第1章 ブライアの街と初仕事 ― 橋・舟・峠 ―

第1話 「森で目覚めて街へ」

 鳥の声が近い。湿った土の匂い。

 まぶたを開けると、見える世界の高さが低い。腕も脚も軽い。

「……小さくなってる」

 指は細く、声は少し高い。十二歳くらいの体だ。胸の前の粗いシャツは見覚えがない。


「アキラ。おきた」

 足もとでクロが鳴いた。黒白の毛並み。あごから腹に白、前足と後ろ足は白い靴下。左の前足の指先だけ黒い点がある。

「クロ、喋れるのか」

「うん。のど、かわいた」

 口調は幼い。いつものクロだが、言葉で通じるのがありがたい。


 草の向こうで水の音。

「行こう」

 クロが先に立ち、草の海をわける。

 浅い小川。手ですくった水を差し出すと、クロは前歯で少しずつ飲む。喉が動いた。

 俺も口を湿らせ、息が落ち着く。


 頭の奥に残ったあの声を思い出す。

 落ち着いた調子で、短く。

『自由に生きていい。アプレイザル/インベントリ/ランゲージを渡す。魔力は多め。危ないことはしないように』

 それだけ。難しい言い回しはない。夢の断片みたいだが、感覚は現実だ。


「場所の確認からだな」

 意識を軽く集中させる。――アプレイザル。


《場所鑑定》

場所:シルヴァニア公国・辺境林帯

近辺危険度:低〜中

主要道:西へ約二刻


「西に道がある」

「いく」

 クロが尾を立てる。足取りは軽い。俺も立ち上がる。


 歩き出す前に、自分の状態を見ておく。


《個人鑑定》

名前:カミシロ・アキラ(通称:アキラ)/年齢:12/種族:人

体力:良好(疲労:軽) 魔力量:とても多い(制御:初級)

属性適性:火B/水B/風B/土B/光A/闇−

固有スキル:アプレイザルLv1/インベントリLv1/ランゲージLvMax ※トランスファ(未開放)

習得:古式剣術・体術/生活魔法(光・水)

称号:旅の新参 状態:正常 備考:転移者(秘匿)


(動ける。今はそれで十分)


 丈の低い木を抜けると、踏み固められた筋が見えた。車輪跡――街道だ。

 鈴と蹄の音が近づく。

 荷馬車が見えたので、俺は道の端で手を上げる。


「おや、子どもと猫か。森は危ないぞ」

 手綱を引いたのはひげ面の男。肩はがっちり、目は穏やかだ。

「町まで乗っていくか? 俺はベルン。旅の商売だ」

「助かります。俺はアキラ。猫はクロ」

「クロ」

 クロが胸を張る。ベルンは口角を上げた。

「ここらは獣人もいる。猫が喋っても騒がれないさ。――乗んな。ブライアまで行く」


 荷馬車が動き出して少し。

 草むらががさっと割れ、角のついた大きなウサギが三匹、道に出た。ホーンラビット。

「面倒な時に限って……」とベルン。

「やってみます。肉が要るなら一匹だけ落とします」

「任せた」


 荷台の棒を一本借り、前へ出る。

 一匹目が跳ぶ。横へ一歩ずれ、棒の先で額を小さく打つ。転がったところを首の後ろを押さえてとどめ。

 二匹目は、クロが前足で土を叩く。乾いた音にひるんだ瞬間、喉元を切って仕留める。

 三匹目は逃げた。

 血は最小限。倒した二匹は手早くインベントリに収める。あとで捌けばいい。


「手際がいいな。倒す時は倒す、か」

「森の外なら話は別ですが、野外は現実で動きます」

「その言い方、好きだ。……ブライアに着いたら冒険者ギルドに行け。受付のミレイユが面倒見がいい。治癒ならセレナが当番だ」


 馬車は揺れながら進む。

 道沿いの畑。刈り終えた束の匂いが風で流れる。

 ベルンは街道の要を教えてくれた。

「門の衛兵はランベルト。気が良い。鍛冶はフーゴ。果物は角のフィオナが安い。宿は白樺亭、女将のマルタは堅い」

「まずは寝床と仕事、ですね」

「それがいい。強くなるのは、その次でも追いつく」


 昼の鐘が遠くで鳴る。

 土壁と見張り台。ブライアの門だ。

 門前でベルンが合図を送り、衛兵が近づく。

「おう、ベルン。今日は早いな」

「ランベルト、森でホーンラビットが少し。こっちの少年が捌いた」

 ランベルトは俺とクロを見てうなずく。

「初見はギルドへ。ケガしたら神殿医務。治癒士見習いのセレナがいる」

「ありがとうございます」


 列が進む。門の影は涼しい。

 クロは御者台の縁で尻尾をふり、左前足の黒い点をぴとりと俺の腕に当てる。

「アキラ、どきどき?」

「少し。息を先に、な」

「すー……」

「そう、それ」


 門を抜けると、香草と油の匂いで通りが満ちる。

 石畳の手ざわり。屋台の湯気。鉄を打つ音。

 看板が目に入る。――冒険者ギルド。

 厚い木の扉は、人の出入りで少し温かい。


「ここからが、今日の後半だ」

「スープ、のめる?」

「たぶん、飲める」


 まずは顔を出す。

 名を名乗り、規則を聞き、札を受け取る。

 強くなるのは、その次だ。


 俺は扉に手を当て、深呼吸を一つ入れた。

 押すと、木が低い音を返した。

 中のざわめきが、俺とクロを包む。


 厚い木の扉を押すと、涼しい空気と人いきれが混ざって流れてきた。

 掲示板の前は人だかり。受付カウンターには赤茶の髪の女性がいて、目が合うと手を振ってくる。

「ようこそ。受付のミレイユよ。初めてだね?」

「はい。カミシロ・アキラ、十二歳です。猫はクロ」

「クロ、こんにちは」

「こんにちは」

 ミレイユは口元だけで笑い、案内用の板をくるりと回した。

「まずは仮登録。読み書きの確認、生活魔法の確認、安全確認(木刀)。終わったら本登録に進むの。緊張しなくていいよ」


 薄い紙に、共通文字で名前と簡単な一文を書く。

 字は崩れていないと言われ、ほっとする。(読み書きが通じるのは大きい)

「次、生活魔法。手のひらに小さな光を一回、水を一滴。ここで止めようね」

「『ライト』……『ウォーター』」

 豆粒ほどの光と、水の粒。力まない。

「はい、充分。――安全確認に行こうか」


 裏庭は砂地で、木剣や藁人形が並んでいた。

 若い職員が木刀を渡し、まっすぐ立つ。

「当てない止めの確認です。振らずに押す。相手の手元で止める。終わったら一歩下がる」

「はい」

 相手の手元に木刀の腹をそっと当て、押して止めて、一歩下がる。

 職員が頷く。

「落ち着いてる。喧嘩はしないけど、止めるのはできる、って感じだね」

「(十二の体でも、体さばきは残っている)」


 カウンターへ戻ると、ミレイユが銅(ブロンズ)のカードを取り出した。

「本登録に進めるよ。――等級:銅。危険な依頼は出さない。しばらくは基礎を積んでいってね」

 金属の縁がひんやりしている。名前の刻印は薄いが、はっきり読めた。

「公開情報はこれだけ出すよ。詳細は本人だけが見られる仕様」


──〈冒険者登録(公開)〉──

名 前:カミシロ・アキラ(通称:アキラ)

年 齢:12 種族:人

等 級:銅(ブロンズ)

職 能:前衛/斥候

既知属性:火・水・風・土・光

魔力量:高(目安)

既知スキル:アプレイザル/インベントリ/生活魔法(光・水)

禁止・注意:なし

─────────────────


「カードと依頼札の使い方はこれ。――初日の候補を三つ出すね」

 板書に素早く書かれる。

「A:薬草採り(基礎)(安定)。B:外周見回りの同行(銅2+α・低危険)。C:荷運び+台所手伝い(銅3・体力仕事)。今日は顔合わせと準備に回して、明日から本格に、でもいい」

「(無理しない方がいい)AとBを順にやります。今日は宿と道具を整えます」

「いい計画」


 そこへ、白いローブの少女が小瓶を抱えて現れた。

「呼ばれて来ました。治癒士見習いのセレナです。今日は医務室にいます」

「カミシロ・アキラとクロです」

 セレナは俺の指先に視線を落とし、清潔布を取り出した。

「小さな擦りでも見せてください。薬草採りは草の縁で切るんです」

「気をつけます」

 クロがひげをぴくりと動かす。

「セレナ、におい、やさしい」

「ありがとう。猫さんは薬の瓶を舐めないこと、ね」

「なめない」

 会話のテンポが軽く、緊張がほどけた。(助かる)


 ミレイユが魔石板をこんこんと叩き、視線を上げる。

「注意がひとつ。最近**“星の印”が付いた紙片が街角に出るの。誘導する偽物。見つけたら拾って事務へ**。追わない。――子が使われてることがあるから」

「分かりました」

 胸の奥が少し重たくなる。

(見つけたら拾う。追わない。覚えた)


 ギルドを出ると、午後の日差しが石畳で跳ねた。

 角の果物屋でフィオナが籠を積み上げている。

「おや、新顔くん。薄い果実水、持ってく?」

「お願いします。森で喉が助かると聞きました」

「小瓶で銅1。甘さ弱め。――ギンリ草は根を残す、ね」

「はい。(根を残す、二度言われた。重要)」


 通りを抜けると、炉の熱が顔に来た。鍛冶屋フーゴの店だ。

 がっしりした腕。額の汗。

「少年、小刀あるか?」

「安物ですが一本」

「見せろ」

 渡すと、フーゴは目だけで刃を測り、うなずく。

「刃角が鈍いが、森なら十分。柄巻きと軽い研ぎで銅4。油小瓶を付けるなら銅5。どうする?」

「油付きでお願いします」

「明日の昼受け取り。噛むなよ、猫」

「かまない」

 フーゴが笑い、火箸で炉の炭をかき混ぜる音が心地いい。


 宿は白樺亭。白い壁と木の扉。

 女将のマルタが帳場で腕を組み、こちらを一瞥して頷いた。

「一人と一匹、個室ひとつ。猫は塩抜きの薄粥が出る。一泊コイン一枚」

「お願いします」

 奥から娘のリナが顔を出す。

「首輪に小さな鈴、付けてもいい? 街の決まりじゃないけど安心だから」

「いい」

 クロは胸を張って、左前足の黒い点を見せた。

 リナは指でそっと触れ、目を丸くする。

「ほんとに黒い点だ」

「ほんと」


 部屋に荷を置き、インベントリを整える。

 清潔布/薄い水袋/押し葉板。

 腰袋は軽く、歩きやすい。(軽い=余裕)


 窓の外、通り角の屋台から油の匂い。腹が鳴る。

 階下に降りると、マルタが鍋を回し、薄いスープとパンが出てきた。

「初日は食べて寝る。それでいいんだよ」

「はい」

 クロの椀は塩抜き。

「いただきます」

「のむ」

 スープは温かく、香草が軽い。喉の奥がほどける。(生き返る)


 食後、マルタが小皿を置いた。

「薄い乳。猫には少しだけ。水で割ってある」

「ありがとう。少しだけな」

「すこし」

 クロは慎重に舌を出し、一口ずつ舐めた。目が細くなる。


 帳場で街の注意をもう一度聞く。

「北側の路地は夜は暗い。用がないなら近寄らない」

「気をつけます」

「それと、ギルド貸出の袋や板はその日のうちに返す。次が楽だからさ」

「(返却は習慣にする)」


 部屋に戻り、明日の段取りを紙に書く。

 ――朝一にギルド、札を取る。

 ――鍛冶屋で小刀受け取り。

――外周見回り(B)→昼に戻って水補給→**薬草採り(A)**少し。

「クロ、歩く距離が伸びる。無理しないで合図してくれ」

「あし、つかれたら、いう」

「助かる」


 個人鑑定は今日は開かない。(数字は逃げない。眠りが先)

 窓を少し開けると、夜風が乾いている。遠くで鐘が一度。

 クロが胸の上に乗り、左前足の黒い点を俺の腕に当てる。

「アキラ、ねる?」

「ねる。――あした、がんばる」

「がんばる」


 灯りを落とす。

 目を閉じる直前、(強くなるのは、その次)ともう一度だけ心で言って、呼吸をゆっくりにした。


 朝の白樺亭は、パンの香りと湯気で満ちていた。

 女将のマルタが鍋を回し、娘のリナが木皿を並べる。

「外へ出るなら水は多め。薄いスープと固いパンだよ」

「ありがとうございます」

 クロは椅子の上で前足をそろえ、鼻をひくひく。

「パン、すこし」

「少しだけ。冷ましてからな」

 ちぎった端を置くと、クロは前歯で小さく食べる。舌がちょっとのぞいた。


 冒険者ギルドの扉は早くから開いていた。

 受付のミレイユが手を挙げる。

「おはよう、アキラ。外周見回り(B)、今日の同行はオルランド隊。集合は門の外の道標ね。戻ったら水補給して、午後は薬草採り(A)でどう?」

「その計画で行きます」

「猫さんは吠えられても走らない。これ大事」

「はしらない」

 クロは真顔でうなずいた。


 城門では衛兵のランベルトが名簿をめくる。

「外出簿、記名。――オルランド隊は犬が二頭。トビーとミント。先に手を見せろ。午後の陽は左肩、忘れるな」

「了解」

 ランベルトはクロにも目を細める。

「猫さん、吠えられても座って待つ。できるな?」

「まつ」

「いい子だ」


 門の外、道標の根元でひげの太い男が手を上げた。

「隊長のオルランドだ。初参加は少年と猫。――列は二列、間隔広め。俺の声が聞こえたら止まれ。質問は短く、返事ははい/いいえ」

「はい」

 犬のトビーがクロに鼻を寄せ、わふと一声。

 クロは一歩下がって座り、前足を見せる。

「におい、だいじょうぶ」

 オルランドが笑った。

「落ち着いてる。いい相棒だ」


 外周の道は、朝日の角度で木の影が長い。

 見回りは倒木の確認/柵の破れ/無断罠のチェックだ。

 俺はアプレイザルを必要なときだけ使う。


《簡易鑑定》

対象:輪の罠(古)/所有印:なし

扱い:返却推奨(無断設置の可能性)/危険:小


「無断の輪。位置はそのまま、記録を」

 オルランドが板に記す。

「午後に外環へ回す。少年、触らない判断はいい」


 祠の前で木の札が倒れていた。

 オルランドが札を立て直し、手短に拝礼する。

「風が強い夜が続いたせいだ。――水の回し」

「はい」

 俺は水袋を開け、隊に薄い果実水を順に回す。

 ミントは匂いだけ嗅いで、満足そうに鼻を鳴らした。

 クロが小さく胸を張る。

「フィオナ、えらい」

「そうだな」


 進むほどに、土は少し湿り、靴底が重くなる。

 倒木の端で小さな引っかかり。

 俺は棒を横から差し入れ、てこの要領で少しずらす。

 列が崩れず通れる幅になる。

「余計な力を使わない動かし方、覚えてるな」

「道具に仕事をさせる。父に教わりました」

「いい教わり方だ」


 刻五。

 日差しが強くなる前に、最初の一巡が終わる。

「戻る。門まで一列。目立った異常はなし」

「はい」


 城門でランベルトが帰還を記す。

「外周同行:完了。午後は?」

「薬草採り(A)に出ます。昼に水補給してから」

「良し。赤の刻みに気をつけろ」


 白樺亭へ戻って昼。

 薄いスープと固いパン。

 パンをスープに浸すと、歯が楽だ。

 クロは小さくちぎったパンを前歯で食べ、水を飲む。

「あし、だいじょうぶ」

「ならよし。午後は短めにして戻る」


 鍛冶屋フーゴの炉は、昼でも熱い。

 フーゴが包みを差し出す。

「小刀、戻す。柄は麻ひも、油は薄く。銅5、受け取り済みだ」

「ありがとうございます」

「切る前に一度、布で拭いてから握れ。指が滑らない。――猫、紐は噛むな」

「かまない」

「よし」


 午後の森は、風が軽い。

 赤の刻みを右に見て、葉の影をたどる。

 ギンリ草とヤドリ葉を中心に、分からない株は採らない。

 ときどきアプレイザル。


《素材鑑定》

名称:ギンリ草(若株)/部位:葉(生)

採取:根は残す/評価:小束2(良)


《素材鑑定》

名称:ヤドリ葉(成葉)/部位:葉(生)

採取:葉のみ/評価:小束2(並)


 湿った倒木の上で、足が滑りかける。

 膝をつき、小さな擦り傷。

「クロ、止まって」

「とまる」

 布で泥を拭き、消毒。念のためだけ鑑定。


《小傷鑑定》

箇所:右膝・擦過/処置:清拭・消毒済 回復見込み:今夜→明朝


「問題なし。続けよう」

「ゆっくり」


 採取袋が小束四つで軽く一杯になったところで切り上げる。

 帰路、三つ又。

「行きは赤を左に見た。帰りは赤が右」

 クロがあごで示す。

「こっち」

「ありがとう」


 街道に出る前、見覚えのある荷馬車が現れた。

 ベルンだ。

「おう、顔色がいいな」

「外周同行は無事。午後は薬草を少し」

「なら次の話。三日後、トリスタニア方面の商隊護衛が出る。頭はハルド。まっとうで口が固い。銅等級の補助を二枠探してる」

「装備が整えば、行きたいです」

「掲示板の上段を見ておけ。名乗りのタイミングがある」

「分かりました」


 城門。

 ランベルトが外出簿に帰還印を入れる。

「午後:採取→帰還。――迷子届けゼロ。そのまま行け」

「はい」


 ギルドの計量台は混んでいなかった。

 ミレイユが手際よく束を広げ、査定のヨアキムが指の腹で葉脈を押さえる。

「潰してない、根が残ってる、乾きすぎてもいない。――並〜良」

 板に数字が入る。


〈換金内訳:採取(二日目・午後)〉

ギンリ草(良)……小束×2 単価:銅3 計:銅6

ヤドリ葉(並)……小束×2 単価:銅2 計:銅4

小計:銅10 手数料:銅1 受取:銅9


「無理せず戻ったのがいい。明日は午前:護衛掲示の確認、午後:軽い採取で組もうか」

「そうします」

 ミレイユが身を乗り出し、声を少し落とす。

「それと、“星の印”の紙は今日は出てない。出たら拾って事務。追わない、ね」

「覚えています」


 台所から湯気。

 薄いスープが二つ運ばれてくる。

 セレナが包帯と小瓶を持って現れた。

「右膝、赤い。消毒はしてある?」

「森で軽く。もう一度お願いします」

 セレナは手を温めてから、少しずつ薬を伸ばす。

「しみる?」

「大丈夫」

「明日は長く走らないこと。陽の角度が変わると疲れ方が急に来るから」

「分かりました」

 クロがセレナを見上げる。

「やさしいにおい」

「ありがと。猫さんは瓶を舐めない」

「なめない」

 セレナは小さく笑って、包帯をきつすぎないように留めた。


 鍛冶通りを抜け、夕方の白樺亭。

 マルタが帳場で言う。

「野菜の煮込みと、ウサギの煮込みが少し。猫は塩抜き」

「お願いします」

 クロは皿の前で座り、左前足の黒い点をちょいと持ち上げる。

「すこし」

「少しだけだぞ」


 食後、銅貨を受取袋/支払い袋に分け、明日の水とパンを用意する。

 護衛掲示は朝一で確認。名乗りは装備を整えてから。

 小刀は油を拭いてから鞘に戻し、インベントリの手前に清潔布/水袋/押し葉板を置く。

 窓を少し開けると、夜風が乾いていた。遠くの灯が点々と続く。


「クロ」

「なに」

「明後日、護衛に出たら街を離れる。戻りは数日後」

「いく。アキラと、いく」

「頼もしい」


 《個人鑑定》は開かない。数字は逃げない。眠りを優先する。

 灯りを落とすと、クロが胸の上に乗り、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。

「アキラ、あした、がんばる?」

「がんばる。朝いちで掲示板だ」

「おきる」


 呼吸をゆっくりにする。

 街の外に道があり、その先に国境がある。

 いつか、海の向こうも見に行く。

 そう思うだけで、胸の奥が少し熱くなった。

 目を閉じる。眠りは、すぐ来た。


 夜の白樺亭は、皿を洗う音と低い笑い声が続いていた。

 食後の片付けがひと段落すると、マルタが帳場から小さな木札を出してくれる。

「ウサギの宿代割引札だよ。今週中ならいつでも使える」

「助かります」

「北側の路地は暗い。出歩くなら灯りのある大通りを使いな」

「気をつけます」


 廊下ではリナが毛布を抱えて待っていた。

「クロ、きょうもなでていい?」

「いい」

 クロは背中を少し丸めて、左前足の黒い点を見せる。

 リナは目を丸くして笑う。

「ほんとに小さい黒い点だ」

「ほんと」


 部屋で荷を整え、銅貨を受取袋/支払い袋に分ける。

 インベントリの手前には清潔布/水袋/押し葉板、奥に肉。

 小刀は油を軽く拭いて鞘に戻す。

「明日は掲示板の上段を見る。護衛が出るはずだ」

「いく」

「無理はしない。装備が揃ってから名乗る」


 窓を少し開けて、夜の空気を入れる。

 屋台通りから油と香草の匂い。遠くで笛が一度。交代の合図だ。

「少しだけ散歩してくる。大通りだけ歩いて戻る」

「まつ?」

「一緒に行くか?」

「いく」


 外は涼しい。

 街灯の下は明るく、人影がちらほら。

 角のフィオナは店を閉めて錠を下ろしていた。

「おや、外気を吸いに? 果実水の空瓶、明日持ってきて。洗って返すから」

「分かりました。明日は護衛の掲示を見ます」

「いいね。ハルドの隊なら堅いよ」


 ギルド前まで来たところで、低い位置に小さな紙片が貼ってあるのが目に入った。

 星の印。子どもの手でも届く高さ。

 ミレイユの注意を思い出す。(拾って事務/追わない)

 俺は清潔布を取り出し、紙片を布ごと剥がす。

 指で直接触れないようにして折り畳む。

 必要なことだけ、簡易鑑定。


《簡易鑑定:星印紙片》

材質:薄紙(安物)/染料:粗い刷り

魔力痕:なし/道具痕:金具押し

備考:量産の跡。配り役は複数の可能性


(情報は十分。追わない)

 ギルドの夜窓口に回し、事務提出の箱へ入れる。

 奥からミレイユが顔を出した。

「ありがとう。今夜は三枚目。外環に回すから、もう気にしないで」

「了解です」

「そうそう、明朝の上段、たぶん二件出るよ。商隊護衛(トリスタニア方面)と村送りの小口。どっちも名前の出し方がある。先に札だけ抜かないで、頭(かしら)に挨拶してからね」

「助かります」

 クロが小さく鳴く。

「みれいゆ、やさしい」

「ありがとう、クロ。夜は早めに寝るんだよ」


 白樺亭に戻る途中、衛兵のランベルトとすれ違う。

「外は静かだ。――それ、星の紙を見つけた顔だな」

「ギルドに事務提出しました」

「良し。子が使われることがある。追わないが正解だ」

「はい」


 部屋に戻ると、クロがベッドの端に飛び乗り、丸くなる。

「アキラ、ねむい」

「すぐ寝る。――その前に明日の動きを紙に書く」

 机に紙を広げ、短く列挙する。

 ――朝一:ギルド掲示上段を確認(ハルド隊あいさつ)。

 ――午前:軽い採取か荷運びで体をほぐす。

――昼:フーゴで刃の点検(ひと拭きでも寄る)。

――午後:名乗り→顔合わせ→条件確認。

 書き終えた紙を折ってインベントリへ。なくさない。


「ライトを豆粒だけ。一分」

 掌に白い点。

 強くしない。一分で消す。

「ウォーター、ひと滴」

 指先に水。拭いて終わり。

 魔力は体の内側が少し温かいくらいで止める。


「今日はここまで」

「ねる」

 クロは左前足の黒い点を俺の腕にちょこんと当てて、目を閉じる。

 俺も呼吸を整え、目を閉じた。


◇ ◇ ◇


 朝。

 パンの香りと湯気。マルタが鍋を回し、リナが皿を置く。

「水は多め、パンは固いのを半分。猫さんは塩抜き」

「助かります」

 クロは前足をそろえ、**「いただきます」**と真似をする。

 リナが笑って、小さめにちぎったパンを一切れ渡した。


 食後、すぐにギルドへ。

 掲示板の上段に新しい札が二枚。

 一枚は**『商隊護衛(トリスタニア方面)』。頭:ハルド。往復四〜五日。銅補助二枠。

 もう一枚は『村送り(西の小村へ薬と布)』**。日帰り。歩き多め。

 胸の奥が少しだけ熱くなる。


 ミレイユがカウンター越しに声を落とす。

「護衛に名乗る順は、頭の前で簡単に自己紹介→札の確認→必要装備の宣言。無理は言わない、できる範囲をはっきり。これが受かるコツ」

「分かりました。今は補助の枠で学ぶ。走らない、離れない」

「そう。それが一番強いんだよ」

 クロが尻尾をぴんと立てる。

「はしらない。はなれない」

「いい合図だ」


 掲示の前には、背の高い男が腕を組んで立っていた。

 短く刈った金髪、古い傷のある頬、目の色は薄い茶。

 札の端にそっと指を置き、こちらを見る。

「頭のハルドだ。猫連れか?」

「はい。カミシロ・アキラ、十二。銅。前衛/斥候。野外作業と荷運び、指示の確認が得意です。猫のクロは気配察知と合図ができます。走らない・離れないを徹底します」

「言い方が短くていい。学ぶ姿勢があるなら使える。――昼過ぎに顔合わせをする。荷の確認と歩調合わせだ。水と布だけ多めに」

「了解です」

 ハルドは一度だけうなずき、別の応募者に目を向ける。

(名乗りは通った。あとは準備だ)


 いったん外に出る。

 角のフィオナで薄い果実水の小瓶を補充。

「護衛、受かった顔だね」

「顔合わせに呼ばれました。水を多めに持ちます」

「固いパンも半分おまけ。歩きが増える日は、それがいい」

「助かります」


 鍛冶通りのフーゴに顔を出し、刃の縁を布で拭く。

 フーゴはあごをさすって、短く言う。

「鞘から抜かずに点検できることが一つの腕だ。――ひもが緩んだら昼に寄れ。五分で締める」

「頼もしい」

「猫、紐は噛むな」

「かまない」


 戻り道、ランベルトが門のそばで記録板に線を引いていた。

「ハルド隊は堅い。合図が多いぞ。返事は短く」

「はい」

「猫、吠えられても走らないな」

「まつ」

「よし」


 白樺亭で荷を軽く入れ替える。

 水袋は二本、清潔布は多め、果実水の小瓶は手前に。

 インベントリの並び替えを二回。手癖にする。

 クロは自分の鈴を前足でちょんと触り、小さく鳴らす。

「いく」

「いこう」


 扉の手前で一呼吸。

 走らない/離れない/勝手に斬らない。

 押して、言って、通す。短い言葉で、順番に。

 旅はここから広がっていく。

 そう思って、一歩踏み出した。

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