カフェの仕事

 自己紹介が終わるとすぐにカウンターに出た。客が二人、それぞれカウンターとテーブルに座っていた。本を読んだり、スケッチブックに絵を書いている。

「春花さんの担当は、まずは片付けと接客だね」小声で伝える知秋さん。

「はい、頑張ります!」

 五月の太陽のように輝く笑顔。確かに接客に強い人だ。俺よりもずっと。

「それじゃまず大まか流れを説明しようか」

「はい!」

「俺は、仕事していていいですか」

 知秋さんにギョッとした顔をされた。

「いや、二人もいらないかと」

「そうだね、とりあえずサラダの在庫確認して」

「はい」

「千川さんはこちらに」

「はい!」

 千川さんがケーキのケースに視線を向けたところで知秋さんにきつい目をされた。言葉が悪かった。初めての後輩に向ける言葉じゃなかった。

 調理場の冷蔵庫を開ける。奥では快活そうに二人で話している。

 接客は俺よりはるかに上だ。仕事前でも十分理解できてしまった。

「ということで、流れとしてはまず席に、それから水とお手拭きを出して、注文を取って、料理ならカトラリーの提供、コーヒーならミルクとシロップの準備、料理と飲み物が出来たら提供、千川さんにやって欲しいのはとりあえずこれだね。後は今日時間ができた時に聞いて」

「はい!」

「声はもうちょっと押さえて」

「……はい!」

「うん」

 知秋さんは笑いをこらえられない様子だ。

 ちょうどドアが開いた。常連のご老人夫婦二人だった。

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」

 さっきよりも抑えた声で答える。二人ということでテーブルに促し、手際よく水とおしぼりを並べた。

「新人さん?」

「はい!今日から働くことになりました!」

「元気ねぇ」

「今日のコーヒーはなんだい」

「マンデリンです。結構重厚な味わいで、ケーキとよく合います」

「ありがとう。ちょっと考えるわね」

「はい。失礼します」

 一礼して、カウンターに戻ってきた。俺はその間にコーヒーの準備を始める。

 二人は普段おすすめ珈琲を頼む。週で味が変わって、曜日を忘れずに済むからと話していた。

 二人分の準備のために先にフラスコに水を入れて、火を入れておく。いつでも提供できるようにだ。 

 すぐに注文は来た。シフォンケーキと本日のコーヒー二つ。

 内心少し驚いた。いつもは本日のコーヒーで、ごくたまに昼に来てランチメニュー頼んでいくパターンのみだ。ケーキを頼むのは初めてだ。

 内心のおどろきは表に出さず、淡々とコーヒーの準備を始めた。

「本日のコーヒーと、ショートケーキ一つです」

「ありがとう。ケーキ頼んだよ。こっちはコーヒーの準備をしようか」

「はい」「はい!」

 円筒の茶缶を軽く振って、茶缶の蓋を開ける。手のひらの蓋にコーヒー豆をざらざらと注ぐ。

 年中繰り返した動きは重さを覚えていて、正確な重さの豆を電池を横にしたような形の電動コーヒーミルに注ぎ込んだ。

 その間に俺は棚に美術品のように並ぶカップを選ぶ。花のようなカップ、妖精の羽のようなカップ、近代美術のような幾何学模様を描く原色のデミタスカップ、金箔の花が粋なカプチーノカップ、知秋さんの趣味で蒐集されたカップを選ぶ。明確なルールはないものの、知秋さんが選ぶとその人の心を現しているとよく言われる。

 答えはないよ。コーヒーを淹れるようになってからは自分で選ぶように命じられている。いつも客と向き合えているのか。一番緊張するところだ。

 いつもと違う。春。窓には公園の桜が映されている。

 本物には勝てない。柄物は避けて、白く流線を描く壺状のカップと、金色のレリーフに大理石のような半透明の青いつやのある色を帯びた口の広いコーヒーカップを選ぶ。白い方が夫人、柄物がご老体。

 カップに湯を注いで一杯目は流し、二杯目を満たしてから横から引いた豆を差し出された。

 フラスコ上の円筒型のランプを切ったようなサイフォンに豆を入れて、それからヒーターで沸騰した水が水泡を上げるフラスコに刺した。

 噴水のようにサイフォンに熱湯が沸く。湯気と気圧でフラスコ中の水が追い出された。物理現象だとわかっていても、いつも不思議だと興味深く感じる。

 サイフォンの湯にコーヒーの粉が浮かぶところで、たけべらで静かに中を混ぜる。先ほど引いたばかりの豆だから、ふかふかと炭酸の泡で膨れ上がっている。

 香ばしい香りと豆特有のアロマを浴びて、たけべらを出す。もう一つの方も同じように混ぜた。

 それから少しまち、ちょうど色合いもよく知った焦茶のコーヒーに変わったところでサイフォンをフラスコから外す。

 液体が丸底のフラスコに満ちたところで、さっき選んだカップのお湯を捨てる。フラスコごとにコーヒーを注ぎ、お盆上のソーサーに静かに置いた。

 ソーサーの横にミルクポットを置いたところで、ケーキも置かれた。

 千川さんは一連の流れに、目が輝いているように見えた。

「それじゃ、千川さんやってみて」

「はい!」

 上機嫌に片手でプレートを持ち、慎重な足取りでテーブルに向かう。

 着いたところでにっこりと笑みを浮かべた。

「お待たせいたしました!ご注文の本日のコーヒー二つとシフォンケーキです!」

「ありがとうねえ」

 二人の前にそれぞれコーヒーカップと、ご婦人の前にケーキをそっと置く。

 ミルクポットを置いて、「失礼します」と一礼するとご老人も「ありがとさん」と礼をした。気持ちのいい光景だった。

 サイフォンの中のコーヒーのカスを捨てる間、自分と千川さんとの対応の違いを考えた。

 老夫婦は俺と話すときより親しい様子だ。

 向き不向きが顕わになるとは。石火さんは大学生で歳上だが、千川さんは同級生で後輩。悲しいほど違いがよく分かった。

「あら」

 びくっとした。なにかやらかしたか。テーブルを窺う。

「このカップ、懐かしいわね。ヨーロッパに新婚旅行行った時とよく似ているわ」

「ああ……確か、ちょっとした個人店だったか」

「そうそう。こんな感じでケーキを食べて、懐かしいわね。ショートケーキじゃなかったけど、こんな春の日だったわ」

 それから二人は歓談していた。逃げ出したいような、妙な胸のざわめきだった。

 調子に乗るなよ。頭のどこかで冷静になる。 

 息を吸って吐き、何事もなかったように元の作業に戻った。

「やれました」

「お疲れ様。その調子」

 二人は初日だというのに随分打ち解けているように見えた。とりあえず自分ができることは別だ。

 いつも通りを心がけて、調子に乗りかける頭を押さえながら俺は仕事を進めていた。春の穏やかな日だった。

 忙しない夕方が過ぎ、夕暮れが星空に変わる頃に閉店時間になった。

「お疲れ様でした」

 掃除の終えた調理場で着替えの終わった千川さんが頭を下げた。ジーンズとTシャツの汚れてもいい格好だ。

 俺と知秋さんは今日の分析をしていたからそのままだ。

「色々失敗することもありましたが、助けていただきありがとうございます」

「いやいや。思った以上に働けて、本当に助かったよ」

 知秋さんの言う通り、千川さんは初日なのにかなり働けていた。

 狭いカウンター内を移動する時は危ないところもあった、それ以外の接客、片付けについては俺よりもよくできている。

 細やかなところに気づくから砂糖の補給や机の細かな汚れを残さない。親しみしみのある接客は雰囲気を柔らかくさせていた。

「いつもより食べものの売り上げがいい。説明したから、目に入りやすかったのかもね」

「ありがとうございます」

 頭を掻くように手を触れた。

「本当に、こんなこと言って困るかも知れませんが、勉強になりました」

「勉強?」

「はい。店長さんが大事にしていることが全然違います。お客さんも全然違うので、接客やったことがあっても向き合い方や求めるものが違う。それと、コーヒーの出し方が全然違うってわかりました。淹れ方で味が全然違うことも、同じくらいの人が自分よりもずっと上手いって知ることもなかったです」

 目線を逸らす。正直逃げ出したい。

「求められる技術が違うのに、技量で変わる。本当にすごいなって思いました」

「ありがとう。努力を認めてくれるのは嬉しいね。ただやっぱりお店で一番差がつくのは接客だから。その点に置いて君はかなりの技量だ。胸を張っていいよ」

「ありがとうございます」

「細かいミスは詰めていこう、とりあえず今日は休んで。次は土曜日か。目の前にバス停があるけど、気をつけて」

「はい!」

 ばっと頭を下げてそれから裏口から出ていく。

「お疲れ様でしたー!」

 ドアが閉まり、たったったったと軽やかな足音が遠ざかっていく。

「いい子だったね」

「……はい」

 うまくはなせているだろうか。訝しんだのか、知秋さんが俺の顔を覗き込んできた。

「わ、真っ赤」

 口に手を当てて、マダムのような反応だった。

 胸が高鳴り、顔が熱い。平坦な日常にありえないほどの熱量。

 なるほど、これが、恋だ。

 

 

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