第3話「氷壁の騎士」
エルナが辺境の地でささやかな奇跡を起こしてから数日が過ぎた。
彼女は毎日、小屋の裏にある小さな空き地を耕し続けた。聖なる力を注ぎ込むと、石ころだらけの痩せた土は作物を育てられるだけの力を持った土壌へと少しずつ変わっていった。王都から持ってきた荷物の中に奇跡的に紛れ込んでいた数種類の野菜の種をまくと、驚くべき速さで芽を出し、すくすくと育ち始めた。
村人たちは遠くからその様子を眺めているだけだった。彼らの心に根付いた不信感はまだ解けていない。それでも日に日に緑が濃くなっていくエルナの畑は、彼らの目に焼き付いていたに違いない。
その日、エルナが畑仕事に精を出していると、背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこに立っていたのは全身を黒銀の鎧で固めた一人の騎士だった。背が高く肩幅も広い。厳しい冬の空を映したような灰色の瞳と、無造作に切りそろえられた黒髪。そのたたずまいは、まるでこの地の厳しさそのものを体現したかのようだった。
彼の腰に下げられた長剣と、その身から放たれる圧倒的な存在感に、エルナは思わず身を固くする。
「君が、王都から送られてきたというエルナ・アルトハイムか」
低く、感情の読めない声だった。しかし不思議と威圧するような響きはない。
「はい。そうですが……」
「俺はガイオン・フォン・ヴァイス。この辺境の地を治める騎士団長だ」
ガイオンと名乗った男の言葉に、エルナは息をのんだ。「氷壁の騎士」――王都でも耳にしたことのあるその異名。若くして騎士団長の地位に上り詰めながら、王都の華やかな社交や権力争いを嫌い、自ら最も過酷な任地である北の辺境を選んだ孤高の騎士。それが目の前の男だった。
彼もまた、王都から厄介払いされた人間。その事実に、エルナはわずかな親近感を覚えた。
ガイオンの視線が、エルナの作った畑へと注がれる。そこには青々とした葉を茂らせたカブや、小さな実をつけ始めた豆が元気に育っていた。この不毛の地ではありえない光景だ。
「村の者たちから報告は受けている。君がこの枯れた土地に緑を芽吹かせていると」
彼の灰色の瞳が、じっとエルナを見つめる。探るような、それでいて何かを見定めようとするような真剣な眼差しだった。
「……これは、わたくしの持つ『育成』の力によるものです」
エルナは正直に答えた。隠すことなど何もない。
「王都では、役立たずの力だと笑われておりましたけれど」
自嘲気味に付け加えた言葉に、ガイオンは何も言わなかった。ただ静かに畑へと歩み寄りひざまずくと、そっと土に触れた。その指先がわずかに震えているように見えたのは、気のせいだろうか。
「……温かい土だ」
ぽつりと彼が呟いた。それは独り言のようでもあり、深い感嘆のようでもあった。長年この凍てついた大地と共に生きてきた彼だからこそ、この土の温かさがどれほどの奇跡かを理解できるのだろう。
ガイオンは立ち上がると、再びエルナに向き直った。
「君がどのような罪でここへ来たのか、俺は興味がない。王都の連中が決めたことなど、どうでもいいからな」
ぶっきらぼうな口調だった。だが、その言葉には奇妙な優しさが滲んでいた。
「だが、もし君のその力が本物で、この地の民を飢えから救うことができるというのなら……俺は君を歓迎する」
それは、エルナがこの地に来て初めて受け取った肯定の言葉だった。蔑みも疑いもない、ただ純粋な期待のこもった言葉。
「君が必要とするものがあれば言え。道具も人手も俺が用意しよう。君の力を、この地のために使ってほしい」
思わず胸が熱くなる。瞳に涙がにじむのを、エルナは必死でこらえた。
「ありがとうございます、ガイオン様」
深々と頭を下げるエルナに、ガイオンは「『様』はいらない」と短く告げた。
「俺は騎士団長だが、領主のようなものだ。民を守るのが仕事だ。君も今日からこの地の民。ならば君を守るのも、俺の仕事になる」
そう言うと彼はエルナに背を向け、騎士団の詰め所がある村の中心部へと歩き去っていった。その広い背中は、まるでこの地のすべてを守る巨大な壁のように見えた。
一人残されたエルナは、自分の手のひらを見つめる。役立たずだと罵られたこの力。でも、ここでは違うのかもしれない。この力で救える命があるのかもしれない。そして、自分を信じ守ろうとしてくれる人が、ここにいる。
エルナの心に、王都で失いかけていた確かな希望の光が、再び強く灯り始めた。氷壁の騎士との出会いは、彼女の運命が新たな方向へと動き出す大きな転換点となった。
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