第1話

目を覚めたのは車の助手席だった。窓の外を、法律にふれる速度で、音も立てずに、見知らぬ町が流れていく。車も通行人も見当たらない。自分の息遣いと小音量のデスメタルとだけが僕の鼓膜を揺さぶる。隣にはやはりあの翼乙女が、両手の人差し指で曲を辿りながら、運転している。乙女と言っても、優に二十代後半に入っている、余裕を持った大人の顔立ちをしている。


足に滴る液体で初めて寝唾を垂らしているを事に気づき、手で慌てて拭う。


「まだ寝ていていいよ。最近寝不足でしょう」


ゆるやかに上下を描くしゃがれた声が、外見の印象を一層深める。


的中した指摘に「なんで分かりますか」と問い返すほかなかった。


「みんなそうだよ。お日さまの面前では必死にいつも通りを装うのに、夜になると女神に選ばれたという喜ばしい事実と、今までの全てを失うという絶望との狭間を行き来して、身悶えて、寝る時間の多くを削る。その日々を繰り返すと遅かれ早かれ、大体一週間も経たない内に、私みたいな者に捕まえられる。本当に、みんな損なことを」


指摘がまたしても的中したといえば的中したけど、全てを失う絶望という言葉にはどこか引っ掛かる。僕の人生はこれから一変する。もうしているかもしれない。小さな翼を隠そうとするだけの、その一変をなんとしても拒絶しようとするだけの、恐怖も困惑も何らかの得体のしれない感情も、もちろんそこにある。それでも、絶望は少し違う。


呆然と悩んでいると、視界が途切れ途切れになる。転ぶところをさりげなく手一つで支えるような沈み具合の絶妙シートと、高速度なのに妙に安定している運転とが、僕をまた夢の世界へと柔らかく引きずる。


ところだった。轟く破裂音と共に、シートベルトが胸に食い込んで重力を妨げる。急カーブを切ったと思いきや、見事にUターンを決めてたらしい。何事かとバックミラーを確認するとそこに黒に近い金属棒が立っていた。


「ごめん。やはり寝ない方がいいみたい」声も表情も険しく、今度こそ急カーブを切る。したら、後ろでまた地面が断末魔を上げる。


状況を把握しきれていない僕をよそに、黒目の乙女が次々と高度な運転技を披露している内に、また眠気が他界した場所に差し掛かる。金属棒はもうない。その代わりに鎧がある。いや、いる。動いているんだ。


鎧は自体は同じグレーとも黒ともつかない色を纏っているけど、生やしている翼は世界に穴が開いたかのように真っ黒い。肩をはじめに、所々棘が付いている。威嚇だけのための物ではない。衝突すれば確実に串刺しになるだけの鋭利がある。


鎧の右手に黒い霧が集い、やがて棒、ではなく槍を無から作り上げる。穂が完全に地面に埋もれていたから、槍である事に気づけなたった。柄だけでも僕の身長を優に超えている槍なのに、なんて怪力だ。そして今、槍を構えているその怪力の主へと直進している。


運転手の正気を問うつもりで口を開いたはずが、待ち受ける痛みを先んじた叫びで終わる。


僕は後頭部を強く掴まれ、シートベルトが許すかぎり上半身を畳まれる。彼女も同じく姿勢を前屈みにして教室の時以来初めて、あの人の物ではない瞳に僕を捉えて、何かを短く言ってきたけど、まったく聞き取れなかった。その声はガラスが無数の破片に爆発する音で掻き消された。二回も音が鳴ったってことは、槍がフロントガラスとリアウィンドウとを綺麗に通貫した。


シートベルトがいつの間にか外されていたことにはまったく気付かなった。


右手でドアを解除し、左手で僕を抱き寄せ、そしてコンソールに一蹴りを入れる動きは俊敏かつ滑らかだった。衝突まで数十メートルの所で、僕達が車から雪崩落ちる。しがみ付こうと背に腕を回したが、広く開いた翼が邪魔をするから一瞬慌てて、代わりに腰の裏に回す。


無事に着陸したと同時に、後ろから鉄と鉄とが食らい合う不協和音が響いてくる。意識を維持することが関の山で、足に入れる力は到底持ち合わせていない僕を、乙女が隙を開けずに掬い上げる。


「あれでは死にやしない。行くよ」


降ろされたのはガラス扉のオフィスビルの前だった。男子高校生一人をお姫様抱っこしながら、数百メートルをビルの間を縫う短距離走のごとく疾走したにもかかわらず、僕より息が整っている。「少し下げて」、と言われたので三歩距離を取ったら、乙女が手を大きく振り上げて、数秒前までそこになかったはずの拳銃の銃床でドアに大きなひび割れを走らせる。


自分も半歩ぐらい距離を取ってから、鉄心入りなのか、何の迷いもせずにブーツでひび割れめがけにトドメを指す。ガラスが滝となって、夏に相応しくない涼しい音を立てて崩れていく。上下に頑固にも居残る鍾乳石はブーツなり銃身なりで処分される。


「来い」


一歩中へ踏み入れた乙女が短く命令を飛ばしてきた。


ドアの周りはガラス片に覆われていて、早くも安全な踏み場がないと判断した僕は目をつぶって一歩を踏み出した。しかし、その足が空を踏んだ。両脇に手を差し入れられ、ガラス片が散らかっていない奥に置かれたのだ。


「ありがとう」


反射的に下げた頭に強い言葉が降りかかる。「これから、命令なしでは指一本も動かすな。」




言われるがまま、衝立が溢れかえっている迷路めいたオフィス屋へ通される。二人してその中央に身を潜めると、急に涙が溢れ始めた。嗚咽こそ噛み殺せども、涙腺は制御しようがないらしい。かろうじて一命を取り留めた僕達なんか我関せず、とただただ時間を刻む宿命を果たす掛け時計をぼやけた視界でいくら睨んでも、その音はどうしても拾えない。


志月、と階段を登っている間にやっと名乗った乙女が、怪我を確認するからと僕の項をいじりだした。それまで全然痛くなかったのに、燃える刃に切られる錯覚が、動悸がするたびに襲ってくる。無情な時計とのにらめっこは放棄し、目を閉じることにした。感じやすい痛みの潮流に全身を委ねることにした。悪夢としか形容できない日に初めて味わえた苦い現実の味がする。


「大丈夫だよ、擦り傷」


しばらく経つと志月が、僕の項に埋まっていたらしいフロントガラスの最後の残骸を、赤く染まった指先で弾く。宙を舞う破片を目で追うと異変に気づく。とっくに気づいているであろう志月が僕の上腕を血の流れをせき止める強さで握っている。


「屋上行け。扉の前に立つな」


壁に歪な影が映っている。


颯爽な一羽ばたきで飛び立つ。僕も引っ張られて否応なく飛び立ったが、志月の手が離れて、勢いのまま玄関めがけにただ投げられていく羽目になった。後ろでは今日数え切れないほど聞いたガラスが壊される音が一瞬だけする。僕達の間を縫う槍が空気を割る音と、槍が壁に食い込む破裂音とですぐ上書きされた。


やっと壁にぶち当たることで勢いなくした僕の隣に真っ黒い翼が並ぶ。車との衝突を厭わなかった鎧はあっちこっち凹んでいる。手には新しい槍が用意されている。近くで見るとそれを構える動作が無機物でありならがら、どこか人間めかしいから無性に不気味に感じる。構えられた先には志月がいる。が、発せられた先には白い羽だけがゆっくり浮いていた。


上に飛んで躱した志月が槍の柄を蹴ると同時に、翼を狭いオフィス室が許すかぎり羽ばたかせ、猛速でこっち飛んでくる。鎧はまたしても避ける気を示さない。車の衝突で棘が折れたのをいいことに真正面から肩でぶつかってくる乙女を受け止めきれず、そのまま勢いを持て余した二人が数歩滑っていった挙げ句、揃って窓から落下していく。


束の間、すれ違いざまに靡いた夜の奔流に魅入られる。我に返ると、先程命じられた通り、不安定な足取りで階段を駆け上っていく。


扉を開こうと伸びかけた手を咄嗟に引っ込めると鈍い銃声が鳴る。


何回か撃たれて、錠前はやがて役目を放棄した。差し込んでくる逆光と一緒に伸びてきた手が僕の手首を掴み、妙に乾燥している晴天の下へ引っ張り出す。


しばらく導かれるまま南に向かって走る。ちょうど何も無い屋上の中央に至ると、さっきから何かを探しているように首を回していた志月が突然、方向を東へ転換する。余りにも急な事で危うく躓くところだったが、どうにかバランスを保った。


視界の北側に曇った鉄の塊が映った瞬間、霹靂が響き渡る。足元が揺らぐ。


槍が、今まで生き延びた事が奇跡に思えるほど簡単に床材を塵と化す。その神業は神ではなく、一人の乙女がこなしていると思うと、心が軽くなる。僕より少しだけある、柔らかい肌を纏った背中がやたらと大きく確かな物に見える。『乙女翼の下に』初めてその言葉の意味を理解した気がしてならない。


「すまん。これは痛くなる」


屋上はすぐ終わった。しかし、志月の足は速度を落とさないから僕も落とさない。


飛び降りた僕達は車から雪崩落ちた時と同じ形で、今度は足から隣のオフィスビルの三階下の窓へ雪崩込んだ。翼で衝撃を最低限まで和らげてくれたが、足がチクチク痛い。


突如、建物が唸りを上げて揺らぎだす。最悪のタイミングで襲ってきたと地震に尻餅をつく。志月が庇うように僕に覆いかぶさってきた。彼女の髪が帷となって僕の視界を奪う。何も見えない分、ほかの五感が研ぎ澄まされていく。


乙女でもさすが疲労が溜まってきたのか、額に当たってくる少し荒立ちを帯びてきた吐息。汗と混じった洗顔料の後味だけがどこか爽やかな匂い。そして、さっきから徐々大きくなっていく破壊音。


瓦礫を背中に受けた拍子でちょっと姿勢をずらした志月の髪に隙ができる。天井に、空まで突き抜ける穴が開いていた。黒い翼の持ち主が宙に佇んでいる。


槍をなそうと手に集う霧の正体は黒い蛾の群れ。


これが最後だと言わんばかり、志月は動こうとしない。


「隊長!遅れちゃって、すみませんでした!」


奇妙なほど明るい声が耳から脳までの間を移行できるよりも早く、伸びてきた刃が的確に鎧の項にある急所を見出す。生命を失った鎧はただ宙に吊るされ、軋む。


その刃を目で辿っていくと、そこには僕と同い年ぐらいの乙女が立っていた。翼は志月のそれと色も大きさも、一切の差がないのに小柄なだけに幅広く見える。強膜は志月と同じく黒い。しかし、虹彩と後頭に二つに束ねた髪の毛とが不自然なほど青く澄んでいる。自分の身長の倍ある刀を流れていく鮮血を見て、微笑んでいる。

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乙女翼の下に 五月皐月 @MAYMAYNYANYO

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