マンデュリオン
A子舐め舐め夢芝居
マンデュリオン
その図書館には、奇妙なうわさがあった。幻の小説『マンデュリオン』の原稿が図書館のどこかに隠されているという。『マンデュリオン』は18世紀イタリアを舞台に、兄弟の探偵がある屋敷のマンデュリオンにまつわる連続殺人の謎を解くという物語だ。そして、十五年前に書かれたエリオ・ソラノの処女作でもある。
図書館に小説が隠されるのは珍しくない。気合の入りすぎた禁欲主義を掲げるプロテスタント共が権力を持ってしまった結果、一九二〇年に詩や小説、演劇を禁止する禁書法が施行された。それ以来、図書館司書たちは海賊がお宝を隠すようにお気に入りの本を必死に隠してきた。
問題はうわさの原稿が既に私たちの手元にあるということだ。
「実は複製してたとか?」
私はカップからコーヒーを一口飲んだ。向かいの席に座っているエリオは灰色のスーツを身につけていた。奥の書き物机の中央にはシカゴ・タイプライターが鎮座していて、紙が一枚挟まれたままになっていた。エリオは両肘をテーブルの上に置いて首を横に振った。
「あれは僕の処女作で出版にいたらなかったんだ。だから僕の手書き原稿しか存在しない…と思う」
「言い切れないんだ」
「十五年前のことだから曖昧なんだけど、実は数日ほど原稿が行方不明になって気が付いたらいつもの場所に戻っていたってことがあったんだ。そのときに写されたのかもしれない」
「デビュー前の作家の原稿写してどうするの?一銭の得にもならないじゃん」
「犯人は僕の才能に気が付いて原稿に価値を見出していたということだね」
エリオは得意げに鼻を鳴らした。
「でもちょっと今と作風違うよね。マンデュリオンなんてモチーフ使ったり。宗教には興味ないんじゃなかったの?」
マンデュリオンとはキリストが顔を拭ったときに布にその顔を写ったものを言う。私はエリオの処女作を読んで初めて知ったが、あまりエリオらしくない題材だと思っていた。エリオは私の言葉は無視して頭を抱えた。
「マズいよねえ。うわさが検閲官の耳に入って原稿が見つかって、芋づる式に<ザ・ブルーノ>が検挙されたりしたら…そんなことになったらボスに合わせる顔がないよ」
私は顔をしかめてみせた。エリオはいつもこんな風に回りくどい態度で面倒ごとを押し付けてくるのだ。
「あのね、たしかにあんたには色々と恩があるけど、私はあんたの編集者であって雑用係じゃないからね」
「でも実際マズい状況じゃない?シカゴの図書館にもぐり作家の幻の処女作が隠されているなんてうわさが広まったら本当に警察が動いちゃうよ」
エリオの言う通りではあった。もぐり作家が逮捕されれば、そいつを雇っているもぐり(リード)書店(イージー)も検挙され、その次は運営主であるギャングが日の下に引きずり出される。おまけにエリオは<ザ・ブルーノ>でも一、二を争う売れっ子ミステリ作家ときた。今や非合法の創作活動はギャングにとって重要な資金源となっている。エリオを失えば<ザ・ブルーノ>にとっては大きな痛手となるだろう。まったくもってマズい状況である。
「それでも私はボスの命令じゃないと動かないから」
「じゃあ電話してくる」
エリオはそう言って部屋を出ていった。しばらくして廊下から会話の切れ端が聞こえてきた。私は一息にコーヒーを飲んだ。
「ええ…はい…それでは三日以内に探させますね」
エリオの快活な声が響いてきて私は思わずため息をついた。
問題の図書館はシカゴの片隅にあった。表向きはシカゴ周辺の風物の記録を目的としており、棚には郷土資料や歴史書が収容されていた。しかし、その裏では演劇関係の書物や海外小説の翻訳の定番の隠し場所にもなっていた。そして、どういうわけか名だたる名作の数々の中に我らがエリオ・ソラノの処女作も混じっているわけである。
私は適当に棚から一冊取り出して読み始めた。クラーク・ストリートの変遷を記録した歴史資料だった。館内は私と、受付に中年の女の司書が一人いるだけで他に人気はなかった。今の世の中では空想や虚構の類は「勤勉な精神の成長を阻害する有害物」である。図書館に来るだけでドロップアウトかフリーク扱いされるのだから仕方ない。
時計が六時を指し示した瞬間、館内に閉館を知らせるチャイムが鳴った。私は構わず資料を読みつづけた。五分後、受付から司書の女が出てきて「閉館時間です」と声をかけてきた。女はこちらのほうをチラチラと見ながら書棚の整理を始めた。さらに五分経つと、女はしびれを切らして「すみません。もう閉館の時間です」と近づいてきた。
私は女の背後にまわりこみ、左手で女の口を塞ぎ、右手で女の首元に短刀を突き付けた。私の手の中で女のくぐもった悲鳴があがった。
「騒いだら大事なご本があんたの血で汚れるよ」私は警告した。「一つ聞きたいことがある。答えてくれたら命は助けてあげる」
女の全身がおこりにかかったかのように震えていた。こういうとき、罪悪感や同情の念がないと言えば嘘になるが、仕事なので仕方がない。
「私が聞きたいのは『マンデュリオン』の居場所。これだけ教えてくれれば今日はもうそれで店じまい。あんたはお家に帰って…ああその前にクラーク・ストリートに肉屋があるでしょ。アニーズ・ショップだったかな。そこでミートパイでも買えばいい。それで家に帰ってパイを食べて早めに寝る。ね、簡単でしょ?」
女は必死そうに首を縦に振った。物分かりのいい司書だ。
「じゃあ三つ数えたら口の手を離す。そしたらあんたは『マンデュリオン』の居場所を私に教える。下手な真似をすればどうなるか分かってるね」
女は再び首を縦に振った。私は三つ数えて手を離した。女は涙声で「もうありません…」と呟いた。
「どういう意味?」
「四日前にもギャングが『マンデュリオン』の居場所を聞いてきて…」
「それで教えたの…?」私の左手はすがるように女の肩を握った。
「持っていかれました…」
「どこの誰、そいつ?」
思わず苛立ちが声に滲んでしまった。女はまたぶるりと身体を震わせた。
「分かりません。緑のハンチング帽を被って丸く曲がったナイフを持っていました」
「ニック・ザ・スライサーか」<アッカルド・ストア>の調達屋だ。「よく生きていたね」
私がそう言うと女は本格的に泣き出してしまった。私は短刀を引っ込めて女の肩を軽くたたくと、すぐにその場を去った。
<アッカルド・ストア>は<ザ・ブルーノ>に並んで有力なもぐり(リード)書店(イージー)の一つで、特に古典小説の密売に強い。彼らも『マンデュリオン』のうわさを聞きつけてニックを差し向けたのだろう。
私は交差点近くの電話ボックスに入ると交換手にエリオの名前を伝えた。交換手が繋いでいるあいだ、ライトをつけて走っていくT 型フォードを眺めていた。
「先方が出られました」
「もしもしエリオ?」
「どうしたの?『マンデュリオン』見つかった?」
「先にやられた。<アッカルド・ストア>に」
「困ったなあ」エリオはまったく困っていないような口ぶりで話した。「どうしようか」
「明日、<アッカルド・ストア>の定期オークションがある。そこに出品されると思う」
「でもあれは会員制じゃなかった?」
「明日の夜までに誰か会員を見つけて紹介してもらえれば潜入できる」
「誰か心当たりはあるの?」
「ないからあんたに電話してんのよ。色々と顔がきくんでしょ、売れっ子先生は」
「さすがに僕は会員じゃないよ。ボスに悪いから」
「あんたの愛読者に<アッカルド・ストア>のオークション常連もいるんじゃないの?レディ・シャンディとか?」
「彼女は古典を読まない。ディケンズすら知っているか怪しい。あれは本好きじゃなくて本を好きな自分が好きっていう部類の女だね」
「あんたの読者論はいらないから。作家先生とかでもいないの?」
もぐり(リード)書店(イージー)は互いに不干渉というのが不文律になっているが、異なるファミリーに雇われている作家や編集者が内密に親睦を深めるというのはよくある話だ。エリオも裏で色々な業界人と交流しているのを私は知っていた。電話口の向こうで何やらガサゴソと動く音が続いた。
「エリオ、聞いてる?」
「心当たりがある。<グラッドストン・プレイヤーズ>のサラ・スタインだ。たしか<アッカルド・ストア>でシェイクスピアを揃えたと言っていた」
「あんたお気に入りの地下演劇の女優ね。分かった。彼女にお願いしてみる」
「僕からも連絡しておくよ」
家に帰るとちょうどエリオが電話をかけているところだった。私は自分の部屋に上がって服を着替えた。エリオと暮らしてもう十五年が経つ。交通事故で両親を亡くした十歳の私を父の友人だったエリオが引き取ってくれたのだ。エリオは自己中心的な男で私は振り回されてばかりだが、いちいち付き合ってやるのには育ててもらった恩があるからだった。
エリオの部屋に入ると、エリオは書き物机に座ってシカゴ・タイプライターを打っていた。脇にはウイスキーの入ったグラスが置かれていた。
「やっぱりサラは<アッカルド・ストア>の会員だったよ。オークションにも連れていってくれるって」
「随分と話が早いじゃない」
「それはほら、僕と彼女の仲で」エリオはどこか恥ずかしそうだった。
「なんでもいいけど」
「悪いけど明日僕は行けない。連載の締め切りが近いから」
「いいよ。先生は執筆に専念して」
「いつもごめんね、ルコ」
「これも仕事だからね」
「今日はシチューだよ。僕は遅くなるから先に食べていて」
「ありがと」
私は部屋を出ていった。後ろでは軽快なタイプライターの音が響いていた。
オークションは<アッカルド・ストア>の地下劇場で行われた。有力なギャングは大抵、もぐり(リード)書店(イージー)の地下に劇団を呼んで地下演劇を開催する。その舞台が地下劇場と呼ばれ、あまりの狭さから地下演劇を行うことは小劇場運動と呼ばれていた。しかしその日、舞台の上に立っているのは演者ではなくオークション主催者であり、客は仮面をつけて華やかな衣装に身を包んでいた。
サラはエリオと同じくらいの年齢で、若い頃の美貌の面影を残しつつ老いによってかえって上品さを増したような女性だった。耳につけたサファイアの耳飾りと同じ色の瞳をしており、サーモンピンクのドレスがよく似合っていた。
「できれば『マンデュリオン』を競り落とせればいいのですが」私は周りに聞かれぬように扇子の裏でもごもごと話した。
「エリオの頼みだものね。やってみるわ」
なんでもいいとは言ったがエリオとサラの関係は正直気になった。エリオはサラの出演する地下演劇を必ず観に行っているし、サラもエリオの愛読者らしい。それにエリオは度々サラの家を訪れているようだ。やはりそういうことなのだろうか。邪推しているのが顔に出ていたのか、私が何も言っていないのにサラは笑って話し始めた。
「エリオとは恋人だったの。でも二人とも自分の仕事に夢中でね。禁書法が制定されて地下にもぐることになって心のゆとりがなくなったのね。それで駄目になった。でも今は大切な友人よ」
「そうだったんですね…」
「あなたが引き取られたとき、私たちはまだ恋人だった。だから小さい頃のあなたにも何度か会ってる。元気になってよかったわ」
「私、事故のせいで記憶喪失で。すみません」
「仕方ないわ。ひどい事故だった。家族三人を一度に亡くしてとてもショックだったでしょうから」
「三人?」
「覚えていないのね、あなたの―」
会場の照明が暗くなってオークションが始まった。話の続きが気になったが、我慢してオークションに集中することにした。景気よく競りが行われていくなかで、決して悪くはない私の給与の三、四ヶ月ぶんの金額が簡単に叫ばれていき、眩暈のする思いをした
「続いては掘り出し物です!エリオ・ソラノ幻の処女作!その名も『マンデュリオン』!」
ガラスケースに入った原稿用紙の束にスポットライトが当たった直後にサラが「二〇〇ドル」と言った。叫んでいるわけではないのにサラの声は会場内によく通った。しかし、すぐに後ろから「三〇〇」と言う声が聞こえてきた。振り返ると後方の席に日本人の若い男たちが二人座っていた。片方は女のような美しい顔で手を挙げていた。こちらが競りに参加したらしい。もう片方は幼い顔立ちに似合わない冷たい目つきの男で、一目でその筋の人間であることが分かった。会場のあちこちから声が上がっていたが、競りはこいつらとの一騎打ちになると私は直観した。
予感は的中して値段が六五〇ドルにまで釣り上がったとき、まだ競っていたのはサラと女顔の日本人だけだった。
「七〇〇」
サラははきはきした声で言ったが表情は硬かった。
「八〇〇」
男の声は自信に満ちたものだった。サラは私をちらりと横目で見てから「八五〇」と言った。
「一〇〇〇」
男の声は静寂の中でよく響いた。サラはこちらを向いて申し訳なさそうに首を横に振った。私は何も言わずサラの手を握った。『マンデュリオン』は一〇〇〇ドルで落札された。
「ごめんなさい」
「いえ、ありがとうございました。もう行きましょうか」
私たちは新たな競りの始まった会場をあとにした。地上の書店を出ると送迎用の車が目の前の通りに止まっていた。私はサラを車に乗せた。
「あなたは乗らないの?」
サラは心配そうにこちらを見上げていた。彼女を一人で帰すのは心苦しかったが、『マンデュリオン』は必ず入手しなければならなかった。
「まだやることがあって」
「私がいると足手まといかしら」
「率直に言って危ないかと」
「無理しないでね」
サラは私の手を軽く握った。私は車のドアを閉めて運転手に合図した。サラを乗せた車を見送ると、私は書店のカウンター奥に侵入して従業員用のエレベーターで下に降りた。降りた先は暗い書庫になっていて壁の向こうからオークションの音が響いてきていた。音のする方に近づくと出品された本のガラスケースがレールの上に並んでいて、傍には一人の男が煙草を吸いながら立っていた。男が手元のレバーを引くとレールが動いてケースを会場の方へ運んでいった。
私は書棚に隠れて移動しながら『マンデュリオン』の入ったガラスケースを探したが、落札されたものは既にケースから出された後だった。書庫の奥の扉からハンチング帽をかぶった男が出てきて、新たに落札されて裏に返ってきた本をケースから取り出し奥の扉に戻っていった。出荷準備は扉の向こうでやっているらしい。私は男が扉から出てきたタイミングで男に飛びかかって頭を短刀の柄で殴りつけた。男はうめき声をあげたが、それと同時に白い何かが目の前を横切った。急に腕が熱くなって見てみるとドレスの袖が切り裂かれて血が流れていた。男は半月刀を持ってニヤついた顔をこちらに向けていた。よく見ると男は賞金首のポスターで見たことのある顔をしていた。
「ニック・ザ・スライサーがこんなところで雑用係とはね」
「一度手にした本は最後まで面倒みるもんさ」
ニックは半月刀を振りかざして飛びかかってきた。私は飛びのいてニックの脇腹に短刀を突き出した。しかし、途中で半月刀にガードされて浅い切り傷しか付けられなかった。私はニックの膝裏を蹴り、体勢を崩したニックの背中に切りかかった。ニックはすぐに振り向いて半月刀で短刀を弾いた。私はニックの攻撃をかわして短刀を拾った。
「お前、ルコ・キクチだな。<ザ・ブルーノ>のサムライ・ガール」
「その呼び方バカっぽいからやめてよね」
ニックは正面から切りかかってきた。私は短刀で攻撃を防いでニックのみじおちを蹴り上げた。ニックと私は切り合いを続けていたが、私は徐々に壁際に追い込まれていた。私の背中が壁に当たった隙に、ニックの半月刀が私の短刀を弾き飛ばした。短刀はカランと音を立てて床に落ち、半月刀が私の首元に突き付けられた。
「サムライ・ガールの遺言を聞いてやろう」
「そのサムライ・ガールっていうのやめろ」
私はバックルのボタンを押した。乾いた音が響き、ニックが倒れた。腹から血が流れていてみるみるうちに服を赤黒く染めていった。
「仕込み銃か…サムライ・ガールのくせに卑怯だぞ」
「勝てばなんでもいいんだよ」
私は短刀を拾ってニックの胸に突き刺した。
『マンデュリオン』は紙の詰められた木箱の中にあった。梱包が終わっていたら分からなかっただろう。私は木箱から原稿を取り出した。その瞬間、首の後ろに鋭い衝撃が走った。
目覚めると手足が縛られていた。料理屋の厨房のようでステンレスの棚とコンロが並んでおり、近くでベーコンの焼ける音と匂いがしていた。目の前には女顔の日本人が椅子に座っており、奥の壁にかけられた時計は六時を指していた。
「おはよう。気持ちの良い朝だね」
「最悪」私は縛られた両手をあげた。「あんたは誰?」
「私は<ショップ・イサキ>で雑文を書かせてもらっている綾香という者だ」
<ショップ・イサキ>は日本料理店を装った小さなもぐり(リード)書店(イージー)だった。正直言って、<ザ・ブルーノ>と比べると規模も資金力も大きく劣る組織である。私は肩の力が抜けるのを感じた。自分の安直さに嫌気を覚えたが、『マンデュリオン』を取り返すためには力関係を利用するしかなかった。
「『マンデュリオン』はどこ?」
「これは私たちのものだよ。落札したのだもの」綾香は原稿を持ち上げた。「私たちは同業だからこれが警察に渡る心配もない。だからあなたがこれを求める理由もなくなったわけだ」
冷たい目つきの日本人がフライパンと皿を持って現れ、綾香の前に皿を置いて焼けたベーコンエッグを載せた。綾香は皿を持ち上げて
「食べる?漣の特製ベーコンエッグ」
と言った。
「食べない…」
私は首を横に振って綾香を見上げた。
「大人しくそれを渡した方が身のためだ。私のバックにいるのは日系ギャングの三文文士が喧嘩できる相手じゃないのは分かってるでしょ」
「三文文士を馬鹿にするのはよくないね。どれだけくだらない物語でもそれを読んで物書きに興味を持った誰かが将来とんでもなく素晴らしい作家に化けるかもしれないのだから。どんな物語だって無駄じゃないのだよ」
「こんな世の中で物書きに興味もつ奴なんてそういないよ」
「そうかな?こんな世の中でも私たちは物語を読んで書くことをやめていないじゃないか」
綾香のしたり顔には腹が立ったが、私は何も言い返せなかった。
「だが手前はもうそれを読み終わってるンだろ?返してやりゃいいじゃねえか」
漣と呼ばれた男が言った。いつの間にか珈琲を淹れていた。私の視線に気づいて男は
「飲むか?」
と言った。
「飲まない…三文文士と違って優しいんだね」
「タダとは言わねえ。お前、ニックをやっただろ。あいつの賞金をよこせ。ちょうど一〇〇〇ドルくらいだったからな。そしたら返す。それでチャラっつーことでどうだ?」
「ちょっと勝手に決めないでくれたまえよ」綾香が口をはさんだ。
「俺たち零細書店が<ザ・ブルーノ>とドンパチできるわけねえだろ。現実を見ろ」
しばらく漣と睨み合ってから綾香は不服そうな顔をしつつ原稿を渡してきた。私はそれを受け取った。
「ご感想は?」
「まあまあ面白かったよ。姉妹の視点が入れ替わるところとか今よりも上手いと思う」
「…姉妹?」
私が読んだエリオの処女作は兄弟の探偵が主人公だった。
「まさかソラノ氏の編集者なのに読んでないの?」
綾香の顔に軽蔑の表情が広がった。私は
「読んでるよ。でも兄弟が主人公だったはず」
と反論した。
「違うよ。双子の姉妹が主人公だよ。ほら」
綾香は原稿の一か所を指差した。そこには「私たちはお互いがお互いにとって唯一無二の姉妹だった。」と書かれていた。
ひどい格好だったが、そんなことは気にせずに近くのカフェに入ると、私は原稿を読み始めた。主人公は双子の姉妹の探偵で、マンデュリオンが見つかったという屋敷に赴き、そこで起きた連続殺人の謎を解明していくという話だった。大筋はエリオの原稿と同じだったが、主人公が兄弟ではなく双子の姉妹になっている点が決定的に違った。こちらの原稿では姉妹の視点がシームレスに入れ替わった。しかし、それによって話が分かりにくくなることはなく、むしろ双子が二人で一人の人間のように思考し行動している様子が伝わってくる仕掛けになっていた。マンデュリオンに関する謎解きよりもむしろこの語りの方法の方が肝になっているような印象さえ受けた。要するにエリオの原稿とこの原稿はあらすじが同じでも小説としての出来がちがった。こちらのほうが技巧がはるかに上だった。
姉のアガタの回想にこんな一節があった。「妹のアドリアとはよく入れ替わりの遊びをした。リボンの色を交換したり、髪をしばる位置を逆にしたりしては母さんに今日はどっちがどっちか当ててみてとせがんだ。ある日、二人で原っぱで遊んだとき、私が花を摘んでいるとアドリアが花冠をかぶってこちらに走ってきた。私は思わず逃げ出して、アドリアは甲高い笑い声をあげながらどこまでも追いかけてきた。自分の顔をした人間がこちらに笑みを向けて走ってくる。その情景は何年も頭にこびりついた。なぜなら私は恐怖していたからだ。アドリアに追いつかれたとき、自分は消えてしまうのではないかと思った。それから私たちは入れ替わりの遊びをしなくなった。」
本を読んでいると知らない情景がまるで遠い記憶のように頭の中に立ち上がってくる。あるいは覚えていなかった記憶が目の前の言葉によって浮かび上がってくる。確かに私はもう一人の私とリボンを交換したことがあった。それから、どっち(、、、)が(、)ルコ(、、)で(、)どっち(、、、)がリコ(、、)で(、)しょう(、、、)か(、)、と母に聞いてみた。そして家族四人でドライブに出かけてどういうわけか山道でブレーキが利かなくなって父は「エリオ!」と叫んだ―。
店から飛び出すと私は必死でダイアルを回した。エリオに全部嘘だと言ってもらわなければならない。エリオが電話口に出ると私は思い出したことをまくしたてた。
「どうして私が双子だったこと黙ってたの?父さんが最後にあんたの名前を叫んだのはどういうことなの!?」
機械の故障を疑いたくなるほど長い沈黙の後にエリオは言った。
「…本当にごめん。『マンデュリオン』はルコのお父さんのものだったんだ。原稿を盗んだのは僕の方だ。そして双子の姉妹を兄弟ということにして書き直した。結局、出版にいたらなかったけど盗作がお父さんにバレてね。だから誰が車に細工したかもお父さんには分かったんだね」
私は何も言えなかった。ただ目と頬がカッと熱くなるばかりだった。
「君は事故のショックで妹のことを忘れていた。無理に思い出させることないと僕は思った。隠していたつもりはない。いや、本当は怖かったのかも。君が余計なことまで思い出すんじゃないかって…ルコ、どうやって全部思い出したんだい?」
「『マンデュリオン』を読んだ。双子の姉妹が主人公の…父さんの原稿の方を」
「読んじゃったのか。一度僕の原稿を読んでいるから読まないだろうと高を括っていたよ」
「どうして父さんの原稿があの図書館に?」
「禁書法が施行されたときに僕が隠した。本当は焼いてしまえばよかったんだけど、どうしてもできなくて。君のお父さんは天才だった。元の原稿だったらきっと出版されていただろうね」
どちらも何も言わなかった。十五年間、一緒に過ごしてきたエリオは本当のエリオじゃなかった。嘘のヴェールに写し出された偶像に過ぎなかった。その事実を飲み込もうとすればするほど胃がせりあがってくるような感じがした。目の前のガラスにうっすらと映る自分の顔が見覚えのないもののように思えた。
「ステート・ストリートの方、通話終了しますか?」
交換手の声で私は現実に引き戻された。エリオは既にいなくなっていた。
「はい。終了でお願いします」
私は受話器を置いて傍の壁にもたれた。エリオはどんな気持ちで私を引き取ったのだろうか。今まで何を思って私と過ごしてきたのだろう。いつも優しい笑みを浮かべて物腰やわらかく、しかしワガママで横暴なあの男のことが何も分からなくなった。
ただ私はエリオの書く物語が好きだった。
こんなにも強くそう思ったのはこのときが初めてだった。しかし、これはもう終わらせなければならない。
私は深呼吸して決心した。ポケットの中の短刀を一度握りしめてからエリオの待つ家に向かった。
マンデュリオン A子舐め舐め夢芝居 @Eco_namename_yumeshibai
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