くだん

遠山ゆりえ

 二日酔いでクラクラしながら、僕は四畳半の下宿の台所で水を飲んでいた。もうすぐお昼になる頃だ。その時、どんどんと僕の部屋の戸を叩く音がした。


誰だよ……と思って開けると、大学でクラスが一緒のIさんが慌てて部屋に転がり込んで来た。Iさん! なんで僕の下宿知ってるの? 何の用?


「ご、御免、急に。あたし、とにかく時間が無くて……」


 彼女はそう言うと、薄い長四角で手の平サイズの物を取り出した。そして僕に向け、カシャと写真のシャッターのような音をさせた。


「な、何! どうしたの?」


「J君、あのね、あたし頭がおかしいと思われるかも知れないけど聞いてくれる? 今って昭和だよね?」

 

 何言ってるんだ、当たり前だろ!


「Iさん、悪いけど……僕、今、頭が痛いから明日の語学の授業の後じゃ駄目かな?」


「うーん、じゃあ、これだけ言っておく。神戸の辺りに大地震が来て、次は東北に大津波が来るから、覚えてて! 色々制約があってこれしか言えないけど。又会いに来るからね、さよなら」


 そう言い残して彼女は慌てて部屋を出て行ってしまった。僕の足元にメモのようなものが落ちていた。それにはこんな言葉が書かれていた。

「過去が未来を追い越して、未来は過去に追い付けない」

 後を追う気力も無く、Iさんの奇行に呆然としたまま、その日は暮れていった。




* * *


 次の日、僕はまだぼんやりした頭で大学の語学の授業の教室に座っていた。必修科目だしIさんも教室に来るはずだ。一番後ろの席で彼女が来るのを待ち続けたのだが、結局姿を現さなかった。


 僕は友人のTにIさんを見かけなかったかと聞いてみた。するとTは怪訝な顔で答えた。


「Iさん? Iさんって誰?」


「ほら、赤い眼鏡掛けたおかっぱ頭の、いつも一人でいる暗い感じの……」


「そんな奴いたっけ?」


 Tは嘘をつくタイプではないし、少人数の語学の授業でIさんに気づかないはずがない。他のクラスメイトにもIさんのことを聞いてみたが、皆一様にそんな人は知らないと言う。皆が僕を担ごうとしているのか? それとも本当にIさんは存在しないのか? 僕はどうかしてしまったんだろうか……?


 頭を抱えた僕の肩をTはぽんと叩いて言った。


「お前、この頃飲み過ぎなんじゃない? 悩みがあるなら何でも聞くよ」


 そうだ。あんな飲み方をしていたら身体も心も頭もおかしくなるのは当然だ。あれは二日酔いの僕が見た幻覚だったんだ。そう考えなければ辻褄が合わない。そうに違いない。


 これからは酒を絶ち、きちんと生活するんだ。僕は固く決心した。それからというもの、僕は人が変わったかの様に勉学に励んだのだった。Iさんはそれ以来、すっかり姿を消してしまった。




* * * 


 大学を卒業して僕は地方の新聞社に務め、そこの常務になった。今日はうちの会社と県が主催する地元の人気画家の展覧会の初日だ。


 テープカットや開催の挨拶も終えホッと一息ついていると向こうから若い女性が来て僕の目の前で止まった。その人は何処かで見た顔だった。すると彼女は僕に話掛けてきた。


「J君、この前……、じゃなくて学生の頃は失礼しました」


 僕は忘れかけていた記憶をまざまざと思い出した! 赤い眼鏡におかっぱ頭。Iさん?やっぱりIさんは幻覚なんかではなく実在してたのだ。でも待て、Iさんだったら僕と同い年。目の前の人はどう見たって二十代だ。Iさんそっくりな彼女の娘? それとも、あれから彼女の時が止まったとでも言うのか!


 僕が訝しけ゚な表情をしていると彼女はスマホの画面を見せた。


「ほら、これ覚えてる?」


 そこには二十代の僕の顔が写っていた。ああ、あれはスマホだったんだ。えぇ? あの頃はまだスマホは絶対なかった!


「Iさん。ほ、本当にIさん?」


「そうです。ちょっと事情があって、説明している暇がないんだけど、地震も実際にあったでしょ?」


 そう、記憶がおぼろげだが、地震がどうとか言ってた。僕は今シラフだし頭もしっかりしているはずだ。目の前の人は幻覚ではない。だとしたらこの状況をどう理解したらいいのか?


「いつもバタバタして御免なさい。何しろ調整が難しくて……。そんなことはいいとして、これから富士山には近づかないほうがいいからね。それじぁ又、生きていたらお会いしましょう」


そう言うと彼女は慌てて会場を出て行った。あの時と同じだ。一体彼女は何者で、何の目的で僕に会いに来るのだ? 後を追って見たが女性用トイレに入ってしまった。しばらく待ったが出て来る気配がない。


「常務、こちらにいらっしゃったんですね。御気分でも悪いのですか?」

ひとりの女性社員が心配そうに僕に声を掛けてきた。


 僕はその人に女子トイレの中に誰かいないか見て欲しいと頼んだ。


「だぁれもいらっしゃらないですけど……」トイレから出た彼女は不審げに僕に告げた。


 消えた……。Iさんは幽霊か! はたまた忍者か?


 いやいや、トイレに入ったと思ったのは僕の見間違えだったのだろう。この頃、年のせいか視力が衰えてきた。次の休みに眼科で診て貰おう。




* * *


 ここまで僕は人生を歩んで来た訳なのだが、何かおかしい気がする。違和感がある。

自分の人生はスカスカしてなんにもない。これは比喩とか心理的な意味などではなく、文字通りスカスカなのだ。


 Iさんが突然現れて災害の予言をして去って行く。妖怪「くだん」のようだ。『時をかける少女』ならぬ、Iさんは時をかけるストーカーなのだろうか?


 だいたい僕は自分のことを何も知らない。これも文学的言い回しなんかではなく文字通りだ。結婚しているのか? 自分の子供はいるのか? 何処に住んでいるのか? どんなルックスなのか?


 変じゃないか! 自分のことなのに省略され過ぎていて何もわからない。


 そして僕の名前だが、J君ってなんだ? 匿名希望か! 誰か、僕は一体どんな人間なのか教えてくれ〜!


 あっ、地震だ……けっこう大きいぞ! なんだなんだ、外は雪が降っている? そんな馬鹿な、初夏だぞ! 違う、灰みたいだ、えっ? やばい、うぁ嘘だろ、富士山が……




(了)







 


 

  

 


 




 





 

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くだん 遠山ゆりえ @liliana401

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