
「前、注意。地面に細かい反射」
しゃがんで布を滑らせると、粗い撒き釘が十数本。
ハルドが的確に割り振る。
「ハーゲン、前を守れ。ドリス、箒。アキラ、布で回収。御者は二歩下げ」
布に包んで拾い、袋へ落とす。箒で集め、最後に手袋の背でなでて残りを確かめる。
数分で片付いた。隊列はほどけないまま進む。
正午前、低い木陰で昼。火は焚かない。固いパンをスープで柔らかくして噛む。
ベルンが水袋を回しながら、落ち着いた声で言う。
「進みながら片付けるのが一番の安全だ。戻りに関所へ言上する」
ハルドがうなずく。
「差し障りは二件。仕掛け縄と釘。いずれも回収済み」
午後。森に寄り添う直線。
クロが鼻先を持ち上げた。
「さき、あたらしい土のにおい」
近づくと、灰が薄く被せられた小さな穴。
「車輪が沈む。右に寄せる」
ロイの手綱がわずかに上がり、荷車は歩きのまま一輪ずつ避ける。板は不要だった。
丘を越えると、関所アルダの旗が見えた。列に入り、歩きで順番を待つ。
詰所の前に出ると、セルジオが帳面を持って現れる。
「ベルン商会・ハルド隊、往復。――道中は?」
ハルドが簡潔に告げ、俺にも目を向ける。
「補助、一息で」
「北の丘手前で仕掛け縄を解除、回収。続いて撒き釘を回収。森沿いで灰土の小穴、右へ寄せて通過。負傷なし」
セルジオは短く「受け」と言い、朱で印を入れた。
「夜営は南の低い丘。風よけがある。火は低く」
関所を抜け、指定の丘で帆布を張る。
ロイが結びを見せてくれた一回結びが、濡れた布でも解きやすい。
クロはハルドの足元で丸くなり、耳だけが風向きを拾っていた。
番は三交代。俺は二番でドリスと組む。
草むらがさわ、と揺れては止まり、また動く。夜の気配は浅い。
ドリスが小声で言う。
「やりたくなる時に、やらない。これが難しいんだ」
「決め事が少ないから、守りやすいです」
帆布の影からカトリナが矢を一本だけ地面へ。音は小さいのに通る。
影がすっと引いた。
交代。寝袋にもぐり、セレナにもらった茶を一口。香りだけ喉に残して眠る。
夜明け前の空が白む。露の匂いが濃い。
結び目を触って締め直し、荷車の楔を外す。
ハルドが短く「出る」と言うだけで、列は自然に動き出す。
分岐の小屋で番人テオに挨拶し、水袋を満たす。
「灰土が増えた。帰りにも気をつけな」
「承知」
折り返してほどなく、低い唸り。
藪から灰色の影が三つ、等間隔で出た。ファングウルフ。
距離は十歩。
ハルドの声は揺れない。
「隊は止めない。前は槍、左は弓で牽制。右はアキラ。ドリス、後ろの馬。猫は俺の後ろ」
正面の一匹はハーゲンが穂で押し返す。
左の一匹は、カトリナが矢を地面に打ち込んだ瞬間に鼻がぶれた。
右の一匹がこちらへ跳ねる。
石を投げて足を鈍らせ、小刀の背で鼻先を横に払う。
歯が見える。けれど目は引き、次の瞬間、身を翻して藪へ戻った。
「歩け」
ハルドが言う。隊は乱れない。
ドリスが後方を見張り、俺は車輪の音を聞く。一定だ。
正午前、小さな沢で休憩。
ロイが馬の足を確かめ、エドゥアルドが車軸に油。
カトリナが矢を一本抜き、俺に見せた。羽根は乾いている。
「牽制はこれで足りる。無駄撃ちはしない」
「助かりました」
午後。森の縁に短い棒と石が置かれている。輪の縄が棒に仕込まれていた。
棒の下に布を差し入れて輪をほどき、縄は袋へ。
仕掛けを壊すのに、刃は要らない。
関所へ戻る頃には空が薄く曇り、路面だけが暗い色になっていた。
セルジオに報せる。
「往路の仕掛け縄と撒き釘は回収。復路は灰土の小穴と輪の縄。負傷なし、追跡なし」
「受け。通行許可」
丘の陰で二度目の夜営。火は小さい。
一番の番は俺とハーゲン。
槍の男は星を一度だけ見上げ、低く言った。
「今日の歩き方でいい。明日も同じにやれば、帰ってこれる」
「はい」
夜の音は浅く、交代の合図も短い。
眠りに落ちる前、クロが胸の上に移動して丸くなった。体温が軽く伝わる。
遠くで、渡しの鎖が一度だけ鳴った。
東が白む。露を払って帆布を畳み、結び目を確かめる。荷車の楔を外すと、金具が冷えた音を立てた。
ハルドが一度だけ手を挙げる。それで十分、列は動き出す。
丘を下りる坂で、路面の泥が薄く光っていた。
「前、足もと」
声を回して歩幅をそろえる。御者のロイは手綱を軽く上げ、車輪を一輪ずつ泥の外へ逃がした。板を一枚だけ敷いて、角度のきつい場所をやり過ごす。帆布は揺れず、音も静かだ。
草の海に、細い風の道が走る。
クロが鼻先を上げ、短く鳴いた。
「さき、うすく、におい」
近づくと、灰がかぶせられた小さな穴がもう一つ。昨日と同じ手だ。棒で縁を崩して深さを確かめ、右へ寄せて通過する。
藪の奥で枝が弾ける音。カトリナが視線だけ送り、弓は上げない。影は遠ざかった。
刻二を少し回ったころ、分岐を過ぎた道の真ん中で、片輪を溝に落とした荷車が止まっていた。年配の御者が、額に汗をにじませている。
「手を貸します」
俺は棒を車輪の手前に差し入れ、ドリスが担ぎ手を短く結んで支点を作る。
「合図で。いち、に」
半歩で輪が戻る。車は素直に線へ復帰し、御者は胸を押さえて礼を言った。
「お代は要りません。――“右に寄せて、歩きで通る”だけ覚えてください」
「覚えるよ」
関所の旗が見えてくる。鐘が一度。列は歩きのまま詰所へ進む。
セルジオが帳面を手に出てきた。
「往復、異常は?」
ハルドが簡潔に答え、俺に目で合図する。
「灰をかぶせた小穴が合計二、引き縄の輪が一。いずれも回避または解除。追跡はせず」
「受け。夜営地、支障なし。――それと」
セルジオが指で、外壁の里程標の裏を示す。灰色の指先を立てたような、薄い擦り跡があった。
「見覚えは?」
触れずに、角度を変えて眺める。火のそばで煤を触った指の跡に似ている。
「街道側では初めて見ました。門内にも時々、白い粉の小さな指跡が出ます」
「記録に残す。――目印だとしても、意味を決めるのは向こうだ。こちらは道を保てばいい」
「承知しました」
ブライアの壁が近づくにつれ、風の匂いが乾いていく。
門ではランベルトが外出簿に線を引き、こちらの顔を眺めた。
「三台、無事帰還。よし。――なんだ、その指の跡は」
「里程標の裏に薄い灰色。関所にも控えが出ます」
「見に行かせる。お前らはまず水と飯だ」
荷置き場北棟で荷を下ろし、帆布の結びをほどく。ロイが綱を巻き取りながら言う。
「板の入れ方、丁寧で助かった。荷が暴れない」
「ロイさんの手綱がきれいだから、板で足りるんです」
エドゥアルドが笑い、車軸に油を差す。
「互いに褒めておけ。次も楽になる」
分配は手早い。革袋に銅貨が落ちる音が続き、静かに止む。
ハルドが最後にこちらへ歩いてきた。
「言葉が早い。位置取りも崩れない。次は穀物組合の短距離護衛がある。名を入れるなら、掲示板の上段右」
「見ておきます。クロもまた後ろに」
「もちろんだ」
クロの尾が素直に立つ。
「いく」
ギルドへ。扉を押すと、ミレイユが受け付けから身を乗り出した。
「おかえり。精算は済んでるね。記録を書くよ――“仕掛け回収・隊列維持・報告良”」
「お願いします。……関所の外で、灰の擦り跡を一つ見ました」
「セルジオからも回ってきた。同じ手で街側にも出てる。掲示を一枚足すよ。“白い粉は紙で遊ぶ。道に置かない”」
「短くて、いいと思います」
医務室。セレナが白布を整え、俺の足首と手首を軽く確かめた。
「擦れは軽い。温かい茶を一口、それで十分。――猫さんは水だけ」
「のむ」
クロは静かに舌を出す。
「よくがんばったね」
うなずき一つで、また尾を立てる。
鍛冶通り。フーゴに鞘の口を見てもらい、泥の粉を払う。
「口は締まってる。布を一枚足しておいた。――道具は乾く前に触れ」
「はい」
角の果物屋。フィオナが栓を拭きながら、掲示の話を振ってくる。
「“砂糖遊びは紙で”、台紙を硬いのに替えた。子どもが指でなぞっても折れない」
「助かります。里程標の裏に、灰の擦り跡がありました」
「ふうん……聞いたことはある。どこの誰が、とは分からないけど」
彼女は言葉を選び、軽く肩をすくめた。
「でも、道のほうが先でしょ。歩ければそれでいい」
昼を外で軽く済ませてから、ランベルトのところへ寄る。
門の横で、里程標の裏面を布で拭っていた衛兵がこちらを見る。
「灰の跡、たしかにあった。薄いけどな」
ランベルトは外出簿を閉じて言う。
「印の意味は分からなくても、道の線は守れる。今夜は門内の張り紙を一度磨く。――手が空くなら、赤の縁取りを一本頼めるか」
「できます。太くなりすぎないように」
「そうだ。太いと夜に滲む」
掲示板の前に脚立。イリアが炭筆を持って上段を手早く清書していた。
「戻ったのね。上段に“穀物組合の短距離”が出てる。明日の刻三が顔合わせ」
「見ます。――赤の縁、俺がやる」
「助かる」
夕方の通りは人が多い。白い紙を指でなぞって声に出す子どもの横で、親が同じ文を復唱している。
「“砂糖は紙で”、“道に置かない”」
短い声は、顔つきを落ち着かせる。
赤の縁取りを細く一周。にじみを抑えるため、端だけ軽く乾いた布で押さえる。
日が落ちる前に、北棟へ回って帆布の結びを点検する。
ロイが手を振った。
「明日は泥の注意が出てる。靴底に砂を少し増やすと、踏んだ感触が楽だ」
「買っておきます」
白樺亭。湯気の向こうでマルタが帳場を叩く。
「おかえり。猫さんは塩抜き。――掲示、よく読まれてるよ」
「明日も外に出ます。短い距離ですけど」
「じゃあ粥は軽めにしておこう」
食後、セレナにもらった薬草茶を一口だけ。喉が落ち着く。
クロは皿の水を舐め、前足をそろえた。
「あした、また、ならぶ?」
「明日は顔合わせ。歩きは短い。……でも、今日と同じように言う」
「うん」
部屋で道具を並べ直す。清潔布、板、棒、油紙。麻ひもは一本増やし、靴底砂の小袋を机に置く。
銅貨は受け取り用と支払い用に分け、穀物組合の掲示をもう一度思い返す。泥の日――つまり、道は足から崩れる。声で先に整えれば、刃の出番はない。
灯りを細くし、紙に三行だけ書く。
――刻三、北棟。
――泥の準備。
――声は先に。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点をそっと当ててくる。
「アキラ。きょう、よかった?」
「うん。歩きで片付いた」
「よかった」
呼吸が静かになる。外の石畳はもう冷えて、音を飲み込んでいる。
明かりを落とす。目を閉じる。明日の短い距離の先に、また知らない景色がある。
朝の鐘がひとつ。白樺亭の一階は温かい湯気に満ちている。
マルタが鍋を回し、リナが皿を置いた。
「今日は顔合わせだろう。腹を軽くね。猫さんは塩抜き」
「いただきます」
クロは前足をそろえ、湯気の匂いを慎重にかぐ。
「すこし、たべる」
角の果物屋で小瓶を一本。フィオナが栓を拭いながら言う。
「掲示、昨夜も子どもが読んでたよ。――泥の日は、靴底に砂をひとつまみ」
「買っておきます」
ギルドの玄関は人が厚い。掲示板の上段右に、穀物組合の紙が新しく光っていた。
〈短距離護衛(穀物組合)/ブライア⇄関所アルダ/一泊二日/泥濘注意〉
受付のミレイユが手を挙げる。
「刻三、荷置き場北棟ね。装備の説明は短く、質問は一つだけ」
「了解」
奥からセレナが顔を出し、俺の足首をちらりと見てうなずく。
「昨日の結びで十分。喉は一口ずつ」
刻三。北棟の土間は、昨夜の湿りがまだ残っている。
隊長は穀物組合のマルク。二十代半ば、声は静かで早い。
「槍はリオネル。弓はサビーネ。御者はヘルムート。補助二枠。――では試す。泥路、段差、報告」
俺と、背の高い青年が前へ出る。
土間の隅に、浅い泥。
マルクが短く示す。
「車輪を濡らさずに通す。板は二枚まで」
「板、一枚で足場を作ります」
俺は角度を作って一輪ずつ通す。板は踏み替えながら回収。帆布は揺れない。
サビーネが横から一言。
「静かでいい」
次は段差。木端が二枚、互い違いに置かれている。
俺は棒で角度を作り、御者の歩幅に合わせる。
リオネルが槍の石突で軽く地面をとん。
「合図、通ってる」
最後は報告。
「『土間の泥は浅い。板一枚で通過、回収。段差は棒で角度を作って通過。荷は安定』」
マルクが頷いた。
「補助は――アキラ。もう一人はウィル」
青年が肩を落とし、すぐ気を取り直して帽子を脱ぐ。
「よろしく」
「こちらこそ」
編成が決まり、解散の前にマルクが一言。
「明朝、刻ひとつ前に北棟集合。泥濘が読みにくい場所では、声を先に。刃は最後。――以上」
短いが、必要なことは足りている。
北棟を出ると、サビーネが歩調を合わせてきた。
「昨日の街道、聞いたよ。位置取りが落ち着いてるって」
「周りの人の声が早いから、ずれにくいです」
「それ、続けて」
彼女はそれだけ言って、弓袋の口を結び直した。
昼は白樺亭で軽く。クロは塩抜きの水を真面目に舐める。
「ねむくない。いける」
「午後は掲示を手伝ってから、紐と砂を買い足す」
午後、ギルド前の掲示台に脚立。イリアが上段を清書し、俺は赤の縁を細く重ねる。
ミレイユが手元を見て、短く笑った。
「線が揺れない。――あ、これ、渡しとく」
細い紙片。〈里程標の裏、灰の擦り跡・調査中〉の控えだ。
「門でも共有するから」
「分かりました」
門へ向かう途中、倉庫街の角で小さな騒ぎ。
若い荷売りが、蓋のずれた樽を引いて膝をついていた。
「手伝います」
俺は樽の胴締めをほどき、蓋の座を布で拭う。木粉が湿って、輪が浮いていた。
「ここを乾いた布で押さえてから、回すと戻ります」
若者は言われたとおりにやり、表情を緩めた。
「助かった。……お礼に」
「要りません。次に同じのを見つけたら、同じやり方で」
彼は深く礼をして去っていった。
門の外。里程標の裏は、衛兵が一度拭っていた。
布の端に、灰の細い粉がうっすら。
ランベルトが腕を組んでつぶやく。
「誰が何のために、だな」
「意味を決めるのは向こう、でしたね」
「そうだ。こっちは道を保つ。――で、明日の隊は?」
「穀物組合です。泥の見通しが悪い道を往復」
「なら、朝は水を少し多めに。昼に喉を湿らせるのを忘れるな」
日が傾き、鍛冶通りへ寄って紐と砂を受け取る。
フーゴは砂袋を握らせ、ひとこと。
「踏み心地は軽いほうが続く」
「はい」
クロが砂袋の匂いをくんくん嗅いで、真顔で言う。
「くつ、すべらない」
「すべりにくく、だな」
「すべりにくく」
白樺亭。食後、マルタが帳場で紙片を渡す。
「関所のセルジオさんから回ってきたよ。“灰の擦り跡は記録のみ、追わない”」
「了解」
リナが紐の端を指でつまむ。
「二結びの練習、今日もしたよ」
「上手になってる」
部屋で道具を並べ、靴底の砂をひとつまみだけ足す。
麻ひもは二巻、清潔布は三枚。板は二枚のまま。棒の布を巻き直し、鞘の口を軽く拭う。
紙に三行。
――明朝、刻前集合。
――泥・板・声。
――水は先に。
灯りを小さくし、窓を指一本ぶんだけ開ける。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。
「アキラ。あした、ならぶ。おぼえた」
「ありがとう。俺も、覚え直した」
呼吸が静かになる。外の石畳は夜の色。
目を閉じる。明日は短い距離でも、整えることは多い。
道は続いている。ここから先も。
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